赤壁の戦い2
それは夜も更け始め、孫権が眠りにつこうとした時の事だった。急に天幕の外が騒がしくなり、寝巻きから戦装束へと着替え直して寝台を下りた。
「何事か!」
天幕から出るなり、彼女は1人の兵を捕まえた。慌てた様子の兵は荒い呼吸のままで答える。
「は、はい。それが……、黄蓋様が部下と共に脱走をしたふと……」
「なっ……! そ、そんな訳があるものか!」
黄蓋は孫権の母、孫堅の代からの忠臣である。姉である孫策と衝突はしていたが、脱走などと夢にも思わなかった事だ。孫権が狼狽しながら問い詰めると、背中から声をかけられる。
「本当の事よ。祭は直属の部下を連れ、船を奪って脱走したわ」
振り返った孫権の視界には孫策と周瑜の姿があった。
「姉様、本当に間違いではないのですか!?」
「ええ。すでに穏と亞莎が追撃に出ているわ。あなたも出陣の準備をしなさい」
孫策の様子はいたって平静に見えた。自分とは対照的なその姿に、孫権の中に怒りが生まれる。そもそも、今回の原因の大部分は姉様にあるはずなのに。文句を言おうと彼女は口を開く。
「ねえさ……!」
「出陣の準備をしろと言ったはずよ、蓮華!」
だが、機先を制されたうえに強い語勢に圧され、言葉を飲み込んでしまう。
こうなると、言いたい事も言えなくなった。不満げな顔で返事をし、自分の部隊に合流するためにその場を後にする。
「よかったのか? 蓮華様に本当の事をお伝えしなくて」
己の声が届かない距離にまで孫権が離れるのを待って、周瑜は孫策に尋ねた。
「いいのよ。あの娘は考えが面に出やすいから。祭の脱走が曹操を打ち破るための偽投降だと知れば、きっといつも通りではいられなくなるもの」
「フッ、お前が言うと説得力が無いな」
妹の事を思う孫策は柔らかく微笑んでいた。その顔は、吹き出した周瑜の言葉を聞いてぷくっと膨らむ。
「もう、何よ。私は腹芸の事を言ってるの」
「分かった分かった。ほら、私達も行くぞ」
適当に相槌を打って歩き出す周瑜。しかし、孫策は頬を膨らませたまま、すねたような態度で立ち止まっている。
仕方ない、という風にため息を吐いた周瑜が声をかける。
「何をしている。腹芸が得意なんだろう、雪蓮?」
「……もうっ! 冥琳の意地悪っ!」
黄蓋とその部下は奪った船に乗り込み、曹操軍が陣を張る長江北岸を目指す。その数は10隻。いずれも小型の船ではあるが、葦や藁を大量に積んでいる。この燃えやすい枯れ草に火をつけ、船ごと曹操軍の船団に突撃をかける、というのが孫策軍の作戦である。
もちろん、その一撃だけで勝利を納める事が出来るとは考えていない。目的は相手の出鼻をくじき、指揮系統を混乱させる事にあった。
袁紹軍、涼州軍、さらには劉表軍と立て続けに他国の軍を併合してきた曹操軍。短期間での強大化には成功したものの、それゆえの問題を抱えていた。各部隊における練度の差と連係の弱さだ。そこを見抜いた周瑜は火計を絡めた先制攻撃を画策したのである。
とはいえ、ただ単に火計を仕掛けようとしても上手くいくはずがない。単純に近付いただけでは、曹操軍の船団に到達する前に撃沈させられるのは目に見えている。いかにして敵船に近付き、虚を突いて火計を実行出来るか。それを考えた末の策が、黄蓋による偽投降だった。
敵将の乗る船が接近してきたとして、それが投降を誓った者であるならば撃破しようとは考えない。よって、安全に相手へと近付ける。さらに周瑜はもうひとつ、手を講じていた。
「ふむ、どうやら穏と亞莎は遅れずについてきておるようじゃな」
船の上に立った黄蓋は後方を眺める。月明かりのない川面には、いくつもの小さな灯りが見えた。黄蓋を追撃している陸遜と呂蒙の指揮する船団だ。
