表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

中編

 会合というより、もはやパーティだった。


 都の凱旋祭の余波で、その貸し切られた酒場には、多くの商人と、名も知れぬ女性たちでごったがえしている。


 あっと思う暇もなく、人の多さでヤイクと離れ離れになってしまう。


 ふぅ。


 何をすべきかは、既に頭に入っている。


 ここで聞いたことを、代わりに頭の中に詰め込んで帰らなければならない。


 うずたかく積まれた書類よりも、大事な集まりなのだ。


 エンチェルクは、とりあえず扇を開き、顔を隠すようにしながら、周囲を見回した。


 数人、髪の長い男が混じっている。


 ヤイクのような酔狂な貴族でなくとも、商人に出資している者もいるだろうし、情報を得たい者もいるのだろう。


 ただし、彼らは皆、ヤイクのように若い。


 考え方の柔らかい、あるいは商売っ気のある貴族の子らだと、エンチェルクは判断した。


 そんな中。


 ひときわ色白で、灰色がかった髪の男を見つける。


 瞬間的に、レチを思い起こさせた。


 北国の商人だろうか。


 すすすっと、彼女は男の方へと近づいて行く。


 さあ。


 扇の内側で、深呼吸をひとつ。


 仕事をするのだ。


 そのために、こんな仮装の限りを尽くしたのだから。


「あら……私の知り合いと、同じ髪の色ですのね」


 心の中に、ロジアを思い浮かべる。


 引きつりそうになる顔は、扇で隠しながら、エンチェルクは目を伏せながら、彼に語りかけた。


「同じ髪の色? それは……きっと女性でしょう?」


 男が、面白いほど反応する。


 エンチェルクの予想以上に。


 笑え、笑え。


 ロジアのように笑え。


 彼女は、必死であの艶然とした笑みを再現しようと、努力の限りを尽くしたのだった。



 ※



 ゆっくりと、北の男と会話が出来た。


 ヤイクの指示通りに、酒に唇をつけ、適当に食事をするフリをした。


 本当に食べてもいいのだが、締め付ける下着が不慣れすぎて、何も胃袋に収めたくないのが正直なところ。


 次は、リリューと同じ灰色がかった肌の商人へと近づく。


 見た目で、どこの人間か分かるのは、本当に助かることだ。


 これも、レチとリリューという見本のおかげである。


 彼らがいなければ、おそらくエンチェルクは、これほどスムースに目標を定めることは出来なかっただろう。


 今度の男は、北国の男よりももっと接触好きだった。


 ほぼ年齢が変わらないくらいだろうが、やたらと身体に触れられ、エンチェルクは自制心の限りを尽くしながら、にこやかに会話を楽しんでいるフリをする。


「ロジア様さえ、お亡くなりにならなければなぁ」


 そう、言葉にされた時は、腕に触れられていたことも忘れて、沈痛な気分になってしまった。


 もはや、彼女は自由だ。


 しかし、あまり自由すぎると、ユッカスに代わるトップが入り込んでしまった時、再び操りの糸を垂らされてしまうかもしれない。


 かの町の人たちには悪いが、エンチェルクは彼女の情報を胸のうちに留めた。


 孤児院も寺子屋も、彼女がいなくなった後、領主によりつつがなく運営されていると聞き、ホッともする。


 ロジアが基盤を作り上げていたおかげで、円滑に領主に引き継がれたというのだ。


 おそらく、ヤイクが何らかの根回しはしているだろうが。


 それから、かなり長い間、港町の商人と話をした。


 ロジアに同情めいた表情を浮かべた彼女に、男はすっかり気を良くしてしまったようだ。


 やたらと酒を勧められ、断るのが大変になってくる。


 慣れない下着の窮屈さが、だんだん苦痛になってきた。


 だが、仕事だ。


 泣き言を言っている場合ではない。


 もっと情報を。


 エンチェルクは、扇を最大限活用しながら、己の未熟なところを隠しながら、商人の間を渡り歩いた。


 下着のせいで食べ物も食べる気にはなれず、付き合いの酒を少しだけ飲む。


 本当に、扇があってよかった。


 彼女はすっかり、具合が悪くなってしまったのだ。



 ※



 大丈夫。


 エンチェルクは、扇を持つ手に力を込めた。


 少々具合が悪くとも、彼女の肌は褐色で、それは人には分かりづらい。


 この仕事を、しっかりとやり遂げるのだ。


 ウメならば、そうする。


 彼女は弱い身体であるにもかかわらず、最大限に働き、そしてついにはモモまで産み落としたではないか。


