飼い慣らす 1.飼い慣らす
「お帰りなさァい」
無人のはずの部屋から声がして、一時的に無人でなくなっていることを思い出した。客に留守を任せてあったのだ。
一人遊びをしていたらしく、テーブルにはトランプが広がっている。今時の中学生が夏休みの一日を潰すのに、似つかわしい遊びとはどうにも思えないのだが。
「時計ですか。完成しました?」
「全然。お昼からやってるのに一回もできない」
一回ぐらいできてもよさそうなのに、とぶつぶつ言いながら、一度止めた手を再び動かし始める。やけに滑らかに動くところを見ると、言葉通り幾度も幾度もこの動作を繰り返したのだろう。
住んでいる場所が離れているから、会うときはわたしが出かけていくのが常だった。妹の方からこちらへ来ると言い出したときには、どういう風の吹き回しかと訝ったものだ。
「泊めてもらいたいんだけど。駄目?」
運動部の合宿にでも似合いそうな鞄を肩から提げ、待ち合わせの改札に現れた妹は、やけに明るく、満面の笑みを浮かべていた。断られればすごすご帰る他なかったわけで、緊張の裏返し、虚勢だったのだろう。
「何日泊まりたいと?」
「何日までいい?」
「何日でもわたしは構いませんが」
「夏休みだからさ。しばらくいたいなって」
「好きにどうぞ」
二十代前半の男の部屋に女子中学生が転がり込む、という状況がどういうものか、わかっているのだろうかとは思ったが。
「……いいの?」
「はい」
「三十一日までいても?」
「ええ」
「……九月までいても?」
ちゃんと聞いているのか危ぶむような妹に、好きにどうぞ、とわたしは繰り返した。新学期が始まろうとこちらには何の影響もない。
「九月まではいないと思うけど、気が済むまでいてもいい?」
「自分の責任で頼みますよ」
「わかってる」
家出の理由は語らなかった。ひょっとすると問われるのを待っているのかもしれない。様子を見、折りを見て、その方がよければ尋ねてやればいい。急がなくとも時間はあるだろう。
わたし自身は、知りたいとは思わない。わたしは何であれどうであれ、妹の希望に沿ってやりたいのだ。望む通りにしてやりたいのだ。泊まりたいと言うなら泊めてやる。九月までと言うなら九月まで。理由など不要なのである。
「そのトランプは持ってきたんですか?」
ふと尋ねた。この部屋にあったはずはないから、質問というより確認だ。
「うん。花札もあるよ」
「泊まる気満々だったんですね」
図星を指された様子で妹は眉を軽く上げ、ちょっと笑って、
「わ、やばいかも。キングが三枚目だ」
誤魔化すようにカードを移す手を速めた。
泊まるつもりで用意をしたということが、即ち断られない自信があったということとは限らない。ただ、わたしに言えるのは、妹はその自信を持ってよいということだ。わたしは必ず叶えてやるだろう。
わたしには目的があるのだから。
わたしは施設で育った。母が未成年のうちに産んだのだという。親がないことを不幸とは感じなかった。育てる気もないのに孕ませ、育てられもしないのに産んだ人間たちだ、どのみちまともな親にはならなかっただろう。ただ、間違いなく不便ではあった。
妹との出会い、というよりも認知は二年前になる。行きずりの相手と思って親への不満をこぼした妹が、その中で家庭の事情に触れたのである。曰く、母はかつて手放した息子ばかりを想っていて、自分には目もくれないと。
「考え事?」
「いえ。何です?」
問いつつ目をやれば明らかだった。トランプのケースを手にしているのだ。
「やらない?」
「いいですよ。何を?」
何にしようか、と考えながら、妹は中身を取り出して切り始める。一人遊びにはいい加減飽きが来たのだろう。
小遣いでなく生活費を稼ぐためのアルバイトをそう減らすわけにもいかないから、わたしは常と変わらず出かけ、妹は一日のほとんどを一人で過ごしていた。物足りなくはあろうが、その程度の覚悟はしてきたようで、今のところ文句は言われていない。
「スピードは? 知ってる?」
「ええ」
ルールがわかれば何でも構わない。
夕食の食器を下げている間に、妹はカードを配り終えた。すっかり手慣れてしまっている。二等分した山の一方を引き寄せて揃え、手許の四枚を並べると、片膝を立てて妹は構えた。
「いっせーのっ」
――妹が満足するまで付き合ってやるつもりではいたが、気づけば三時間経っていたのには驚いた。
「あ、こんな時間」
「お開きにしましょう」
妹は返事を省略してトランプを片づけ始めた。わたしは流し台に立つ。と、
「あ……あたし、洗うよ? トランプやろうって言ったのあたしだし……」
遠慮がちながら声がかかった。
家事が残っているというのにこんなことで時間を食ってしまった、という態度にでも見えたらしい。――そう見えるらしい。
「なら、手伝ってもらいましょうか」
「――うん」
小さく答えて、妹は横へ来た。ほっとしたような笑みが口許に浮かんでいる。
勝ち点を一つ、自分に加えた。トランプ如きでわたしに気を遣う必要はない。気を遣わなければならない相手がどこかにいるとしても。
妹の親は騒いでいるだろうか。母は妹へ意識を向けたろうか。手許にないわたしを想ったように、手許から消えた妹を想うようになっただろうか。そうであってほしい。執着があってこそ、奪い取る甲斐もあるのだから。
妹には慕われておきたい。慕わせておきたい。母が妹を見たときに、妹は自分を見ているように。仮令母の気を引こうとしてのことであったとしても、母の愛情を求めるがゆえの行動であったのだとしても、母から離れてわたしの許へ来たこの機会は――チャンスなのだ。