単に投降をするだけでは、ほぼ間違いなく検閲を受ける。そこで船に積んだ枯れ草を見付けられてしまえば、相手の虚を突く事はおろか、火計を仕掛ける事すら叶わなくなってしまう。
だからこそ、あえて追撃されている風を演じた。この状況であれば、停船させて検閲を行おうとはしないからだ。
「しかしまあ、儂の船についてくるとは大分成長したものじゃ」
黄蓋は満足そうににんまりと笑う。
長江北岸にある曹操軍の陣は、南岸にある孫策軍の陣から見ると、真北ではなく北西から西北西の方角になる。当然、長江をさかのぼる事になり、船脚を伸ばしにくい。それでも引き離されずにいる2人の操船技術の高さに、彼女達の教育係も務めていた黄蓋は嬉しさを覚えていた。
「黄蓋様、前方に灯りが! 曹操軍です!」
兵の報告で黄蓋は顔を船の正面に向ける。闇の中に大量の篝火が浮かぶ。後方から追ってくる数とは比べ物にならない量である。
篝火の数は接近するにつれてさらに増していく。大きく横に広がった無数の灯りは、まるで天の川が地上に落ちたかのようだ。
「よいな、お主ら! 儂らの働きに孫家と江東の未来がかかっておる! 命を惜しむな! 儂らの手で勝利をつかむのじゃ!」
黄蓋の檄に兵達から喊声が上がった。
敵中に飛び込み半ば特攻をかける。彼らは決死隊のようなものだ。しかし、誰の目にも悲壮感は見えない。使命に燃えた、力強い眼差しを見せている。それは黄蓋も同様だった。
これからの世を占う大戦。その趨勢を決め兼ねない先陣を飾れるのは、武人としての誉れ以外の何物でもない。今までにない充足感を覚えながら、彼女は舳先に身を低くして構える。その瞳はただ真っ直ぐに船の行く先を見詰めていた。
放たれた矢のような勢いで水面を滑る船の群れに、別の方向からやって来た一回り大きい船が並びかける。そこから1人の兵が顔を出し、並走する船へと大声で呼び掛けた。
「その船に乗っているのは孫家の将、黄蓋か!? ならば停船しろ! 検閲を行う!」
かなりの速度が出ているために、船は激しく暴れている。振り落とされないよう、船体にしがみつきながら居丈高に命令する様は非常に情けない。
「ばかを申せ! 儂らは追撃を受けておるのじゃ! 今、船を止めればもろとも沈められるぞ! 船を改めたいのであれば、安全な所までたどり着いてからにせい!」
対する黄蓋は、身を低く屈めてはいるものの、激しい上下動を上手くいなして苦にした様子を見せていない。
黄蓋に命令をした兵が必死の形相で後方を確認する。それを見て、彼女は船の速度を上げさせた。すでに一杯だった曹操軍の船はみるみる引き離されていく。何かを叫んだようだったが、風と波の音にかき消されて黄蓋の耳には届かない。仮に制止させられていたとしても、船脚を緩める事はなかっただろう。
波間を進む船はぐんぐんと速度を上げる。正面に見える灯りはどんどんと近付いてくる。ついには船体をぼんやりと視認出来る距離にまで接近してきた。
闘艦と呼ばれる大型の船がずらりと並ぶ。だが、黄蓋達の攻撃目標はここではない。艦隊の最前線に火をつけたとしても効果は薄い。大打撃を与え、混乱をより大きいものにするためにも、艦隊の奥にまで突っ込む必要があった。
手だれの水兵が操る船は闘艦の間を縫うように進む。そうして敵船の脇をすり抜け終わる、その直前だった。
「いかん! 皆、伏せよ!」
黄蓋が切羽詰まった声を出す。ほぼ同時に短い悲鳴がいくつも上がり、次いで川に何かが落ちた大きな水音が闇に響く。先程まで10人いたはずの兵は、黄蓋が歯噛みしながら振り返った時には2人にまで減っていた。
