第1章-涼州編・第7話~動乱の幕開け~
鷹那は一刀と共に、三千の兵を率いて出陣していた。場所は武威郡と安定郡の郡境近くの街道。今回の任務は賊の討伐などではなく、輸送隊の護衛である。ならば、簡単な任務か、と聞かれればそうではない。
護衛する輸送隊の運んでいる荷物は、シルクロードを使った西方貿易によってもたらされた貿易品である。この貴重な品々を、帝都洛陽にいる皇帝に届けるのだ。とはいえ、護衛はあくまで自領内だけで、安定郡からは董卓軍が引き継ぐ事になっている。
この様に重要な任務のために万が一にも間違いが起こらないよう、普段は琥珀自ら一万の兵を率いて護衛にあたっている。しかし、今回は匈奴族の侵攻とタイミングが重なってしまった。琥珀は輸送隊に出発を遅らせるように頼んだが、皇帝への献上品であるため聞き入れられなかった。
普段であれば、琥珀の勇名と一万もの兵のお陰でよからぬ事を考える者などいないのだが、彼女が危惧した通りになろうとしていた。
「鳳徳将軍、左翼より賊が接近中です。その数、およそ三千」
周囲を探っていた斥候が報告する。すでに土煙が確認出来る距離で、輸送隊の足では逃げ切れないのは確実だった。戦闘準備を始める一刀。だが、彼は鷹那から予想外の指示を受ける。
「一刀さん。あなたは輸送隊を連れて先行して下さい。私は千の兵と共に、賊共を迎撃します」
全軍で迎え撃つものとばかり思っていた一刀は、肩透かしを食らう。
「私達の任務は、輸送隊を無傷で董卓軍に引き渡す事。先程、董卓軍に早馬を出したのですから、少しでも早く合流を果たすべきなのです」
そう説明されては、一刀に反論する事は出来なかった。
「……分かりました。じゃあ、鷹那さん、御武運を」
それだけ言い残し、一刀は二千人の兵を連れて輸送隊を護衛しつつ進む。その背中を見送った後、鷹那は残った兵に向き直った。
「不埒にも、帝への献上品を襲おうなどと考えた不届き者共を、1人たりとも逃すな! 全軍、突撃ーっ!」
兵達に号令を掛けた鷹那は、自らも愛用の武器、偃月双刀・龍爪牙を手に部隊の先頭に立って駆け出した。
一刀が鷹那と別れてから、およそ1時間が経過していた。輸送隊の面々に安堵の表情が浮かび出すが、それを嘲笑うかの様に、再び賊の一団が現われる。斥候からの情報では、兵数は約六千。3倍もの兵力差がある敵を間近にし、一刀は決断する。
「全軍停止! ここで賊軍を迎え撃つ!」
賊が進行方向から向かって来ている以上、逃げる事は難しい。先程の様に部隊を分けて逃げ延びたとしても、三度襲われる可能性もある。だからこそ、一刀はここで足を止めて、賊軍を迎え撃つ事にしたのである。
二千人の内、千人を本隊として一刀が指揮し、五百人を輸送隊の直援に回す。残りの五百人は2つに分けて別動隊とした。
「いいな、皆! とにかく、敵に突破させない様に気を付けるんだ! 時間さえ稼げれば、鳳徳将軍も追い付いてくれるし、董卓軍の援軍も来てくれる! 何としても、輸送隊を守るぞ!」
一刀は刀を天に掲げ、大声で檄を飛ばした。
一刀達が戦端を開こうとしている場所から十数キロ離れた位置にある、郡境の街。その街の中央にある酒家に、1人の小さな少女が飛び込んだ。
「恋殿! 大変ですぞ、恋殿ーっ!」
飛び込んだ先には、赤毛の少女が1人。その少女の前のテーブルの上には、翠に勝るとも劣らない量の料理が乗っている。何かを咀嚼しながら、赤毛の少女は飛び込んで来た薄い緑色の髪の小さな少女を見た。
「馬騰軍から賊の襲撃を受けたと、早馬で知らせて来たです! 急いで助けに行かないと……」
小さな少女が言い切らないうちに、赤毛の少女が立ち上がる。
「……恋は先に行く。ねねは皆を連れて、後から来る……」
表情を変えずに言うと、赤毛の少女は両手に肉まんを持ったまま酒家を出る。そして、外に繋いであった馬に飛び乗り、物凄いスピードで走り去った。
