表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

前編

 自分の足で、貴族の屋敷へと向かう。


 一番最初の最初、エンチェルクは紹介状を持って、テイタッドレック卿の屋敷の前に立ったのだ。


 次は、その子息に連れられて、イエンタラスー夫人のところへ。


 だが、どちらも使用人としての訪問だった。


 これは──少し違うのだと、そう肌が理解していた。


 昔の自分であれば、間違いなく使用人の気持ちだっただろう。


 いまのエンチェルクは、最低でも彼の雑用係くらいの気持ちはあった。


 彼が命じる雑用であれば、きっとこの身の血肉になってくれる。


 それを、少しずつ吸い上げて、自分を作っていけばいいのだ。


「スエルランダルバ卿に呼ばれて参りました、エンチェルクイーヌルトと申します」


 ノッカーを鳴らし、ヤイクを貴族としての名で呼ぶ。


 これまで、彼の名を呼ぶことはほとんどなかった。


 身分に差があっても呼ぶことは出来るが、ヤイクはそれを望んでいないだろうと思っていた。


 もう、そうではないと分かっている。


 全てが自然に動かせるようになったわけではないが、彼の側にいたとしても窒息するようなことはない。


「万事、伺っております」


 腰の刀と。着替えの入った荷物ひとつ。


 そんな出で立ちのエンチェルクは、この屋敷の使用人に恭しく迎えられた。


 部屋へ、案内される。


 普通の客間だった。


 それは、貴族にとっての客人を迎え入れるための、ごくごく普通のものだ。


 使用人部屋でもいいと思いかけて、エンチェルクはそれを遠くへ追いやった。


 これは、ヤイクの自分に対する正当な評価か、あるいは、この部屋に見合うだけの仕事をしろと言っているのだろう。


 受けて立たねばならない。


 どんな相手でも受けて立った、いい見本の側に自分はずっといたではないか。


 彼女と、同じものになる必要はない。


 同じ根元があれば──それでいいのだ。



 ※



 エンチェルクが、部屋で一息ついていた頃、ノッカーが鳴った。


 使用人が、ヤイクからの呼び出しを伝えに来くる。


 案内されながら、微かに自分の動悸が速くなるのを、うまく抑えられない。


 自分に、間違いはないだろうか。


 正しい道を、通れているだろうか。


 考えることは、山ほどある。


 だが、もはや覚悟を決めるしかない。


 彼の部屋のノッカーが鳴らされ、使用人が「お客様をお連れいたしました」という。


 そう、自分はかの男の客なのだから。


 扉が開くと。


 ヤイクはソファに腰掛けて、こちらを見ていた。


 優雅なお茶の時間かと思いきや、彼の後ろにあるデスクの上には書類が山積みだ。


 悠長に、お茶をする暇もないだろう。


「スエルランダルバ卿…手紙を拝見してお伺い致しました」


 本人を目の前にし、揺らぎそうになる覚悟を無理やりに踏みつけて、文句ひとつつけようのない挨拶を送る。


 ヤイクは、そんな自分を目を細めるようにして見ていた。


「よく来た……座れ」


 心が──跳ねる。


 即座に抱え込んで抑える。


 彼は、普通にねぎらっただけだ。


 こんなことは、何でもないではないか。


 案内してきた使用人のように、彼女を扉の側に立たせておきたいわけではないのだから。


「失礼致します」


 ヤイクの、真正面に座る。


 踏みつけた覚悟と、抱き込んだ心と。


 エンチェルクは、身の内で手と足の両方を既に使っている。


 今度違うものが暴れた時、何を持って自分を律すればいいのだろう。


 自分用のお茶が、使用人により振舞われるのを、彼女はただじっと待った。


 それらが全て終わり、話が出来る環境になると。


 ヤイクが。


 言った。


「下がれ」、と。


 使用人は出て行ってしまい──二人きりになった。



 ※



「……」


 挨拶を済ませてしまうと、エンチェルクから話しかけることを思いつかなかった。


 ヤイクから、今後の話があるのだろう。