闘艦の間に綱が張られている事に気が付いたのは、本当に寸前の事だった。彼女自身、身を屈めていたためにその罠にかからなかったに過ぎない。腰を浮かせていたり、船を漕ぐために座っていたりしていれば、今ごろは長江の流れに飲まれていただろう。残った2人が無事な事を確認すると、黄蓋は他の船へと視線を移す。やはり、どの船にも2、3人の人影しか見えなくなっていた。
櫂を操る者がいなくなり、一気に船脚が鈍くなる。このままではいけない事は分かっていたが、黄蓋は対処を決めかねていた。
罠が仕掛けられていた、という事は、偽投降が見破られていたからに他ならない。ならば、この先にも何らかの罠がある可能性は高い。そこを減らされたこの人数で突破できるものか、黄蓋には自信がなかった。かといって、後退もできない。そんな事をすれば、作戦が全て台無しになってしまう。
「いい様だな、黄蓋よ!」
迷っている黄蓋の耳に嫌らしい声が飛び込んできた。前方よりゆっくりと近付いてくる闘艦の舳先に、1人の男の姿が見えた。
「蔡瑁か……。お主、いったいどういうつもりじゃ!? 儂らは……」
「どういうつもり、だと? ふん、貴様らの三文芝居ごとき、曹操様が見抜けんとでも思ったか!」
黄蓋は返す言葉に詰まる。今更なやり取りだった。
「さあ、矢を射かけろ! 奴らを沈め、戦の口火を切るのだ!」
大きく腕を振ると共に発せられた号令を切っ掛けに、曹操軍の軍戦から無数の矢が放たれた。黄蓋達の船は降り注ぐ矢の雨に包まれ、生き残っていた彼女の部下も次々に倒れていく。それでも黄蓋だけは剣と弓を左右に振り、何とか耐えていた。
ここで死ぬ訳にはいかん。せめて一矢報いねば。
そんな決死の覚悟も呆気なく崩される事となる。
「火矢を使え! 奴等の船を燃やし、我等の勝利の狼煙を上げろ!」
幾多の真っ赤な流星が闇夜に舞った。それらは船へと落着すると、あっという間に枯れ草を燃え上がらせた。
「くぅっ! すまぬ、策殿! この老駆、お役に立つ事が出来なんだ!」
炎に包まれ沈み行く船の上に、黄蓋の絶叫が響いた。
曹操軍の大船団、その最後方に一際大きく豪華な船が浮かんでいる。旗艦であるこの楼船の上には、曹操とその重臣達の姿があった。船の一番高所に備えられた椅子に腰を下ろし、肘掛けに腕を乗せ、前方を見据える。その視線のずっと先にはわずかな明かりが見えていた。
「報告します。黄蓋の船を撃沈、火の手の上がり方からやはり藁等を積んでいたであろうとの事です」
兵からの報告を聞き終わると、曹操は脇に並ぶ郭嘉へと顔を向けた。
「見事ね、稟。黄蓋の投降が偽りである事を見抜いたあなたの功は大きいわ」
薄く微笑みながら、そう賛辞を送った。
黄蓋の投降。それが孫策の仕掛けた計略であると見抜く事が出来たのは、知恵者揃いの曹操軍の中でも郭嘉だけであった。周瑜の手配が周到で、間者だった蒋幹がすっかり騙された事も原因ではあったが、何よりも軍中に広がり始めた倦怠感が冷静な判断を難しくしていたのだった。
主からの称賛を受け、郭嘉はわずかに頭を垂れる。しかし、その表情は緩んではいない。敵意にも似た嫉妬の目を向けてきている荀或を視界の端に納めながら、彼女は1歩進み出た。
「華琳様、まさに今こそ孫策と劉備を討つ好機。どうか全軍に号令を」
膝を折り、深々と頭を下げて進言する郭嘉。その姿を見下ろしていた曹操の顔から笑みが消える。と同時に、両の足で甲板を踏み抜かんばかりの勢いで立ち上がった。
「我が手により孫策の愚策は潰えた! 敵の浮き足立つ今こそ、孫策と劉備を討つ絶好の機会! 奴等を滅ぼし、この地に新たな秩序と平和の礎を築くのだ!」
曹操の力強い号令に鬨の声が上がる。彼女の乗る船から上がった声は他の船へと伝播し、穏やかだった長江の河面に白波を立たせるまでに広がっていった。