一刀はその手に持った刀で正面の賊の腕を斬ると、返す刀でその横にいる賊の足を斬り付けた。その斬撃は相手の体を切断するどころか、骨にまですら達していない。切っ先で皮と肉を浅く斬っただけ。そんな状態の賊兵が、一刀の周囲には10人程うずくまっている。中には、激しく血を吹き出している者もいるが、その殆どが致命傷には至っていない。
「無理にとどめを刺す必要は無いぞ! 所詮、相手は賊だ! 傷を負わせれば戦意を失う!」
一刀は最前線で叫ぶ。そうしながらも、また1人斬り付けた。
一刀率いる馬騰軍と賊軍とが接触したのは、およそ10分前。正面からぶつかり、最初の一撃は押し留めた。しかし、その後は徐々に押し込まれ始めている。
兵の練度や装備は上でも、5倍以上の兵数の差は如何ともし難い。ましてや、足を止めての乱戦状態では、騎兵の最大の長所である機動力や突破力が活かせない。もちろん、一刀もそれは分かっていた。だからこそ、各個撃破される可能性があるにも関わらず、部隊を分けて遊撃隊を編制したのだ。
だが、その遊撃隊も一刀の考えた通りの働きは出来ずにいた。賊軍の左右から横撃を掛けるものの、兵数が少ないためか、多少混乱させてもすぐに回復してしまう。むしろ、多数の賊軍に囲まれて、遊撃隊の方がピンチに陥りかねない状況だった。
その後、しばらくはなんとか賊軍を防いでいたものの、次第に戦線が崩れだす。特に、右翼の状況がかなり悪い事は、一刀にもはっきりと分かった。しかし、右翼の援護に回る余裕は、一刀にも兵達にも無い。
抜かれるのは時間の問題か、と、一刀が覚悟を決め掛けた時だった。右翼に群がる賊兵達の中に何か大きな影が突っ込んだかと思うと、数人の賊が空を舞い、一刀の目の前に落ちて来た。敵も味方も関係無く、そこにいる者達の目が一斉に賊が飛んで来た方向に向けられる。
視線の先には、馬に跨った1人の少女。赤いショートの髪に褐色の肌。服の隙間から見える肩や腰には、刺青の様な模様がある。そして、戦場にいるには似つかわしくない程の無表情。だが、ひとたびその手に持った戟を振るえば、一度に5、6人の体が真っ二つになる。
その圧倒的な強さに一刀が見惚れていると、今度は左から賊が飛んで来た。慌てて左に目をやると、そこには『鳳』の旗がはためいていた。
「浅ましい賊共を生かして帰すな! 鳳徳隊、突撃しろ!」
先頭に立つ鷹那の号令で、追い付いた鳳徳隊が賊軍の脇腹に突っ込む。右翼から鳳徳隊、左翼から赤毛の少女、さらに、息を吹き返した正面の北郷隊に襲い掛かられ、賊軍は大混乱に陥る。そこに、遅れてやって来た董卓軍までもが参戦した事により、賊軍はあっという間に殲滅された。
「恋殿ーっ! 大丈夫ですかーっ!」
賊軍を散々に打ち破った後の戦場に、幼い少女の声が響く。その声の持ち主は赤毛の少女に駆け寄ると、心配そうな顔で見上げた。それに対し、赤毛の少女は相も変わらず無表情のまま、自分を見上げる少女の頭を撫でた。
そんな2人に一刀と鷹那は近付いた。
「恋、音々音、助かりました。あなた方のお陰で、輸送隊に被害を出さずに済みました」
鷹那の礼に、赤毛の少女は黙ったまま首を横に振る。一方、薄い緑色の髪の小さな少女は、両手を挙げて元気に答えた。
「まあ、恋殿ならばあの程度の敵、朝飯前ですからな。……ところで、鷹那の後ろにいるのが天の御遣いなのですか?」
「ええ、名前は北郷一刀です。さあ」
鷹那に促されて一歩前に出た一刀は、2人に対して礼を述べた。一刀の顔をジーッとみつめ、何も言わずに小首を傾げる赤毛の少女。その仕草を見て、先程の鬼神のごとき戦い振りも忘れ、一刀は可愛いと感じていた。
「月殿や詠達から聞いていた通りの格好。やはりお前が御遣いなのですな」
小さな少女は、そう言って一刀をジロジロと見る。その目は張遼の様な友好的な物ではなく、警戒心や敵意が見て取れる。しかし、小学生位の少女のそんな表情は、むしろ微笑ましかった。
