◆第58話◆
僕が休憩に入ると、榛菜がちょうど休んでいた。最近はヒカリのフォロー等が忙しくて、彼女のピアノに耳を傾ける余裕もなく、いつの間に休憩に入ってるのかさえ気付かない時がある。
「何だか忙しそうね」
榛菜はおっとりと笑って言った。
「ああ、別の意味でね」
僕は笑いながら肩をすくめて椅子に腰掛ける。
「直ぐに慣れるよ」
「そう願ってる」
僕はコーヒーを口にして
「何だか倍働いてる気がしてさ」
そんな僕の言葉に、榛菜も思わず笑った。
「でも、キレイな人だよね」
「そうか?」
僕は何食わぬ顔で榛菜を見た。
彼女は僕とヒカリが親しく話す姿を見てどう思っているだろう。人並みにちょっぴりヤキモチを焼いたりするのだろうか。
それを確かめる術など、もちろんないのだが。
「じゃあ、あたし行くね」
榛菜はそう言って、立ち上がった。
「あ、そう言えばさ」
「なに?」
「恭子の見舞い、行ったんだって」
「あ……うん」
彼女は少し俯いて
「ごめんね、黙ってて」
「いや、別に……いいけど」
「あたし、気付いてたんだ」
「何を?」
「初めて彼女を見た時、手首に包帯巻いてたから、もしかしてリストカットしてるんじゃないかって」
「そうだったのか」
「恭子さんて……」
榛菜のその言葉に、僕の鼓動は一瞬高鳴った。その先の言葉が怖かった。
「意外といいひとね」
「えっ?」
「二学期になってからは、秋夫も学校に行ってるみたいだし、彼女のお陰かも」
僕は何だかホッとして、心の中で大きく息をついた。僕との関係の事ではなかった……
確かに恭子は最初、僕への当て付けか何かで秋夫に目を着けたのかもしれない。でも、二人は深く傷ついた心を互いに調和し合って、意外とうまくいっていたのかもしれない。
もちろん、中学生にはまだ早い行為もあったかも知れないが……
リストカットをしたり、何かと僕に突っかかる素振りを見せたりした恭子は、一方で秋夫に学校へ行けと促していた。
秋夫に話を聞いた僕は、彼女はやっぱり優等生の橘恭子だったのだと思った。
僕は座ったまま榛菜を見上げると
「そうかもな」
そう言って、微笑んだ。
「外国に行っちゃったんだってね、彼女」
「ああ。アイツは元々勉強好きだから、よかったのかも」
僕は、そう言う事にしておいた。
それを聞いた榛菜は、笑顔で休憩室を出て行った。
* * * *
「お疲れ様」
僕とヒカリは十二時近くに一緒に上がった。榛菜は三十分ほど前にあがったので、もう迎えも来たようだ。
ヒカリに仕事を覚えてもらう為に、後片付けを出来るだけ彼女させろと、マスターは言った。
マスターは先に上がってもいいと僕に言ったが、そう言うわけにも行かず、僕は、チェックとアドバイスをしながら彼女に付き合った。
手際がイマイチなので、時間が多くかかるのは仕方が無い。僕が替わってやれば、もっと早く終わるだろうが、それでは意味が無いとも言われた。
「すみません……あたし仕事のろくて」
「最初はしょうがないよ。直ぐに慣れるって」
「ねぇ、里見くんは何でここまで来てるの?」
「俺はバイクだけど」
「そっかあ」
ヒカリは裏口のドアを開けながら
「じゃあ、呑めないよね」
「えっ……ああ」
「何処かでちょっと呑みたい気分だったんだけどなぁ」
彼女はそう言って、夜空を仰ぎながら「あぁあ……」
彼女は、彼女なりに自分の失敗などを悔いているのだろう。
仕事中もハキハキと明るい彼女だが、それなりに緊張しているのだ。
今見る安堵に満ちた素の笑顔が、仕事中のものとは少し違っていて、余計にそれを思わせた。
「少しなら付き合うけど」
僕は、何だかもう少しだけ彼女の力になってあげたいと思ってしまった。
「本当?」
「帰り、大丈夫?」
「あたし、桜台だから」
僕たちは、ヒカリの乗って来た自転車を使って、練馬駅の近くにある居酒屋に向かった。