後編
「スエルランダルバ卿は、年上趣味であられますか」
とある会合で、エンチェルクがヤイクから離れるきっかけを作ろうとしていた矢先、前に顔を合わせたことのある商人に捕まった。
顔はこっちを向いているが、声は隣のヤイクに向けられている。
エンチェルクは、曖昧な笑みを浮かべながら、手元の扇を広げ、恥らうフリで顔を半分隠す。
若作りはしてみても、10の年の差を、目の利く人間に隠すことは出来ない。
「いや、そういう訳ではないな。私は、どんな女性でも歓迎だ」
軽すぎる言葉でかわそうとした彼だったが、かえって商人の目が光り輝く。
「年が関係ないとおっしゃるのでしたら、うちの娘はいかがでしょう。二十歳になったばかりでございます。ご迷惑にならないよう、お仕えさせますよ」
ぴく。
エンチェルクは、扇の陰で頬を動かしてしまった。
いま、この商人は、自分の娘をヤイクの愛人にどうかと勧めているのだ。
幸せな結婚相手を探すのではなく、貴族への贈り物にして、より親密な関係を築こうとしているのだろう。
「実は、これまで他の愛人もいたが……この者が嫉妬深く、他の者を全部追い出してしまった。『自分より年下の女性は許せない』と言って、剣まで持ち出すのだからね」
恐ろしいほど強いのだよ。
身に覚えのない罪をなすりつけられながら、エンチェルクは心を無にしていた。
「あ、ああ……そういえば、前に暴漢をドレスで撃退したとか……」
「そう……私の愛人だが、怒ると私でも手がつけられない。怒らなければ、年下のように可愛いのだがね……ほら、嫉妬して怒りかけている」
無の顔を扇で隠していたエンチェルクを、ヤイクは軽く視線で指す。
商人は、慌てて会合の人の中に逃げ込んで行った。
「……」
見事という他ない。
これで、しばらくはヤイクに新しい愛人を勧めようなんて商人は、現れることはないだろう。
「へぇ、東翼長閣下の愛人は、そんなに嫉妬深い方なのですか……だから、まだ奥方を娶れないのですかな」
これで、話は終わるかと思ったのに。
今度は──髪の長い男が、こっちへやってきてしまった。
※
離れるきっかけを失ったまま、エンチェルクは貴族同士の挨拶を見た。
乱入者は、都の貴族の息子だと、そこから分かった。
年は、ヤイクとそう変わらないようだ。
「こんな平民の集まりなら、愛人を伴っても許されますね……さすが『花食い』と呼ばれた方だ。参考になります」
雑談めいた話の中、ちらちらと男は自分を見る。
『花食い』──女の知恵を食らい、己の手柄にするという、ヤイクを皮肉る時の呼び方だ。
余り、いい表現ではない。
ヤイクに、ケンカでも売りに来たのだろうか。
「『どちらか』は、愛人だと思っていましたが……やはり、そうだったのですね……いえ、本当は『両方』ですか?」
ヤイクが珍しく黙っている間に、男は次の言葉を乗せる。
奇妙で、分かりにくい表現だ。
まるで、ここにいる愛人役の自分が、『誰』であるか知っているかのように。
「愛人は『こっち』だな」
いきなり手が伸びて、少し後方のエンチェルクは引っ張られる。
紹介されるというよりは、自分の近くに寄せられただけな気がした。
「『もう一人』の方が、役に立つんじゃありませんか? 年もそう変わらないでしょう?」
話がうっすら、見えてきた気がする。
この男は、自分が誰か知っているのではないか。
他の貴族の目に、留まるような人間でないと分かっているが、ヤイクを軸に調べていけば、決してたどりつけないところではない。
元々、『花食い』の噂の源は──ウメなのだから。
「それなら……『もう一人』は、私がもらってもいいですか? 実は、私も年上は好きなのですよ……私も、『花食い』になってみたいのです」
そして、ついにエンチェルクの中で、それがつながった。
『もう一人』とは、ウメのこと。
この男は、ずっとウメと自分のことを語っていたのだ。
「『あれ』は、武の賢者殿の妻の姉妹でね……手を出すと、相手が貴族だろうが文字通り八つ裂きにされる」
意地の悪い笑みが、ヤイクの顔に浮かぶ。
命が惜しくなければ、やってみろ。
ウメを調べたのならば、キクのことをも調べ済みと考えたのだろう。
前の商人と同じように──貴族も二人の前から逃げて行くこととなった。
※
『もう一人』の方が、役に立つ。