「ねねの名は陳宮、字は公台。そして、こちらにいるのが天下無双の勇将、呂布将軍ですぞ!」
自分よりも、赤毛の少女に力を入れて紹介する小さな少女。
呂布、字は奉先。言わずと知れた三国志最強の武人。しかし、その強大な武とは反対に、思慮に欠け、目先の利益に飛び付き、数多の裏切りを繰り返した暴将である。そんな呂布に最後まで従ったのが、陳宮という軍師だった。
呂布と聞いても、一刀に驚きは無かった。いい加減、武将が美少女な事には慣れていた。
「……にしても、攻めるのか守るのかハッキリしない、ずいぶんとひどい戦術なのです。あの状況であれば、全員を攻撃に回した方が……」
急に陳宮が先程の戦い方を批判し始めた。それを一刀は黙ったまま、うつむきがちに聞く。
いつまでも続く陳宮の言葉に、さすがに鷹那が止めに入ろうとした時、辺りに物凄い音が鳴り響いた。まるで地の底から響いて来る様な、大きな獣の唸り声の様な、そんな音だった。喋るのを止めた陳宮は、一刀達と共に音のした方を見る。そこには、腹に手を当てた呂布が切なそうな顔で立っていた。
「……お腹すいた。ねね、帰ろう……?」
小さな声で言うと、呂布は3人に背を向けて歩き出した。
「あっ、待って下され、恋殿! ……では、確かに輸送隊はねね達が引き継ぎましたので」
早口で一気に言うと、陳宮は駆け足で呂布の後を追い掛けて行ってしまった。2人の背中をしばらくの間見送った後、鷹那も踵を返し、すぐ側で草をはんでいた自分の愛馬の鞍に手を掛けた。
「さあ、我々も戻りましょう。……どうしたのですか?」
鷹那が振り向くと、そこにはさっきと変わらず頭を垂れたままの一刀がいた。
「ひょっとして、先程陳宮に言われた事を気にしているのですか?」
若干の間の後、一刀は頷く。それを見て、鷹那は鞍から手を離し、一刀の方に体ごと向き直った。
「今回の任務は、輸送隊を何の問題も無く董卓軍に引き渡す事。貴方はそれを果たしたのですから、気に病む必要は無いでしょう?」
「でも、鷹那さんや呂布が助けに来てくれなければ、俺達だけでは守り切れなかった。運が良かっただけです」
俯いたまま言う一刀。しかし、一刀の言った事が間違いである事を鷹那は伝える。
「もしも、当ての無い援軍を待っていたのであれば、それは偶然でしょう。しかし、来る事が分かっている援軍を部隊を鼓舞しながら待っていたのであれば、それは必然ですよ」
不意に傍から聞こえた声に驚き、一刀は思わず顔を上げた。いつの間に近付いていたのか、鷹那は一刀の目の前に立っていた。
「一刀さん、私はこれでも貴方の事を評価しているのですよ」
鷹那は今まで一刀が聞いた事の無い、優しい口調で語り掛けた。恥ずかしくなった一刀は、思わず視線を外してしまう。
「でも、俺は皆みたいに強くはないし……」
「戦場で必要なのは、武勇だけではありません。姫やたんぽぽは、思慮に欠けるところがありますから。状況をしっかりと把握し、考えて動ける者がいてくれれば、私としても助かります」
翠はもちろん、琥珀や蒲公英もどちらかと言えば猪突猛進と言っていいだろう。その事で苦労をしているらしく、鷹那の言葉には実感がこもっていた。
「……軍師みたいに、って事ですか?」
一刀のその言葉に、鷹那は目をぱちくりさせる。そこまで求めるつもりは微塵も無かったからだ。しかし、その気があるのなら、わざわざやる気を萎えさせる必要は無い。物になるかどうかはともかくとして、必死に学ぶ事は良い方向に働くはずだ。
そう思った鷹那は、ほんの一瞬だけわずかに頬をゆるませた。
「軍師とは、随分大きく出ましたね。貴方の努力次第でしょうが、それ位の気概を持ってもらわねば困ります」
一刀と鷹那の目が合う。瞳に力が宿ったのを確認し、鷹那は振り返って自分の馬の方に歩き出した。
