中編
会合というより、もはやパーティだった。
都の凱旋祭の余波で、その貸し切られた酒場には、多くの商人と、名も知れぬ女性たちでごったがえしている。
あっと思う暇もなく、人の多さでヤイクと離れ離れになってしまう。
ふぅ。
何をすべきかは、既に頭に入っている。
ここで聞いたことを、代わりに頭の中に詰め込んで帰らなければならない。
うずたかく積まれた書類よりも、大事な集まりなのだ。
エンチェルクは、とりあえず扇を開き、顔を隠すようにしながら、周囲を見回した。
数人、髪の長い男が混じっている。
ヤイクのような酔狂な貴族でなくとも、商人に出資している者もいるだろうし、情報を得たい者もいるのだろう。
ただし、彼らは皆、ヤイクのように若い。
考え方の柔らかい、あるいは商売っ気のある貴族の子らだと、エンチェルクは判断した。
そんな中。
ひときわ色白で、灰色がかった髪の男を見つける。
瞬間的に、レチを思い起こさせた。
北国の商人だろうか。
すすすっと、彼女は男の方へと近づいて行く。
さあ。
扇の内側で、深呼吸をひとつ。
仕事をするのだ。
そのために、こんな仮装の限りを尽くしたのだから。
「あら……私の知り合いと、同じ髪の色ですのね」
心の中に、ロジアを思い浮かべる。
引きつりそうになる顔は、扇で隠しながら、エンチェルクは目を伏せながら、彼に語りかけた。
「同じ髪の色? それは……きっと女性でしょう?」
男が、面白いほど反応する。
エンチェルクの予想以上に。
笑え、笑え。
ロジアのように笑え。
彼女は、必死であの艶然とした笑みを再現しようと、努力の限りを尽くしたのだった。
※
ゆっくりと、北の男と会話が出来た。
ヤイクの指示通りに、酒に唇をつけ、適当に食事をするフリをした。
本当に食べてもいいのだが、締め付ける下着が不慣れすぎて、何も胃袋に収めたくないのが正直なところ。
次は、リリューと同じ灰色がかった肌の商人へと近づく。
見た目で、どこの人間か分かるのは、本当に助かることだ。
これも、レチとリリューという見本のおかげである。
彼らがいなければ、おそらくエンチェルクは、これほどスムースに目標を定めることは出来なかっただろう。
今度の男は、北国の男よりももっと接触好きだった。
ほぼ年齢が変わらないくらいだろうが、やたらと身体に触れられ、エンチェルクは自制心の限りを尽くしながら、にこやかに会話を楽しんでいるフリをする。
「ロジア様さえ、お亡くなりにならなければなぁ」
そう、言葉にされた時は、腕に触れられていたことも忘れて、沈痛な気分になってしまった。
もはや、彼女は自由だ。
しかし、あまり自由すぎると、ユッカスに代わるトップが入り込んでしまった時、再び操りの糸を垂らされてしまうかもしれない。
かの町の人たちには悪いが、エンチェルクは彼女の情報を胸のうちに留めた。
孤児院も寺子屋も、彼女がいなくなった後、領主によりつつがなく運営されていると聞き、ホッともする。
ロジアが基盤を作り上げていたおかげで、円滑に領主に引き継がれたというのだ。
おそらく、ヤイクが何らかの根回しはしているだろうが。
それから、かなり長い間、港町の商人と話をした。
ロジアに同情めいた表情を浮かべた彼女に、男はすっかり気を良くしてしまったようだ。
やたらと酒を勧められ、断るのが大変になってくる。
慣れない下着の窮屈さが、だんだん苦痛になってきた。
だが、仕事だ。
泣き言を言っている場合ではない。
もっと情報を。
エンチェルクは、扇を最大限活用しながら、己の未熟なところを隠しながら、商人の間を渡り歩いた。
下着のせいで食べ物も食べる気にはなれず、付き合いの酒を少しだけ飲む。
本当に、扇があってよかった。
彼女はすっかり、具合が悪くなってしまったのだ。
※
大丈夫。
エンチェルクは、扇を持つ手に力を込めた。
少々具合が悪くとも、彼女の肌は褐色で、それは人には分かりづらい。
この仕事を、しっかりとやり遂げるのだ。
ウメならば、そうする。
彼女は弱い身体であるにもかかわらず、最大限に働き、そしてついにはモモまで産み落としたではないか。
