第7章-赤壁編・第3話~赤壁の戦い1~
長坂橋で桃香と別れた紫苑達は、武陵へと向けて南下を続けていた。その途中、江陵へと近付いた時の事である。
「先生、黄忠殿、私はここで一旦別れさせていただこうと思います」
ここまで司馬徽や女学院の子供達の乗る馬車を操ってきた馬良は、そう言って頭を下げた。
日没を迎えたため、移動を止めて野営を始めると、食事の済んだ子供達は直ぐ様眠りへと落ちていった。今は紫苑と馬良、司馬徽の3人が焚き火を囲んでいるだけである。話を聞いた2人の、赤々と燃える炎に照らし出された顔は対照的であった。
一体何をするつもりなのか、少し不思議そうな顔をしている紫苑に対し、司馬徽な別段変わった風ではない。何を考えているのか分かっているのだろう。ただ、わずかに申し訳なさそうに眉根を寄せている。
「明日の朝、江陵へと向かい、劉備様に力を貸してもらえる様、文聘殿を説得して参ります。文聘殿のお力と江陵の兵力があれば、曹操の南下を阻む事も十分可能ですから」
「ごめんなさい、柳霜。本来であれば、私が行くべきなのだけれど……」
司馬徽と文聘には、若い頃からの付き合いがあった。その縁で度々水鏡女学院を訪れては、子供達に武術の手解きを行っていたのである。
瞑目し、頭を下げる司馬徽の対応に、馬良は思わず慌てた。
「お止めください、先生。子供達のためにも、先生にはこちらに残っていただけなければ困ります。私では、先生や朱里の様にあの子達のよるべとはなれませんから」
彼女が水鏡女学院を卒業したのは、もう5年も前になる。朱里や雛里とは共に学んだ仲ではあるが、今の生徒達は卒業後に入学した者がほとんどだ。卒業後も定期的に学院には顔を出していたとはいえ、やはり子供達との間には距離があった。
時の流れを実感し、一抹の寂しさを覚えながらも、自分の師に代わって仕事を為す事に誇りを感じていた。
翌日、紫苑達と別れた馬良は江陵に文聘を訪ねた。警備は物々しかったが、特に咎められる事もなく入城出来、また、文聘への取り次ぎも問題なく受けてもらえた。江陵の兵の多くが蔡夫人一派の振る舞いを快く思ってはおらず、対立の姿勢を打ち出している水鏡女学院出身である馬良に対し好意的だった事が大きかった。
「お久しぶりです、文聘殿」
通された部屋で1人待っていた馬良は、文聘が入室してくると椅子から立ち上がり、簡単に挨拶を交わす。水鏡女学院にいた頃から面識はあり、今さら格式張ったやり取りは必要ない。
「ああ。本当、久しぶりだ。私が江陵を預かる様になってからは、全く顔を会わせる事もなくなったからねぇ」
昔を懐かしむ様にしみじみと言葉を発する文聘の姿に、馬良は少し違和感を覚えた。
確かにしばらくぶりの再会だった。2年近くは会っていなかっただろうか。それでも、襄陽の正確な情報を伝えるべく定期的に文は交換しており、それほど感慨深い思いは馬良の内に湧いてはこない。
そして何より、文聘の笑みの固さが気にいらなかった。
私より全然年上であるにもかかわらず、汚れを知らない幼子の様な屈託のない笑顔をしていたはず。馬良には、文聘が影のある笑みを見せた記憶はなかった。
恐らくは、すでに蔡瑁の方から情報がきているのだろう。事実を、彼等にとって都合のいい様に歪めて。しかし、文聘がそれを容易く鵜呑みにする様な人物でない事は百も承知だった。
司馬徽に事のあらましを書いてもらった竹簡を懐から取り出し、それを文聘に手渡す。
「彼等は劉琦様をもその手にかけ、己の保身のためにこの地を曹操に売り渡したのです。文聘殿、劉備様にお力をお貸しいただけます様、どうかよろしくお願いいたします」
腰を折り、深々と頭を下げる馬良。必ずや文聘は力を貸してくれる。彼女はそう信じて疑わなかった。
「なっ……!?」
目を通し終わった竹簡を丸めると、文聘はそれを両手で真っ二つにへし折った。あまりにも突然で予想外の事に、思わず短い声を漏らしてしまう。驚きで二の句が継げない。
「悪いね。この話、受ける訳にはいかないのさ」
「……な、なぜですか! 蔡瑁は……」
なんとか気持ちを落ち着かせて食い下がろうとする馬良の言葉を、文聘が遮る。
「これが襄陽から届いた書簡だよ」
