第1章-涼州編・第6話~抱擁~
混乱する賊兵の中、馬上で槍を振るう翠。すでに、賊の陣の真っ只中に突っ込んでいた。だが、そこには賊の大将の姿は無い。
「翠、どうや? 賊共を率いとる奴はおったか?」
張遼もやって来たが、どうやら翠と同じで賊将を見つけられずにいる様だった。
「どうやら、一刀の言った通りになったみたいやね」
翠の横に自分の馬を並べて張遼が言う。しかし、翠は押し黙ったままだ。
「なあ、どないしたんや、翠?」
わずかにうつむき、何かを考えている様な表情を見せる翠の顔を張遼が覗き込む。2人の目が合った瞬間、翠は顔を上げた。その勢いに驚く張遼に翠は、
「すまない、霞。こっちは頼む!」
とだけ言い残し、馬首を返す。
「なっ……! おい、翠、待たんかい!」
そんな張遼の制止も聞かず、翠は陣の裏手にある獣道に馬を飛び込ませた。あくまで獣道であり、普通であれば騎乗したまま駆け抜けるなど不可能な道。しかし、翠の乗馬の腕と彼女の愛馬、麒麟の力によって全速力で駆け下りて行った。
「えっ? ちょ、ちょっと、お姉様!?」
逃げる賊を追撃していた蒲公英は、茂みの中から飛び出して来た翠の姿を見て驚いた。馬の足を止めた翠は、辺りを見回しながら蒲公英に尋ねる。
「たんぽぽ、一刀は? 一刀はどこだ!?」
「えっ? 一刀さんなら、後ろに下がってもらったけど……」
そう言って、後方に目をやる蒲公英と翠。しかし、そこに一刀の姿は見えない。
「あれ? 一刀さんは……?」
緊張感の無い蒲公英を、翠が怒鳴り付ける。
「何やってんだ、たんぽぽ! 一刀を守る様に言ったろ! 護衛の兵1人付けないなんて、何やってんだお前は!」
蒲公英を睨み付けた後、再び一刀の姿を探す翠。
そこからかなり離れた位置に一刀を見付けた翠はホッとするが、そのすぐ側に立つ2人の賊の姿に再び慌てる。
「くそっ! あんな所に!」
翠の乗る馬が駆け出す。その直後、賊の1人が剣を振り上げた。この距離では、いくら麒麟の足でも届かない。
「一刀ーっ!」
翠は一刀の名を叫び、その手に持った槍を投げた。
一刀は自分の名前を呼ぶ声を聞いた。次の瞬間、剣を振り上げた賊兵が血飛沫を上げて吹き飛ぶ。その体は翠の槍に貫かれ、一瞬で息絶えていた。
「な、何だ!?」
何が起こったのか分からず、辺りを忙しなく見回す賊将。完全に意識の中から一刀は消えていた。
「うわあぁぁぁぁぁ!」
突然の叫び声と共に立ち上がる一刀。右手に持った脇差しを体の脇に付け、左手を柄尻に添えると、そのまま体ごとぶつかって行く。
一刀の方に向き直った賊将は、恐怖に支配された顔をするが、その表情を見ても一刀の足は止まらない。脇差しの切っ先が賊将の胸に刺ささる。それでも勢いは止まらず、脇差しは賊将の体を突き抜けた。
「……ゴボッ」
鍔まで脇差しを突き立てられた賊将は、嫌な音と共に血を吐いた。吐血が頭から掛かり、視界が赤く染まる一刀。
「あぁぁぁ!」
再び叫ぶと、両手で柄を握って賊将の胸から脇差しを抜いた。その傷口からは、大量の血が噴水の様に噴き出す。
「一刀、大丈……」
駆け寄って来た翠は、一刀に声を掛けようとして止めた。全身を返り血で真っ赤に染め、血溜りの中に一刀は立ち尽くしていた。
呼吸の荒い一刀。上下に動くその肩を、後ろから不意に掴まれて振り返る。そこには、さっき一刀が殺した男が口から血を流しながら立っていた。驚いた一刀は、振り向きざまに刀を振るい、首を刎ね飛ばす。
頭部の無くなった首から激しく血を噴き出す賊将。しかし、それでも動きは止まらない。恐怖で体を硬直させた一刀の首に手が掛けられる。
「……や、止めろ。止めろーっ!」