そんなこと、エンチェルクだって分かっている。
あの貴族が言ったように、ウメとエンチェルクはほぼ変わらぬ年だ。
ウメやヤイクの能力を引き継ぐには、年が高すぎてこれから先が細くなっていく。
くだらない男のくだらない話は、彼女にそんな問題提起をしたのだ。
若い者を、子どもを育てなければ、と。
ロジアのように、見知らぬ子を育てるのもあるだろう。
いや。
もっと可能性のある者が、いるではないか。
まだ、これからの時間がある者が。
夕暮れの、帰りの荷馬車の中。
エンチェルクは、ヤイクの方を向き直った。
「差しでがましいことを、言ってもよろしいでしょうか」
彼に向き直り、姿勢を正す。
大事な話なのだと、その気持ちを言葉の前に伝えるために。
「なんだ?」
答えながら、ヤイクは既に自分の話を推理しようとしている。
エンチェルクは、彼が答えを出してしまうより前に、言ってしまおうと思った。
ズバっと。
「結婚、なさいませんか? いいえ、子どもを作られませんか?」
ヤイクの子供ならば、どれほどこの国の為になるだろうと思ったのだ。
それならば、エンチェルクも補佐が出来るのではないか。
ヤイクの為に走れるように、きっとその子のためにも走れるだろう。
彼が、結婚するのが一番いいことに思えた。
しかし、この時のエンチェルクは、常識を踏み越えて考えたのだ。
どんな形でも、いいではないか。
太陽妃を見た。ウメを見た。キクを見た。
形など、何だっていいのだ。
次の種が芽吹き、育つのならば。
ヤイクは、長い間こちらを怪訝な目で見つめた。
その後。
「分かった」
そう言った。
※
ヤイクは──分かっていなかった。
荷馬車から下り二階へ上がり、このドレスから解放されるべく部屋に向かおうとしたエンチェルクは、腕を掴まれたのだ。
「……」
そのまま、ヤイクの部屋の前へと連れて行かれる。
どうしたのだろうか。
言いたいことは、態度ではなく口で言う男だ。
珍しく強引な態度に、「何か?」と問いかけた時には、もう部屋の中だった。
「子どもを作れと言っただろう?」
瞬間。
エンチェルクは、彼の腕を引きはがしていた。
ほとんど反射のなせる技だ。
「私は、『しかるべき方』という意味でお話しました……そのくらい、汲みとられているでしょう?」
まさか。
まさか、子どもを作る相手にエンチェルクを掴むなど、想像だにしていなかった。
そうしたら。
ヤイクは、軽く顎をあげるようにして、エンチェルクを見下ろすのだ。
「私は、種馬か?」
「そんなことは言っておりません」
「では、私にも選ぶ権利がある。私に近く、そしてお前は必ず、子が出来たら産み、この国の為に育て抜くだろう」
睨み合う形で、言葉をぶつけ合う。
「醜聞になります!」
「今更、何の醜聞だ…『花食い』と呼ばれ、『変人貴族』と呼ばれ、お前を愛人として連れまわす私だぞ」
鼻で笑われた。
そんなこと、自分の人生の何の障害にもならないと。
「私はもう40です。とてももう……」
「武の賢者の妻が子を産んだのは、そう昔ではなかったはずだ」
「それは……」
言葉に、詰まった。
「望み通り、子を作ると言っている……身体を貸せ」
ヤイクのその言葉で、エンチェルクの頭の中に──20年前の出来事が甦った。
※
『アルテンリュミッテリオ…私に子供を授けて欲しいの』
死にかけたウメが目を覚まして、今のテイタッドレック卿に言った言葉。
『望み通り、子を作ると言っている……身体を貸せ』
それと、ついさっきヤイクの言った言葉は──同じものに聞こえたのだ。
子は、一人では作れない。
そして。
誰でもいいわけではない。
ウメは、テイタッドレック卿に己を委ねると決めた。
男女が入れ替わったため、分かりにくいはずの類似点は、そのどちらも目の当たりにしたエンチェルクだからこそ分かるもの。
彼は言ったではないか。
『では、私にも選ぶ権利がある。私に近く、そしてお前は必ず、子が出来たら産み、この国の為に育て抜くだろう』、と。
エンチェルクが、子を育てるに適した女であると。
だから、その相手に選んだのだと。
茫然と、彼女は過去と今の光景を交錯させていた。
エンチェルクは、あきらめていた。
もう、自分が子を成すには遅すぎるのだと。
だが。
ウメは。
あきらめたか?
