◆第38話◆
僕は髪を洗おうと共用の洗面所に来ていた。浴室の近くに在る洗面台には、洗髪が出来る大きな洗面台があり、シャワーも着いている。
めんどくさいと思いながらも、日に日にボサボサになる頭にも限界が来たのだ。
一つ息をついてお湯を出す。
隣では、髪を洗い終えたオバサンが、ドライヤーでゴーゴーと乾かしているところだった。
「シャンプーはいかがですか?」
その声に振り返ると、榛菜が洗面所に顔を覗かせていた。
「あれ、もう来たの?」
「うん。今部屋に行ったら、頭洗いに行ったみたいだって、向かいのおじさんが」
榛菜はそう言って洗面所に入ってくると
「ほら。あたしが洗ってあげるよ」
そう言ってシャンプーの小さなボトルを手に取った。
「いや、大丈夫だよ」
何だか照れてそう言った僕に
「いいからいいから」
彼女に促されながら、洗面台に頭を伏せる。
シャワーでお湯をかけられて、彼女の指が僕の頭を這い回ると、直ぐに泡立ちが始まった。
何時もは鍵盤の上で跳ね回る彼女の指が、今は僕の髪の中で踊る。しなやかで、柔らかくて張りのある小さな指先は、あまりにも心地よかった。
「客様、かゆい所は御座いますか?」
彼女は陽気にそんな冗談を言ったりする。
「なんか、人の髪って気持ちいいね」
「そうか? お前の指も気持ちいいよ」
「何か、言い方がちょっとやらしいよ」
そう言って笑う今日の榛菜は、やけに機嫌が良かった。
リンスを流していると
「あらぁ、羨ましいわあ」
洗面所に入ってきたオバサンが声をかけてきた。
僕は思わず半分だけ顔を上げて、苦笑しながら小さく首だけの会釈をする。まったく知らない人だった。
さっと髪を乾かして、中庭の見える通路まで散歩に歩いた。
非常口から外へでると、熱い風が洗いざらしの髪に吹き付けて心地よかった。
「その手提げ、何?」
榛菜は少し大きめのトートバックを手にしていた。
「ハルくんに気分転換してあげようと思ってさ」
榛菜はそう言って、バックから何かを取り出した。
それは物凄く見覚えのあるものだった。
「ぴ、ピアニカ?」
榛菜は笑顔でそれを組み立てると
「正式には鍵盤ハーモニカって言うんだよ」
「いや、それは知ってるけど……」
榛菜は容赦なくそれを弾き始めた。
そして僕は、思わず驚いた。
僕の記憶にある音色とは全く違っていたのだ。
もちろん、僕の記憶にあるのは小学生のドシロウトが奏でるものなのだが……吹き方か、鍵盤の弾き方か、おそらくその両方だとは思うが、それは充分に楽器と言える音だった。
なんだかその音色はちょっぴりレトロで心地いい。
「あら、面白いもの吹いてるわね」
通りかかった僕の部屋の担当看護師が、声をかけてきた。
「あ、ここで吹いたらマズかったですか?」
僕は慌てて彼女に訊いた。
「ううん。大丈夫よ」
彼女はそう言って笑うと
「カノジョ、ピアニスト?」
「いや、そう言うわけじゃ」
僕は、洗いざらしの頭を思わずクシャクシャとかきあげる。
自分で返した言葉が「カノジョ」に対してなのか「ピアニスト」に対してなのか紛らわしかったからだ。
「ねぇねぇ、ピアニカ吹いてるよ」
看護師は、通りすがりの別の看護師を呼び止めた。
「へぇ、何でも弾けるの?」
「知ってれば、たいがいは」
榛菜はうっかりそう言って笑顔を返した。
「あ、ねぇねぇ、面白いものあるよ」
再び通りすがりの看護師が呼び止められて寄って来た。
「ええ、じゃあ、スマップ弾いて」
「ええ、あたしコブクロがイイなぁ」
「じゃあ順番にしよう」
「冬ソナやって」
若い看護師たちは、意外とミーハーだった……
初めにUPしました38話は39話へ修正いたしました。