「お帰りなさァい」
「ただいま。今日はクロンダイクですか」
「クロンダイクっていうの? パソコンにはソリティアで入ってるけど」
帰宅を迎える声のあることが心地よい。いつしかそう感じているのは認めないわけにいかない。自分に近づきつつあると思うからだろうか。自分のものと思えば笠に積もった雪も軽く、懐に飛び込んできた鳥は猟師も殺せないものだ。
「七ならこちらの方がいいんじゃないですか?」
覗き込んで指摘すると、あ、と呟いて妹は手を換えた。
「どっちのキング行こう」
「さあ」
「さあじゃなくてさ」
「なら右の方を」
「……また七だ」
日を追うごとに固さの取れていくのがわかる。というよりも、これまではまだ固さが残っていたのだということがわかる。
「んー……右、左?」
「今度は左にしますか」
「じゃあ右にしよう」
「……」
寧ろ馴れ馴れしくなったと言うべきか。いや、打ち解けた振る舞いと馴れ馴れしい振る舞いとは恐らく同義だ。是とするか非とするかの違いである。なればやはり、打ち解けているのだ。
今日は昨日よりも近くへ。明日は今日よりも近くへ。そう仕向けるのが、飼い慣らすということ。一足飛びに近づきすぎたとて咎めるには当たらない。
そのゲームは結局行き詰まった。苦笑しながら妹がカードを集め、切り始めたとき、耳障りな音が空気を裂いた。
手許が狂って、トランプが何枚か床に散った。携帯電話の着信音だった。
「……ちょっと、ごめん」
囁くなり携帯電話をひっつかみ、顔を引き攣らせてベランダへ出た。ガラス戸を慌ただしく閉める。
――来たか。
恐らく、親だ。あの様子は。母親か、父親か。今になって何を言ってくる気か。
時々聞こえそうになる声から意識を逸らして、放り出した格好のトランプをまとめた。数回切って、並べてみる。動かしているうちに、割合と早くドアが開いた。
「借りてますよ」
気まずいような風で佇んでいたのでこちらから声をかけた。うん、と呟いて、妹はまだ動かない。
「――八月中に帰るって約束しちゃった」
……そうか。
まあ、それが無難だろう。妹は中学生なのだ。
「ねえ……あの」
口ごもっているのを、手を止めて見上げる。
「何です?」
「……また来てもいい? 冬休みとか」
躊躇の末に、妹はそう訊いた。
「先に言ってくれれば、シフトを調整しておきますよ」
答えれば頷いて、ようやく床に座り込んだ。
「――これ、そっちに行くよ」
トランプを指したところを見ると、この話を続けるつもりはないようだ。意思を尊重することにして、わたしはただ言われたカードを動かした。
ドアを開けても声がしなかったことに、違和感を覚えるとは思わなかった。
トランプはテーブルの端で山になっている。ケースに戻していないところを見ると、後でまた遊ぶつもりがあるのだろう。持ち主は部屋の隅で寝息を立てていた。足音を殺して近づいたがすっかり熟睡していて、どのみち簡単には目覚めそうになかった。昨夜の花札のせいだろう、勝負が随分長引いたから。
寝そべるようにして寝顔を覗き込んだ。一度じっくり眺めてみたかったのだ。似ているのだろうか――母に。無責任に身ごもって、産むことで恩を押しつけて、見捨てておきながら気にかけてみせるという母に。わたしの、生涯最初の仇に。
その娘がここにいる。わたしの手の内にある。どうしようと自由なのだ。殺そうが、犯そうが、売り飛ばそうが。
娘の転がり込んだのが二十代の男の部屋と知れば、母も流石に案じるだろう。母を恨みうる人間と知ればなおさら。妹自身、警戒するべきだった。母親と自分を切り離せると思ったのか。母への復讐が自分に転嫁するかもしれないとは気づかなかったのか。
苦しませることは容易になった。時間をかけて、わたしは妹を飼い慣らしたのだ。飼い犬ならぬ飼い主に思わぬ危害を加えられたなら、その驚愕と苦痛はいかばかりか。
妹がわたしに近づくほど、わたしは妹を深く傷つけられる。慕われるほど手酷く裏切れる。そうだ、わたしはいつでも思い知らせてやれる。
――だからこそ、愛おしいのだろうか。
「馬鹿な子ですね」
嘲るかのように呟いてみたが、残酷な気分にはならなかった。そこまでせずともよかろうと自然に思うのだ。はっきり言うなら、傷つけたくないとまで。
懐の鳥にすぎないだろうか。飛び立ってしまえば悔いるだろうか、手許にいるうちに絞めておくのだったと。
尤も最初から、候補に入れてはいた。手を出せるからこそ出さない。母への意趣返しであるはずだった。手を汚さない復讐であるはずだった。手を汚すのが怖いのではない、敢えて一線を越えないことで、母より上位に立ちたかった。慕われようと努めたのと同じく手段にすぎず、決して妹への思いやりではなかったのだが。
傷つけたくないと。
嫌われたくないと?
そこまで心弱くはなっていないとしても――飼い慣らすつもりが、飼い慣らされてもいたらしい。考えてみれば一方のみが距離を縮めることはできないのだ。二者の距離は同じだけ縮まる。妹が以前より近くにいるなら、わたしも以前より近くにいる理屈である。
欠伸を一つした。花札のせいでわたしも寝不足だ。楽になるよう姿勢を直して、目の前の無防備な寝顔をみつめた。母に、似ていないといい。
「わたしの気が変わらなかったらどうするつもりだったんです」
囁いたのは負け惜しみであったかもしれない。悪い気分では、なかったが。