「……期待していますよ、一刀さん」
一刀に背を向けたまま呟かれたその言葉は、彼の耳に届く事は無かった。
それから数日後、仕事を終えた一刀の部屋に侍女がやって来て、琥珀が呼んでいる事を伝えた。それを聞いて、今日、琥珀達が匈奴討伐から帰って来る予定だった事を思い出した。仕事に集中しすぎて、すっかり忘れていたのだ。一度大きく伸びをした後、一刀は自分の部屋を出た。
琥珀の部屋の扉を開けると、中ではすでに酒宴が始まっていた。お帰りなさい、と言いながら、いつもと同じ場所に座る。と、蒲公英が何やらニヤニヤしている。
「たんぽぽ、何か良い事でもあった?」
何気なく聞いただけなのだが、蒲公英からは予想以上の反応が返ってくる。
「えっ? 聞きたいの、一刀さん? そっかー、でも、どうしようかなー」
こんな事を言っているが、本当は喋りたくて仕方がない、そんな顔をしている。なので、一刀は少しからかってやりたくなった。
「言いたくないなら、別にいいけど。女の子の秘密を、無理に聞き出そうとは思わないし」
そう言うと、一刀は蒲公英から反対側にいる翠の方に顔を向けた。
「ゴメン、一刀さん。だから、意地悪しないでたんぽぽの話を聞いてよ」
蒲公英は一刀の腕を取り、甘える様に横に振る。
「分かった、分かったから止めろって。こぼれるから」
左腕を大きく左右に振られた事により、右手に持った杯の中身が波打っていた。蒲公英が手を放すと、一刀も座り直して聞く体勢をとった。
「たんぽぽね、ついにやったんだよ。虎殺し!」
「ブーッ!」
蒲公英の話を聞いて、一刀は思わず口の中の物を吹き出してしまった。
「おわっ! 何やってんだよ、汚い!」
文句を言う翠に謝りながら、一刀は手拭いで床を拭く。そうしながら、蒲公英に確認する様に尋ねた。
「虎って、あの虎? 黄色と黒の縞模様の……」
「決まってるでしょ。それとも、天の国には違う虎がいるの?」
三国志の武将には、虎殺しの伝説を持つ者が多い事を、一刀は会話をしながら思い出した。
「まったく、あたしなんか13歳の時に虎を狩ったっていうのに、何言ってるんだ」
横から翠が自慢気に言って、水を差してくる。当然、水を差された側の蒲公英は面白くない。プクーッと頬を膨らませ、唇を尖らせてそっぽを向く。そして、わざと翠に聞こえる様に呟いた。
「仕方ないじゃん。たんぽぽはお姉様みたいに脳筋じゃないんだから」
「脳筋、って言うな!」
2人のやりとりを見ながら脳筋という言葉の意味を理解し、一刀はプッ、と吹き出した。そうしながら、まぐれとは言え、蒲公英によく勝てたものだ、と、そんな事を考えていた。
「……そうだ。そういえば、董卓っていくつなんですか?」
しばらくして、多少酔いも回ってきた頃、思い出した様に口に出した。特に誰かに聞いたわけではなく、そこにいる全員に尋ねる様な言い方だった。
「月はたんぽぽのいっこ下だから……、確か14歳だ。でも、どうして月の歳なんか聞くんだ?」
問いに答えた翠が、逆に問い掛ける。だが、一刀が答えるより先に、蒲公英が口を開いた。
「一刀さん、もしかして……。まあ、月ちゃん、可愛いもんね。どこかの誰かさんみたいな脳筋より、ずっと女の子らしいし」
何か勘違いしたらしい蒲公英は、翠の文句はスルーしてニヒヒと笑う。
「違うよ。そうじゃなくて、あんな小さいのに太守なんてすごいな、と思ってさ」
一刀がそう言うと、同じく勘違いをしていたらしい琥珀が真剣な顔になった。
「月の両親が先代の太守だったのよ。あの子は両親が亡くなった後、その後を継いで安定を治めているの」
琥珀は杯の中の酒を呷ると、思い出す様にゆっくりと話し出した。
董卓の両親、特に父親は太守としてだけでなく、武人としても有名だった。実際、琥珀と互角に戦える数少ない人物だったのだ。そのせいもあり、この2人の間には性別を越えた厚い友情があった。
