◆第46話◆
ゴオゴオと唸りを上げて岩をかき分ける激しい水の流れは、まるでラムネのような色をしていた。
榛菜は僕の身体に掴まりながら大きな岩の上を歩いて、小さな岩をちょっとだけジャンプして、なんとか川の中央付近にある大岩まで辿りつくと、腰をおろして水の流れに足を入れた。
「きゃぁ、冷たい。でも気持ちいい」
思わず叫んだ彼女は、足をぶらぶらさせて水面の流れを弾いた。
僕も隣に腰掛ける。
向こう岸からせり出した大樹の枝が、直射日光を遮って日陰を作っていた。
「ここ涼しくて最高」
木漏れ日の中で、榛菜の笑顔が弾けた。
……連れて来て良かった。
「俺、飲み物とって来るよ」
僕はそう言って立ち上がると、岩をポンポンと飛び跳ねて、隣の緩い流れをザブザブと渡り、荷物を置いた場所まで行った。
水筒と紙コップを持って再び榛菜のいる場所まで戻る。小走りのまま石の上を小気味良く渡っていたその時だった。
ほんの一瞬、僕は油断をしたのだろう。
小さな流れを飛び越えて次の足場に着地した時、濡れた石に足を取られて川に落ちてしまった。
一瞬の出来事だった。何かに掴まる暇も掴まる場所も無い。
転がる石で小さな堰となったその場所は思いの外深さがあり、左右から流れてぶつかる強い水流に押されてあっという間に数メートル流された。
「ハルくん!」
「バカ、来るな!」
僕が叫んだ時には、榛菜はもう水に飛び込んでいた。
おいおい、お前、泳げんのか……?
榛菜はあっという間に流れに乗って僕の横まで来た。が、僕と身体が一瞬触れただけでそのまま行き過ぎる。
「榛菜、足を着け!」
そう言いながら僕は手を伸ばした。
「ごめん、うまく出来ない」
彼女も手を出したが、それらは触れることはなかった。
「クソッ」
僕は足で川底を蹴った。
川の流れが邪魔をして、うまく榛菜に近づけない。
川幅は5、6メートル。いや、もう少しあるか。榛菜と僕の距離は3メートル前後を行ったり来たり。その距離が異常にもどかしい。
いずれは流れが収まるだろう。しかし、その前に激流に呑まれるかも知れないし、岩に激しくぶつかるかも知れない。
「ちきしょう!」
僕は、身体を水面に寝せて泳ぐ態勢をとった。
横の距離がとにかく縮まらない。
僕は水泳が得意だ。区の大会で表彰台に上がった事もある。しかし、それは小学校の時の話。こんな事なら運動部にでも入って、身体を鍛えるんだった……
何とか横に進まなければ。
そう思っている矢先に突き出た岩に吸い込まれる。
ダメだ……川底から足を離したら流れに呑まれるだけだ。
今のところ榛菜の行き先にはさほど危険な箇所はなさそうだが、水の流れが強くて、彼女も水を飲んでいるようだ。
榛菜も必死に川底に足を着いて川の流れに抵抗しているに違いない。
きっと、健常者でも女の子にはこの流れに逆らう事は出来ないかもしれない。
男の僕さえ横に移動できないのだから。
転がった岩で川底は急激な高低を繰り返す。彼女の身体は上下に揺れながら流されてゆく。
せめて縦の距離は離れないようにと、彼女を追う。
そうこうしているうちに、小さな岩に榛菜が取り付いた。
「そうだ、そのままそこにいろ。放すなよ」
はじけた川の流れが彼女の顔にモロに当たっていた。
いそげ、いそげ。急げ、俺。
泳いだら流される。何とか歩いて彼女のいる岩まで行かなければ。
足元にも気を付けないと、流れで抉られた川底は急に深くなっていて足を取られてしまう。
「おい、大丈夫か」
誰かの声が聞こえた。
見上げると、草むらをかき分けて誰かが顔を出している。
「その娘をお願いします」
僕は必死で榛菜を指差した。
身形から見て、釣り人のようだったその人は、長さの変わる網を取り出して、命イッパイ榛菜に向けて延ばした。
彼女は必死でそれを掴んだ。しかし、僕を振り返る。そして今にも手を離してこちらに身体を返しそうだった。
「いいから先にあがれ」
僕はとにかく叫んでいた。手でジャスチャーを繰り返す。
「放すなよ」
釣り人は彼女を引き寄せた。
……よし、これで大丈夫だ。
ゴツゴツした岩をかき分ける激しい水音だけが周囲を取り巻いていた。
この時、僕は激流のど真ん中で悟った。
そうか、きっと秋夫を助けた時の榛菜はこんな気持ちだったに違いない。
自分はまだ全然危険な場所にいるのにも関わらず、きっとこんな安堵に満たされたに違いない。
「ハルくん!」
喧騒をかき分ける声。
榛菜がずぶ濡れのまま向こう岸で叫んでいた。
そうだ僕はあそこへ行かなければ。
「少し先で枝が出てる。それに掴まれないか?」
釣り人が言った。
流れの先を見ると、僕のいる側に斜めに生えた樹木から枝が突き出ていた。
僕は頷いて見せると、切らした息を整えてその樹木に向かって慎重に進んだ。
僕が木の枝に捕まったのを見て、榛菜を連れた釣り人は少し先に在る小さな橋に向かった。