第1章-涼州編・第5話~初陣~
武威の城内の中庭。その中庭の一画にある鍛練場からは、普段と変わらぬ剣戟の音と気合いの入った声が響く。だが、今日は普段と違う事が1つだけあった。
「ま、参りました……」
喉元に訓練用の模造刀を押し当てられた状態の蒲公英が言う。では、模造刀を振るっていたのは誰かと言うと、一刀であった。フーッ、と大きく息を吐いてから剣を下ろす。
「う〜、一刀さんに負けるなんて〜」
蒲公英は大変悔しそうだ。それもそのはず、初めて蒲公英は一刀に負けたのだ。しかも、蒲公英達4人の中で初めての負けであった。
その日の夕飯後、一刀は琥珀の部屋に呼び出された。これ自体は珍しい事ではない。週に1〜2回は、小さな宴会の様な雰囲気で酒盛りをしているのだ。今回も祝勝会の名目で酒盛りでもするんだろう。そんな事を考えながら、一刀は琥珀の部屋のドアを開けた。
しかし、一刀の予想に反し、部屋の中には徳利の1本も無かった。琥珀の雰囲気もいつもと違う感じがし、姿勢を正してその前に立った。
「まずはおめでとう、一刀君」
そう言ったものの、琥珀の表情は崩れない。
「あなたに渡したい物があるの」
琥珀がそう言うと、脇に控えていた鷹那が細長い木箱を取り出して机の上に置いた。蓋を外してみると、中には2本の剣。鞘に納まってはいるが、緩やかに反った形状。長さの異なる2本の剣は、まさしく日本刀の様だった。
そう言えば、と一刀は思い出した。しばらく前、日本刀について琥珀に詳しく話をした事を。
兵への支給品がそうである様に、訓練用の模造刀も両刃の直刀である。そのため、反りのある日本刀とは、どうしても扱い方が違ってくる。その事に悩んでいた一刀が琥珀に相談した時に、日本刀の事を色々話したのだった。
一刀はゆっくりと、まるで魅入られたかの様に2振りの刀に手を伸ばしていく。だが、その手が刀に触れる直前、琥珀の鋭い声が響いた。あまりにも突然の事に驚き、一刀の手は止まった。
「ただし! もし、この剣を受け取ったなら、今後あなたには武官としても働いてもらうわ」
その言葉に一刀の体が固まる。琥珀の目を見るが、当然冗談という訳ではなさそうだ。
一刀の動揺を感じ取ったのか、琥珀は少し表情を緩めて続けた。
「私はあなたの内政能力を高く評価しているの。だから、もし受け取らないとしても、それならそれで構わないわ」
一刀は再び刀へと視線を落とす。黙ったまま、身動き1つしない。
「……そうね。すぐに答えの出せる事ではないでしょうし、今夜一晩じっくりと……」
「……いや、大丈夫です」
琥珀の言葉を遮ると、一刀はおもむろに刀をつかんだ。その表情には、すでに迷いが無い。
「……分かっているの? 私は人を殺せと言っているのよ。あなたにその覚悟がある?」
少し怒った様な口調の琥珀。迷いがあるのは、むしろ彼女の方かもしれない。
刀を手にした状態で、再度琥珀の目を見る一刀。そのまま、ゆっくりと口を開く。
「俺が今こうしていられるのは、琥珀さんや翠のおかげです。もしあの時追い出されていたら、きっとどこかでのたれ死んでいたと思います。だから、その恩に報いたい」
もちろん、琥珀は一刀を善意のみで助けた訳ではない。彼自身、そして天の御遣いの名に利用価値を見出だしたから、というところが大きい。しかし、一刀にしてみればどちらでもよい。彼にとっては、助けてもらった、という事実こそが大事だった。
「……確かに、覚悟は決まってない。人を殺したくなんかない……。でも、嫌なんです! 傷付いている人がいるのに、自分だけ安全な場所でぬくぬくと暮らしていくのは。苦しんでいる人がいて、それを救う力があるのに見過ごす様な真似はしたくない!」
大声ではっきりと自分の決意を述べる一刀。その拳は痛い位強く握られていた。
今日も一刀は夜の自主トレを行っていた。しかし、普段とは違い、その手には先程拝した刀が握られている。
