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◆第48話◆

 部屋の明かりはほの暗く落されて、熱帯魚の円柱型の水槽がぼんやりと青くライトアップされていた。

 天井にはテディーベアの絵が描かれているのが今更気付いた。

 僕の心配は無用だった。

 片脚が義足でも、榛菜は榛菜で、僕の気持ちに揺らぎは生じなかった。

 血の通わないその脚さえ、僕は愛おしく思えた。

 ……それは無いと思っていた。

でも本当の事だ。

 榛菜の身体に着いた全ては彼女で、僕にとってはそのどれもが同等に愛おしいのだ。

 きっと、アルミの義足を着けていたとしても、僕は同じ気持ちでいられたと思う。

「パンツ乾いたかな?」

 タオルケットに包まった榛菜が、僕の腕にしがみ付いて笑った。

 半乾きだった衣類は、浴室に設置してある乾燥機能を使っていた。

「いいかげん、乾いたろ」

 僕はそう言いながら、彼女を抱き寄せた。

 彼女を放したくないと思った。

 恭子の白い肌の記憶は、榛菜の愛くるしい小さな身体に置き換えられた。

 僕は、恭子の呪縛から逃れられると思った。





 ホテルの部屋は時間の感覚を失う。

 昼間なのか夜なのかわからなくなる。

 外へ出ると、太陽の強い陽差はまだ健在で、何処と無く初々しい僕たちをこそばゆく照らしていた。

 途中でお茶をして榛菜を送った後、自分の家の近くまで来たのはもう夕方というより夜に近かった。

 蒼かった空は緋色から縹色はなだいろに変わり始めていた。

 後ろからサイレンの音が聞こえたので、僕は左の路肩によって止まった。

 見事なドップラー効果音で、救急車が慌しく僕の横を走り過ぎるが、緩い坂道を下るその光景に、僕は妙な胸騒ぎがした。

 自分でもそれが何なのか解らない。

 でも僕は、その救急車が緩くカーブした途中で曲がるのを見た。

 そこが恭子の家のある辺りか確信は無かった。それでも胸騒ぎが収まらずに僕は自分の家に向かわず救急車を追っていた。

 最初に曲がった住宅街。そこは恭子の家の在る路地ではなかった。

 ホッと息をついて、そして考える。

 救急車は何処だ? 何処で停まったのだろう。聞こえていたサイレンの音は今さっき消えた。

 僕は辺りを見回しながら住宅街をゆっくりと走る。

 小さな堀にかかる橋を渡った所で引き返した。

 こんな所までは来ていないはずだ。僕は一本隣の路地へ入った。

 ……いた。救急車が後のドアを大きく開いたまま停まっている。

 僕はそれを見て一瞬止まった身体にムチを入れるように、バイクのアクセルを開けた。

 救急車が停まっているそこは、確かに恭子の家だったからだ。

 キッとブレーキをかけて停まると、僕は彼女の家の庭に駆け込んだ。

 ちょうどストレッチャーに乗せられた誰かが運ばれてくる。一緒にいるのは母親だからそれ以外の人に違いない。

 妹か? 父親か? そんなわけない…… 僕には直ぐに判ったはずだ。

 ストレッチャーに乗せられているのは恭子だ。

「おばさん、恭子、どうしたんですか?」

 僕は母親の腕を掴んだ。

「ああ、あなた確か恭子のお友達の」

 彼女はそう言ったきり、虚ろな表情でストレッチャーを追いかけた。

 玄関先には少女が一人佇んでいる。前にイタ飯屋に来た時に見た妹だった。

「お姉ちゃん、手首切って……」

 彼女は小さい声で呟くように言った。

 バンッと勢いよくドアを閉める音が響き渡った。紅いライトがほの暗い庭の雑木を不気味に映し出していた。

 僕は走り出す救急車を、ただ無言で見つめるだけだった。



 恭子は風呂場で手首を切った。

 以前からのためらい傷、いや、最初はただの自傷行為だったのかもしれない。それが、恭子の両手首には無数にあったそうだ。

 しかし、彼女はついに気持ちを解き放つかのように深く手首に刃を立てたのだ。それは動脈に届くほど深いものだった。

 妹が彼女を発見した時には、既に大量の出血で、お風呂場は一面真っ赤だったそうだ。

 病院に運ばれた恭子は、大量の出血によりショック状態だったが、緊急輸血などの処置を受けて一命を取り留めた。



 僕は、彼女を見舞うか迷っていた。

 全ての引き金は僕にあると思うと、それだけで胸が苦しくなる。それは、何時の間にか命を絶つまでに膨れ上がってしまったのか。

 しかし、やはり恭子の容態が気になったので、一日空けた翌々日の午前中に彼女が運び込まれた練馬病院へ足を運んだ。

 彼女は四人部屋の窓際にいた。精神状態を病院側が考慮して一人部屋を避けたのか、空きが無かっただけなのかは判らない。

 ベッドで点滴チューブを着ける彼女を見るのは二度目だ。

 まだ貧血状態なのだろう。恭子の顔は蝋人形のように真っ白で唇の血色も薄い。

 しかし、まったく化粧をしていない彼女は、僕の知っているクラスメイトの橘恭子だった。

 僕が病室へ入ると、彼女はチラリと一瞬だけ視線をこちらに向けたが、直ぐに窓の外へ移した。

 それでも僕は、彼女の確かなせいを感じてホッとした。

 左の手首には痛々しいほどに包帯が巻かれていた。

「なあ、聡史が心配してたぞ」

 僕は、どう声をかけていいのか判らずに、聡史の名前を出した。

「あなたは?」

 恭子はこちらを見ずに言った。

「えっ?」

「あなたは、あたしを心配してくれないの?」

「そりゃあ、心配してたよ」

 恭子の目からは雫が滴り落ちていた。

 彼女は、見かけよりもずっと弱いのだろうか。寧ろ、一見無邪気に見える榛菜の精神はとても強く、それは小さい頃に苦悩を乗り越えた事にあるのかもしれない。

 今の僕に、彼女を元気つける言葉は浮かばない。

「早く、元気になれよ」

 僕はいたたまれなくなって、そんな言葉を残して恭子の病室を後にした。

 彼女は立ち直れるだろうか。

 僕は、恭子の事を聡史に教えるのを忘れている事に気づいて、病院の建物を出て直ぐに彼の携帯に電話した。




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