第2章-洛陽編・第1話~暴君董卓~
「はぁ!? んな訳あるか!」
武威の城中に翠の大声が響く。翠が叫んだ理由は、彼女の目の前の書簡にあった。
河北の雄、袁紹から届いた書簡は、都で暴政を敷く董卓を諸侯が協力して討伐すべし、と呼び掛ける檄文だった。
董卓の性格を知っている翠にしてみれば、暴政を敷いている訳が無い、と言い切れた。そして、それは琥珀達も同じだった。実際、間者からの報告や行商人からの話にもそんな情報は無い。それを聞くと、翠は少し落ち着いた様で、ほらな、と得意気な顔で言った。
「……私達はこの連合に参加するわ」
「なっ……!」
琥珀の静かな声に、再び翠の語気は荒くなる。
「何でだよ、母様!? 月は何も悪くない、って、さっき言ったじゃないか! それなのに……!」
「落ち着いて話を聞きなさい、翠」
ため息混じりに宥める琥珀。しかし、翠は止まらない。尚もギャアギャア騒ぎ続ける翠に、つい琥珀の声も大きくなってしまう。
「うるさいっ! 少しは他人の話を聞きなさい!」
さすがは大陸中にその名が知れ渡っている勇将である。一喝して翠を黙らせた。
「まったく……。一刀君、このバカ娘にも分かる様に、説明してあげて」
琥珀から話を振られた一刀は、驚きで上昇した心拍数を抑えるため、深呼吸を一度してから翠に向き直った。
「確かに翠の言った通り、董卓は暴政なんか敷いちゃいない。でも、この書簡にはそう書いてある。なぜだか分かるか?」
理解しやすい様に、ゆっくりと喋る一刀。しかし、分かる訳無いだろ、と翠は仏頂面で即答する。
「ハァ、少しは考えてくれよ……」
一刀は肩を落としてため息を吐くと、この直前に琥珀達と話し合った事を、翠と蒲公英に説明し始めた。
袁紹が董卓に対して兵を起こそうとしている理由、それは妬みや嫉みと言った感情にある、と一刀達は考えていた。ただの地方の郡太守に過ぎない董卓が、帝の傍で国政に携わっている。それが四代三公の名門である袁家の当主、袁紹には許せないのだろう、と。
「だから、何でそんな奴と一緒に戦わなくちゃいけないんだよ?」
相も変わらず不満そうな翠。そんな彼女に、話を最後まで聞く様に言って、一刀は説明を続ける。
袁紹と敵対する事を恐れたり、この機に乗じて名を揚げようとしたり、様々な理由はあるだろうが、今回の連合の呼び掛けにほとんどの諸侯が呼応するだろう。そうなれば、連合の兵力は少なくても十万、おそらくは十五万程度にまで膨れ上がる。
それに対し、董卓側の兵力は十万弱。しかし、そのほとんどは何進の兵で、正規の董卓軍とは練度が違う。そのため、同じ戦場に立たせる事が出来ない。実際に計算出来る兵力は、二万にも満たないだろう。仮に、馬騰軍が全軍を以て董卓に助勢したとしても、どうにか出来る兵力差ではなかった。
そこで、琥珀は董卓を洛陽から逃がす事に決めた。幸いにも、連合の集結予定地点は洛陽の東になっている。これは、袁紹の支配している冀州が洛陽の北東にあるためだ。だが、そのお陰で西から涼州に逃げる事は容易くなるはず、と考えられた。
「……でも、何で連合に参加しなくちゃならないんだよ。月を逃がすだけなら、そんな必要無いだろ?」
それまで言われた通りに黙っていた翠が尋ねる。確かに、連合に加わらなくても董卓を逃がす事は出来るだろう。ただし、参加しない場合、その後が問題になりかねない。琥珀が董卓の後見人だった事を知られれば、董卓を逃がした事を疑われる可能性が出て来る。もちろん、足跡は全て消すが、一応でも連合に参加する事で、その可能性を低くする事が出来る。
連合に参加する理由は他にもあるが、これが一番大きな理由だった。
「……どうかしら? ちゃんと分かった?」
一刀の説明が終わり、翠を怒鳴り付けて以来黙っていた琥珀が口を開いた。その顔には、さっきの様な怒りは見られなかった。
「……理解はしたよ。けど……」