わずかに反ったその形状は確かに日本刀に似ているが、刀身はそれよりも厚い。その分重いが、それでも配給されている剣よりは軽かった。その刀の感触を確かめる様に型を繰り返す一刀。
鍛練が一区切り付いたところで、後ろから声を掛けられる。振り返ると、そこには翠が立っていた。
「本当にいいのか、一刀?」
近くに篝火も無いために、翠の顔を照らしているのは月明かりだけだ。だが、それでも翠の真剣な表情は分かる。
「翠も反対なのか?」
あの場では誰も反対しなかったが、それは表立って、というだけで賛成もしていない。蒲公英でさえ、
「叔母様と一刀さんが良いなら、たんぽぽは構わないけど」
と言っただけであった。
「あたしはたんぽぽと一緒だ。ただ、お前が本当にそれで良いのか知りたいだけだ」
翠の問い掛けに、一刀は太刀を鞘に戻しながら答える。
「俺は知りたいんだ。自分が何者なのか、何が出来るのか」
いきなりの言葉の意味を分かりかねた翠は、ポカンとした様な間の抜けた顔をしてしまう。その表情に思わず笑いそうになり、一刀は体を横に向けて続けた。
「俺の剣の師匠でもある爺ちゃんがよく言ってたんだ。全ての物事には、必ず原因がある、って」
剣術道場を開いていた祖父に、一刀は小さい頃から懐いていた。祖父もまた、そんな一刀を可愛がった。剣を教えるだけでなく、様々な所に連れ出し、色々な話を聞かせたりしていた。幼少時代の一刀にとっては、両親よりも大きな存在であったのだ。
「だから、きっと俺がここにいる事にも意味があるはずなんだ。それを知るためにも、俺は現実を知らなきゃならない。そうして初めて、俺に出来る事やしなきゃならない事が分かるんだと思うんだ」
強い決意を秘めた瞳で夜空を見上げる一刀の横顔に、翠の心臓は思わずドキリと跳ねた。
「……ま、まあ、安心しろよ。あたしが守ってやるからさ」
気恥ずかしさをごまかす様にそれだけ言い残し、翠は早足でその場を立ち去った。その背中を見送ると、一刀は再び刀を抜いて刀身を見つめた。
一刀の初陣は、彼が考えていたよりもずっと早く訪れた。蒲公英に勝ってから3日後、一刀は賊討伐に出陣した。場所は武威郡と安定郡の郡境。
中原を荒らし回った黄巾党の首領、張角が討ち取られたという噂は、すでに西涼にまで届いていた。しかし、情勢が安定しつつある中原とは対照的に、今まで黄巾党の被害にあっていなかった地方に賊が出現し始めた。これは、指導者を失った黄巾党の残党が、官軍の追撃を逃れるために地方に散って行ったためである。
今回、一刀達が討伐の対象としている賊も、黄巾党の残党だった。元々、安定郡に流入したのだが、そこで董卓軍の攻撃を受けた。そこを逃げ出した者達が武威郡に入り、周囲の賊を吸収して大きくなったのだった。
そんな経緯があるため、今回の討伐は董卓軍との合同作戦になっていた。
馬騰軍の大将である翠は、副将の蒲公英、そして一刀を参謀として三千の騎兵を率いて進軍していた。先頭を走る翠が、その後ろを走る一刀に馬を寄せる。ちなみに、この世界に来てすぐの頃から馬術の練習をしていたため、行軍だけであれば問題無かった。
「一刀、緊張してるのか?」
馬を並走させて、翠が尋ねる。緊張を表に出している自覚は無かったし、蒲公英も気付いていなかったが、翠だけは一刀の緊張を見抜いていた。
「安心しろ。母様からは、お前を前線に出さないように言われてるんだ。しばらくは、戦場の空気に触れるだけでいい」
その言葉に、一刀は心底ホッとした。と同時に情けなく思う。琥珀達の前であれだけ大きな事を言っておきながら、実際に戦場に着く前から緊張でガチガチになっているからだ。
「それに、言っただろ。あたしが守ってやる、って」
「ああ、そうだったな。ありがとう」
まだ若干硬いが、一刀は翠に笑顔を返した。
「おう、久しぶりやな、翠!」