机の端に積んであった竹簡を放る様にして馬良に渡した。
受け取った馬良には何が書かれているか、読まなくても予想はついた。それでもひとまず目を通す。
ざっと斜めに目を通すと竹簡から顔を上げる。文聘に向けられたその目は詰める様に鋭い。
「文聘殿は、この様なざれ言を信じるおつもりですか!?」
怒声と共に机へと叩き付けられた竹簡は、乾いた音を立てて床に転がった。感情を露にした馬良を宥めるかの様に、文聘はゆっくりとした動作で竹簡を拾い上げ、姿勢を戻す。
「私だって、ここに書かれている事が真実だと思っちゃいないよ。1度だけとはいえ、劉備殿と直接顔を会わせているんだ。こんな事を考える様な人物じゃない、ってのは分かっているさ」
襄陽から送られてきた竹簡には、桃香が荊州を奪うために劉琦を殺害した、という旨の事が記されていた。馬良が憤慨するのも無理はない。全くのでたらめだったからだ。
文聘もその事は分かっていた。分かった上で桃香に協力しないのには、当然理由があった。
「確かに、この書簡の内容は信じられない。けどね、それはアンタの言い分も同じさ。私にしてみりゃね」
「……確信するに足るものがない。そういう事ですか」
「ああ、そうさ。劉備殿がやったとは思えないが、やっていないと確定させるものがない。蔡瑁なら、劉琦様に手をかける様な真似をしてもおかしくはないだろうけど、それをしたという証拠がある訳じゃない。どちらも信じ切る事が難しいのなら、私は私の信念に従うまでさ」
先程へし折った竹簡に手を伸ばす。その所作を、馬良には黙って見ている事しか出来ない。
「劉表様が亡くなられ、劉琦様も殺害された今、跡を継がれたのは劉琮様だ。その劉琮様が曹操に降られた以上、それに従うのが臣下の務め。私はそう思うのさ」
2つに折られた竹簡が屑籠へと放られた。いくら言葉を紡いでも説得は不可能なのだ、と馬良は悟った。
その3日後、江陵を包囲した曹操軍に対し、文聘は一戦も交える事なく降伏。荊州水軍の全てを手に入れた曹操は、劉備・孫策連合軍との決戦に向けた準備に取りかかるのだった。
曹操との決戦に備え、孫策軍は長江の南岸に陣を構えていた。兵に厳しい訓練を課す一方で、周瑜をはじめとする軍師達は、曹操に抗する手段について、連日、一刀や朱里と協議を繰り返した。
劉備・孫策連合軍が投入出来る兵力は、おおよその見積もりで十万。対して、曹操軍の兵力は五十万を越えるとの報告が成されている。正面からぶつかった場合、連合軍に勝ち目がないのは明白だった。
ならば、どうするか。水上戦に持ち込むしか勝機はない、というのが周瑜や朱里の統一見解であった。
江東一帯を領地とする孫策軍は水上戦を最も得意としている。それは、漢の南方では長江を中心とした水運が大きく発達しているためだ。馬が日常の中にいる涼州では強力な騎馬兵を編成しやすい様に、孫策軍では精強な水軍を整える事が容易かった。
一方、北では馬を使った陸運が発達しているせいもあり、水運はあまり利用されてはいなかった。結果、水軍の重要性は低く、曹操軍には輸送用の小規模な部隊しか存在していない。
両者の保有する水軍の差は歴然である。この状況で曹操が水上戦に応じるものか危惧する声もあったが、孫策はそんな反対意見を一蹴した。
覇道を掲げている以上、不利だからといって正面から当たる事を避けるとは思えない。ましてや、荊州水軍を無傷で併呑したのだ。曹操が逃げるはずはない。必ずや真っ向からぶつかってくる。そんな自信が孫策にはあった。
その考えに朱里も周瑜も異論はない。これまでに得た曹操の行動形式から考えても、間違いないと断言出来る。だが、これで勝利が確定するか、と問われれば、とてもではないが首を縦には振れなかった。
水上戦に引きずり込んだところで、圧倒的な戦力差がある事には変わりがない。万にひとつもなかった勝ちの目が、百にひとつ程度へ増えたに過ぎない。勝ちを確実なものへと変えるためには、何か大きな手が必要となる。
有効な策も思い付かないまま数日が経ったある日、軍議の終わった天幕に1人の兵がやってきた。
「孫策様と周瑜様に目通りを願い出ている者が陣の外に見えておりますが、いかがいたしましょうか?」