ウメの苦労や苦痛に比べれば、こんなちょっとした具合の悪さなど、何ということもない。
勧められる酒に、唇をつけるフリだけをし、微笑み、語り、笑う。
こんなこと、何でもな──
「失礼……」
すぐ後ろから、男の声がした。
知っている声だ。
「ここにいたのか……おしゃべり好きなのはいいが、長い間離れ過ぎだ」
すうっと、引き寄せられる。
腰に手が、回っていた。
知っている声なのだが、知っている言葉ではない。
それが自分に向けられているなど、到底考えられないほど。
肩越しに振り返ると、間違いなくヤイクがいた。
この男は、いったい何を言っているのだろうか。
軽く酔いの回った頭で考えて、答えにたどり着く。
ああ、そうか、と。
自分は、ヤイクの愛人役だったのだ。
「そろそろ、失礼させてもらう……また是非、皆さんとは会いたいものだな」
彼女の側にいた商人たちに、ヤイクは穏やかに笑いかけた後。
エンチェルクの腰を抱いたまま、彼は酒場の外へと出たのだった。
目的は達成された、ということか。
屋敷へ戻るようだ。
荷馬車の幌の中で、エンチェルクはほっとした。
仕事は無事終わり、ようやくこの格好から解放されるのだ。
そう思っていたら。
「何も食べずに、酒を飲む馬鹿がいるか」
いきなり──頭ごなしにダメ出しが入ったのだった。
※
「ほとんど、飲んではいません」
動く荷馬車の中で、エンチェルクは反論した。
この酔いは、確かに空腹で飲酒をしたせいだろう。
しかし、仕事をおろそかにしたわけではない。
「じゃあ、最初から体調でも悪かったのか? 朝から素振りをする余裕はあったようだがな」
皮肉が痛い。
朝に見たあの人は、やはりヤイクだったのか。
「きちんと眠りましたし、影響を出すような身体の使い方もしていません」
朝の素振りには、一寸の罪もない。
罪があるのは。
「では、何故そんな具合の悪そうな顔色をしている」
「……」
「自己管理がなっていないのか?」
男には分からない苦しみを、今もなお強いられているエンチェルクにとって、それはトドメの一言だった。
昔の自分ならば、ここで全てを諦めただろう。
分かってもらうことなど、出来はしないのだと。
うつむいて、言葉を殺して、ただヤイクの暴言が通り過ぎるのを待てばいい。
だが、エンチェルクはそんな自分と、別れを告げたのだ。
この男を信じて、ウメと離れてここまで来たではないか。
「……です」
しかし、言葉にするには余りに屈辱的なものでもある。
彼女の言葉は、具合の悪さと酔いと、真実を告げる苦痛の中で震えた。
「何だ?」
聞こえん、とヤイクが眉間にシワを寄せる。
そういう顔を見ると、逆に安心した。
子どもの頃の、彼がその中にはいるのだ。
他の女性に向ける美しい言葉の羅列も、優しい表情もそこにはない。
女性として見られていない相手ならば、言ったところで何の恥になろうか。
「下着にしめつけられて、痛くて苦しいんです」
正々堂々、とまではいかないが、息を吐きながらエンチェルクは、はっきりと彼の質問に答えたのだ。
ヤイクの眉間のシワが──なお濃くなった。
※
「あの使用人が、完璧主義者なのはよく分かった」
荷馬車の中。
ヤイクは頭を打たないように立ち上がると、エンチェルクの背後に回る。
あっと思った時には、背中のボタンをはずされていた。
「……!」
抗議の声をあげようとしたが、下着に強く反逆される。
その間にも、淀みなく外されていくボタン。
何もためらいも、迷いもない。
女慣れしているヤイクのことだ。
こんなこと、何でもないのだろう。
馬鹿馬鹿しい情けなさの中、胸と腹部を激しく締め付けていたものから、ふっと解放される。
下着の背中の紐が、どうやら解かれたようだ。
彼にとって自分は、女であって女でない。
女であるこの身さえも、目的のために使うことの出来る雑用。
「助かりました、ありがとうございます…けれど、北と港の話はちゃんと聞いてきました」
ようやく、呼吸を自分のものにした気がする。
「……」
背後のヤイクが黙り込むと、気になった。
何か、考え事でもしているのだろうか。
「報告は、ここでしますか?」
沈黙は、もはや好きではない。
