◆第22話◆
その夜、僕は榛菜をバイクで家まで送ってから帰宅した。
彼女は弟を死なせる所だったと言ったが、事実は違っていた。
榛菜は弟を助ける為に自分を犠牲にしたのだ。
彼女は自分の左脚と引き換えに、秋夫の命を救ったのだ。
弟の命の対価が、彼女の片脚。それが、高いのか安いのか僕には判らない。
秋夫は覚えていないのだろうか。
五歳という年齢は微妙だ。記憶が曖昧で、驚くほど鮮明に残っている出来事があるかと思えば、全く記憶にない事もある。
僕自身がそうなのだから、彼もそう変わりはないだろう。
彼女は当時小学二年生。そんな幼い姉でも、弟を思う愛はそれほどに大きいのだろうか。
それとも、彼女が特別なのだろうか。
兄弟のいない僕は、秋夫に対する榛菜の愛情が少しだけ羨ましかった。
自分を救うために榛菜が犠牲になった事を知ったら、秋夫は立ち直るだろうか。
いや、自責の念に駆られるだけかもしれない。そうしたら、七倉家にもう一つ苦悩を増やすだけだ。
僕はベッドに横になったまま、点けっ放しのテレビを眺めていた。
何処か遠くで鳴っている救急車のサイレンの音と、それに惹かれて遠吠えをする犬の鳴き声が、カーテンで閉ざされた闇の向こうから聞こえていた。
再び学校の授業が早かったこの日、聡史が新宿で理奈と待ち合わせで、時間が余っていると言うので、僕は久しぶりに新宿まで付き合った。
駅ビルのカジュアルショップでTシャツを買った。
たまにしか来ない新宿は僕には複雑すぎて、あまり駅から離れると戻れなくなりそうだったから、もっぱら駅周辺をブラついて時間を潰す。
アメリカンブルーバードで秋夫を見かけた。
路地の隅で誰かと一緒にタバコを吸っている。
「おい、アイツこの前の」
聡史も彼を見つけて言った。
僕が秋夫に近づこうとすると
「やめとけよ」
聡史は僕の腕を掴んだ。
「でもさ」
「ハルちゃんの弟でも、お前には関係ないだろ」
僕は聡史に促されて、渋々方向を変えた。
僕にしてやれる事は、本当に何もないのだろうか。
聡史と別れて、池袋まで戻って来ると、僕は榛菜と待ち合わせをしていた場所へ向かった。
バイトが休みの今日、僕たちは映画を観て、食事をして、ごく普通のカップルとして時間を過ごした。
人波は常に僕たちを追い越してゆく。
この前彼女と出かけた東京タワーで、僕はかなり彼女の歩くペースに慣れた。今日は松葉杖もあるから、それより少し早いペースで歩ける。
それでもやっぱり、人混みの中で榛菜のペースで歩くのは非常に困難で、出来るだけ周囲の邪魔にならない右端を歩く。
広い歩道では問題は無いが、駅の地下道では時折誰かが肩をぶつけて行く。
これだ…… 亜貴は何時もこんな目に遭っているに違いない。
僕は亜貴に習って、地下道など狭い場所では榛菜を壁際に歩かせ、自分が内側を歩く。
そうしないと、心無い人が榛菜に接触して転倒に繋がる場合があると聞いていた。
彼女と歩いて初めて気がつく事は多い。
今まで自分は自分の都合だけで歩き回っていた。
僕自身も、知らずに怪我人の歩くスペースを妨げたり、時にはぶつかったりしたかもしれない。
健常者、身障者などと認識して周りを見ていなかった。
車椅子や白い杖などは一見してわかりやすいが、松葉杖を着いていない時の榛菜などは、はたから見れば健常者に見えてしまうかもしれない。
だから彼女は通学時、ラッシュの中でも目立つように松葉杖を使うのだそうだ。
「ねえ、何処かで夕飯も食べていこう」
チケットセゾンの前まで来た時に、榛菜が言った。
「家で食べないの?」
「今日お母さん出掛けてるから」
榛菜は笑って
「ほら、あたしのバイトがなければお母さんも自由だし」
「そっか」
僕は辺りを見渡してから
「じゃあ、バイクで出ようか」
「別にいいけど…… 制服のスカートは短いから捲れそうになって恥ずかしいな」
「大丈夫だよ」
僕たちはとりあえず、西武線に乗り込んだ。
車内は帰宅の会社員などでまだ混んでいて、僕はシルバーシートを見つけたが、サラリーマンのオヤジ達が占領していた。
退いてもらおうとすると、榛菜は僕の腕を掴んで「大丈夫だよ」と言った。
僕は、今まで自分がシルバーシートには絶対に座った事が無い事を、少しだけ誇らしく感じた。