 それを待っていたら、意外な一言が投げられた。


「お茶を飲むのに、許可はいらないぞ」


 エンチェルクは、別にお茶が飲みたくてここに来たのではない。


 それより大事な話があるから、呼んだのではないか。


 反論したい気持ちもあったが、そこをどう言葉にするか考えていたら、無駄な時間になりそうな気がした。


 言葉はどうあれ、おそらくお茶を勧めてくれているのだろう。


「いただきます」


 まだ、ヤイクと付き合う感覚は、一足飛びに手に入れられるわけではない。


 彼が、反論を嫌がらない人間であることは分かっているから、じっくりと自分の対応能力を上げていくしかないのだ。


 小さなカップに、少量のお茶が注がれている。


 一口で飲みきる程度のそれを、エンチェルクは唇に寄せた。


 いれられて間もないお茶は、熱くとても甘い。


 中暑季地帯の金持ちや貴族が、好んで飲む味だった。


 ウメと茶の問屋に出入りしていた時、説明と共に味わったことがあったのだ。


 熱いお茶を飲んでいるはずなのに、一段階体温が下がったような、そんな気がする。


 ふぅと、自然に吐息が漏れた。


 カップをテーブルに戻し視線を上げると、ヤイクが自分を見ているのが分かる。


「それで……私は何をすればよいでしょう」


 再び、沈黙が訪れそうな気がして、エンチェルクは話を切り出した。


 こうまで言えば、彼もさっさと話を進めるだろうと思ったのだ。


「明日、商人たちの会合に顔を出す。女は、情報集めに役に立つ……一緒に来い」


「分かりました」


「刀は置いていけよ」


「……分かりました」


「使用人と間違われんように……多少は着飾れ」


「……」


 突然早回しで流れ出したヤイクの言葉を、次から次へと打ち返していたら、最後にとんでもないものが飛んで来た。


 返答など、決まっているではないか。


「そんな衣装……持ち合わせいません」


 女だろう?──返答に、ヤイクはそんな目をした後、軽く天井を仰ぎ見ていた。



 ※



「ウメは、お前をどんな扱いにしてたんだ」


「ウメは関係ありません」


 来いと言われて、部屋を出るヤイクを追いながら、エンチェルクはウメへの非難を即座に言い返していた。


「それに、袴ならウメに縫ってもらったのがあります」


「そんな格好で、商人から何を聞き出すつもりだ。鉄の相場か?」


 倍ほどの早口で、ヤイクも厳しく言い返す。


 廊下の奥の部屋をバンと開け、綺麗な部屋に入る。


 ノッカーも鳴らさずに、と驚きかけはしたが、中には誰の気配もなかった。


 そんな部屋の衣装棚を、彼は無造作に開けた。


 エンチェルクには、まったく縁のないような美しい衣装が端から端まで並んでいる。


 彼は、次々と服をずらしながらそれらを見ている。


 さすがにそれは、やりすぎな衣装ではないかとエンチェルクが口を開こうとした時。


「明るい色を着ろ、若く見せろ」


 適当に掴んだ服を、後ろのベッドに向けて放り出す。


「色気を出せ、商人を釣れ」


 商人から情報を引き出すために、女として使えるものは全部使えと。


 長いこと女をどこかにやっていて、最近ようやく見つけて埃を払っているような自分に、何という難題を課すのか。


 5、6着出したところで、その手は止まった。


「この辺で適当になんとかしろ。あと、髪飾りくらいつけろ……ああ、持ってないんだな、分かった。本当にウメは……」


 何だか少し、ヤイクが子どもの頃の彼に戻っている気がした。


 滅多に会話は成立しなかったが、あの頃の彼もまた、エンチェルクの話など聞かず、勝手に次々と言葉を積んで行く性格で。


 何だか。


 あの頃を、やりなおしている気がした。


 ヤイクに何も答えられない、ただの使用人だった自分。


「ここは……どなたの部屋ですか?」


 髪飾りを引っ張り出している彼に、語りかけて見る。


 もう覚悟はじたばたしていないし、心も跳ねていない。


 自然に、言葉が出た。


「母の部屋だった」


 何の感慨もなく、返された言葉は──過去系だった。



 ※



