◆第21話◆
(中間あらすじ)
陽彦は、榛菜に心惹かれながら恭子と関係を持ってしまった。恭子の事を気に掛けながらも榛菜との付き合いを深めていく陽彦だったが、彼自身、義足を着ける彼女との付き合いに戸惑ってばかり。恭子の方は次第に学校へ来なくなって、何だか表情もどんどん暗くなってゆく◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ある日、デパートで万引き犯の確保に協力した陽彦は、それが榛菜の弟である事を知る。ろくに学校へも行かず街をぶらつく秋夫。そして、陽彦はついに榛菜の口から、彼女が脚を無くした時の真相を聞くことになる。
小学二年生になったばかりの榛菜は、弟の秋夫を連れて買い物へ出かけた。
夕飯のサラダに使うマヨネーズが切れている事に気づいた母親から、急遽お使いを頼まれたのだ。
榛菜は一人で行こうとしたが、まだ五歳の弟が一緒に行くと言ってきかなかったので、榛菜はその手をとって一緒に出かけたのだ。
陽はもう直ぐ沈もうとしていて、空を淡いオレンジ色に焼いていた。その夕日を受けて辺りの景色もほの暗く黄昏色に染まっていた。
当時住んでいた都営団地は、通りの向こうに新しい棟が建つらしく、最近はダンプカーや大型トレーラーが行き来する事が多くなっていた。
「ほら、秋夫。おネェちゃんから離れないでよ」
聞こえているのかいないのか、秋夫は榛菜の手を掴んでいたなと思うと、急に離れて歩道の隅へ掛けて行ったり、そうかと思うと、再び彼女に駆け寄って手を掴んだりしていた。
団地の敷地は広く、その中には買い物を出来る場所はない。
敷地から出て、通りを渡って少し行った信号を渡って、そこにあるコンビニが一番近かった。
西日がほとんど見えなくなると、辺りはかなり暗くなって、それでも街灯の数が多いので歩くのに不便と言うほどでは無かった。
「ほら、秋夫。ちゃんと歩きなさい」
秋夫は相変わらず榛菜の手を引っ張ってみたり、身体ごと寄りかかってきたりと終始忙しなく動いていた。
団地の敷地から向こう側へ渡る横断歩道へ来た時、秋夫が体重を掛けて引っ張っていた手が、突然榛菜から離れた。
捕まえていたものが急に途切れた反動で、秋夫の身体がトトトト……っと歩道からはみ出て車道へ飛び出てしまった。
「秋夫!」
榛菜が声を上げて叱ろうとした時、左折の大型トラックが交差点を横切ってきた。
「ほら、危ない!」
誰かの声がした。
「アキオ!」
榛菜は慌てて秋夫の手を掴んだが、小学二年生の女児にはそれだけで彼を歩道に引き戻せるほどの力は無かった。
榛菜はとっさに自分も車道へ出て、秋夫を庇うようにしながら身体ごと歩道へ突き飛ばした。
一瞬の出来事だった。
彼女に考えて行動する暇など無かった。考えていたら、十t車のトラックを目前にしてそんな行動が出来るわけは無かっただろう。
弟が歩道のはずれに倒れこむのが見えた。
これで大丈夫だ。秋夫は大丈夫だ……
振り返った榛菜の鼻先には、左折して来たトラックがいた。
それは既に絶望的な距離だった。
彼女はとっさに後ろへ仰け反るようにして、そのまま道路に倒れ、転がるようにうつ伏せになった。車高の高いトラックのバンパーは彼女のギリギリ上を通った。
運がよかった。この時だけは……
次の瞬間、榛菜の左脚に大きな物凄い圧力が加わった。
激しい圧力が何なのか、この時榛菜には判らなかった。
彼女は、運良く倒れ込む事によってトラックとの接触を免れた。しかし彼女はトラックに対して垂直に転んだ訳ではなかった。斜めに転びそして転がった為、通過する後輪が左脚を踏み潰してしまったのだ。
痛み…… そんなレベルでは無かった。むしろ、それを通り越して何も感じなかった。
「ギャアァァァァ!」
悲鳴を上げたのは、一番近くで一部始終を見ていた若い主婦だった。
最初に「あぶない」と声を上げた人物だ。
彼女は思わず自分の連れていた子供を強く抱きしめた。
何が何だか判らない秋夫も、只ならぬ周りの状況に、何かが弾けたように泣き出した。
トラック運転手には、秋夫も榛菜の姿も見えてはいなかった。しかし何かを踏んだ異様な感触で、慌てて車を止めた。
通行人の尋常でない悲鳴、そして子供の泣き叫ぶ声で、それがただ事では無い事が直ぐにわかった。
「何だ、どうした……」
慌てて外に出た運転手が見たのは、自分が脚を踏み潰してしまった少女が道路に転がっている姿だった。
救急病院に搬送された榛菜だったが、左脚の膝から下は復元不可能と診断され、潰れた部位は切断を余儀なくされた。
複雑骨折と言うレベルではない。粉砕骨折と、その上タイヤで踏まれた筋肉組織はすべて潰れてしまい、手の施しようが無い状態だった。
片脚を失った榛菜が病室で目覚めた時、両親に最初に言った言葉は
「秋夫は? 無事?」
それだけだった。
七倉家は榛菜が片脚を失って以来、全てが彼女中心で回りだした。母親も、まだ幼かった秋夫の面倒を充分に見てやれたかは定かでない。
努力はした。榛菜に掛かりっきりになっても、何時も秋夫の事を心配した。
最初の頃は纏わりついて無理を言ってダダを捏ねていた秋夫も、次第に何も言わなくなり、小学校に入る頃にはずいぶんとしっかりしてきたと思ったものだった。
しかし、彼なりの寂しさは、心の奥に潜んで消えはしなかったのだ。
そして次第に心を閉ざすようになって、中学に入ると良からぬ仲間と過ごすようになっていった。
足を切断した榛菜は、他の部分の怪我が治るのとは対照的に、元気を無くしていった。身体が自由になれば、それだけ片脚が無いという現実と向き合う頻度が増すのだ。
どんなに体調が回復しても、自由に歩き回る事が出来ないのだから。
父親は、娘の脚が無くなった現実から逃避するかのように仕事に没頭し、病院にもほとんど顔を出さなかった。
医療費など全ての賠償は、運送業者が責任を持つことを承諾したので、治療のお金には困る事は無かった。
父親はただ、脚を無くした娘を受け入れられなかったのだ。
これから大人になって、本当の女になって青春の日々を桜花するはずなのに、こんな身体では結婚どころか恋人だって出来るか判らない。
父親は、榛菜が生まれた頃
「こいつの彼氏が挨拶に来たって、絶対笑顔は見せねぇよ」
そんな冗談を言っては、デレデレと顔を緩ませて笑っていた。
それがどうだ…… 俺に会わせる彼氏だって作れるのかどうか……
榛菜は、明るく元気でとても活発な子供だった。しかし、それでも彼女が自発的にベッドから出て、車椅子に乗るまで二ヶ月かかった。
片脚の無い事を吹っ切るまでには、さらに二ヶ月。
しかし、元の学校への復帰は難しかった。
学校へは松葉杖を着いていかなければならない。体育の授業も受けられない。
そんなストレスを抱えながら、クラスの仲間と過ごす覚悟が必要だった。
そんな時、父親が義足の話を聞いてきて、榛菜の左脚は外見上元に戻った。
榛菜が事故に遭ったのは梅雨入り前の事だったが、彼女が学校へ再び通い出したのは、銀杏の木の葉が黄色くなって、だいぶ枝も寂しくなった頃だった。