董卓軍との合流地点に着くなり、1人の女性が明るく声を掛けてきた。上半身は胸にサラシを巻いて肩に羽織を掛けただけ。下半身は袴に下駄履きという服装に一刀が目のやり場に困っていると、女性の方から近付いて声を掛けてきた。
「あんたが北郷一刀やな。なるほどな〜」
興味津々といった表情で、頭の天辺から爪先までジロジロと見てくる。少し前かがみになって見てくるため、一刀の目に胸の谷間が飛び込んで来て顔が赤くなった。それに気が付いた女性は、身をよじって悪戯っぽく笑う。
「なんや、詠の言うとった通りスケベなんやね」
「なっ……!」
恥ずかしさで一気に顔が真っ赤になるのが自分でも分かる。その様子を見て、女性は大声で笑いながらバシバシ一刀の肩を叩く。
「あっはっは。冗談や、冗談。ウチは張遼、字は文遠や。よろしゅうな」
張遼文遠。歴史では董卓や呂布に従った後、その生涯を終えるまで曹操に仕えた名将である。
その張遼の後ろから翠が声を掛ける。
「霞、一刀をからかうのはそのくらいにして、軍議をするぞ」
そやね、と言って振り返ると、張遼は天幕に向けて歩き出し、一刀達もそれに続いた。
天幕に入ると、張遼はテーブルの上に地図を広げて状況説明を始めた。
賊の根城は、今一刀達がいる場所から3キロ程離れた位置にある小さな山の頂上にあった。斥候の情報では、草木の生い茂る山の中を通る道は1本しかない。
「ちゅー訳やから、ウチの隊と翠の隊とで街道の両側から攻めたらええんや」
張遼の作戦に翠はうなずいた。しかし、そこに一刀が口を挟む。
「なあ、本当に他に道は無いのか? 大軍が通れる様な大きな道じゃなくて、獣道みたいなのとかさ」
翠と張遼はどういう事かと尋ねてくる。
「根城を破壊するのが目的ならともかく、今回は賊の……殲滅が目的なんだろ? だったら、逃げ道は完全に潰しておかないと」
その説明を聞いて、確かにそうだ、と感じた張遼は、再度斥候を放った。
結果、一刀の心配した通り、根城のすぐ裏からふもとまで抜ける小道の存在が確認された。それを受けて、改めて作戦を練り直す。
張遼が董卓軍三千を率いて街道の東から、翠が馬騰軍三千の内二千五百を率いて西から攻め上がる事にした。そして、残りの五百を蒲公英が率いて小道の出口をふさぐ。一刀もこの別動隊に配置される事になった。
その後、夜半過ぎまで休んでから出陣する。賊に気取られない様に、夜の闇に紛れて根城へと近付いて行った。
荒野の彼方に朝日が昇り、夜明けの静寂を銅鑼の音が打ち破る。
「よっしゃ! 張遼隊、出陣や! 馬超隊に遅れんなや!」
「馬超隊、行くぞ! 賊を1人たりとも逃がすなよ!」
銅鑼の音を合図に、2人の指揮官は部下に檄を飛ばし進撃する。雄叫びと馬の蹄の轟音が辺りに響き渡った。
「始まったみたいだね」
蒲公英は横にいる一刀に聞こえる様に呟いた。剣戟の音と共に聞こえてくる断末魔の叫び。見る見る一刀の顔が青ざめる。それを見た蒲公英が心配そうに声を掛けた。
「だ、大丈夫なの? 無理そうなら、後ろに下がってた方がいいよ」
「……ごめん、そうさせてもらうよ」
一刀には、すでに強がりを言う余裕も無かった。蒲公英に背を向けてその場から離れる。情けなくも悔しくもあったが、恐怖には勝てなかった。
蒲公英達から離れた場所で気持ちを落ち着かせようとしていると、彼女の前の茂みがガサガサと揺れた。蒲公英達はもちろん、離れた所にいる一刀にも緊張が走る。蒲公英は隠れている兵達に目配せして、戦闘に備えさせた。
茂みからは予想通りに賊が出て来る。それも、1人2人ではない。数10人もの賊がゾロゾロと、安堵の表情を浮かべて出て来た。
だが、すぐには飛び出さない。賊を逃がさない様に、十分に引き付ける。
「今だよ! 馬岱隊、突撃ーっ!」
賊達が7割方茂みから出て来たところで、蒲公英は部隊を突撃させる。逃げ切れた、そう思った時に襲撃され、賊達は一気に崩れていった。
