◆第60話◆
「そう言えば、また連れておいでって、お母さんが言ってたよ」
僕の部屋のベッドでタオルケットに包まった榛菜が、そう言って笑った。
「ええっ?」
家に両親のいない時間を狙って、僕らは度々ベッドで戯れる。ホテルのベッドと違って小さなシングルベッドは多少窮屈だが、やっぱり榛菜はホテルに出入りす事にはあまり気乗りではないし、僕自身度々誘うのも気が引ける。
結局目的は同じはずなのに、ホテルに誘うよりも「ウチ来ない?」と言う方が気が楽だし、彼女も頷き易いのだろう。
何時の間にか僕の部屋は、榛菜との共有空間となっていった。
「いいじゃない。こんど、またウチ来なよ」
僕は、母親とばったり会った時以来、榛菜の家には入っていない。もちろん、家の前までは何度もバイクで送っているが、家の中に入るのは気が咎める。
別に彼女の母親が嫌とかじゃ無く、寧ろ僕が後ろめたい気持ちになりそうで……
こうして、愛娘をベッドに引きずりこんでいる僕は、彼女の両親に対してどんな顔をすればいいのだろうか。
こんな事を考える僕はおかしいのだろうか。僕がまだ未成年だから、そんな気持ちになるのだろうか。
「うん……でも、できれば、誰もいない時がいいな」
「お母さんは、ハルくんの事気に入ったみたいだよ」
榛菜はそう言って笑うと
「見かけによらず真面目に良く働くって、マスターに聞いたみたい」
「見かけによらず?」
「いいじゃん。褒められてんだから」
榛菜はそう言って、仔犬のように僕の肩に顎を乗せて笑った。
しかし、彼女の母親に再びバッタリ出会う機会は、自分の思惑とは関係なくやってきた。
「里見くん」
学校帰りの池袋駅構内で、僕は声をかけられて振り向いた。
そこには、榛菜の母親が笑顔で立っていた。しかも、手には何だか大きな荷物を抱えている。
「やっぱりそうだ。今学校の帰り?」
「ええ」
僕は、挨拶も忘れて頷く。
「何時も榛菜と帰ってるわけじゃないのね」
彼女は線の細い、そう、榛菜にとても似たシルエットをしている。いや、榛菜が母親に似ているのか。そう思いながらも、彼女の抱える大きな荷物に目がいく。
「ええ、僕は板橋なんで」
「そうなの」
彼女の笑った瞳は、まるっきり榛菜そのものだ。
「里見くんも西武線、よね」
「あ、俺持ちましょうか」
彼女の何かを訴えかけるような笑顔に、ついそう言ってしまった。
家電ショップで買ったらしい包み紙が巻かれた電子レンジ、いや今話題のスチームオーブンだ。
「レンジが壊れちゃったの思い出して、つい買っちゃったのよ。意外と重いのね」
僕はそれを受け取りながら、ただ笑みを返した。
……衝動でこんなの買うか? しかも、マジでけっこう重い。
僕は仕方なく榛菜の母親と一緒に改札を抜けて電車に乗り込んだ。
付き合っている女性の母親となんて、何を話していいのか判らない。乗り込んだ電車が早く発車してくれないかと窓の外を眺めた。
椎名町だから、一駅の辛抱だ。
「お店は、これから?」
「え、ええ。そうです」
「榛菜はしっかりやってる?」
「ええ、そりゃもう。ピアノがうまくてビックリですよ」
短い会話がふらふらと飛び交う。
「里見くんはバイク上手なんですって?」
「えっ?」
「奥多摩のクネクネした道路を凄く上手に走るんだって、ハルが自慢してたわ」
僕と出かけた事は当然のように母親にも話したりするのだろう。
「いや、普通ですよ」
それでも、さすがにあの日川に落ちた事や、お城に入った事は言っていないようだ。
会話は一端途切れて、走り出した電車がちょうど椎名町に着くところだった。
「お店、まだ時間あるんでしょ?」
「えっ?」
「ウチでお茶でも飲んでいきなさいよ」
「いや……はあ」
善意の浮かぶ爽やかな笑みに、僕は断る理由を捜しあぐねてしまった。もしかしたら、荷物を家まで運んでもらいたいのかもしれない。
「ささ、あがって」
「は、はあ。お、お邪魔します」
僕は玄関で靴を脱ぐと、一端降ろしたレンジを再びかかえて
「あの、これ何処に置きます?」
「じゃあ私、お茶の用意するから、里見くんはそれを箱から出してくれる」
やっぱり……僕はキッチンへ運んだスチームレンジを箱から取り出して、冷蔵庫の横にあるシステムラックの上に乗せた。
「私そう言うの苦手だから、直ぐ使えるようにお願いね」
箱から取り出した取り説を見ながらコンセントを挿して、初期設定をすませる。といっても、時計の設定だけだが。
僕は空き箱を潰して、保障書と取り説をテーブルに置いた。
「取り扱いの説明書はここに置いときますね」
「ありがとう、助かったわ。私に使えるかしら?」
「今までのオーブンレンジと使い方は一緒ですよ」
「そう、良かった。やっぱり男の子はいいわね。うちの男共ときたら、まるっきり使えなくて」
そう言って笑った彼女は、ちょうど入れたてのダージリンティーをティーポットのままリビングに運んだ。
「ささ、こっち来てお茶飲みましょ」
榛菜の明るさは、母親ゆずりなのだと思った。
僕がソファに腰掛けると、彼女は冷蔵庫から出したケーキを皿に乗せて僕に差し出し、ティーカップに紅茶を注いだ。
「ただいまぁ」
玄関のドアが開く音と共に、榛菜の明朗な声が聞こえた。
「お帰り」
母親はリビングから声だけを返して、僕には「シッ」と言って自分の唇に人差し指を立てた。
「嗟吁、何か何時まで暑いんだろうね」
そう言いながら「ふう」と息をついてリビングに顔を出した榛菜は
「何やってるの? ハルくん……」
目を丸くしている彼女に向かってとりあず僕は、ホークを片手に
「お帰り」と笑みを返した。