ガバッ、と上体を起こした一刀は辺りを見回す。月明かりが窓から差すだけの薄暗い部屋の中には、彼以外誰もいない。静寂が包む部屋で、鼓動だけが大きな音で鳴り響いていた。
「夢、か……」
辺りを確認して、ホッとした様に呟いた。時計が無いため正確な時間は分からないが、窓の外には夜が明ける気配は無い。
ふと、一刀は自分が物凄い量の寝汗を掻いている事に気付いた。寝巻だけでなく、布団までぐっしょりだ。
布団を剥ぐと、ベッドの脇のテーブルの上にある水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。すっかり温くなっていたが、汗を掻いて水分を失った体には、それでも気持ち良かった。
続けてもう一杯。渇いた体に水分が吸収されるのを感じて、心が落ち着いていく。しかし、落ち着くにつれ、今朝の事が思い出されてきた。
「俺は、人を殺したんだ……」
その手に人を刺した感触が蘇り、殺めた賊将の顔を思い出してしまった。その男が最後に見せたのは、絶望、恐怖、怨嗟、様々な感情が入り混じった様な表情だった。
一刀は首を激しく振り、頭の中から消そうとする。と、その時、部屋の扉が何者かにノックされた。突然の事に驚き、心臓が大きく跳ねる。
こんな深夜に一体誰が、そう思い返事をしないでいると、もう一度ノックの音が鳴った。視線を扉から外さずに、一刀は枕元に置いてある太刀を手に取る。
「……誰だ?」
小さく低い声で扉の向こうに尋ねた。
「一刀君、起きてるのね?」
扉の向こうの人物は、そう言って扉を開ける。薄暗いために顔は見えなかったが、声で琥珀であると分かった。
「どうしたんですか、琥珀さん。こんな夜中に」
安心した一刀は、太刀を元の場所に戻しながら尋ねた。しかし、琥珀は何の返事もせずに、ただ黙って一刀の方へと近寄る。
「……琥珀さん?」
もう一度名前を呼ぶが、やはり返事は無い。表情を窺おうとしても、暗くて出来ない。
そのままベッドの脇まで歩くと、その端に静かに腰掛けた。何となく気恥ずかしくなった一刀は、琥珀から視線を逸らす。だが、琥珀はそんな一刀の肩を掴んで振り向かせると、両手でギュッ、と抱き締めた。
「ちょっ……! ムグッ……」
頭を抱きかかえられたため、一刀は琥珀の大きな胸に顔を埋める格好になった。驚いて離れようとするが、力で琥珀に勝てるわけが無い。それでもあらがおうとする一刀の髪を、琥珀の手が優しく撫でた。
「よく頑張ったわね、一刀君。でも、もう我慢しなくていいのよ」
一刀がわずかに緩んだ腕の中で頭を動かし琥珀を見上げると、彼女は優しく微笑んでいた。
「……琥珀さん。俺……、俺っ……!」
一刀の頬を一筋の涙がつたう。それが呼び水となったかの様に、彼の瞳から大量の涙が溢れ出した。
「うぅぅ……。うわあぁぁぁ!」
一刀は琥珀の胸に顔を埋め、大声を上げて泣き出した。
朝に人を殺してから今まで一刀は取り乱す事は無かった。それはその直後もそうで、返り血を全身に浴びて血溜まりに立つ一刀を見て、翠は驚く程冷静だと感じていた。
しかし、心の中はそうではなかった。人を殺した恐怖と後悔、底知れない不安にえもいわれぬ不快感。それらの感情が、一刀の心の内ではない交ぜになっていた。
泣いたり叫んだりして、それらの想いを吐き出したい。全てを捨てて、不安や恐怖から逃げ出したい。そんな気持ちはもちろんあった。だが、一刀はそうしなかった。天の御遣いという立場と、天の御遣いであるという自覚がそれを許さなかったのである。