 ウメの苦労や苦痛に比べれば、こんなちょっとした具合の悪さなど、何ということもない。


 勧められる酒に、唇をつけるフリだけをし、微笑み、語り、笑う。


 こんなこと、何でもな──


「失礼……」


 すぐ後ろから、男の声がした。


 知っている声だ。


「ここにいたのか……おしゃべり好きなのはいいが、長い間離れ過ぎだ」


 すうっと、引き寄せられる。


 腰に手が、回っていた。


 知っている声なのだが、知っている言葉ではない。


 それが自分に向けられているなど、到底考えられないほど。


 肩越しに振り返ると、間違いなくヤイクがいた。


 この男は、いったい何を言っているのだろうか。


 軽く酔いの回った頭で考えて、答えにたどり着く。


 ああ、そうか、と。


 自分は、ヤイクの愛人役だったのだ。


「そろそろ、失礼させてもらう……また是非、皆さんとは会いたいものだな」


 彼女の側にいた商人たちに、ヤイクは穏やかに笑いかけた後。


 エンチェルクの腰を抱いたまま、彼は酒場の外へと出たのだった。


 目的は達成された、ということか。


 屋敷へ戻るようだ。


 荷馬車の幌の中で、エンチェルクはほっとした。


 仕事は無事終わり、ようやくこの格好から解放されるのだ。


 そう思っていたら。


「何も食べずに、酒を飲む馬鹿がいるか」


 いきなり──頭ごなしにダメ出しが入ったのだった。



 ※



「ほとんど、飲んではいません」


 動く荷馬車の中で、エンチェルクは反論した。


 この酔いは、確かに空腹で飲酒をしたせいだろう。


 しかし、仕事をおろそかにしたわけではない。


「じゃあ、最初から体調でも悪かったのか? 朝から素振りをする余裕はあったようだがな」


 皮肉が痛い。


 朝に見たあの人は、やはりヤイクだったのか。


「きちんと眠りましたし、影響を出すような身体の使い方もしていません」


 朝の素振りには、一寸の罪もない。


 罪があるのは。


「では、何故そんな具合の悪そうな顔色をしている」


「……」


「自己管理がなっていないのか?」


 男には分からない苦しみを、今もなお強いられているエンチェルクにとって、それはトドメの一言だった。


 昔の自分ならば、ここで全てを諦めただろう。


 分かってもらうことなど、出来はしないのだと。


 うつむいて、言葉を殺して、ただヤイクの暴言が通り過ぎるのを待てばいい。


 だが、エンチェルクはそんな自分と、別れを告げたのだ。


 この男を信じて、ウメと離れてここまで来たではないか。


「……です」


 しかし、言葉にするには余りに屈辱的なものでもある。


 彼女の言葉は、具合の悪さと酔いと、真実を告げる苦痛の中で震えた。


「何だ?」


 聞こえん、とヤイクが眉間にシワを寄せる。


 そういう顔を見ると、逆に安心した。


 子どもの頃の、彼がその中にはいるのだ。


 他の女性に向ける美しい言葉の羅列も、優しい表情もそこにはない。


 女性として見られていない相手ならば、言ったところで何の恥になろうか。


「下着にしめつけられて、痛くて苦しいんです」


 正々堂々、とまではいかないが、息を吐きながらエンチェルクは、はっきりと彼の質問に答えたのだ。


 ヤイクの眉間のシワが──なお濃くなった。



 ※



「あの使用人が、完璧主義者なのはよく分かった」


 荷馬車の中。


 ヤイクは頭を打たないように立ち上がると、エンチェルクの背後に回る。


 あっと思った時には、背中のボタンをはずされていた。


「……!」


 抗議の声をあげようとしたが、下着に強く反逆される。


 その間にも、淀みなく外されていくボタン。


 何もためらいも、迷いもない。


 女慣れしているヤイクのことだ。


 こんなこと、何でもないのだろう。


 馬鹿馬鹿しい情けなさの中、胸と腹部を激しく締め付けていたものから、ふっと解放される。


 下着の背中の紐が、どうやら解かれたようだ。


 彼にとって自分は、女であって女でない。


 女であるこの身さえも、目的のために使うことの出来る雑用。


「助かりました、ありがとうございます…けれど、北と港の話はちゃんと聞いてきました」


 ようやく、呼吸を自分のものにした気がする。


「……」


 背後のヤイクが黙り込むと、気になった。


 何か、考え事でもしているのだろうか。


「報告は、ここでしますか?」


 沈黙は、もはや好きではない。


