◆第61話◆
中間あらすじ〜今までとこれから〜◆親友の聡史が他界し、恭子は父親の海外赴任に付いて学校を去った。陽彦は何処か空虚な思いを振り切るように他の友達と笑い合う。バイト先では祐介が去り、新しくヒカリという女性が入って来た。陽彦は年上の女性を初めて目の当たりに感じ、戸惑いさえ覚える。◆◆◆これから〜◆大人の香りで陽彦に近づくヒカリ。そんな時、池袋で偶然目にした光景が、失った友の亡霊を呼び起こした。執拗にドラック売人に近づこうとする陽彦。それに気付いた榛菜は彼を止めようとするが……70話前後で完結予定です。
「この前はごめんね」
この日、バイトに入るとヒカリがそう言って苦笑いで近づいてきた。
彼女は毎日仕事に入るわけではない。祐介の代わりだけあって、彼よりは定期性があるものの、土日を含んだ週に3〜4日ほどの出勤だ。
彼女と居酒屋へ行って、家まで送ったあの日から三日が経っていた。
「ああ、いいよ別に。でも、ヒカリさんあんまりお酒強くないんじゃないの?」
「そうかも……でも、好きなのよね」
彼女はそう言って再び苦笑した。
「帰り、どうやって帰ったの?」
「いや、歩いて」
「えぇ? あそこから歩いて? あたしの自転車使ってよかったのに」
「裏道を使ったから。そんなに遠くもなかったよ」
僕は、出来るだけ平然と言った。
本当は、あの時間に歩きは少々キツかったが、彼女の涙を思い出してしまったから、冗談でも「しんどかった」とは言えなかった。
しかし、彼女は少し困惑した笑みを浮かべていた。
「変なこと訊いてもいい?」
「なに?」
「朝起きたら、あたし服着てなかったんだけど……何時、脱いだのか…な?」
ヒカリは少しだけ不安げに笑うと
「あ、里見くんを疑ってるわけじゃないんだよ」
「大丈夫、部屋のベッドに寝転がって、自分で脱いじゃったんだよ」
僕は笑いながら
「もちろん、その場に俺もいたけど、止める間もなかった」
「うわぁ、マジで? ブラ丸見え?」
彼女は頬を真っ赤にして笑うと「よかった、下まで脱がなくて」
「俺だって焦ったよ」
「でも、里見くんって紳士なのね」
「そう?」
「そうだよ」
彼女はそう言って笑った後
「それとも、あたしに魅力が無いのかな」
何だかちょっぴり悲しいような、微妙な表情だった。
紳士なのか度胸が無いだけなのか判らないが、あの時僕の後ろ盾には榛菜がいたことは確かだ。
あの夜酔った彼女が、何かを呟きながら流した涙の事が気になって、僕はよほど訊こうと思ったけど、彼女の何時もと変わらない笑顔を見ていたらどうにも訊けなくなって、結局思いを呑みこんだ。
六時になって榛菜が来た。
店は何時も通りにお客が入り、榛菜のピアノの音色が空間を彩らせる。
僕が休憩を終えてフロアーに戻った時、一人の客が榛菜に声をかけていた。
「ねぇ、今度写真を撮ってあげるから、俺のアトリエに来なよ」
彼は確か、自称写真家の古谷という男だ。千川通り沿いのマンションにアトリエ兼自宅を構えているらしい。三十代の彼は写真家を名乗っているが、具体的にどんな写真をどのようなものに掲載して生計を立てているのかは誰も知らない。
榛菜は少々困惑した笑みを浮かべていた。
実は、彼女が古谷に声を掛けられたのは初めてではない。以前から何度かこんな事はあるが、彼女はその度にうまくはぐらかしていた。
徐に嫌な顔も出来ない為、古谷には榛菜の嫌悪が伝わらないらしい。
「ねえ、何時なら空いてる? ここに来る前の日中でもいいよ。一度ぐらい付き合ってよ」
マスターは厨房からこっそり盗み見る程度で、特に声はかけない。自分が出るほどの事ではないと思ってるのだろう。
「あ、あたしも写真撮って欲しいな」
その時、少し手の空いたヒカリが会話に割って入った。
「ああ、キミ、新人さんだよね? いいよ。何時でも俺のアトリエに来なよ」
古谷はそう言って、懐から名刺を取り出して彼女に渡そうとした。
「ギャラはいくらくれるんですか?」
「えっ……ギャラ?」
名刺を渡そうとした古谷の手が止まった。
「はい。独占撮影だと、30分で2万くらいは貰えます?」
「いや、に、ニマン? しかも30分?」
「だって、普通は素人でも、写真撮影だとそのくらい貰えますよね」
ヒカリは演技なのか本心なのか、そう言って愛くるしく笑って見せた。
「いや……五千円くらいじゃ、ダメ?」
「えぇっ、だって、撮影会のモデルやったってもっといいギャラもらえますよ。そんなんじゃ、ダメですね」
ヒカリは笑顔を絶やさずに
「ねぇ、七倉さん」と、榛菜にも同意を求める。
「は、はあ。そうです……よね」
榛菜も彼女に合わせて、とりあえず頷いて見せた。
古谷は完全に諦め顔だった。そんなに金回りが言い訳ではないのだろう。
「じゃあ、とりあえずまた今度って事に。いま、個展の準備で忙しいからさ」
彼はそう言って笑うと、グラスワインの追加をヒカリに伝えて自分の席へ戻った。個展なんて本当にやるのかは誰も訊かない。
ヒカリは、榛菜に笑みを送りながら少しだけ肩をすくませると、一瞬舌を出した。
それを見た榛菜は、ポカンとしていた顔を笑顔に変えていた。
「何か、ごたごたしてたけど」
僕は、カウンターの陰でヒカリに声をかけた。
「うん。全然大丈夫」
ヒカリはそう言って笑うと、古谷にワインを持っていった。
「まあ、彼女もそれなりに場数を踏んでるって事だ」
マスターがそう言って、厨房から顔を覗かせて笑った。
「場数?」
ヒカリの通う専門学校には写真科もあるらしく、時折撮影会のモデルの依頼が来たりするらしい。もちろんカメラを手にする連中は全員学生だが、中には他の学校や一般参加が可能な撮影会もあるらしい。
ちゃんとギャラが発生するらしく、プロのモデルのギャラには遠く及ばないが意外と率のいいバイトなのだそうだ。ただ、非常に不定期なのが難点だとか。
それでも、彼女が古谷に言ってみせた料金は、誘いを断る為にかなり吹っ掛けたみたいだ。
他人との交流が多い場所で生活する彼女は、相手との掛け合いやあしらいを僕らよりも知っているのかもしれない。
二つ年上だけど隙だらけのヒカリも、こうして時折しっかり者の顔を見せるのだ。そしてそのギャップは僕に、年上の魅力として何処か興味を抱かせる。