歯切れが悪い翠。彼女は何やら難しい顔をして腕組みをしている。頭で理解はした。しかし、心は納得出来ずにいるのだ。そんな翠の胸中を見抜いた琥珀は、自分の正直な気持ちを語り出した。
「面白く無い、と思うのは当然だわ。私だって、袁紹の五体をバラバラに切り裂いてやりたい、そう思うもの」
穏やかな表情だが、その言葉には確かな怒気と殺気が込められていて、一刀達は背筋が寒くなる。
「月を助けるためよ。……やれるわね?」
琥珀は翠の瞳を見つめながら尋ねた。翠も琥珀の目をじっと見つめ返す。その瞳には、すでに迷いの色は無かった。
「分かった、母様。その任務、必ず果たしてみせる!」
こうして3日後、翠を大将とした馬騰軍は一刀と蒲公英を従え、八千の騎兵と共に出陣した。
洛陽の中心にある宮殿。その中のとある一室に董卓軍軍師、賈駆の姿があった。椅子に座った彼女は、眼鏡を外し組んだ両手の甲に額を乗せて目を瞑っていた。
「ハァ……。どうしてこんな事になっちゃったのよ……?」
賈駆はこれまでの事を思い出し、ため息混じりに呟いた。今回の事は、運が悪かった、としか言い様が無い。最初のボタンを掛け違ったために、ここまで周囲の状況に流されて来てしまった。
全ての始まりは3ヶ月前。皇帝崩御の知らせの直後に届いた、大将軍何進からの檄文だった。
宦官十常侍の討伐を呼び掛けるこの檄文を、賈駆は無視するつもりでいた。呼び掛けに応じれば、否応無しに中央の権力争いに巻き込まれる事が目に見えていたからだ。実際、琥珀は匈奴への備えを理由に断っていた。
しかし、董卓はこれに参加する事に決めた。権力や地位を手に入れる事を目論んだ訳では無い。苦しんでいる庶人を救うためだ。
地方とはいえ、太守である董卓の耳には中央の政治がいかに乱れているのか、その情報が届いている。そして、その乱れが人々を苦しめている原因である事も分かっている。だからこそ、賈駆が洛陽に入る事の危険性を説いても、それを聞き入れる事は無かった。
董卓の説得は無理だと判断した賈駆は、進軍を遅らせる事を画策する。洛陽に着く前に事が終わってしまえば、到着の遅延を叱責される事はあっても、何の手柄も挙げられずに権力争いから脱落出来る、と考えたのだ。
果たして、賈駆の思い描いた通りになった。何進が呼び掛けに応じた袁紹、袁術らと共に宮中に乗り込んだ時、董卓軍はまだ洛陽の西にある旧都、長安の手前にいたのである。
だが、ここから歯車が狂いだした。
宮中に乗り込まれた十常侍は、何皇后に兄である何進への取り成しを頼む。自分や兄が今の地位にいられる事に対し、十常侍に恩を感じていた何皇后は、彼らの助命を何進に申し出た。すると、袁紹達の反対意見を無視し、何進は甥の弁皇子を帝位に就ける事を条件にそれを聞き入れてしまった。
こうして何進の思惑通り、弁皇子が皇帝に即位した。しかし、何進本人はこれですっかり油断してしまい、即位の儀式の後、祝いの品を渡す、と十常侍に呼び出され、宮中で謀殺されてしまうのだった。
これを知った袁紹達は大いに慌てた。何進に従った自分達にまで十常侍の手が伸びるのは必至だったからだ。諸侯の中には急いで洛陽を離れ、自分の領地に戻る者もいたが、ほとんどの者は十常侍に対して先手を打つべし、という考えに至った。何進を殺害した罪により十常侍を討つ、という名目で宮中に入った諸侯は、しかし、宦官を無差別に殺戮し始める。華やかだった宮中は、鮮血が飛び、断末魔の叫び声がこだまする地獄絵図へと一変した。これは、十常侍と他の宦官の見分けが付かなかったからだが、暴走し始めた兵士をコントロールする能力を、袁紹達が持ち合わせていなかった事が一番の理由だった。
宦官の全てが、十常侍の様に私利私欲に溺れている訳では無い。真摯に民や国の事を考えて、政に携わっている者も少なくはないのだ。だが、そんな事は関係無く、ただ宦官であるだけで殺されていく。
しかし、ただ1人、この殺戮劇を逃れた人物がいた。十常侍筆頭、張譲である。彼は袁紹達が宮中に乗り込む直前、宮殿、さらには洛陽の街から脱出していた。切り札となる2人の人物、幼い帝と協皇子を連れて。
