◆第44話◆
緑の木々から注ぐ木漏れ日が、アスファルトを永遠に照らし続け、身体に当たる熱風が光に溶けて後へ飛んでゆく。
練馬から約50キロ。僕は榛菜を連れて奥多摩へ来ていた。
海やプールの人混みには行けない彼女に水際の戯れを味あわせるにはどうしたらいいか。僕は真剣に考えた。
そこで浮かんだのが奥多摩の渓流だ。
場所を選べば人混みも無いだろうし、波に足を取られる事もない。人目を気にせず、素足をさらけ出して水に浸すのも容易な気がした。
彼女はこの日、シリコンラバーで覆われた肌色の義足を装着してきた。
「バイト代で買っちゃった。半分はお母さんが出してくれたけど」
今朝、榛菜の家に迎えに行った時、何時もより短いスカートから肌色の両脚を出した彼女がそう言って笑った。
右の脚に色合いまで合わせてあるそれは、一瞬本物と区別が付かない。
バイト代で買うのは、女の子なら洋服だったりアクセサリーだったりするのが普通だろう。しかし、彼女の場合はそれが義足という事だ。
僕は、バイト代をバイクなどの道楽にしか使わない自分を少しだけ恥ずかしく思った。
灼熱の葉緑の壁を抜けてトンネルへ入ると、一瞬寒いほどの冷たい空気が身体を捕らえる。 光りの玉となって見える出口に向かって、僕はアクセルを開ける。
「トンネル気持ちイイ!」
榛菜の叫んだ言葉は、壁面に共鳴するバイクの音で殆ど掻き消されていたが、僕にはちゃんと聞こえていた。
その高揚感は、彼女の身体全体から伝わった。
キャンプ場のある近くを、細い小道に沿って下ると開けた河原がある。
川は二股に分かれていて、一方はゴツゴツと大きな岩が転がる激流、もう一方は小石が散りばめられた穏やかな流れになっていた。大きな河原にその対照的な流れが二本ある。
どちらも川幅は5〜6メートルと言ったところか。
僕たちは、手前の緩やかな流れの近くにレジャーマットを敷いた。
相変わらず熱い陽差が照りつける中、僕は上に羽織っていた長袖のシャツを脱いだ。
榛菜もバイクに乗る為に羽織ったシャツを脱ぐと、スカートも脱ぎだした。
「お、おい……」
僕は一瞬ビックリしたが、彼女はスカートの下にショートパンツを履いていた。
すらりと伸びた二本の脚。
まるで幻のようだ。
膝下に付いた10センチほどの継ぎ目を隠す黒い帯が無ければ、完全な生脚と変わらない。
彼女は、義足との継ぎ目を見られるのが、一番抵抗があるのだそうだ。
「なんだか、脇の下とかを見られてるみたいな感じ」
彼女は笑って言った。
「さ、触ってもいい?」
僕が訊くと榛菜は恥ずかしそうだったが、脚を差し出してくれた。
僕はそっと彼女の左脚に触れる。
弾力感は、確かに人肌のようだった。足の指も細部まで再現してある。
右足の型を採って転写したらしい。現代テクノロジーに感激すらしてしまう。
足首に入った関節が僅かに動く。もちろん、本人の意思で動くわけではない。
自分の意志では動かない脚。
しかしそれはピノキオの脚なんかではない。
これが彼女の脚なのだ。
その時、彼女は急に脚を少し引いた。
「何かくすぐったい」
「えっ、感じるの?」
榛菜は首を横に振ると
「継ぎ目から脚にもぞもぞ伝わってくるの」
「へぇ、そうなんだ」
……ビックリした……
「そこは本物……」
「えっ?」
榛菜の声に僕は再び視線を脚に向ける。
僕は何時の間にか、彼女の膝上、生の脚に触れていた。
「あ、ああ。ごめん。どうりでリアルだと思った」
「もう、手つきがやらしかった」
「そんなんじゃないって」
僕は笑って頭をかいた。
彼女がこうして無防備に脚を触らせるのは、きっと僕だけかもしれない。
………医者以外は。
ピノキオの脚? ……それにしても、僕はどうして急にそんな例えが浮かんだのだろう。
僕は木陰でジーンズを脱いでハーフパンツに履き替える。
川の水際まで歩き、二人で脚を入れた。
「うわっ、冷てぇ」
「気持ちいい」
気温は35度、水温はおそらく18度も無いかもしれない。まるで、氷に足を入れているみたいだった。
緩い流れの川は、一番深い場所でも膝下ほどの深さしかなかった。
川の中ほどまで歩いたが、水の冷たさに耐え切れず、僕は早々に水面から突き出た石の上に飛び乗った。
彼女は僕よりは長く脚を水に浸けていたが
「やっぱり冷たい」
そう言って、やはり水から頭を出している石の上に乗っかった。
そして榛菜は無言で僕を見つめた。
僕は軽く肩をすくめると、彼女を抱き上げてザブザブと川面を蹴散らして岸まで戻った。
このくらいの甘えは、かえって楽しい。
女性を抱きかかえたのは初めてだった。榛菜は思いの外軽くて、少し驚いた。
彼女の髪の毛が僕の頬に触れて少しだけ緊張したけど、それが顔に出ないように平然を装った。
「これじゃあ、泳げないね」
岸に足を着けた榛菜が言った。
「どうせ泳ぐ気はないよ」
「えっ、そうなの? ハルくん泳ぐのかと思った」
彼女は本気でそう思っていたらしい。
「泳がないって。つうか、泳げる深さないし」
「そっか、そうだね」
「でも、川の水がこんなに冷たいなんてビックリだけど」
僕はそう言って笑いながら、マットに横になった。
刺さるように乱暴に降り注ぐ熱い陽差が、ここでは気持ちよかった。
榛菜も隣に横たわると、彼女の肩が僕の肩に触れた。
何時の間にかこんなにくっついても、それが当たり前で……僕は彼女がさっき塗っていた日焼け止めクリームの香りがやけに心地よくて、静かに深く息を吸った。