こうして、表面上は平静を装いながらも、心は激しく動揺している、非常にアンバランスな状態に陥っていた一刀。琥珀により溢れ出した一刀の感情は、まるで堰を切った様に一気に外に放出された。一刀が恥も外聞も無く泣いている間中、琥珀は柔らかな笑みを浮かべ、いとおしそうに一刀の髪を撫で続けていた。
しばらくして落ち着いたのか、ようやく一刀は泣き止んだ。しかし、まだ琥珀の胸に顔を埋めたままだ。
「……フフッ」
そんな一刀の頭の上から笑い声が聞こえる。笑われた、と思い、恥ずかしくなりうつむく一刀。その気持ちを察したのか、琥珀が口を開く。
「違うのよ。昔の事を思い出したの」
「……昔の事?」
一刀は琥珀の胸の中で彼女の顔を見上げた。
「ええ。翠もたんぽぽも、初めての夜は1人で寝れなくてね、私の布団の中に潜り込んで来たの。特に翠はね、夜中に廁に行けなくて、おねしょまでして……」
自分で喋っていて思い出した様で、笑いを堪えながら話した。あの翠ですら、初めて人を殺した後は普通ではいられなかったのだと分かり、一刀は少しホッとする。しかし、それと共に疑問が浮かぶ。
「……それなのに、何で今は平気で人を殺せるんですか? やっぱり、慣れるものなんですか……?」
「……ええ。あなたの考えている通りよ。きっと、一刀君も徐々に慣れていくわ。だから、心配しなくても大丈夫」
そう言って、また一刀の髪を撫でた。だが、彼にしてみれば、人を殺す事になど慣れたくはない。一刀が黙ったままでいると、
「もし辛ければ、刀を返してくれてもいいのよ。今なら、まだ間に合うわ」
と、琥珀が言った。
確かに、これ以上人殺しはしたくない。思わず、はい、と言いそうになってしまう。だが、一刀は刀を受け取った時に言った言葉を思い出した。
自分が戦う理由。それは、世話になった人達に恩を返すため。そして、力を持たない人々を守るため。それなのに、ここで戦う事を止めてしまったら、それらの人達を裏切る事になってしまう。
そんな風に考えた一刀は、想いを包み隠さず琥珀に伝えた。
「……その気持ちを忘れちゃ駄目よ。どんなに辛くても、戦う理由さえ覚えていれば道を誤る事はないから」
琥珀はまるで諭すかの様に、優しく、そして強い口調で言う。それを聞きながら、一刀は何だか懐かしい感覚に教われていた。その内に頭が少しボーッとして来る。
「うん……。ありがとう、母さん……」
2人の間の時間が止まる。先に何を言ったのか理解したのは一刀の方だった。
「……あっ、違っ! ご、ごめんなさい!」
まるで学校の先生に向かって、お母さん、と言ってしまった時と同じ様な恥ずかしさに襲われた一刀。とっさに謝るが、琥珀は黙ったまま肩を少し震わせている。もしかして怒らせてしまったのか、と考えていると、琥珀は力一杯一刀を抱き締めた。
「あーん、もう、可愛い。母さん、だって。私、こんな息子が欲しかったのよ!」
そう言って、少女の様に喜ぶ琥珀。だが、琥珀に力一杯抱き締められている一刀にしてみれば、この状況はたまったものではない。骨が軋む位痛いし、何より、胸に顔を押し付けられて窒息しかねない。なんとか脱出を試みるものの、力では琥珀にかなう訳も無く、一刀はただただ藻掻く事しか出来なかった。
しかし、それが功を奏した。柔らかい布団の上だったため、2人はバランスを崩して倒れてしまう。その衝撃でようやく我を取り戻したのか、琥珀は力を弱めて一刀に謝った。
「……あ、いえ。大丈夫です……」
そう言ったものの、一刀は動かない。今になってやっと、琥珀の胸に顔を埋めているこの状況に気が付いたためだ。
薄い寝巻一枚通して、琥珀の体温と柔らかい感触を感じ、甘い香りが鼻腔をくすぐった。理性と欲望が一刀の頭の中で激しく戦う。と、そんな時だった。部屋の扉が、バンッ、と大きな音と共に勢いよく開け放たれた。