この行動を袁紹達は予想出来ていなかった。皇帝や皇子を宮中から外に連れ出すなど、有り得ないからだ。張譲の脱出に気が付いたのは半日後、宮中の混乱が落ち着いた後だった。
だが、読みが甘いのは袁紹達だけではない。張譲もまた、現実を知らなかった。自分達がまともな政治を行って来なかったせいで、洛陽の周りですら賊が跋扈する程に治安が悪い。そんな中に護衛の兵も付けず、派手な衣服に身を包み、煌びやかな装飾の施された馬車で飛び込むのは、飢えた狼の群れに羊を放り込む様な物である。張譲達はすぐに賊に襲われてしまった。
張譲は帝や協皇子を放り出して逃げる。しかし、簡単に捕まり身ぐるみ剥がされて殺されてしまった。その光景に恐怖し、泣き喚く帝。一方、弟の協皇子は取り乱す事も無く、兄をかばって賊を睨み付ける。だが、十歳前後の子供が睨んだ位で賊は怯みはしない。薄汚い笑いを浮かべて2人に近付くと、その手に持った剣を振り上げる。
その時だった。遠くから地鳴りが響いて来たのは。その音は次第に大きくなっていく。音が大きくなるにつれて賊は慌て出し、ついには蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。その直後、2人の少年の前を、鎧に身を包んだ沢山の騎兵が駆け抜ける。呆気にとられて声も出ない2人に、その一軍を率いる董卓は柔らかく微笑み掛けながら近付いて行った。
こうして、賈駆の狙いとは反対に、皇帝と協皇子の保護、という一番の手柄を手に入れてしまった董卓軍は、2人の貴人を伴って悠々と洛陽に入城する。一方、宮中へと踏み込んだ諸侯達は、皇帝が董卓軍に保護された事を知ると兵をまとめ、入れ違いになる形で洛陽を後にした。
これだけであれば、董卓が暴君に仕立て挙げられる事は無かっただろう。むしろ、問題はこの先だった。
宮中の混乱が収まってから数日後。涼州へ戻る準備を進める董卓軍に、驚愕の事態が報告された。
皇帝の死。
まだ、即位して10日も経っていない内に帝は崩御したのである。原因は母、何太后による無理心中だった。
後ろ盾であった何進と十常侍を同時に失った何太后。特に、兄である何進は助命を頼んだ十常侍に殺されている。不安と自責の念に苛まれて自分自身を追い込んだ末に、何太后は自ら腹を痛めて産んだ帝を抱いて宮殿の最上階から身を投げたのだった。
2人の葬儀が終わった後、協皇子が次の皇帝として即位した。だが、幼い新皇帝には頼れる者がいなかった。
生母は劉協を産んだ直後に亡くなっている。彼の面倒を見ていたのは父である劉宏の母、董太后だが、彼女は宦官虐殺の混乱の際に何者かに殺されていた。養母と兄を失い、自分に仕えていた宦官もいない。そんな状況で、自分を助けてくれた董卓に依存するのは当然だった。
董卓を傍に置こうとする劉協。しかし、賈駆はこれ以上宮中にとどまり続ける事は危険と判断し、何かと理由を付けて安定に戻ろうとする。
何としても董卓を手放したくなかった皇帝は、彼女の安定郡太守の職を解いてしまう。そして、新たに彼女に相国の職を与えるのだった。相国とは、漢帝国における最高の役職である。しかし、臣下が就くには位が高すぎる、として、前漢の初期以来就任した者がいなかった。
この事に諸侯は憤りを覚えるが、特に強い不満を持ったのが袁紹だった。袁家は四代に渡って三公を輩出した名門である。その三公以上の役職に地方太守だった董卓が就いた事に、袁紹のプライドが傷付いたのだ。
袁紹は董卓を追い落とすために行動を起こす。
董卓が前帝、劉弁と何太后を殺害し、自ら相国に就いた。そして、政を己の物として暴虐の限りを尽くしている。そのせいで、洛陽の民は今日を生きる事もままならない。
そんな流言を全国に飛ばした。こうして、暴君董卓は誕生したのである。そして今、作り上げられた暴君を討つために諸侯が集結しつつあった。
