◆第47話◆
「聡史、俺ちょっとタイムな」
少年は転んだ少女に駆け寄った。
「大丈夫?」
一緒にいた友達の非難する視線が痛かった。
「大げさなんだよ」
少年はその言葉を発した事を後悔した。その目で見た光景に、絶句した。身体が硬直して、少しの間動けなかった。
ピノキオのあし……
「ご、ごめん。俺、知らなくて……」
「大丈夫、あたし転ぶの慣れてるから」
少女はそう言って笑った。
自分より幼いその笑顔に、少年はドキリとした。異常な胸の高鳴りを感じた。
「ほら、まだ土が着いてるよ」
少年は少女のズボンに着いた土をほろった。自分とは違う華奢な足腰に触れた。
「ありがとう」
少女の笑顔は特別だった。少年にはそれが何故なのか解らなかった。
彼女の乗り越えた苦悩も絶望感も彼には解らなかったが、少女の笑顔が特別なものだと言う事だけは解った気がした。
「この人のせいで転んだんだから、当たり前の事だよ」
一緒にいた少女の友達はそう言いながら、少年と一緒に彼女のズボンの土をほろっていた。
キツイ言葉に相反した優しい仕草を見て、少年は苦笑いを浮かべた。
そんな心に残るはずの光景も、人波に戯れながら成長して行くうちに、他の多くの記憶に追いやられていつのまにか見失ってしまうのだ。
それが平和の下に暮らす常人の記憶なのかもしれない。
……………………
…………
熱い陽差は相変わらず僕たちに降り注いでいた。
榛菜は水に流されている間、弱気な表情は見せなかった。しかし、ホッとして気が抜けたのだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……あたし……ハルくん助けなきゃって」
榛菜は嗚咽を堪えながら子供のように言った。
「判ってるよ。大丈夫だから泣くな」
僕は子供を宥めるように、彼女の濡れた頭を撫でた。
「まあ、足着く深さだから呑みこまれる事もめったにないし、二人共無事でよかったじゃない」
僕らを助けてくれた釣り人の後藤さんと名乗ったその人は、そう言って笑ってくれた。
僕が流してしまった水筒は、途中の岩に引っかかっていた。それも後藤さんが網で拾い上げてくれた。
僕と榛菜は荷物を置いている場所まで歩いて戻ると、少しの間マットに寝転がって衣服を乾かした。
榛菜はまだ少ししょんぼりしている様子だった。
僕は熱い陽差の下で、彼女の濡れた身体を抱きしめた。
「有難う。飛び込んでくれて」
僕は、彼女の耳元でそう言いながら、そっと頭を撫でた。
「でも、ハルくん一人ならきっと、もっと早く上がれたよ」
「そんなのただの結果だろ。だいたい、落ちた俺が悪いんだよ」
僕は、榛菜の意外と向こう見ずなところが、何だか愛おしく思えた。
それはきっと、秋夫の命を救った原動力でもあるのだ。
僕自身、いままで誰かに助けられた記憶などない。そもそもそんな場面に出会った事がないのだ。
結果的には、榛菜は僕を助けてはいないが、そんな事は関係ない。
目の前で僕を必死に助けようとしてくれた彼女は、僕が守らなければいけないような気がした。
見かけによらずコテコテの長女肌の榛菜は、そんな事しなくていいと言うに違いない。だから僕は、それを心の奥に刻んで、彼女には見せないでおこう。
「おにぎり、まだあったよね。ひと泳ぎしたから腹減っちゃったよ」
僕は、彼女に抱きついたまま言った。
それを聞いた榛菜は、ようやく笑顔が戻った。
僕たちは、洋服が半乾きのまま荷物をまとめた。
僕は、再びジーンズに履き替え、榛菜はスカートを履いてショートパンツを脱いだ。
しかし、二人共下着はまだ濡れたまま、なかなか乾かない。
奥多摩の国道から青梅街道に入って直ぐ、左手にお城が見えた。
もちろん、本物のお城ではない。アミューズメントホテルと称した洋風のお城だ。
ちょうど信号で止まった時、僕は何となく榛菜に聞いてみた。
「なあ、お城に寄って下着乾かすっての、どう?」
もちろん、いい返事を期待してはいない。半分以上は冗談のつもりだった。榛菜とはゆっくり歩むと約束しているから。
彼女は一瞬お城が判らなかったらしく、きょとんとしていた。
僕が顎で建物を示すと彼女も気付いたようだ。榛菜は僕に回した腕に力を入れて僕とヘルメットをくっ付けると
「いいよ」
と小さく言った。
僕の鼓動は一瞬で跳ね上がった。
胸の中に期待と不安が押し寄せて交差する。
動揺を隠すように、僕はバイクのクラッチを何時もよりゆっくりと慎重に繋いだ。
「ハルくんはこういう所、来た事あるの?」
部屋に入った彼女は、珍しそうに辺りを見渡しながらいきなり僕に問いかけた。
「んん……どうかな?」
「あっ、あるんだ」
彼女はちょっとだけ頬を膨らまして、でも微笑んでいた。
僕たちは服や下着を全部脱いでバスローブに身体を包んだ。
カラオケも、50インチのハイビジョンで映画を観ることもできる。
勢いで押し倒せば、今の榛菜なら拒まないような、そんな不確かな自信はあった。
でも僕は、彼女の横に座ったまま
「映画でも観る?」
そんな事を訊いてみたりする。
「何あるかな」
榛菜はメニューを見て
「あっ、プーさんあるよ」
「プーさん?」
僕も彼女に寄り添って一緒にメニューを眺める。
突然キスをして来たのは彼女の方だった。
僕は何も考えずにそのまま榛菜を抱きしめた。
彼女を抱きしめたまま、大きなベッドの端から中央へゴロゴロと転がった。
榛菜の笑顔に迷いは見られなかった。
僕は、榛菜のバスローブの紐を、ゆっくりと引いた。
無邪気だった少女は女に変わる……