その音に驚いた2人が入口を見ると、そこには翠の姿があった。
「☆×○△□……!」
目を大きく見開き、何か驚いた感じで口を開けて、何事か呟いている。その手に持った蝋燭の灯りに照らされた顔は、いつもよりもさらに赤く見えた。
翠の様子を見て不思議に思った2人は、互いの目を見てハッとする。この状況は、一刀が琥珀を押し倒して襲おうとしている、としか見えない。その事に気付き、2人は弾けるように離れた。
「……ど、どうしたの、翠? こんな時間に……」
ベッドの上で座り直し、乱れた寝巻を整えながら琥珀が尋ねる。
「……あ、あたしは、廁に行こうとしたら泣き声が聞こえたから、どうしたのかと思って……。そしたら、一刀が母様を……。そうだ、一刀! お前、あたしの母様に何するつもりだったんだ!?」
喋っているうちに、驚きや恥ずかしさといった感情は怒りに変わってしまったらしい。蝋燭の揺れる灯りに照らし出された恐ろしい表情のまま、翠は2人にゆっくりと近付く。そんな翠をなだめようと、琥珀は恐る恐ると言った感じで声を掛けた。
「……ち、違うのよ、翠。これは……」
「母様は黙っててくれ!」
琥珀は、西涼の狼、と呼ばれて中原にまでその名が轟いている程の勇将である。その琥珀を、翠は一喝して黙らせる。
琥珀という防波堤を失った一刀。彼の頭の中には、すでに理性も欲望も無く、本能だけが目の前に迫りつつある脅威に対して警報を鳴らし続けている。
「で、どういう事なんだ、一刀?」
一刀を見下ろしながら近付く翠。そんな彼女に下手な嘘や言い訳は危険だと感じた一刀は、今の状況を正直に話す事にした。
「翠と同じだよ。朝の事を思い出したら怖くて、琥珀さんに慰めてもらってたんだ」
翠と同じ、その前振りが効いたのか、翠は足を止める。そして、その言葉の真偽を確かめるかの様に琥珀へと視線を移す。
「ええ、そうよ。一刀君がうなされている声が聞こえたから、心配になって来てみたの。そして、話を聞いて慰めてあげていただけ」
これは、琥珀が一刀の部屋にいる理由であって、一刀が琥珀を押し倒していた理由にはならない。だが、翠はそれで納得したようだった。
「そ、そうか。まあ、そうだよな、うん。初めてだったんだし、しょうがないな」
独り言の様に言うと、翠は照れ隠しで笑う。
「……お前の周りには、あたしなり母様なり誰かしらいるんだから、1人で抱え込む必要なんか無いんだからな。お前は1人じゃないんだぜ」
「うん、ありがとう」
翠の表情が柔らかくなった事で、2人の緊張も緩む。特に、命の危機に瀕していた一刀は一気に気が緩んでしまった。
「でも、初陣にしてはよくやった方だと思うぜ、あたしは」
「そんな事ないよ。それより、意外だったな。翠が怖くて廁に行けずにおねしょをしたなんて」
一刀には、しまった、と思う暇も無かった。言い切るか言い切らないかのうちに、翠の拳が一刀の顔面を襲ったからだ。
「う、嘘だ! 出鱈目だ、そんなの! そうだろ、母様!」
ベッドの上に前のめりに倒れた一刀に向かって大声で言った後、琥珀の方に向き直って同意を求める翠。その顔はさらに真っ赤になり、目には涙が浮かんでいる。この表情と語気に気圧され、琥珀は思わず頷いてしまった。
「な! だから、忘れろ! いいな!」
だが、その声は一刀には届かない。翠の拳がクリーンヒットした時に、すでに気絶していたからだ。
こうして、一刀は琥珀と翠のお陰で悪夢にうなされる事も無く、無事に朝を迎える事が出来た。
その後、数回の出陣をし、その度に幾人かの人を殺めた一刀。琥珀の言ったように慣れはしなかったが、悪夢を見る事はなくなっていった。