賈駆は扉をノックする音にハッとした。続けて侍女の声が聞こえてくる。
「賈駆様、将軍方が揃われました」
「分かったわ。すぐに行くと伝えておいて」
侍女の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、賈駆は眼鏡を掛け直して立ち上がり、部屋を出た。
賈駆が会議室に入ると、そこには4人の姿があった。華雄、張遼、呂布、陳宮。いずれも董卓軍の中心人物である。
「どないするんや、詠。連合の奴等、氾水関の東に集まり出しとるで」
「斥候からの情報では、兵力はおよそ十万。最終的には十五万を超えてきますぞ」
張遼と陳宮が続けて報告する。彼我戦力差は圧倒的に不利だったが、2人の顔には不安や焦りの色は無い。あるのは、主を暴君に仕立て上げられた事への怒りだった。無表情な呂布や、腕組みをして目を閉じたまま俯いている華雄も、内心は同じだ。
そんな彼女達を見ながら賈駆は話し始める。
「昨夜、武威から早馬が届いたわ。琥珀様が月を匿ってくれる」
「本当なのか、賈駆!?」
それまで黙っていた華雄が、机をバンッ、と叩いて立ち上がった。
「こんな事、嘘を付く訳無いじゃない。……でも、すぐに、と言う訳にはいかないわ。下準備や裏工作に1ヶ月位の時間が必要なの」
そこまで言うと、賈駆は張遼達に向かって頭を下げた。
「お願いよ。月を助けるために時間を稼いで……!」
その行為に、4人は一様に驚く。気が強い賈駆が頭を下げたところなど、皆見た事が無かったからだ。
「……頭上げえや、詠。月を助けたいんは、ウチらも一緒や」
張遼の言葉に3人が頷く。顔を上げた賈駆の瞳は、今にもこぼれそうな程に潤んでいた。
「……なら、華雄と霞は氾水関に、恋とねねは虎牢関に籠もって、防衛戦で時間を稼いで」
任しとき、そう言って張遼は胸を叩き立ち上がる。だが、華雄が待ったをかけた。
「作戦は分かった。だが、賈駆よ。月様の御様子はどうなんだ?」
華雄の問い掛けに、賈駆は黙って首を振った。董卓は、自分に対しての連合結成が呼び掛けられている事を知って以来、部屋に引き籠もって食事も満足に取らなくなっていた。
元々何進の檄文に応じたのも、暴政によって生活に困窮している庶民を救わんとしたためだ。それが、自らが暴君に仕立て上げられ、自分の首を狙って戦が起ころうとしている。彼女にとっては全てを否定された様な思いだった。
不意に立ち上がった呂布は賈駆に近寄り、その頭に手を置く。
「……敵は恋達が倒す。詠は月をお願い……」
それだけ言うと、呂布は愛用の武器、方天画戟を肩に担いで部屋から出て行ってしまった。その後を追う様に陳宮も部屋から出る。
「ま、恋の言う通りやな。ほんなら、行ってくるわ」
張遼と華雄の2人もそれに続いて部屋から出た。1人部屋に残った賈駆も流れた涙を拭い、強い決意を秘めた瞳で部屋から出て行った。
「ふ〜っ、やっと着いた〜」
武威を立ってから1ヶ月弱、馬騰軍はようやく連合の集結地点に到着した。最短距離を通ればもっと早く着けたのだが、そのためには洛陽の近くを通過しなければならない。当然、そのルートを使う訳にはいかず、翠達は司隷の南、荊州の北端をかすめる様に行軍して来た。お陰で、到着したのは諸侯の中で一番最後になってしまった。
「ほら、たんぽぽ。いつまでものんびりしてないで、とっとと天幕を設営するぞ」
馬から降りて伸びをしている蒲公英を、翠が急かした。頬を膨らませて文句を言いながらも、蒲公英は他の兵士達と共に野営の準備を始める。一刀もそれを手伝いながら、周囲に目をやった。
無数の天幕と、そこになびく様々な旗。一番多いのは『袁』の旗だ。色違いで二種類あるが、それだけで全体の半分位の量がある。他に二種類あるのは『劉』の文字。一方は『袁』に次ぐ程の量だが、もう一方は逆に一番少ないと言っていいだろう。他にも『曹』、『公孫』、『孫』、『孔』等の文字がはためいている。一刀は名立たる武将達の存在に、緊張しながらもワクワクしていた。