あの弱い身体で、今のエンチェルクよりも遥かに絶望に近い体力の中、ウメはあきらめなかったではないか。
彼女の相手は、次の領主になるべき貴族だった。
いま、エンチェルクの前にいるのは、次の賢者になるべき貴族。
壁が、あるはずだった。
自分とヤイクの間には、高くて越えられない見えない壁があるは──
「……子が出来ては、走れなくなります」
自分のものかと疑うほど、小さく頼りない声が出る。
「その間くらい、なんとかする」
淀みない言葉。
でも本当は、本当はこれを言いたいのだ。
「……怖いです」
暴漢相手にドレスで立ち向かうことは怖くないが、この先にある未来はとても怖かった。
ヤイクは、そんな自分を見つめて、こう答えた。
「……何とかする」
※
ただ、目をぎゅっと閉じている。
ドレスの背中のボタンが、簡単に外されているのを、ただ耐えるしか出来ない。
前に、同じ事をされた時と、話は違うのだ。
あの時は、彼女を苦しめた下着を緩めるためだけ。
だがこれは、彼女から全ての下着を引きはがしてしまう、最初の一歩。
あっ。
ぞわっとした。
彼女の緊張したうなじに、吐息が触れたのだ。
そのまま、柔らかい感触が押しつけられる。
締め付ける下着は、あれ以来していないため、背の開いたドレスから入るヤイクの手が、薄い布ごしに肌に触れる。
そのまま腕が抜かれると、ドレスは腰に引っかかるような動きを見せた後──落ちた。
美しく着飾る物がなくなってしまえば、エンチェルクはただのエンチェルクになってしまう。
こんな頼りない下着姿で、ヤイクの前に立っていられるほど、彼女の心臓は強くはなかった。
素肌の腰からおなかへと回された手が、エンチェルクの背を温める。
身体をぴたりと合わせるように、ヤイクが後ろから抱いてくれるのだ。
髪に、口づけられる。
まるで、恋人にするように。
いや、エンチェルクは愛人役だ。
いまからその『役』が取れるだけ。
世間でいう愛人とは、意味も何もかも違うだろう。
だが、ヤイクは自分の子の母として彼女を選んだ。
面倒くさいことも、醜聞も、未来も全部ひっくるめて。
背中から抱かれる長い時間の間に、少しずつ落ち着く鼓動を知ったのだろうか。
彼は、エンチェルクの腕を自分の腕に絡めさせると、ベッドへと向かい、そしてその中に押し込んだ。
彼を見上げると、上着を放り投げるところだった。
上衣のボタンも外し、腰の飾りサッシュも引き抜く。
さすがに、それ以上は見ていられずに、エンチェルクは反対の方へと寝がえりを打って顔をそむけた。
本当に、いいのだろうか。
往生際の悪い震える心は、ベッドへと入ってきたもう一つの身体が、打ち壊した。
背中から伸びる素肌の手が──エンチェルクを抱いたのだ。
※
エンチェルクが、不安に思ったり心配する暇などなかった。
ヤイクは、政治の手腕と同じほど、女性の扱いに長けている。
長い間、女を忘却の彼方へおしやっていた彼女など、足元にも及びはしない。
身体が自分の制御を離れ、目が回るほどの感覚に突き落とされる。
声を殺しても殺しても吐息と共に溢れ出し、理性の皮がバリバリと音を立てて破られていく。
人が、自分と違う者と肌を重ねる理由を考えることで、自分に言い訳する余裕もなく、自身が泳げないことを知るだけだった。
息の出来ないところに沈んでしまいそうな怖さに、思わずエンチェルクはヤイクの腕を強く掴んでしまった。
「……ッ!」
刀を握って、強くなった握力に掴まれるのだ。
鍛えていない彼が、痛くないはずなどない。
慌てて、手を放す。
「加減し……いや、いい……アザくらいの覚悟はしている」
微かに乱れた息が、上から振ってくる。
彼の目が。
一瞬だけ、切ない色を見せた気がした。
何だろう。
嵐の隙間で、エンチェルクが一瞬そう疑問を閃かせた時。
唇が──触れ合っていた。
下唇をついばむように、何度も何度も口づけられる。
不思議な、感触。
いままでの強制的な感覚ではない、ゆるやかで静かな時間。
そんなものが、自分たちの間にあるはずはないのに、わずかな間だけ訪れた優しい隙間。
