◆第13話◆
榛菜が指を怪我してから一週間が過ぎた頃の夕方、彼女がベルリネッタにひょっこりと顔を出した。
「怪我、どうだい?」
「ええ、何とか」
マスターの問いに、榛菜は明るく応えていた。
フロアでテーブルを片付ける僕を見つけると、彼女は小さく手を振って見せた。
何だか今は、彼女がすごく遠くに感じる。
それは、彼女が遠ざかったわけではない。きっと、僕が彼女から遠ざかったんだ。
少しすると、オーディオの音が絞り込まれて、ピアノの音が流れ始めた。
最初は気にならなかった。いや、初めはそうでも無かったのか、今は明らかに音の滑らかさが無い。
僕は、背の高い観葉植物越しに見える彼女の姿を盗み見た。
鍵盤の上を動く指は、何処か力なく頼りないように見えた。
今日の榛菜は、2曲毎に休憩を取っていた。
遅い時間になって祐介が来たので、僕は休憩に入る事ができた。
スタッフルームへ入ると、榛菜は水に濡らしたハンカチで指を冷やしていた。
「指、大丈夫なの?」
「うん。ちょっと痛い」
「無理しなくてもいいんじゃない」
彼女は、再び小さな流しでハンカチを濡らす。
「無理………するよ」
彼女がそう言って見せた笑顔は、何処かいじらしいものだった。
僕は口に運んだコーヒーカップの手を止めて、彼女を見つめていた。
「なんで?」
見つめる僕を、彼女も見つめ返した。
「だって、せっかく必要としてくれる場所があるから」
「でも、完治してからでも大丈夫だろ」
彼女の唇が、途端に震えるのが見えた。
榛菜は僕から視線を逸らすと
「これ以上、誰かに迷惑かけたくないの。自分の身体的な欠陥で迷惑かけたくないんだよ」
彼女の声は震えていた。
その声は、僕の心も振るわせた。
「いや、誰も迷惑には感じてないぜ」
僕は彼女がどうしてそんなにムキになるのかが判らなかった。
「ご、ごめんなさい……あたし……」
「大丈夫だよ」
僕はこの時、彼女はただ生真面目なだけなのだと思っていた。
ただ、責任感が強いだけなのだと思っていた。
「そろそろ、弾くわ」
「まだ休んでていいじゃん」
そう言った僕に、彼女は黙って微笑んだ。
その時、僕の座っていたパイプ椅子に彼女の右足が引っかかった。
「危ない」
僕は横向きに腰掛けていたので、彼女の身体を支えようと慌てて手を差し出したが、それでも間に合わなかった。
僕の手を彼女の腕がすり抜けて、ダンッという音と共に、榛菜は床にひっくり返った。
「大丈夫か?」
慌てて立ち上がった僕は、その時見た。
少しまくれ上がったロングスカートとショートブーツの間に見えた彼女の左脚。
それは生身の色をしていなかった。
金属チックな、いや金属のそのものだ。
体温のない、銀色をしたアルミ合金の脚。
僕の視線を感じてか、彼女は起き上がるより先に、少しまくれたスカートの裾を直した。
僕は、何の言葉も出なかった。
彼女を助け起こす事すら忘れてしまった。
「だから、あたしはこれ以上人に迷惑をかけたくないし、自分の出来る事をまっとうしたいの」
彼女は自分で起き上がると、出口を向いたままそう言った。
そして、ゆっくりとフロアへ出て行った。
彼女の脚は治らない…… 直るべきモノが、最初からそこには無いのだ。
脚が無い…… 片脚が。
彼女はどんな生活の中で生きて来たのだろう。
まだ十六歳だというのに、片脚が無いなんて。
それでもあんなに明るく生きれるものなのだろうか。
いったい何時からなのだろう。
榛菜は、何時から片脚だけになってしまったのか。
普通の人が軽々とこなす事に困難を覚えて、誰かの手を借りなければならない事は多いだろう。
彼女が、これ以上誰かに迷惑をかけたくないと言ったのは、あの片脚以上と言う事なのだ。
あの脚に関する事意外で。という事だ。
そして、あの脚は、これからも確実に誰かの助けを必要とする。
僕は、初めて会ったあの日に訊いてから、脚の事は訊いていない。
何度か訊こうと思いながらも結局脚の事を訊かなかった。普通の怪我として再び尋ねなかった事に、僕はホッとしていた。
それだけが、今の僕の救いだった。
彼女は上がりの時間になると「お疲れ様でした」とだけ言って、先に帰っていった。
僕と祐介が少し後に上がって外へ出た時、ちょうど彼女の母親の車が走り出すところだった。
「ハルちゃん、大丈夫かな」
祐介がポツリと言った。
「なんで?」
「なんか、元気なかったよ」
「ゆ、指が、まだ完全じゃないみたいだよ」
「そうか」
祐介は直ぐに納得した顔をして「じゃあな」
そう言って駅の方へ歩き出した。
僕は、一端跨ったバイクを降りると、再び店の通用口のドアを開けて
「すいません、マスター」