長黄蓋の偽投降失敗の報せを受けた孫策は、分かった、とだけ言って報告にきた兵を下がらせた。彼女は長江のほとりに周瑜と立ち、曹操の陣がある方角をしばらくの間、見詰めていた。
不意に長江から風が吹いた。
「祭は無事かしら?」
風になびく長い桜色の髪を抑えながら孫策が口を開く。対する周瑜は腕を組んだまま、髪を気にする様子もなく答える。
「今回の策、上手くいこうがいくまいが、危険な事に変わりはない」
少し冷たい感じの返答に、そうね、と孫策は呟く。
「そもそも、あの母様と一緒に戦場を駆け抜けた祭が、そう簡単に死ぬわけはない、か」
そう言うと、孫策は小さく声を漏らして笑った。そうだな、と返した周瑜の顔にもわずかに笑みが浮かぶ。
今回、周瑜が描いた苦肉の計は、兵力で大きく劣る連合軍にとって、まさに乾坤一擲の策であった。それが破られたにもかかわらず、2人の表情に焦燥感や悲壮感は見られない。むしろ、悠然という言葉がしっくりくるほど自然な佇まいである。
「で、冥琳はあの子の事、信じる気になった?」
「……眉唾物だ、やはりな。だが、それでも奴が予見した通りになった事は事実だ」
孫策の問いにため息混じりで答える周瑜は、黄蓋に棒罰を課した日の夜の事を思い出した。
すっかり夜も更け、黄蓋に対する罰による兵達への動揺もなんとか落ち着いた頃、周瑜の天幕を訪ねた者がいた。桃香と一刀、そして朱里の3人であった。こんな時刻に、と訝しがる周瑜をよそに朱里は口を開いた。
蒋幹は曹操の間者であり、それを逆に利用して黄蓋に偽投降を演じさせ、曹操軍に奇襲を仕掛けるつもりだ、と彼女は周瑜の計略を言い当てたのだ。
まさか見抜かれると思っていなかった周瑜は、それでも動揺をおくびにも出さずに平静を装った。しかし、続けて放たれた一刀の言葉に彼女は思わず激昂してしまった。孫家の存亡を託した策が失敗すると言われ、その理由を、未来から来て歴史を知っているから、などとされればいくら周瑜とはいえ無理もない事だった。
怒りにまかせ、出ていけ、と怒鳴り散らした。その迫力に圧されて蒼白になる桃香と朱里。だが、一刀だけは周瑜の目を真っ直ぐに見据え、少しも怯む様子を見せなかった。
そんな周瑜の声を聞きつけた孫策が天幕へやって来たのは、そのすぐ後だった。
「あんな言葉を大して疑いもせず、よく信じられたものだよ」
「あら、状況から考えれば、嘘を吐く必要はないじゃない?」
さも呆れたと言わんばかりに大仰にため息を吐く周瑜に対し、孫策はあっけらかんと答えた。
確かにそうなのだ。同盟を結び、曹操という共通の敵を前にした今の状況でわざわざ騙す事は考えにくい。そんな事にも気付けないほど周瑜は動揺し、激昂していたのだった。
軍師としてあるまじき対応を自省する周瑜。それをわずかに微笑みながら見遣る孫策。2人の間を静寂が包んだ。
「孫策様、出陣の準備、整いました」
だが、それも一寸の事。報告に来た兵の声が彼女達を喧騒の中へと引き戻す。
「さて、と。それじゃあ、行きましょうか」
まるで、ちょっとそこまで、そんな軽い口調で声を掛けると、孫策は大股で歩き出した。まるで気負いの無いその様子に、周瑜はほんの少し口元を緩める。一瞬の間の後、孫策に続いて彼女もまた、大きく足を踏み出した。
長江北岸、曹操軍の陣地からそう離れていない湿地に、生い茂る葦で身を隠す一団があった。翠や蒲公英、霞といった涼州兵である。水上戦を不得手とする彼女達は、開戦後に敵本陣を急襲すべく前もって長江を渡っていたのだった。
息をひそめ、じっと様子を伺う。蚊の出る季節はとうに過ぎていたが、それだけに寒い。北方出身の彼女達でも、冷たくぬかるんだ湿地に長時間潜むのはこたえていた。
