◆第4話◆
「お疲れさん。あんなにぶっ通しで弾かなくていいんだよ」
閉店一時間前、榛菜が帰る間際にマスターが言った。
土曜日の今日は、僕も十二時まで入っていたが、さすがにこの時間になるとお客は少なくなる。店は一時までだが、ラストの一時間は週末でも大抵はマスターが一人で切り盛りする。
「はい。今日は自分を覚えて欲しかったので、かなり飛ばしました」
榛菜はそう言って笑った。白目が無くなって、黒い瞳の輝きが一層目立つ。
「おう、里見ももう上がっていいぞ」
「はい」
一応、マスターが声をかけるまで、食器を洗ったりテーブルを拭いたりする。
僕は、黒い大きなエプロンを取りながら、スタッフルームへ入った。
「あら、あなたも上がり?」
榛菜が楽譜を整理してバックへ詰め込んでいた。
「ああ。いま終わり」
僕は彼女の小さな手に思わず視線を落した。
この時、脚に視線が向かなくて良かったと自分で気がついた。
「スゴイ、ピアノ上手なんだね」
「一応、取り得だから」
彼女は脚を引きずりながら、笑った。
「帰りは?」
「うん。お母さんが迎えに来る」
「そう」
何だか話しているうちに、僕らは一緒に店の外へ出た。
彼女の歩くペースはとてももどかしく、そしてやっぱり痛々しい。
僕は手を貸した方がいいのか、そ知らぬ顔でいいのか、こういう人と歩くのが初めてだったから、異常な戸惑いを感じた。
「ごめんね、歩くの遅くて」
彼女は僕の戸惑いに気づいたのか、そう言って笑った。
僕の戸惑う素振りは、逆に彼女に気を使わせていたらしい。
「あ、いや……脚、どうしたの?」
「うん。ちょっとね」
彼女はそう言って、小さな笑みを返すだけだったから、僕はそれ以上訊こうとはしなかった。
外に出ると、軽自動車が一台路肩に止まっていた。ほの暗い運転席の中から、誰かが手を振っていた。
それが榛菜に向けられたものだと直ぐに判って、僕は小さく会釈をした。
「じゃあ、またね」
小さく手を振りながら榛菜はぎこちなく車に乗り込んだ。
全く手を差し伸べない母親の姿を見て、僕は何だか不思議な感じがした。
「ああ」
僕が軽く手を上げると、彼女はドアを閉める直前に
「おやすみ」と言った。
榛菜の足は、いったいどうしたのだろう。大きな怪我でもしたのだろうか。それとも、何か病気だろうか。
その晩、僕はテレビを観ていても、風呂に入っていても彼女の事が頭から離れなかった。
「おやすみ」という言葉が何時までも耳に残っている。
ありふれた言葉だが、親以外であんなセリフを言われたのは初めてかもしれない。
いや、誰かには言われた事があるのだろうが、彼女から発せられた「おやすみ」と言う言葉が、僕には何だかとても特別なものに聞こえた。
そして、思い出す度にキュッと息苦しくなる。
翌日曜日も何時も通り夕方六時からバイトに入る。
お客の引きが早いから、榛菜は十時で、僕は十時半に仕事を切り上げた。
役割が違うから、榛菜とはなかなか雑談を交わす時間は無い。
途中、簡単なまかないが出されて食事を取るが、何だか客が混みあっていて十分しか時間が取れなかった僕は、休憩に入った彼女と殆ど入れ違いでフロアに戻った。
僕は何だかもんもんとした気持ちのまま、バイクに跨って目白通りから環七を走りまわって、充分に夜風で気持ちを冷やしてから帰宅した。
別に秘密でも何でもないのだろうが、脚を引きずる彼女の姿と、それに相違したあの笑顔が僕にとってはとてつもなくミステリアスなのだ。
彼女の何かをもっと知りたい。
僕が知っているのは七倉榛菜と言う名前と、ピアノが上手だと言う事。そして、左足を少し引きずって歩く姿。それだけだ。