そんな2人が死んだのは、董卓が10歳になる前。原因は流行り病であった。一度に二親を亡くした董卓であったが、彼女にはそれを悲しむ暇は無かった。後継ぎがまだ幼い少女のみ、と言う事もあって、家臣達が様々な思惑を抱いたためだ。ある者は彼女を見限って出奔し、ある者は彼女に取り入って権力を握ろうとし、またある者は彼女を除いて代わりの為政者を立てようとした。
そんな董卓を助けたのが、彼女の父の無二の親友だった琥珀と、先代からの忠臣、華雄であった。琥珀は董卓の後見人として、華雄は董卓のすぐ傍で、邪な考えを持つ者から彼女を守り続けた。そうしている内に、董卓自身は力を付け、幼馴染みである賈駆も軍師としての知識を蓄えて、太守の地位を確立していった。
「あの歳で苦労してるんだな……」
静まり返った部屋の中で、一刀はボソッ、と呟く。彼は軽々しくこの話を振った事を反省していた。
「……でも、お姉様、大丈夫なの? 将来、叔母様の後を継ぐんでしょ?」
重苦しい雰囲気に耐え兼ねた様に、蒲公英が喋り出した。それに鷹那が続く。
「ですから、姫。将来のためにもしっかりと勉強して頂かないと……」
「いいんだよ。あたしは太守なんて柄じゃないんだ」
鷹那の説教が始まりそうなのを感じた翠は、慌てて話を打ち切ろうとする。その様子を、琥珀は何も言わずに微かに微笑みながら眺めていた。
尚も説教をしようとする鷹那。だが、それよりも早く一刀が口を開く。
「俺は、翠は太守に向いてると思うけど」
その言葉に、4人の視線が一刀に集まった。少しドキッとしたが、話を続ける。
「確かに、政に明るい方が良いと思うけど、それは、得意な人を迎えれば済む話だろ。それよりも、民の事を思いやれる優しさとか、逆に民から慕われる人柄とかの方が重要なんじゃないか?」
「そ、そうか……?」
誉められた翠の顔は、少し赤くなっていた。
その時だった。部屋の扉がノックされ、鷹那の部下の女性兵士が入って来た。
「どうした、こんな時間に」
鷹那の問いに、兵士は背筋を伸ばして答える。
「先程、洛陽の間者から連絡がありました。陛下が……、皇帝陛下が、崩御なされました……」
皇帝崩御の知らせが全国を駆け巡る前の帝都洛陽。その洛陽の中心部にある豪邸の中に、煌びやかな服に身を包んだデップリと肥えた男がいた。男の名は何進。漢帝国の軍事の最高責任者、大将軍である。
「愚帝め、やっと逝ってくれたか。しかし、これで我が甥、弁が次の皇帝だ。そうなれば、いよいよこの俺が全てを手に入れられる……!」
この何進、本来ならば大将軍の様な役職に就ける男ではない。洛陽の街で肉屋を営んでいた、ただの庶民であった。そんな男が、なぜ大将軍になれたのか。その理由は妹にあった。
何進の妹は、大層な美人だった。その美しさを帝に見初められて後宮に入り、弁皇子という世継を身籠ると、何皇后として権力を握る事になる。さらには、宦官である十常侍の強力な後押しにより、何進は大将軍という過ぎた役職を手に入れた。この時の十常侍には、何兄妹に恩を売る事で取り入り、権力を手にしようとする目論みがあった。
だが、時が経つにつれて両者の関係は悪化する。張譲を筆頭とする十常侍と、何進を中心とする外戚との権力争い。今までは水面下で行われていたが、帝が亡くなった今、一気に表面に吹き出し始めた。
「しかし、十常侍共は遺言書を捏造し、協皇子を帝位に就けるつもりの様です」
何進の脇に控えていた男が伝えた。
協皇子とは、弁皇子の異母弟である。帝に似て暗愚な弁皇子と違い、利発で聡明だった。
側近の報告を聞いて、何進は歯噛みする。
「十常侍共め……! おい、国中の諸侯達に檄文を飛ばせ! 宮中を私する十常侍を討つべし、とな!」
黄巾の乱の終結により、平穏へと向かうかと思われた漢帝国は、こうしてさらなる混乱へと進んで行くのであった。