◆第3話◆
翌日教室で見た恭子は、何だか何時もと違う気がした。
肩に着く黒髪に、黒縁の眼鏡。肌はキレイだが、頬にある少しのニキビ。何処が何時もと違うのか…… もしかしてもともと、他の娘よりは幾分マシなのだろうか。
僕はそんな事を思ってしまう自分に、思わず頭を振った。
「おいハル。恭子見たか」
サンドイッチをほお張りながら聡史が言った。
昼休みは屋上で過ごす事が多い。校庭が狭い為、昼休みだけ屋上が開放されるのだ。
高いフェンスに囲まれているが、ちょうど南側のビルの谷間には、東京タワーが小指ほどの大きさに見る事ができる。
「何が?」
恭子の話題が出た事で、僕は少しだけ動揺しながら、それでも何食わぬ顔で応えた。
「アイツ、今日色つきのリップか何か着けてたぞ」
何て目ざとい奴だ。そうか、だから何時もと少し違って見えたのか。
「お前、よくそんなの見てるな」
「恭子は、少し化粧すれば意外と可愛いと思うんだよ」
「理奈の方が可愛いだろ」
理奈とは、聡史が今年に入ってから付き合いだした他校の彼女だ。
「あいつは、容姿はいいんだけど、バカだからな」
「何だよ、お前、外見重視って何時も言ってたろ」
「そうなんだけど、あまりにも常識無いのも考えもんだぜ」
聡史はそう言いながら、四角いパックのコーヒー牛乳を飲んで笑った。
バイトのある日は忙しい。と言ってもそれが殆ど毎日なのだが。
だから、僕は勉強している暇なんか無い。自分には、よくそう言い聞かせているが、一種の逃避でも在る。
バイトを始めたきっかけは、バイクが欲しくなった為だ。
映画ローマの休日を見た僕は、彼女を後ろに乗せて街を走りたいと思った。
しかし、原付では当然二人乗りできない。仕方なく自動二輪を取得したが、教習バイクに乗っているうちに、スクーターではなく、スポーツバイクが欲しくなってしまった。
まあ、どうせ彼女がいるわけでもない僕は、バイクに跨って走る楽しさを純粋に感じるようになったわけだ。
しかし、結局はバイクのローンの為に毎日バイトに明け暮れて、イタ飯屋と自宅の往復が、唯一TWを走らせる時間となる。
だから僕は、わざわざ一度家に戻って、バイクに乗ってバイト先へ向かう。
オーナー兼マスターの高峰さんもバイクに乗っているらしいが、イタリア党らしくドカティを所有している。
ベルリネッタに来るのは、会社帰りの独り者からカップルまで様々で、中には写真家を名乗る者や、漫画家までいる。
七時を過ぎた頃、マスターが僕に声をかけた。
促されて視線を向けたスタッフルームの出入り口には、一人の女性が立っていた。
小柄で、黒い髪を後ろで束ねている。白いブラウスとエンジのロングスカートが何処と無く昔のカントリー風に見えた。
化粧をしているが、かなり若そうだ。潤んだような大きな瞳が、店の間接照明の明かりを取り込んで淡く輝いていた。
「里見、今日から弾き語りをしてもらう七倉榛菜さんだ」
マスターに紹介された女性は、深々と頭を下げた。
「里見陽彦です」
僕は、彼女に釣られるように頭を下げた。
「あれ、そう言えば里見の名前は陽彦か。ハルが二つになったな。縁起いいかも」
マスターはそう言って一人で納得して笑った。
マスターに促されて、榛菜はゆっくりとピアノに向かって歩いた。その姿を見て、僕は彼女の片足が悪い事がわかった。
心の隅で、気の毒な思いと少し残念な気持ちが沸き起こった。
何故なら、彼女の黒々とした丸い瞳と白い肌が、僕の心を確かに捉えたからだった。
それなのに、身体が悪いのか…… 何故そこでガッカリした気持ちになってしまうのか。身体が不自由だとガッカリなのか。
たまたま、怪我をしているだけだろう。
左脚を少し引きずるように歩く彼女の姿は、その華奢な容姿も相まって何だかとても痛々しく僕の目には映った。
クラッシックの聞き覚えのある曲が次々に奏でられ、それが店内の空気を優しく包み込んだ。
アップライトタイプの中では一番大きなサイズのここのピアノは、グランドピアノに近い音色が出るのだと、以前マスターから聞いたことがある。
僕は、仕事の合間に何度も彼女を横目で盗み見た。
ピアノを弾く彼女は力強く、活き活きとしていた。
脚を引きずる痛々しい姿は何処にも無い。
一組のカップルから、歌謡曲のリクエストがあった。
彼女はいとも簡単にそれを弾き熟す。
鍵盤の上を流れるように動く彼女の小さな手を、僕は不思議な気持ちで何度も眺めた。
前にいた女性は、もっと手のひらも指も長くて、いかにもピアノを弾きますという手をしていた。
彼女の小さな手が鍵盤の上で踊る姿は、まるで小さな子供が公園で跳ね回る様子に似ている。
そう、彼女の指はピアノと戯れているのだ。
「里見、こっち上がったぞ」
マスターの声で、僕は意識をフロアへ切り替えた。




