◆第56話◆
夏休みが終わり、恭子は家族と共にカナダへ旅立った。
再び彼女と会うことがあるだろうか。
僕は出発ベイから見送った恭子の背中を見ながら考えた。
恭子は、旅立つ前に聡史の家に焼香に行ったらしい。彼女が聡史の事をどう思っていたのか、最後まで判らず終いだ。
始業式の日、僕のクラスは何処と無く物静かで、それはポツリと空いた机がふたつも在るからなのは誰もが判っていた。
恭子の事を話すものは無く、また、クラスのほとんどが葬儀に参列した聡史の事を話す者もいなかった。
帰り道、校門を出た僕は一人で駅までの道のりを歩く。
一人で帰るのは別によくある事のはずなのに、何だか心の中が空虚で、まるで一人だけこの場に取り残されたような気持ちになる。
「よう、元気」
誰かが後から駆けて来て僕の肩を叩いた。
同じクラスの坂上信雄だ。
「おう。バリバリ元気」
僕は空元気に笑ってそう応える。
「唯たちとカラオケ行くけど、ハルも行かない?」
「おお、行く行く」
僕は相変わらず笑顔で
「あいつらは?」
「今来るよ」
信雄と一緒に後ろを振り返ると、同じクラスの男女が数人、髪を振り乱しながら笑顔で走って来るのが見えた。弘明と池橋と塚本唯。あと数人。
僕と信雄は、追いつこうとしている彼ら彼女らに意地悪をして走り出す。
「ちょっと、待ってよ」
唯が笑いながら「ムカツク!」
僕たちは息を切らして笑いながら駅まで走った。それを、唯や池橋たちが追いかけてくる。
零れる自分の笑顔にふと思う。
……こんな楽しい気分でいいのだろうか。でも僕は、無くした親友を引きずって生きるはイヤダ……
忘れるわけではない。
心の奥にしまって、何かの時だけ思い出せば、それでいいと思う。
僕は、そう自分に半ば無理やり言い聞かせた。
帰りの電車に乗っていた時、椎名町の駅でふと窓の外に視線を向けると、秋夫の降りる姿が見えた。
僕は思わず彼を追って自分も電車を降りてしまった。
「秋夫」
彼は怪訝な表情で振り返ると
「何だ、あんたか。気安く呼ばないでよ」
彼は一応足を止めて「何か用?」
「恭子との事、榛菜に、姉さんに話したのか?」
僕は、榛菜が秋夫と一緒に恭子を見舞った事に疑問を思っていた。榛菜には直接聞いてはいない。
「いや、話したって言うか……」
彼は言葉を濁した。
「だって、恭子の見舞いに行ったんだろ。姉さんも一緒に」
秋夫は少しの間、キョロキョロと落ち着き無く辺りを見回して
「見られたんだ。二人でいる時に」
「何処で?」
「いや、ウチで」
「お前の家か?」
秋夫は無言で頷いてから
「昼間だったし、家には誰もいなかったから……」
「まさか、お前らヤッテルところを榛菜に」
秋夫はブリーチした頭をクシャクシャとかきながら
「いや、それは終わって、一緒にプレステやってたんだ」
榛菜は恭子と秋夫が親しい事はそこで知ったらしい。彼女が手首を切るちょっと前の事だと言う。
ただの友達では無い事くらいは、きっと榛菜にも判っただろう。
駅から出た所の自販機で缶コーヒーを買うと、一つを秋夫に渡した。
「学校は行ってるのか?」
「姉貴みたいな事言うんだな」
秋夫はコーヒーのプルタブを空けながらそう言って笑うと
「一応、行ってきた。今日はね」
「恭子がカナダへ行く事、知ってたんだろ?」
僕も缶コーヒーのプルタブを開けた。
「うん。退院する前に聞いた」
「そうか」
「俺、けっこう本気だったよ。彼女、頭もいいし、何だか俺に無いものいっぱい持っていてさ」
彼はほの暗く淀んだ空を見上げると
「中学くらいはちゃんと行けってさ。何だか、あんたに悪態つく彼女とは全く正反対っていうか」
彼は少し燻ったような少年らしい笑顔を見せた。
「それが、本当の恭子だからな」
秋夫は小さく俯いて、何かを躊躇したかと思うと
「あんた、恭ちゃんの初めての人なんだって?」
僕は一瞬、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じた。忘れてはいけない事実がそこにはあった。
「ああ……」
「姉貴とは今も続いてるの?」
「当たり前だろ」
「姉貴はその事知ってるの?」
僕は少しの間をおいて、手に持っていた缶コーヒーに視線を落とすと
「いや……たぶん知らない」
「そう」
秋夫は僕に空き缶を押し付けるように手渡した。
「ごちそうさま。大丈夫、俺は言わないよ」
そう言って彼は歩き出した。
ちょうど電車が着いたのか、人混みが駅から溢れ出て来て、彼の姿はそれに呑み込まれるようにあっという間に見えなくなった。
彼に会ったら言おうと思っていた事が、結局言えなかった。
榛菜はきっと片脚を失った事を後悔した事はないだろう。
それを後悔したら、秋夫を助けた事を後悔する事になるのだから。