昔を思い出してしまうから。
会話を許されないと思っていた頃。
「屋敷でいい」
一呼吸、あいた後の返事。
その手は、緩めた下着をそのままに、ドレスの背のボタンを詰めてくれる。
「分かりました」
ふーっと息を吐いて、エンチェルクは自分の中の酒を追い払おうとした。
「次はもっとうまくやります」
今日の自分は、話こそいろいろ聞けたものの、とても及第点はつけられなかった。
しかし、こんなことでヤイクに能無しだと思われたくなく、反省して次に生かそうと思ったのだ。
返事は──ため息だった。
※
エンチェルクは、ドレスを脱ぎ捨てた。
髪飾りや、ネックレスを外す。
髪と化粧は、いますぐ取り払う必要を感じず、そのままで普通の衣服へと着替える。
はきつぶした靴。
姿見の中の自分は、随分とアンバランスだ。
顔の周辺だけ、華やかなのだ。
今日くらいは、これでも許されるだろうと思いながら、エンチェルクは部屋を出た。
ヤイクのところへ、報告に行くのだ。
彼が、どんな格好であっても、仕事の話は出来る。
自分と違って、貴族の服装に不慣れなはずなどないのだから。
ノッカーを鳴らすと、誰かも問いかけずに「入れ」とだけ言う。
扉を開けると、彼は上着一枚を脱いだだけで、もう書類に目を落としていた。
ちらと、こちらに視線を投げると、目を細める。
「首飾りはどうした」
いきなり、奇妙なことを言うものだ。
「外してきました」
そんなもの、仕事には何の関係もないというのに。
「あれは、母のものじゃない。つけておけ」
「意味が分かりません」
何を言っているのか。
あんなもの、平民がつけるものではない。
ヤイクは──書類をデスクへと叩きつけるように置いた。
エンチェルクは、びくりともせず彼を見る。
「貴族には貴族の都合がある。お前は、私の愛人だと今日、商人たちに知れ渡った。一部の貴族も知っただろう。愛人に、装飾品ひとつ贈らぬ男だと思われるのは、私の甲斐性が疑われる」
疑われるのは甲斐性ではなく、愛人という事実だろう。
エンチェルクは、できるだけ冷静に彼の言葉の裏側を見た。
それを疑われては、今後の情報収集に支障が出るということか。
「では、必要な間、お預かりします」
「そうしろ」
この話は、ここで終わりだった。
※
めまぐるしい日々が始まった。
彼が不在の間や夜は、ひたすら書類の整理に追われ、時折着飾らせて連れ回される。
扇と、ロジアという手本のおかげで、少しずつエンチェルクは仮装にも慣れていった。
書類の中に、学術都市の話が大量に出てきた頃。
彼女は、ヤイクに言葉でやり込められながらも、多くのことを考え、そしてアイディアを語るようになった。
数多くの却下の中の、ひとつかふたつが採用される程度ではあったが、エンチェルクは走り回る以外の仕事に埋もれていった。
それでも、朝の素振りは欠かさないし、刀の手入れもする。
一度、会合の帰りに暴漢に襲われた。
ヤイクめがけて振り下ろされる剣を、エンチェルクは持ち上げたドレスで、その腕ごと巻き取って、ひねり倒したのだ。
ドレスはダメになってしまったが、奪った剣で撃退できた。
「御母上のドレスを……申し訳ありませんでした」
「いい」
そんな短いやりとりの後、エンチェルクは彼にいくつかのドレスを贈られた。
おそらく、母のドレスをこれ以上、駄目にされたくなかったのだろう。
デスクの向こうとこっち。
ひたすら二人で、紙の上にペンを走らせている真夜中。
エンチェルクは、手を動かしながらふと彼に聞いてみた。
「結婚はされないのですか?」
言葉に、向かいのペンが止まる。
「……」
沈黙されたので、顔を上げたら──睨まれていた。
「お前は、結婚はしないのか?」
反撃は、爆弾級。
もはや、行き遅れではすまない年の自分には、笑い話のような質問ではないか。
「行き……そびれました」
困った笑みを浮かべたら、ヤイクはニヤっと笑った。
「行きそびれるとはいい言葉だな…では、私も『もらいそびれる』こととするか」
再び、ペンは動き始める。
エンチェルクは──ここが笑うべきところかどうか、しばらく考えなければならなかった。