◆第39話◆
その日は、梅雨のラストスパートのように、激しい雨が降っていた。
榛菜は当然来られないだろうと思った。
しかし、彼女は身体を半分濡らして、何時ものように僕の病室へやって来た。
「バカだな。こんな雨の中、来なくていいんだよ」
彼女は僕が差し出したタオルで髪の毛を拭いていた。
「だって、今しか無いじゃん」
「何が?」
「あたしが、ハルくんに何でもしてあげられるのは、今しかじゃない。怪我が治れば、またハルくんは健常者で、あたしは障害者。何かあると、ハルくんに助けられて、人混みで守ってもらって……」
自分を障害者と呼ぶ彼女を初めて見た。
解ってはいても、その口から発せられた言葉は痛々しかった。
この四人部屋に今入っているのは、僕の向かい側に一人、おじいさんだけだった。その人も、リハビリの為に今は部屋を出ていた。
四人部屋の広い空間に、窓の外から聞こえる激しい雨音だけが鳴り響いていた。
「俺さあ、ここに運ばれた時、夢を見たんだ」
「夢?」
「右脚が無かった」
榛菜は僕を見つめていた。
「無かったって、ハルくんの脚が?」
僕は頷いて、そして続けた。
「すげぇショックだった。どうしていいか解んなかった。でも、夢の中の俺がふと思ったんだ。これで榛菜と一緒だって。何の気兼ねもなく、榛菜と付き合っていけるって」
僕を見つめる榛菜の視線が、僕の心の中まで入って来るような気がした。
「やっと、榛菜の気持ちが解るんだ。て思った」
その時、榛菜は僕の腕を強く掴んだ。
「そんなの、解んなくていいんだよ」
彼女はあっという間に、目にイッパイの涙を溜めていた。
長い睫毛が瞬きをした瞬間に、それは儚げに彼女の頬を伝って布団に零れ落ちた。
「そんな事解ってもらっても、誰かの脚が無くなるのはヤダよ。ハルくんの脚が無くなるのはイヤダ」
僕の腕を掴む彼女の力は身体の芯まで伝わって、僕の心を震わした。
夏用のパジャマの上から、榛菜の小さな爪が食い込んだ。
「あたし、ハルくんが事故で脚を怪我したって聞いて、怖かった。すごく怖かったよ」
腕に食い込んだ彼女の爪のイタミは神経伝達を無視して、僕の胸の中へ伝わり直接こころのイタミに変わった。
「どうしてそんなこと言うの……いつもそんな事考えてるの? あたしの片脚が無い事に気兼ねしてるの?」
彼女の瞳から溢れ出る涙は、次から次へと頬を伝った。
「あたしと付き合うのは苦しい?」
僕はどう説明していいのか解らなかった。
苦しい訳ではない。いや、榛菜を好きな気持ちは苦しさに似ているのか。
違う……僕は彼女と一緒にいて苦しいと思った事は一度もないし、榛菜の脚の不自由さを苦痛に感じた事も無い。
この気持ちはいったい何だ。
僕は榛菜の憂いな視線を受け止めて、そしてひとつだけ気がついたことがある。
……そうか、僕はこんなに人を好きになった事が今まで無かったんだ。
あまりにも人を好きになると、こころは苦しいんだ。
「ごめん……ただの夢の話だよ」
僕は、榛菜の濡れた頬に手を当てて言った。
誰かの涙に触れたのは初めてだった。
瞳から零れ出るその雫は、生き物のように情熱を佩びていた。
「ハルこそ、俺に助けられてるなんて思うなよ。俺、普段そんな事思ったことも無い」
榛菜は鼻を啜りながらコクリと頷いた。
そうだ、僕は今まで何も考えずに生きてきて、彼女に出会ったことで些細な事も考えるようになった。
助けられているのは、僕の方かもしれないのだから。
向かい側のおじいさんがリハビリから帰ってきたのを見て、榛菜は慌てて涙を拭いながら窓の方を向くと、ベッドサイドのBoXティッシュをむしり取った。
相変わらず窓を叩く雨音が鳴り響いていた。