おおよその作戦決行時刻は聞かされていたが、現代の様に正確な時計があるわけではない。順調に進んでいるのか、電話や無線の様にそれを確認する手段もない。暖を取る事も叶わない厳しい状況の中、ただただ開戦の狼煙が上がるのを待つしかなかった。
そうして夜半も過ぎた頃、長江の上に灯りが灯った。曹操軍の船団が焚く篝火とは明らかに異なるその様子に、じっと身を潜めていた涼州兵は色めき立つ。
「お姉様、あれ!」
長江上に揺れる灯りを指差しながら、蒲公英が大声を上げた。
彼女達に下されていた命令は、曹操軍の船団に火が付き次第敵本陣に突撃せよ、というものだった。ここまでさんざん焦らされていたせいもあってか、皆今にも飛び出して行きそうな気配を出している。しかし、部隊の指揮を預かる翠にはそんな様子は見られない。
「お姉様?」
いぶかしそうに蒲公英は翠の顔を覗き込む。が、邪魔だと言わんばかりに、すぐに押し退けられてしまった。
「まだ、待機だ」
「どうして?」
押し退けられた事が不満なのか、それとも待機を命じられた方か。蒲公英は膨れっ面で問い掛けた。
「あたし達の任務は、曹操の船団に火が付いた後、本陣に突入する事だったよな。けど、見てみろ。あの大船団に火が回って、あんな小さな炎ですむと思うか?」
言われて、蒲公英は翠から長江へと再び目を遣った。確かに翠の言葉通り、長江上に灯った灯りは小さい。距離がある上に、夜の闇のせいではっきりと確認は出来ないが、船団の先頭辺りのみで炎が上がっている様に見える。
「……じゃあ、失敗したって事!? どうするの!?」
「だから、待機だって言ったろ? 奴等はきっと、こっちの策を見破ったのに気を良くして逆撃してくる。あたし達の出番はその時だ。今はそれを待つ」
蒲公英はもう一度曹操の船団の方を見た後、緊張を解く様に大きく息を吐きながら翠の隣にしゃがみ込んだ。
「……お姉様らしくないね。一刀さんか朱里あたりにでも言われたの?」
正面を向いたまま、呟く様に尋ねた。
「ああ。孫策の火計は失敗する可能性があるから、ってな。よく確かめずに突っ込むなって、釘を刺されたよ」
「ふ~ん、やっぱり信頼されてるんだね」
「そうか?」
「そうだよ」
短い問いに蒲公英も一言で返すと、翠に向かって嬉しそうに微笑んだ。と、そこで彼女は従姉の姿が普段と違う事に気がついた。
「……お姉様、鉢巻きは?」
そう、戦装束に身を包んだ時には必ず巻いている長い鉢巻きが今の翠の額にはなかった。
「えっ!? あ、いや……。ち、ちょっと忘れて……。そ、そう忘れただけだからな!」
あの鉢巻きをとても大切にしていた事を蒲公英は知っている。激しく狼狽する姿を見て答えを悟った蒲公英は、ニヤついた笑みを浮かべた。
黄蓋を追っていた陸遜と呂蒙の船団は、偽投降が失敗するやいなや反転し、孫策軍の本陣へと向かい後退を始めた。曹操軍の前衛は蔡瑁の指揮の下、追撃に移る。
小型の船で構成された孫策軍に対し、曹操軍は大型の闘艦を中心に編成されている。船体が大きい方が揺れが少なく、水上戦に慣れていない将兵達に都合がいいからだ。
大きな船は出足こそ鈍いものの、ひとたび速度が乗ってしまえばどんどんと加速していく。一度は視界から消えた孫策軍の船団を捉えるまでにそれほどの時間はかからなかった。
「祭瑁様、敵船を確認しました!」
舳先に立つ兵士の声が響いた。まだ距離はあるが、確かに暗い川面にいくつもの篝火が見えた。
ひとつ舌なめずりをする蔡瑁。元々荊州水軍を率いていた経験を買われて先鋒を任されているが、今の地位に満足もしていなければ将来的にも安泰だとも思ってはいない。むしろ、ここで戦果をあげなければ、と追い込まれていた。大きな戦はこの一戦で終わる。となれば、これから先、武功を立てる機会はほとんど無いことになる。この一戦に自分と甥である劉宗の将来がかかっているのだ。
