◆第40話◆
榛菜は僕が食べる病院食を前に、サンドイッチを頬張る。
僕は彼女の黙々と口を動かして食べる姿が好きだ。昔飼っていたミニうざぎを思い出してしまうのだ。
一緒に売店にお昼を買いに行く頃には、彼女の機嫌はすっかり直っていた。
「あ、ヨーグルト食べたい」
「俺のに付いてくるやつやるよ」
「え〜、食事についてくるのはプレーンでしょ。このラズベリーヨーグルトがいい」
榛菜はそう言ってニコニコと子供のような笑顔でヨーグルトを手にした。
雨が小降りになるのを待って、僕は彼女を正面玄関まで送っていった。
「じゃあ、またね」
榛菜はそう言って何時もの笑顔で手を振った。
「あのさ、あの夢は、ただの夢だから。気にすんなよ」
「うん。もう気にしてない」
彼女はそう言って笑うと
「ハルくんもね」
「えっ?」
「あたし、さっきトイレで考えたんだけど」
「トイレ?」
「夢での自分を一番気にしてたのは、ハルくんだったのかもね」
そうかもしれない。
あの夢の中での僕の考えはあまりにも悲観的で潔くて、普段の自分とは違っていた。その自分自身に、僕は懸念を抱いている。
榛菜の脚にストレスを感じている自分が、普段からこの心の何処かにいると思うと怖くなる。
それを認識している自分が怖くなる。
榛菜はゆっくりと玄関を出てから、傘を開いた。
僕は、あの夢の中の榛菜に生身の左脚があった事は言わなかった。
まるで、それを僕が望んでいるかのように思われるのが嫌だったから。
「気をつけて帰れよ」
僕の言葉に、彼女は振り返って再び小さく手を振った。
榛菜は、彼女なりに障害者である自分に引け目を感じている。普段、あまりにもそんな素振りが無いから忘れてしまうが、それは確かなことだ。
いや、普段はそんな事忘れていた方がいい。きっと彼女もそうなのだ。
そして、何かのきっかけでそれを思い出してしまうのは仕方の無い事かも知れない。
もしかしたら、時々は思い出した方がいいのだろうか。
それで、お互いの大切さを確認できるのなら、それでいいのかもしれない。
僕は部屋に戻るのが面倒で、非常階段の上り口でタバコを吸いながら、ぼんやりと低い空を眺めていた。
雨はもうだいぶ小降りになって、今は雨音さえ聞こえない。
「こんにちは」
僕は聞き覚えのある声に振り返った。
そこには、恭子が立っていた。
「恭子」
「試験休み早々、入院したって聞いてさ」
彼女の笑顔の隣にはもう一人の姿があった。
「キミは」
それは榛菜の弟の秋夫だった。
「どうして恭子とキミが?」
「池袋で知り合ったの。榛菜さんの弟さんなんだってね。あまりの偶然でビックリしちゃった」
恭子はそう言って、笑みを浮かべた。
「あんたが姉貴の彼氏?」
秋夫が言った。
「いや、別にそんなんじゃ」
「あら、結局榛菜さんも遊びなの?」
恭子が意地悪そうに、言葉を挟んだ。
「そういうんじゃないよ」
僕は慌てて返した。
「あたし、今秋夫君にいろいろ教えてるの」
「教えてるって、何を?」
「陽彦に教えてもらった事」
「俺が恭子に教えた事?」
恭子は再び小さく嗤った。
跳ね上がった眉のメイクと、目の周りを覆うラメの入ったパウダーシャドウが、まるっきり彼女を悪女として映し出していた。