自分の視界の中で行われる殺し合いに、一刀の意識は遠くなっていく。一刀は恐怖に耐えながら、必死に意識を繋ぎ止めていた。
賊の一部が再び茂みの中に逃げ、それを蒲公英達が追い掛け始めた時だった。一刀の後ろの茂みが揺れた。
とっさに隠れて様子を窺うと、茂みの中から3人の男が出て来る。
「どうやら逃げ切れたようですぜ」
脇にいる男が真ん中の男に話し掛ける。
「ああ。まあ、時間稼ぎ位しか使い道の無い連中だからな」
笑いながら中央の男が言う。その雰囲気と言葉の内容から、一刀はこの男が賊の大将だと当たりを付けた。
逃がす訳にはいかない、と思うが、蒲公英達はこちらに気付いていない。どうするか悩んでいる間にも、賊達は離れて行く。
『くそっ! 何やってるんだ、俺は!』
一刀は意を決して飛び出した。
「待て、お前等!」
大声で3人の背中に向かって叫ぶ一刀。その右手は刀の柄に掛かっている。
振り返った3人は驚いた様な怯えた表情を見せたが、すぐにそれは消えた。一刀1人、しかも、足が微かに震えている事に気が付いたためだ。
「おい、とっとと殺っちまえ」
賊将はそう言うと、一刀に背を向けた。2人の手下が笑いながら剣を抜き、一刀に近付いて行く。
一方、一刀も刀を鞘から抜いて片手で構えた。すでに、一刀の体から震えが消えている事にも気付かず、賊兵は不用意に間合いを詰める。2人が剣を振り上げた、その瞬間だった。
「ぐわっ!」
「がっ……!」
短い悲鳴を残して、賊兵は地面に倒れた。
一刀は彼らを殺してはいない。刀の刃を返して、峰打ちで昏倒させただけだ。
一刀にとって、殺される事は確かに怖い。だが、それと同じ位、殺す事に恐怖を感じていた。しかし、峰打ちならば、頭部を強打する様な真似をしない限り、相手を殺してしまう可能性は低い。そう考えるだけで、一刀の体と心は随分と軽くなった。
だが、戦場はそれほど甘くはなかった。
1人残った賊将は、腰に下げていた斧を手に取り、一刀ににじり寄る。その斧は、華雄が持っていた柄の長い戦斧の様な洗練された武器ではない。木こりが使う木製の短い柄の斧である。
だが、その無骨なデザインと血錆の浮いた刃は一刀を威圧する。
「調子に乗んな、このガキッ!」
力一杯振り下ろされる斧。一刀はそれを大きく後ろに跳んでかわした。続けて振るわれる斧も、華麗な足捌きで避けていく。
武術に関して何の心得も無く、ただ力任せに斧を振り回すだけの攻撃など、今の一刀には全く問題無い。斧をかわしながら、カウンターのタイミングを計る。
だが、一刀は目の前の相手に集中しすぎていた。攻撃をかわすために後ろに引いた右足を、何者かに捕まれ引っ張られる。突然の事に為す術無く倒れる一刀。一体何が起こったのかを考えるよりも先に、彼は地面の上を転がった。その直後、一刀がいた場所に向けて斧が振り下ろされた。
距離を取った後、片膝をついて起き上がる。そこには賊将ともう1人、先程昏倒させたはずの男が立っていた。
打ち込んだ場所が微妙にずれていたのか、それとも無意識の内に力を抜いてしまったのか、それは分からない。しかし、賊兵の1人は一瞬意識が飛んだだけで復活していた。
と、一刀の目にそこにあるはずの無い物が映る。賊将もそれに気付いたのか、余裕たっぷりに笑いながら拾い上げた。
「へっ、武器を手放すなんて、間抜けなガキだぜ」
そう言って、賊将は拾ったそれを背後に投げ捨てた。
今さっきまで一刀の右手に握られていたはずの太刀。倒された拍子に手放してしまったのか、地面を転がった時なのか。ともかく、一刀自身も気付かないうちに、太刀は彼の手からこぼれていた。
片膝をついたまま、慌てて脇差しを抜く。太刀よりも、圧倒的に心許ないその姿に不安を覚え、再び恐怖が彼を支配しようとしたその時だった。
「一刀ーっ!」
少女の叫び声が辺りに響いた。