◆第25話◆
この日、僕は聡史の家に久しぶりに行った。
小学校までは同じ学区に住んでいた僕たちは、もちろん当時クラスメイトだった。
僕が中学一年の時に引っ越してしまったのでしばらくは会わなかったが、高校へ入って再び顔を合わせた二人は何かと行動を共にするようになり、僕がバイクに乗るようになると彼の家にも再び遊びに行くようになった。
最近は、バイトや榛菜の事で忙しく、しばらく来ていなかった。
「俺だってなぁ、今度はぜってぇ頭のイイ女捕まえてやる」
聡史はくだを巻きながらほろ酔いになっていた。
彼は理奈と別れたらしい。しかも、別れを切り出してきたのは向こうで、聡史は初めて振られる経験をしたようだ。
僕はバイクで来た為、コーラを飲みながらひたすら彼の話を聞くふりをして、頭の中では榛菜の事を考えていた。
「ところで、お前、ハルちゃんともうしちゃったのか?」
聡史が急に切り出した。
もともと、そんなには飲んでいない。気分を盛り上げるために、サイダーで割ったバーボンと、缶チューハーを一本空けただけだ。
「何だよ、急に」
「まさか、プラトニックとか言うなよ」
「いや、でも彼女脚がさ……」
「そう言えば、あの怪我、全然よくならないな」
彼に悪気は無い。僕だって、彼女の事をよく知らなければ同じ疑問を持つだろう。
「ああ、治り難いんだとさ」
僕は榛菜の脚の事は誰にも言っていない。
彼女に無断で、それを誰かに言ってはいけないような気がしたのだ。
「じゃあ、しゃあねぇな」
聡史は、ウーロン茶をボトルごとゴクゴク飲んで
「治るまで御預けか」
「まあな」
彼女の脚は治らない。治る脚が無いのだ。
この先、彼女と付き合っていけるのだろうか。本当に彼女は、身体の関係を拒まない日が来るのだろうか。
僕に、全てをさらけ出す日が来るのだろうか……
僕がもっと歳を取っていれば、もっと落ち着いて考えられるのかもしれない。
しかし僕は何故か追い立てられるような焦りを感じてしまう。
もっと、他の誰かと適当に経験を重ねた方がいいのではないか。
何も高校生の僕が、身障者一人に関ずらわって貴重な青春を地味に過ごす事は無いのではないかと。
そう思うもう一人の自分がいるのだ。
僕は聡史の家の帰り道、中仙道からハンズの裏を通って池袋を突っ切ろうとした。
ハンズの駐車場の前で、誰かが座り込んでいる。
酔っ払いの女か……
しかし、僕は直ぐにバイクのブレーキを命イッパイ握って止まった。
「恭子……?」
バイクを降りて駆け寄る。
人違いならそれでいい。いや、その方がいい。
しかし、それは紛れも無く橘恭子だった。
立体駐車場のエレベーターの入り口の所で、地べたに座り込んでいた。
キャミソールは捲くれ上がって、スカートも乱れていた。
眼鏡はずり落ちて、かろうじで鼻に引っかかっている。
「恭子、どうしたんだよ」
声を掛けると、彼女は虚ろな目で僕を見上げたが焦点が定まっていない。
僕は、彼女の両肩を掴んで、強く揺すった。
「おい、恭子。俺だ、陽彦だよ」
彼女の口から漏れた唾液が、糸を引くように下に向かって流れた。
……なんだ。何なんだ。これは。
酔っ払っているとかでは無い事が、直ぐに判った。
少しだけ酒の臭いはしたが、こんなになるレベルでは無い。
いったい彼女に何があったのだろうか。
僕は初めて見る光景に、完全にうろたえていた。
恭子は僕の呼びかけに微かに反応はするが、僕自身を認識してはいない。
何処かを見つめる瞳は、魚の死骸のようだった。
クスリ……恭子は、聡史が想像した通りクスリをやっていたのだろうか。少し前からやつれた姿に変貌していったのは、その為だろうか。
ふと足元が濡れている事に気がついた。
その液体は、恭子の座り込んでいる下から流れていた。
こんな…… これが、あの恭子だろうか。少しキツイ眼差しで僕に掃除をサボるなと何時も指図をした彼女の姿だろうか。
僕はどうしていいのか判らずに、高峰さんに電話を入れた。
「救急車呼んだのか?」
「でも、学校に知れたらヤバイよ」
「バカ野郎! 死ぬよりマシだろう」
死ぬ……恭子は死んでしまうのだろうか。
こんなにボロボロになって、弱々しくなって死んでしまうのだろうか。
「今すぐ救急車だ」
怖気づいた僕の気持ちに渇を入れるようなマスターの怒鳴り声が、電話から聞こえた。
僕は、電話を一端切って、直ぐに救急車を呼んだ。
救急車が来る前に、僕は彼女の乱れた衣服を正して、眼鏡を外し、それを自分のポケットにしまった。
到着した救急隊は慌しく恭子をストレッチャーに乗せると、車内へ運び込んだ。
彼女がいた濡れたコンクリートには、座っていた跡がくっきりと残っていた。
「キミも乗って」
救急隊員が僕に声をかけた。
「俺バイクなんで、付いて行きます」
僕はそう言って、TWで救急車の後を追った。
北池の救急病院だったので、直ぐに到着した。
僕がバイクを降りたときには、既に恭子は院内に運び込まれていた。
救急搬送用の入り口付近に、応急処置用の小部屋がある。
恭子はそこへ運び込まれて、医師たちの慌しい声に包まれていた。
僕はいたたまれなくなって、常夜灯だけが灯るほの暗いロビーの椅子に腰を下ろした。
何だか、異常にタバコを吸いたかったが院内は禁煙だし、外へ出る気力もその時の僕には無かった。