◆第53話◆
榛菜は退院してからも車椅子に乗る反面、松葉杖での歩行練習も続けていた。しかし、片脚で身体の全てを支え続けるのは用意ではない。松葉杖に体重の一部が分散するとはいえ、大半は片脚に集中するのだ。
短時間なら問題ないが、長時間歩き回る事は困難だった。
秋夫は、片脚を無くした榛菜にどう接していいのか判らなかった。榛菜は何かと秋夫を気にかけて、よく声をかけた。
彼も少しずつ、榛菜と普通に接するようになるが、家の中の生活リズムはどうしても榛菜寄りにならざるおえなかった。
空に浮かぶ雲は少しずつ高くなり、朝晩の乾いた風に、素肌は冷たさを感じるようになる。
この頃になると、近所に住む亜貴は学校で配られたプリントなどを届けてくれるようになった。
亜貴自身、榛菜の通学復帰を誰よりも心待ちにしていた。
当時亜貴の家は、榛菜の家のある都営団地に隣接する民間のマンションにあった。高校へ入って榛菜の家は落合に引っ越したが、少しして亜貴の家もまた引越しで移ることになった。そして再び同じ駅を利用するようになったのだ。
現在の亜貴の家は、椎名町より次の駅の方が本当は近いのだが、榛菜と一緒の時は同じ駅を利用している。
長期入院、自宅療養をしていた榛菜は元のクラスに在籍したままだったが、片脚のない生徒をこのまま受け入れるかどうか、学校側は慎重すぎるほどの審議を繰り返して、なかなか榛菜の登校許可が出なかった。
一部の保身的な教員たちは「何かあったら」という言葉を楯に、障害者の混入を否定したのだ。
それでも榛菜は次第に学校へ行く意欲を持ち始めていた。その為には、車椅子ではなく、松葉杖での校内生活が条件だった。
亜貴の励ましはもちろんの事だったが、やはりエリと出会った事が大きく影響した。
何時でも前向な姿を見せていた工藤エリ。長女である榛菜が、初めて目上の優しさに触れたのが彼女だったのかも知れない。
きっとエリちゃんも何処かで頑張っている。そう思うと自分自身も勇気が湧き出るのだった。
そんなある日、榛菜の家に一人の女性が訪ねてきた。
部屋で読書をしていた榛菜は、母親に呼ばれてリビングに顔を出した。
「こんにちは、榛菜さんね」
先にソファに腰掛けていた女性が、そう言って微笑んだ。
「こんにちは」
榛菜は誰か知らないその女性に声を返した。年格好は自分の母親とそう変わらない。
「工藤エリさんのお母さんよ」
母親に言われて、そう言えば似てる。そんな事を彼女は思った。
「エリさんは元気ですか?」
もう、彼女に会え無くても自分で今の自分に立ち向かっていける。榛菜はそんな気持ちになっていた。
しかし、エリの母親は直ぐには応えなかった。悲しい笑みが、榛菜を見つめた。
「エリは、骨肉腫だったの。あの娘はダンスが好きで、将来はプロになりたいって言ってたわ」
一瞬俯いたエリの母親は静かに言った。
「それなのに、大事な脚を失って……」
彼女は言葉を詰まらせた。
榛菜はエリの左脚が根元から無い事は知っていた。しかし、理由を訊いた事はない。お互いにそれは言わないのが礼儀のように思っていたから。
「骨肉腫?」
榛菜にはそれがどんな病気か判らなかった。
「骨の内部にできる腫瘍……癌みたいなものよ」
榛菜の母親が口添えした。
「ガン……」
癌と言えば、死に直結するような病気。榛菜にはそんなイメージがあった。
エリは自分の苦悩を他所に、自分に元気を分けてくれたのだと彼女は思った。
「エリちゃんは元気ですか?」
榛菜は再び訊いた。彼女の母親が、どうしてここへ一人で訪ねて来たのか、その疑問と不安に追い立てられながら。
エリの母親は、バックから写真を一枚取り出して榛菜に見せた。
「それが、エリが最後に撮ったものよ」
それは、病院のベッドに臥せる、やつれたエリの凛々しくも何処か果かない笑顔だった。
エリはあの時、榛菜のいた病院を退院してから数日後に、大学の付属病院へ再入院していた。退院と言うより転院に近かったのだ。
最後に撮ったもの……? 榛菜の思考は混乱した。
「エリちゃんは、病気が肺に転移……肺に移ってしまって、もう手遅れだったんですって」
榛菜の母親が、エリの母親の代わりに言った。
手遅れ? 榛菜は一瞬その言葉の意味を探った。途端に彼女の見る景色は灰色に変わっていった。
「ウソ……そんなのウソだよ。だって、エリちゃんあんなに笑ってたもの」
榛菜は声を張り上げた。
「あの娘は明るい娘だったから」
エリの母親がポツリと言った。
榛菜は松葉杖を片手にソファから立ち上がると
「エリちゃんはあたしに会いたくないんだ」
乱暴に杖を着きながら、出来る限りの早足で部屋を出て行った。
彼女も頑張っていると信じて自分も頑張ってきた榛菜には、目の前にいる大人たちの発した言葉を受け入れる事は出来なかった。
「ハル……榛菜」
母親の声に、彼女は立ち止まらなかった。
「ハルちゃんに伝えていいものかどうか、私自身迷ったのですが……やっぱり来ない方が良かったのでしょうか」
エリの母親は首をうなだれたまま呟くように言った。
「いえ、そんな事ないですよ。榛菜も事実を知った方がよかったと思います。現実は時に残酷なものです」
榛菜の母親は、そう言って彼女を見つめると
「ささ、コーヒー冷めないうちにどうぞ」
そう言って、朗らかな笑顔を向けた。
陽も落ちかけた夕方、母親は榛菜の部屋のドアを叩いた。
彼女が部屋に入ると、榛菜は机に突っ伏していた。
「あらあら、真っ暗じゃない」
母親はそう言って、榛菜の部屋の電気を点けた。
夕暮れの部屋の中は、いち早くほの暗さを増していた。
「ハル、これ」
母親は、エリの最後の写真を彼女の机に置いた。エリの母親が榛菜に、と置いていったのだ。
榛菜はゆっくりと顔を上げて、それを見つめた。
「最後なのに、笑ってる……」
「きっと、エリちゃんはとても強い娘だったのね」
母親は榛菜の肩に手を置いて一緒にその写真を覗き込むと
「せっかくお母さんが持って来てくれたんだから、大事にしまって置きなさい」
母親は瞳に涙を堪えていた。同じ年頃の娘を亡くした母親の気持ちは痛いほど判る。あの大きな事故で榛菜の命が絶たれなかった事を、彼女は改めて感謝した。
「きっと、あなたが挫けそうになった時、エリちゃんが助けてくれるわ」
榛菜が小さく頷いた時、乾きかけていた机に、再び雫が零れ落ちた。
「あたしも素敵な笑顔が出来るようにがんばる」
榛菜はこの一ヵ月後、担任の働き掛けも手伝って、小学校へ復帰した。
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