 何となく、そんな気配はしていた。


 衣服の趣味から、そこまで年若い女性でないのはすぐに理解出来たし、人の気配の薄さから、この部屋が長らく使われていないことも分かる。


 あの鼻っぱしらの強かった頃の彼を、育てた女性がここにいたのだ。


「足りないものがあったら、ここから持っていけ。化粧のうまい使用人も、一人つけてやる」


 エンチェルクの感慨など、興味はないのだろう。


 握ってきた髪飾りを、彼女に無理矢理渡しながら、ヤイクは引っ張り出したドレスを抱え込んだ。


 ドレスを抱えるヤイクというシュールな光景は、おそらくウメでさえ見たことがないに違いない。


 とんでもない状態に、エンチェルクは使用人までつけるという彼の言葉に、反論することも忘れてしまった。


「まだ、何か足りないのか?」


 動けないでいる彼女に、ヤイクが険しい表情を浮かべる。


 彼にとって、この状況は何らおかしいことではないらしい。


「いえ、多すぎるほどです」


「話にならん……ロジアを参考にしろ、男を手玉に取れ」


 エンチェルクの答えは、彼を軽くいらだたせただけだった。


 挙句、色気の見本を出して来る。


 どれほどの火傷の跡があろうとも、あの女性には匂い立つ色香があった。


 いまでこそ、ジロウに愛を捧げているので、無駄な色香は発してはいないようだが。


 いきなりの難易度の高さに、エンチェルクはため息をつきそうになった。


 だが、これも彼女の仕事の内だ。


 ロジアは、貴族の出ではない。


 ある意味、平民でさえなかった人だ。


 だが、彼女はあの港町で、貴族の愛人にまでなり、一番輝く女性に昇りつめたのだ。


 正攻法ばかりが、法ではない。


 ヤイクは、それを知っている。


 学ぶのだ。


 それに、自分の女が必要であるというのならば、使うのだ。


 清も濁も飲み込んだ先にヤイクの道があり、その先にはテルがいる。


「手玉に……取ってみます」


 真面目に、そう言葉にしてみたら。


 ドレスを抱えたままのヤイクに、不敵に笑われてしまった。



 ※



 翌朝。


 エンチェルクは、快適に朝早く目が覚めた。


 いつも通りの朝だ──寝ているところが、いままでと違うだけで。


 道場へ稽古に出る時間でもあるが、勝手にこの屋敷を出て行く訳にもいかないだろう。


 刀を腰に差し、外に出ると裏庭の方へと向かった。


 そこで、素振りくらいはしようと思ったのだ。


 自分の呑気さが、おかしいくらいだった。


 本当ならば、今頃、起き上がるのもつらい状況だったはず。


 昨夜、途中まで彼女は、ヤイクの書類の手伝いをしていたのだから。


 惜しげもなく灯され続ける燭台の灯りの中で、エンチェルクは書類の分類をしていたのだが、真夜中前に『部屋に戻れ』と言われてしまったのだ。


 大丈夫だと答えたのだが、『目の下にクマを作ったまま、商人が釣れるのか?』という、素晴らしい切り返しに、彼女はあっさりと斬られた。


 この書類の整理より、明日の仕事の方が重要であると、ヤイクは言っているのだろう。


 そして。


 彼に、おそらく生まれて初めて、『おやすみなさい』という言葉を伝えた。


 返事は、書類を見ながらの、『ああ』という上の空のものだったが。


 本当に、当たり前に会話が出来ている。


 昔の彼の方が、いまとなっては不自然に思えるほどだ。


 使用人の顔をしているエンチェルクに、話をするということは、使用人であることを認めることである。


 彼は、おそらくそうしたくなかったのだ。


 いまは、あの頃とは違う自分だから、しゃべるに値する──そういうことなのか。


 キクに見られたら、雑念でいっぱいの素振りを注意されそうだと思いながらも、彼女は無心になれないまま真剣を振る。


 この刀を持つ意味も、変わった。


 もう、ウメのためだけのものではない。


 ふと。


 視線を感じて、屋敷の方を見る。


 二階の窓に、一瞬ヤイクが見えた気がした。


 もし、あれが彼だというのならば、おそらく徹夜をしたのだろう。


 早朝から、悠長に刀を振っているものだと、呆れているのかもしれない。


