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◆第55話◆

「ど、どうしたの? ハルくん」

 その日の夕方バイトに入ると、足を少し引きずる僕に榛菜が声をかけた。

「いや、ちょっとな」

「また、バイクでコケたんじゃねぇのか」

 マスターが言った。

「違いますよ」

 マスターは小さく肩をすくめると

「今日は暇そうだから、まかないにカツ丼でも作るか」

 榛菜は胸元で小さく手を叩いて笑った。

 僕は少し驚いて

「えっ、マスターカツ丼なんて作れんの?」

「お前なぁ、料理人なめんなよ」

 しかし、八時を過ぎると何時ものように店は急に混み始め、せっかくの何時もと違うまかないも、ただ口にかき込むだけが精一杯だった。

「むごむご…むむ」

 榛菜はどんぐりを頬張るハムスターのように、小さな口いっぱいにご飯をかき込んでいた。

「ハルはゆっくり食べてな」

 彼女は、アイスティーで口の中のモノを喉に流し込むと

「あたしも直ぐ行くから」

 そう言いながら、咳き込んでいた。

 豊島園で花火があったらしく、それを観に来た連中が帰りに立ち寄っているのだ。

「ピアノ弾かないのかな」

 そんな声が時々聞こえてきた。

 今週出た雑誌に、『弾き語りのある店特集』とかで、この店が小さく載っていたらしい。

 榛菜は間も無く休憩から出てくると、いきなりミッキーマウスマーチなどを引いて、お客にサービスする。

 家族連れの小さな子供が、やたらと喜んで椅子の上に立ち上がる。

 榛菜は時折お客の様子を見て、陽気な曲を奏でる。

 クラッシックの静かな曲は確かに落ち着くが、土、日の家族連れが多い時などは子供が退屈してしまう。

 そんな子供を見かけると、こうして賑やかな曲を間に挟むのだ。意外なことに、若いカップルにも受けはいい。

 弟思いの彼女の性格は、こうした所にも細かく顔を出す。

 僕には出来ない気の使い方だ。

 子供から絶賛を浴びる彼女と、僕の腕の中でと息を漏らす彼女が同じだと言う事が、時々信じられなくなる。

 しかしそれが、僕の独占欲をほどほどに満たしているのも確かだ。

 僕は、ふと秋夫の事が気にかかった。

 彼は今どうしているのだろう。

 恭子との付き合いは続いていたのだろうか。それなら、恭子の所へ見舞いに行ったりしているのだろうか。



 十時を過ぎるとお客の引きが早かった為、その日は榛菜と一緒の時間に上がりとなった。

 着替えを済ませて一緒に店を出る。

 榛菜の迎えがまだ来なかったので、僕たちは敷地を仕切る段差に腰掛けて時間を潰した。

「ハル、弟さんは元気?」

「え、うん……相変わらずだけど、元気よ」

 榛菜は苦笑いを浮かべると

「夏休みに入ってからは、サッパリ家にいないって言うか」

「そうか……」

「秋夫がどうかした?」

「いや、何となくさ」

 僕は、そう言いながら少し不自然に笑った。

 秋夫は恭子の病院へ行っているのかもしれない。

「ねぇ、ハルくん……」

「なに?」

「うん……何でもない」

 彼女は何かを言おうとして、それを呑み込んだように思えた。

 その表情が妙に気になって訊き返そうとしたけど、ちょうど母親の車が迎えに来たので、彼女はそれに乗り込んだ。

 最近帰りに少しだけ外で話す時間が空く事が多い。

 もしかして、母親に迎えに来てもらう時間を、榛菜が少し遅くしたのかもしれない。

「じゃあね、お休み」

「ああ、お休み」

 何度言っても、違う場所で暮らす榛菜と交わすこの言葉は、胸の奥で小さな気泡が弾けて全身に沁みるような気持ちになる。

心地よい照れ臭さ……とでも言うのだろうか。



 僕はバイクを走らせると、何だか自分でも判らないうちに、自分の家を通り越して恭子の家の前に来ていた。

 そこはまるで空き家のように静まり返って、夜気に呑みこまれている。

 妹の部屋ぐらい電気が点いていてもいいようなものだが、それもない。

 僕は、溜息をひとつつくと、バイクを押して彼女の家の前から立ち去ろうとした。

 が、その時、玄関のドアが開く音がした。

 暗闇を静かに近づいてくる影。それが恭子だと言う事は直ぐに判った。

「退院してたのか?」

「ええ、昨日」

 恭子は小さく応えると

「バイクの音が聞こえたから、まさかとは思ったけど」

 彼女の左腕には、まだ包帯が痛々しく巻かれていた。

 僕は、ここまでやって来たものの、突然彼女に会って何を話していいのか判らなかった。

 ぼんやりと朧に浮かぶ月が、僕たちを僅かに照らしていた。

「ウチ、引っ越す事になったわ」

「えっ?」

 年明けは大学受験だというのに、今更何処に引っ越すと言うのか。

「父が、海外に赴任する事になったの。あたしの大学とかの為に、今まで拒んでいたらしいんだけど……今はその方がいいだろうって」

「そうか……」

 僕は無理に笑顔を浮かべると

「お前の事だから、向こうで有名大学とかに入るんだろうな」

「うん……それで金髪のボーイフレンドを連れて歩くわ」

 彼女はそう言って、笑顔を見せた。

 僕は少しだけ安心した。

 目の前から恭子がいなくなるからでは無い。彼女の笑顔が、久しぶりに見た安堵に包まれたものだったからだ。

「俺、恭子の事知らぬ間に傷……」

 彼女は僕の口に人差し指を伸ばして言葉を制した。

「あたしが弱かっただけ。何もかも誰かのせいにしたかったのよ」

 そう言って笑うと

「榛菜さん……一度お見舞いに来たわよ」

「えっ?」

「秋夫と一緒に」

「そ、そう……」

「秋夫は、みんなが思っている以上に、お姉さんの事を想ってるよ」

「そうだな」

「榛菜さんて、何だかあたしよりも強そうね」

「ああ、俺より全然強いよ」

 僕は彼女と一緒に笑った。一瞬声を出して、そしてそれを押し殺して。今はもう夜中だ。

 僕らは聡史の事については話さなかった。

 彼女も口には出さなかったし、僕もあえて言わなかった。

 もちろん、彼が死んだ事は恭子も聞いているはずだ。

 しかし、彼女にドラックを売った連中に惨死やられた事は僕しか知らない。しかも、手を下した犯人は僕と聡史の小学校の級友……

「海外って、何処?」

「逢いに来てくれる?」

 僕は一瞬返事に困った。以前の僕なら、冗談でもウソでも「行くよ」と言ったに違いない。

「バカね、冗談に決まってるでしょ。カナダよ」

「カ、カナダか……何時?」

「九月の頭頃。ちょうどニ学期が始まる頃かな。ほら、向こうはちょうど新学期だし」

 恭子は少し俯いて、眼鏡越しに僕を上目使いに見ると

「見送りに来てくれる?」

「ああ、学校サボっても行く」

 それは本心だった。

 彼女は、僕の腕を掴んで笑った。

 月影に、恭子の頬を伝う何かが見えたような気がしたけど、僕は気付かないふりをした。




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