だが、隙間はやはり隙間だった。
次の瞬間には、痛みと鈍い感覚をともなう熱が、エンチェルクの身体を、いともあっさりと引き裂いたのだから。
あとはもう。
ただ、目の前の男にしがみつく。
口づけのことなど──思い出すことも出来なかった。
※
エンチェルクが目を覚ました時。
既にヤイクは、燭台の灯りで書類にペンを走らせていた。
その、集中した横顔を、しばらく見つめてしまう。
今日の出来事は、勇気か、はたまた無謀なことか。
おそらく、多くの人は無謀と言うだろう。
少なくとも、エンチェルクは幸せにはなれないのだと。
けれど。
ウメとキクは、微笑んだり笑い飛ばしたりしてくれそうだった。
『馬鹿ね』
『馬鹿だなぁ』
二人の笑い声は、簡単に頭の中を流れる。
それに、ふっと笑いそうになってしまった時。
ヤイクの視線が、こちらを見た。
「起きられるか?」
彼らしい一言だ。
心配ではなく、確認。
「はい」
起き上がろうとしたが、上掛けから出てくるのは自分の裸体。
顎を巡らせて着る物を探しかけたが、そうするまでもなかった。
ドレスが、ベッドの端にかけてあったのだ。
だが、こんなぐしゃぐしゃの頭で、もう一度これを着て部屋に戻らなければならないのか。
下着をつけながら、どうすべきか考えていたら。
「服は、これを着ろ。その胸なら、収まるだろう」
ヤイクが、いつもエンチェルクの座るデスクの向かいの席を差す。
椅子に、彼の部屋着がかけてあるようだ。
そこまで、下着姿で来いというのだろうか。
エンチェルクは、だるい身体を持ち上げて、ベッドから出て歩き出した。
彼は、書類に目を落としている。
そんな彼の目の前で、エンチェルクは上衣のボタンを止め、ズボンをはき、サッシュを結ぶ。
頑張って鍛えた身体が、いともあっさりと収まり、なおかつ余ってしまう服。
鍛えていない男のものであっても、これほど違うのだ。
微妙な感慨を振り払い、袖を折り曲げながら、エンチェルクが彼の方へ視線を向けると。
彼は、こちらを見ていた。
いつから──見ていたのだろうか。
※
そして、エンチェルクは──仕事や会合の隙間に、ヤイクに身を預けることとなった。
決意と覚悟のその時間を、そんな重いものではないのだと言わんばかりに、情欲的なものに塗り替えられ、自己嫌悪に陥る時もある。
子供さえ出来れば、この時間も終わるはずなのだが、兆候はいまだなく、彼が飽きないのが不思議なほど繰り返される。
他に変わったことは。
飛脚問屋まで、走って書類を受け取りに行く役目は、他の使用人になった。
会合用のドレスは、胸元が開かないものになった。
それくらいか。
真夜中過ぎまで、向かい合って仕事をするのは変わらない。
そうして、時は一日ずつ確実に流れていく。
ついに、学術都市の計画が、着工することになった。
イデアメリトスお墨付きの事業に、飛脚問屋を中心とした大商人や貴族から多くの出資があり、基金が目標額に到達したのである。
その出資者の一人に、ハレの名があった。
「ハレイルーシュリクス殿下が、学術都市の長になることが決まった」
太陽にならないことを選んだ彼は、テルと別の道を歩いて行くのだ。
町を作るための、人夫の募集も始まった。
大量の木材や石材などの建築資材が、周辺地域から集まり始める。
それにより──国中に、これまでより更に貨幣が回るようになった。
新しい事業は、新しい仕事を作り、これまでの仕事量を増やし、その対価が一般市民に支払われるからだ。
その貨幣により、多くの物が売れ始める。
特に、贅沢品の売り上げに、顕著に表れ始めている。
飛脚問屋を営む布問屋など、会合で会う度に満面の笑顔だった。
この国は、建国以来初めてとも言える、『好景気』なるものに直面したのだ。
昔、ウメに聞いた言葉だと、ヤイクが語ってくれた。
物と情報の流れが速くなり、人々は賢く働けるようになる。
そんな、希望あふれる未来に向かう時の中を、彼女はヤイクと共に過ごすこととなるのだ。
エンチェルクは、この国を愛した。
女の身を、ヤイクという名の向こうにある国に捧げるほど──深く強くこの国を愛したのだ。