◆第30話◆
昼休みが終わってから、僕は恭子を見る事が出来なかった。
僕のせいで彼女が変わってしまったなんていわれたら、どうしていいのか判らない。
どうすれば恭子は元の彼女に戻るのだろう。
僕はそんな事ばかりを考えながら、虚空を横切る飛行機雲を眺めていた。
あんなに真面目だった恭子が、当番の掃除もせずに教室を後にする。僕が掃除をサボっても、もう叱ってくれる彼女は何処にもいない。
校舎を出た時、恭子の姿を追いかける聡史を見た。
僕は、二人に気づかれないように距離を置いて歩いた。
駅で電車に乗る時は、直前までトイレの陰に隠れて、ドアが閉まる瞬間に先頭車両に滑り込む。
一瞬鞄がドアに挟まりそうになって、焦った。
聡史と恭子が乗った車両に近づくため、車内を歩いた。連結箇所の窓から微かに二人の姿を見つけて、手前の車両に留まり様子を覗う。
聡史と恭子は並んでいるようだが、会話を交わしてる様子はない。
池袋の地下道を抜けて東口から出ると聡史は恭子の腕を掴んだ。しかし、彼女は聡史の手を大きく振り払う。
こうして見ていると、痴話げんかをしたカップルのようにも見える。
聡史は結局そこまでで恭子と離れた。
恭子は予備校へ行ったのだろうか。
僕は聡史にすら声をかけずに、西武線のホームへ向かった。
改札口を抜けた所で榛菜の姿を見かけた。
僕は少しだけ躊躇したが、追いついて声をかけた。
「よう」
「あ、ハルくん、今帰り?」
「ああ」
彼女は何時ものように微笑む。
僕の気持ちは前と変わっていないのだろうか。榛菜の事が好きなのだろうか。
「いったん家?」
「うん。どうしようかな」
彼女はベルリネッタのバックルームに着替えを幾つか置いている。
僕らよりも入りが遅い榛菜は、大抵家に寄って着替えるようだが、学校から直接来た時には店で着替えをするのだ。
もちろん、僕らも着替えはあるが彼女はウエイターではないので、自前の衣装なのだ。
「じゃあさ、今日はウチ来る? 一緒にバイクで送ってやるから」
「ほんと?」
榛菜は明るく笑った。
そうだ。彼女の本当の笑みはこれだ。さっきまでの笑みは違う。
彼女の明るい性格がそれを麻痺させていた。
気を使った笑みと本当の笑みを僕は混同して、危うく見失うところだった。
見失ってはいけない……見失いそうになって、僕は初めてそれに気がついた。
その日の榛菜のピアノは軽やかで、透き通った音色を終始奏でていた。
マスターは時折僕に視線を送っては何かを含んだ笑みを浮かべる。
何が言いたいのかは判っていた。
彼女の奏でる音色は、僕とのバロメーターなのだ。それをマスターには気づかれてしまった。
いや、寧ろ僕がマスターから教わったと言ってもいいのかもしれない。
そして、僕は、何時までもこの澄んだ音色を聴きたいと思った。
バイトが終わって外へ出ると、少し先に上がった榛菜がまだ店の外にいた。
「あれ? 迎え、まだ来ないの?」
「うん」
僕は時間つぶしに付き合って、彼女と一緒にいた。
「あたし、やっぱエロいのかな」
「なんで?」
榛菜は答える代わりに突然自分から僕に唇を重ねると、力いっぱいしがみ付いてきた。
彼女の吐息が熱かった。
久しぶりに榛菜の匂いを嗅いだ気がした。
リンゴのような、シナモンのような……
それは、微かな洗濯洗剤の残り香の中に漂う、穂のかに甘い清楚で不思議な匂い。
僕は、そっと彼女の華奢な身体に腕を回した。
「あたし、ずっとハル君とキスしたくて……」
彼女は僕から身体を離すと、そう言って少しだけ悲しい笑みを浮かべた。
何か言わなければ、そう思ってもなかなかうまい言葉は浮かばない。
僕の頭の中は、久しぶりに嗅いだ彼女の香りで満たされていた。
その時ヘッドライトが近づいて来て、僕たちの目の前で止まった。
彼女の母親の車だった。
「本当はね、あたしがお母さんに電話したの。今日は少し上がりが遅いから、遅く迎えに来てって」
榛菜はそう言って微笑むと、車に近づいてドアを開けた。
「俺さぁ……ハルの事、傷つけたりしてないかな?」
僕は不安だった。
恭子を知らぬ間に追い込んでいた自分の行動が、とてつもなく不安で、誰かを想う事が、想われる事が不安だった。
榛菜は首を横に振って
「そんなわけ無いじゃん」
手を振る榛菜の笑みは、何時もの明るく晴れやかなものだった。
僕は彼女の乗った車が完全に見えなくなってから、バイクに跨った。