「前方に岩礁多数!」
兵士の声が再び響く。だが、それは蔡瑁も事前調査で知っていた。そして、航路によっては大型艦でも問題なく航行できるだけの隙間があることも分かっていた。彼は船団の船脚を落とさせ、自らの乗る船に続くよう指示を出した。
さすがに操艦技術は一流である。また、兵のほとんどが彼の元々の部下だったこともあり、大型艦であるにも関わらず細い隙間を見事に抜けていく。が、あと少しで岩礁帯を突破できる、というところで轟音と共に激しい衝撃が彼の船を襲った。
「な、何事だ!?」
甲板上に投げ出された体を起こし、蔡瑁は誰に問うでもなく声を上げた。確かに岩礁は回避したはず。彼には絶対の自信があった。それだけに、なぜ船が止まったのかが分からない。
この時、岩礁帯を迂回する、という方法もあった。せっかく縮めた孫策軍との距離が再び開いてしまうのは間違いないが、確実性を重視すれば十分選択肢に入るはずだった。にもかかわらず危険な近道を選んだのは、焦りと驕りがあったからだ。
「さ、蔡瑁様! 水中に逆茂木が張られています!」
舳先から下を覗きこんだ兵士の絶叫にも近い声が耳に届く。蔡瑁も慌てて水面を覗くと、確かに逆茂木が岩礁の間に張られ、船首に深く突き刺さっていた。直後、再び轟音と衝撃が彼等を襲った。後方より続いていた船が止まりきれず、追突したのだ。
「うおぉっ!」
叫び声を上げながら再び倒れ込む蔡瑁。壁に強かに打ち付け激しく痛む肩を押さえながら立ち上がった彼は状況を確認すべく、周囲を見回した。兵達のほとんどは転倒の際に体の一部を打った様だが、戦闘不能になっている者は少なくとも見当たらなかった。
続いて船の状況を確認するが、こちらは問題だった。追突した闘艦の後方にも味方の船が数珠繋ぎになってしまっている。このままでは身動きがとれない。
すぐに離れるよう指示を出そうとした蔡瑁だったが、周囲を警戒していた兵の声で遮られる。
「て、敵襲!!」
報告に慌てふためきながら下流に目を遣れば、確かに水面を無数の篝火がこちらへと向かってきていた。篝火の数と広がりかたから、追撃していた部隊が反転してきただけでなく、あらかじめ兵を伏せられていたのだと分かった。
「……ひっ、怯むな! 迎え撃てっ!」
逃げようとしても船は動かせない。祭瑁はここで戦うしかないと腹をくくる。だが、兵達はそうではなかった。突然の敵襲に右往左往し、戦闘体制をとることすらできずにいた。
そうこうしているうち、三度船が揺れた。前2回より小さな揺れに、祭瑁は呉軍に取り付かれた事を悟った。腰から剣を抜き、身構える。すぐにあちこちから剣劇の音と悲鳴が聞こえ始めた。
「くっ、孫策の犬共め。調子に乗って!」
吐き捨てる様に言ってみたものの、士気の差は歴然としていた。次々に討ち取られていく味方の兵達の姿を見て、祭瑁はこの場から逃げ出す事を決めた。
そうして振り返ろうとしたその瞬間だった。
「こ、この音は……!?」
喧騒の中、どこからか鈴の音が聞こえてきた。辺りを見回しても誰もいない。それでもその音はどんどんと大きくなり、ついには祭瑁の耳元で鈴がなる。
「祭瑁、貴様の首をもらうぞ」
突然、背中から声がした。ハッとして見返そうとする祭瑁。しかし、それは叶わなかった。彼の首が宙を舞ったからだ。
驚いた表情が張り付いたままの祭瑁の首が甲板に転がる。少し遅れて体も甲板上に崩れ落ちると、そこにはいつの間にか甘寧が血濡れた剣を手に立っていた。彼女は右手を振るって刀身に付いた血糊を払うと音もなくその場から消えていった。