 この刀は──ヤイクを守るためのものでもあるのだから、そこは譲歩してもらわなければならなかった。



 ※



 朝食の後、しばらくしてから、ノッカーが鳴った。


「失礼致します、エンチェルク様」


 入って来た若い女性は、屋敷付の使用人にしておくには惜しいほど美しい。


 元がいい上に、綺麗に化粧も施している。


 彼女が、化粧のうまい使用人だろうか。


「様は、結構です。よろしくお願いします」


 エンチェルクは、自然にそう答えていた。


「お客様を、軽くお呼びするわけにはまいりません」


 だが、彼女には受け入れられなかったようだ。


「では、足元を失礼致します」


 柔らかな布尺を持って、女性はエンチェルクの足元へとひざまずく。


 手早く足のサイズを計るや、彼女は立ち上がり、一度部屋を出て行った。


 次に現れた時、その腕にはみっつほどの箱を抱えていて。


「奥様の靴で、おそらく合うと思いましたので、いくつかお持ちしました」


 使用人である彼女が、自分の判断でこんなことをするはずはない。


 間違いなく、ヤイクの手回しだ。


 商人の前に、履きつぶした靴で出れば、付け焼刃の女の化けの皮がはがされてしまうと踏んだのか。


「衣装の見立ても言い付かっております。エンチェルク様は、由緒正しき肌の色をなさってらっしゃるので、この明るい紫か、こちらの白の多い赤などいかがでしょうか」


 丁寧すぎる扱いと、彼女の言葉の裏に潜むヤイクの気配に、エンチェルクは困ってしまった。


 この調子で、細かいことを次々と聞かれて、それを考えなければならないかと思うと頭が痛くなる。


 明らかに、自分より彼女の方が専門家だ。


「全てお任せします……今より若く見えて、色気のあるようにして下さい」


 だから、その専門家に全て託すことにして、それまでの自分ならば、決して口にも出さないような言葉まで並べた。


 仕事を前に、恥だの年だの言ってはいられないからだ。


 ヤイクの希望は、非常に高い要求なのだから。


「分かりました……最善を尽くさせていただきます」


 彼がそう望むのか──使用人であるにも関わらず、しっかり言葉を返してくる女性だった。



 ※



 毎日、最低限の髪の手入れはしていた。


 それでも、安物ではない髪油と、結い上げる技術の違いは明らかだ。


 そこに、更に貴族の女性が使っていた髪飾りが留められる。


 エンチェルクは、生まれて初めて自分の髪を美しいと思った。


 年頃になる頃には、父親の商売はダメになっていて、こんな贅沢とは無縁になっていたのだ。


 彼女が選んだ衣装は、紫。


 ヤイクの望む、若々しい色とは違ったが、艶やかに褐色の肌の上を這う。


 ただ、胸元が深くあいていて、締め付ける下着までつけられ、あまり大きくもない胸が無理やり寄せられている。


 その開いた胸元を、白い宝石の首飾りが光る。


 化粧が施され、ドレスと同じ紫の色が瞼を彩っていた。


 化ければ化けるものだ。


 昔、キクが暴漢を捕らえるために、カツラまでかぶったことを思い出す。


 いまの自分も、あれと同じ。


 着飾った女というよりは、ただの仮装。


 あの時のキクと、同じなのだ。


 いまの自分にとって、この格好はただの手段。


 目的は、別のところだ。


 そのためなら、どんな馬鹿馬鹿しい格好だってする。


「いかがでしょうか」


 全てを終わらせ、彼女はすっと一歩下がる。


「ありがとうございます……これなら文句を言われないでしょう」


 そのまま、彼女を解放しかけて、ふと思うことがあった。


「すみません、もしあるようでしたら…扇子をお願いできますか?」


 ロジアの真似を、するわけではない。


 ただ、エンチェルクは素人の女だ。


 言葉に詰まったり、うまく受け答えできずに、表情が曇ることもあるかもしれない。


 その時に、役に立つのではないかと思った。


「すぐ、お持ちします」


 出て行った彼女を目で追いながら、エンチェルクは小さくため息をついた。


 下着が、苦しかった。



