◆第59話◆
僕は酒があまり飲めない。
まあ、バイクでの移動も多いから、自然に酒を飲む習慣がないのだ。
とは言っても、未成年の僕がそんな事を言うのはまだ早いのだろうが。
ヒカリはグビグビとジョッキに入ったビールを飲み干すと、酎ハイを何度もお変わりしていた。
二十歳ともなると、女性もかなりの呑みっぷりだな。などと半ば感心していたのだが……
「里見くんは彼女いるの?」
「いや、いると言えばいる……かな」
「なによ、はっきりしない奴ね」
ヒカリはそう言ってテーブルに置いた僕の手をグイッと掴んだ。
目が座っていた。
「あ、あのさ、ヒカリさん、あんまり呑むと……明日学校でしょ」
「なんで?」
「はぁ?」
何でとは、どういう意味なのか。
「何で、あたし学校なの?」
「いや、俺も学校だし」
彼女は完全に酔っ払っている。
酒をあまり呑まない人間にとって、酔っ払いは意外に厄介な生き物だ。しかも、対処法が判らない。
「ヒカリさん、そろそろ出ようか」
「なんで? どっか連れて行ってくれるの?」
「いや、もう帰らないと」
「そう……」
彼女はようやく立ち上がってくれたので、一緒にレジまで歩いて会計を済ませる。
完全に千鳥足だ……
「ヒカリさん、一人で帰れる?」
「だいじょう…よ」
彼女は自分が止めたモノと違う自転車に一生懸命鍵を差し込んでいる。
「それじゃないよ、こっちこっち」
僕は彼女の肩を抱えて促す。
ダメだろうな……
もう深夜の2時半になるところだった。
僕は彼女を後ろに乗っけて自転車をこいでいた。
僕の腰に頼りなく回された彼女の手が時々解ける度に、振り返って彼女を支える。落っことしたら大変だ。
「ヒカリさん、この辺?」
うわ言のように応える彼女に道を訊きながら、何とかヒカリの家の近辺まで来ていた。
「ああ、ここぉ」
ヒカリは大きく手をあげて子供のように指差した。
意外と大きなマンションで、キレイなレンガ調の外壁は高級感がある。
僕は彼女の肩を抱えながらエレベーターに乗り、四階に辿り着いた。
彼女の部屋は406だと言う。
「ヒカリさん、鍵は?」
彼女は僕の声に反応すると、バックを引っかきまわして取り出した鍵をドアのキーシリンダーに差し込もうとするが、その動作すらおぼつかない。
僕は仕方なく、彼女の替わりに鍵を外して、ドアを開けた。
バニラとリンゴが混じったような、お香のいい香りがした。
玄関に入るとヒカリは靴を脱ごうと何だかもがいている。
僕は肩をすくめると、彼女の履いていたワークブーツの紐をほどいて、片足ずつ脱がせた。
「ヒカリさん? ここで大丈夫?」
僕は声をかけてみたが、彼女は一人で立ち上がる様子はなかった。
何処まで僕は引き込まれるのか。
時計の針は、もう直ぐ三時をまわるところだ。
ヒカリの部屋は1Kの間取りで、キッチンを抜けて部屋に入ると小さな水色のソファとベッドが置いてあった。
ヨタヨタと歩く彼女を促して、最初はソファを目指したが、僕は直接彼女をベッドへ座らせた。
「眠いぃ」
案の定、彼女はそのままゴロリと横になった。
スカートが捲くれ上がって、日焼け跡の残る太ももが露になっていた。
僕はそれから目をそらすように、部屋の中を見渡す。壁にはクリスチャン・ラッセンのリトグラフが瀟洒な額に入って飾ってあった。
彼女はデザインの専門学校に通って、グラフィックを学んでいるらしい。
パソコンデスクの上の本棚には、絵画やイラスト関係の本が目立つ。
女性の一人暮らしの部屋は初めてだったので、つい見入ってしまう。
淡いピンクのカーテンを閉めてふとヒカリを見ると、上に着ていたカットソーを脱いでいた。
僕がここにいる事を、もはや認識していないのだろうか。
「おい、大丈夫?」
僕は仕方なく、彼女の左腕に絡まったカットソーを抜き取ってあげる。そこから再び着せるのは無理だと思った。
「大丈夫だよ」
彼女はそう言って、僕の首に腕を回して引き寄せた。
酒臭い中に、彼女の甘い香水とファンデーションの匂いが混じっていた。
「ちょっと、ヒカリさん」
彼女の力は思いの外強かった。
思わず彼女に引き込まれるようにベッドにひっくり返る。僕の頬が当たったヒカリの首元は、熱く火照っていた。
「もう行かないでね」
彼女が呟いた。
「ど、何処に?」
身体を引き離そうとする僕の問いに、彼女は応えなかった。
完全に酔っ払ってる。
しかし、彼女は応えない代わりに、閉じた瞼の隙間からほろほろと涙を流していた。
「ずっと一緒に……」
誰かと間違えているのだろうか……きっとそうに違いない。
「大丈夫だから」
僕にはそれしか言えなかった。
彼女が誰に言った言葉なのか、僕には全く判らない。
僕はヒカリの腕をゆっくりと首から外して起き上がり、乱れたスカートを直した。
まさか、これから服を着せるわけにも行かず、僕は彼女をそのままに部屋を出る事にした。これ以上ここに居てはいけないような、そんな気がしたのだ。
何とか、掛け布団を引っ張って、彼女の上に掛けた。
鍵はどうするか……一晩ぐらい大丈夫だろうか。
結局僕は彼女の鍵を借りて、外側から鍵を閉めるとドアポストにそれを入れた。
テーブルにはその事を綴ったメモを置いて来たから大丈夫だろう。
エレベーターに乗って下へ向かうボタンを押すと、深く息をついた。
自分の洋服に着いたのか、鼻孔の粘膜に残っているのか、彼女のファンデーションと甘い香水の香気がした。
ヒカリの言った言葉が耳の奥で再び聞こえた。
みんな、何かしらの苦悩をかかえて生きているものなのだろうか。
僕はマンションの玄関を出ると、再び大きく息をついて夜空を見上げた。
「どうするかな……」
自分のバイクで送ってくれば、帰りは問題なかった。しかし、あれだけ酔った人をバイクに乗せるわけには行かなかった。
辺りを見渡すと、静まり返った生暖かい夜気だけが何処までも続いていた。