 昔を思い出してしまうから。


 会話を許されないと思っていた頃。


「屋敷でいい」


 一呼吸、あいた後の返事。


 その手は、緩めた下着をそのままに、ドレスの背のボタンを詰めてくれる。


「分かりました」


 ふーっと息を吐いて、エンチェルクは自分の中の酒を追い払おうとした。


「次はもっとうまくやります」


 今日の自分は、話こそいろいろ聞けたものの、とても及第点はつけられなかった。


 しかし、こんなことでヤイクに能無しだと思われたくなく、反省して次に生かそうと思ったのだ。


 返事は──ため息だった。




 ※



 エンチェルクは、ドレスを脱ぎ捨てた。


 髪飾りや、ネックレスを外す。


 髪と化粧は、いますぐ取り払う必要を感じず、そのままで普通の衣服へと着替える。


 はきつぶした靴。


 姿見の中の自分は、随分とアンバランスだ。


 顔の周辺だけ、華やかなのだ。


 今日くらいは、これでも許されるだろうと思いながら、エンチェルクは部屋を出た。


 ヤイクのところへ、報告に行くのだ。


 彼が、どんな格好であっても、仕事の話は出来る。


 自分と違って、貴族の服装に不慣れなはずなどないのだから。


 ノッカーを鳴らすと、誰かも問いかけずに「入れ」とだけ言う。


 扉を開けると、彼は上着一枚を脱いだだけで、もう書類に目を落としていた。


 ちらと、こちらに視線を投げると、目を細める。


「首飾りはどうした」


 いきなり、奇妙なことを言うものだ。


「外してきました」


 そんなもの、仕事には何の関係もないというのに。


「あれは、母のものじゃない。つけておけ」


「意味が分かりません」


 何を言っているのか。


 あんなもの、平民がつけるものではない。


 ヤイクは──書類をデスクへと叩きつけるように置いた。


 エンチェルクは、びくりともせず彼を見る。


「貴族には貴族の都合がある。お前は、私の愛人だと今日、商人たちに知れ渡った。一部の貴族も知っただろう。愛人に、装飾品ひとつ贈らぬ男だと思われるのは、私の甲斐性が疑われる」


 疑われるのは甲斐性ではなく、愛人という事実だろう。


 エンチェルクは、できるだけ冷静に彼の言葉の裏側を見た。


 それを疑われては、今後の情報収集に支障が出るということか。


「では、必要な間、お預かりします」


「そうしろ」


 この話は、ここで終わりだった。



 ※



 めまぐるしい日々が始まった。


 彼が不在の間や夜は、ひたすら書類の整理に追われ、時折着飾らせて連れ回される。


 扇と、ロジアという手本のおかげで、少しずつエンチェルクは仮装にも慣れていった。


 書類の中に、学術都市の話が大量に出てきた頃。


 彼女は、ヤイクに言葉でやり込められながらも、多くのことを考え、そしてアイディアを語るようになった。


 数多くの却下の中の、ひとつかふたつが採用される程度ではあったが、エンチェルクは走り回る以外の仕事に埋もれていった。


 それでも、朝の素振りは欠かさないし、刀の手入れもする。


 一度、会合の帰りに暴漢に襲われた。


 ヤイクめがけて振り下ろされる剣を、エンチェルクは持ち上げたドレスで、その腕ごと巻き取って、ひねり倒したのだ。


 ドレスはダメになってしまったが、奪った剣で撃退できた。


「御母上のドレスを……申し訳ありませんでした」


「いい」


 そんな短いやりとりの後、エンチェルクは彼にいくつかのドレスを贈られた。


 おそらく、母のドレスをこれ以上、駄目にされたくなかったのだろう。


 デスクの向こうとこっち。


 ひたすら二人で、紙の上にペンを走らせている真夜中。


 エンチェルクは、手を動かしながらふと彼に聞いてみた。


「結婚はされないのですか?」


 言葉に、向かいのペンが止まる。


「……」


 沈黙されたので、顔を上げたら──睨まれていた。


「お前は、結婚はしないのか?」


 反撃は、爆弾級。


 もはや、行き遅れではすまない年の自分には、笑い話のような質問ではないか。


「行き……そびれました」


 困った笑みを浮かべたら、ヤイクはニヤっと笑った。


「行きそびれるとはいい言葉だな…では、私も『もらいそびれる』こととするか」


 再び、ペンは動き始める。


 エンチェルクは──ここが笑うべきところかどうか、しばらく考えなければならなかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