 ※



 時間となって、エンチェルクはヤイクの部屋へと向かった。


 困惑気味の、化粧の上手な使用人を引き連れて。


 帰ろうとした彼女を、引き止めることにしたのだ。


 この、立派な仮装を作り上げた彼女は、ヤイクにほめられて然るべきだと思っていた。


 何が、技術なのか。


 おしゃれ好きな女性にとっては、それはただ単なる趣味に過ぎない、遊びの領域なのかもしれない。


 だが、何が技術になるか分かりはしない。


 クセのあるヤイクにとっては、特に、だ。


 彼は、この使用人のことを個として知っていた。


 彼女の普段の化粧を見て、そう思っていたのか、どこからか噂話を聞いたのかは分からない。


 しかし、彼女の長所をよく見抜いていて、適材適所でエンチェルクへと会わせてくれたのだ。


 ノッカーが鳴らされ、部屋に入る。


 ヤイクは、貴族然とした正装だった。


 エンチェルクより薄い肌の色に、濃紺の衣装が鮮やかだ。


 視線はこちらに向いていたが、その手にはまだ書類を掴んでいた。


「……」


 しばらくの間、彼女はヤイクの見世物になる。


 予想はしていたので、そのまま立っていた。


 そして。


「いい腕だ」


 彼は、エンチェルクの少し後方に畏まっていた彼女を労う。


 ほら。


 ヤイクは、こういう男なのだ。


 世の女性を、ちゃんと理解している。


「別途に報酬を出す。今日はこの後、休んでいい」


 言葉以外の労いまで付け足され、彼女の息をのむ小さな音が聞こえてきた。


 驚いているのか、喜んでいるのか、もしくは両方か。


「よくやったな、下がっていい」


「ありがとうございます、失礼致します」


 振り返らずとも、彼女が軽やかな足取りで出て行ったのは、エンチェルクにもよく分かる。


 改めて視線を彼へと向けると、ヤイクはもう手元の書類へと視線を落としていた。



 ※



 荷馬車の準備が、まだなのだろう。


 エンチェルクも、昨夜途中だった書類の分類の続きをやろうと、デスクの方へと近づく。


「インクで汚れる……今はいい」


 彼女のやろうとしたことなど、すぐに気づかれてしまったようだ。


「もう、インクは乾いています」


「後から私が書き足した分もある。爪の先ひとつ汚すな」


 書類を読んでいるせいか、声は淡々としているが、内容は命令形だ。


 しかし、そうなるとすることがない。


 ただ、ここに突っ立って時間が過ぎるのを待てばいいのか。


「今日の会合だが……」


 幸い、会話くらいは交わしてくれるようだ。


「第一港に、異国の勢力の後釜に座られては困るからな。いろいろ手は打っているが、裏で何かが動いているかもしれん。海関係の噂話を、拾い集めろ。貿易関係の話も振れ。凱旋の祭りのついでに、遠くの商人も数多く参加している。北部の話も聞けるようなら聞いておけ」


 あの港町に、北の地。


 それが、ヤイクのいま気になるところのようだ。


 港は分かるのだが、北とは一体何だろう。


 エンチェルクは、思考を深く深くに沈める。


 彼がもし、太陽と敵対する勢力を心配しているというのならば──北にあるのは、雪国でひっそりと隠遁する魔法の血。


 昔、ウメにそんな話を聞いたことがあった。


 異国の勢力が、彼らに目をつけていないとは限らない。


 そう、考えているのだろうか。


 ありえない話ではない。


 まだ、異国の人間の中で、確認していない名はあるし、彼らはイデアメリトスの反逆にまで加担していたのだから。


 一瞬、レチの顔が頭を掠めた。


 彼女は、北部の人間だ。


 今度、一度話を聞いてみよう。


「酒は出されるが、ほどほどにしろ」


「はい」


「適当に、食事などしているふりはしていろよ。ガツガツ聞いて回るな、怪しまれる」


「はい」


「後、お前は私の愛人ということになっているから、それを考えて立ち回れ」


「……」


 ため息を、つくべきだっただろうか。


 酔狂なことだ、と。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