「伯符と私に? 一体誰だ?」
「はい。お2人の幼馴染みで、蒋幹と名乗っております」
「蒋幹、って……。ああ、いたわね、そう言えば」
しばらく記憶を辿っていたらしい孫策が、思い出した様に口を開いた。よほど久し振りなのか、それとも印象が薄かったのか、傍目には判断出来なかったが、思い出すのに相応の時間が必要なくらいの関係性なのだとは、この場にいる誰もが感じた。
「……分かった。丁重に案内しておけ。後で会いにいく」
懐かしそうな孫策とは違い、周瑜は難しい顔のままで命令を出す。
「では、諸葛亮、北郷。今日はここまででよいな? 続きはまた、明日にしよう」
来客を伝えにきた兵が下がると、周瑜は一刀達に確認を取った。すでに軍議は終わっているつもりでいた一刀は、朱里と共に天幕を後にする。
「どうやら、状況が動きそうだな」
軍議を行った天幕からある程度離れた位置までくると、一刀は独り言と言うには大きな声で呟いた。
孫策と周瑜は連れ立ってある天幕に入る。その中にいた1人の女性は、孫策達に気付くと腰掛けていた椅子から立ち上がり、頭を垂れた。
「ご無沙汰しております、孫策様、周瑜殿」
「やめてよ、海霧。私と貴方の仲でしょ? 昔みたいに真名で呼んでくれていいわよ」
「しかし、孫策様はいまや江東一帯をお治めする身。私の様な書生とは身分が違います」
「海霧、雪蓮がいいと言っているのよ。警護の兵も遠ざけてあるし、気にする必要はないわ」
「それなら……。久し振り、雪蓮、冥琳」
わずかに迷う素振りを見せたものの、海霧と呼ばれた女性は促されるままに孫策達の真名を呼んだ。昔を懐かしむ様に薄く微笑むその表情に、2人の頬もかすかに緩む。
この女性は名を蒋幹、字を子翼と言い、孫策と周瑜の幼馴染みである。肩の下辺りまで伸びる、緩く波打つ黒髪を持ち、背丈は孫策達よりもわずかに高い。しかし、細く引き締まった体つきの蒋幹には、2人の様な迫力のある胸はなかった。
「最後に会ったのは、まだ母様が生きている頃だったわね。それで、今までどうしてたの? どこかに仕官していたりとか」
「書生だと言ったじゃないか。諸国を遊学していたんだが、曹操と雌雄を決すると聞いて、私でも何か役に立てないかと思い、参じたのだ」
「それなら、まだどういった策をもって当たるかも決めかねている状況だけど、時期がきたら貴方にも働いてもらおうかしら。ねぇ、冥琳?」
孫策はにこやかな笑顔を蒋幹に見せると、隣に立つ周瑜へとそのままの顔で向き直った。
「ん、まあ、それは追々決めるとして……。とりあえず、貴方用に天幕を用意させるわ。久し振りに再会したのだし、少し話でもしましょう」
「そうね、それがいいわ」
周瑜の意見に賛同するや否や、孫策は天幕から顔を出し、人払いをしていたために離れた場所に立つ兵を呼びつけた。客人用の天幕を設営する様に命じると、顔を引っ込める。その直前、彼女の視界の端で1つの影が揺れた。
「ん……、ん~」
武陵城の一角で、女性の気だるそうな声が漏れた。その声の主である翠は寝台から上体を起こすと、ぼんやりとした頭のままで辺りを見回した。
窓からは光が差し、小鳥のさえずりが聞こえる。そのまま頭を左に回せば、自分の足の先に机と鏡台。さらに左に振ると、白塗りの壁と扉が見えた。
そうか、とそこでようやく自分の状況を思い出した。
江夏から武陵までの船旅は、彼女にとっては地獄の日々だった。猛烈な船酔いのため、ほとんど食べ物を口にする事が出来ず、満足な睡眠すら取れなかった。ついに昨日、港へと到着して上陸が叶ったのだが、地に足をつけても船酔いは治まらない。結局、港から城まで馬車で送ってもらい、早々に床に着いたのだった。
「ふぁ……あ」
現状を理解して安心したせいか、眠気がぶり返してきた。大きく口を開けてあくびをすると、再び横になって布団にくるまる。
「ちょっと! いつまで惰眠をむさぼるつもりなのよ、あんたは!?」
心地よいまどろみの中、意識を手放しそうになった瞬間の事だった。何かがぶつかった様な大きな音がしたかと思うと、続けてけたたましい怒声が耳に届いた。不機嫌そうに眉をしかめたままで薄目を開ける。大きく開け放たれた扉の位置には、メイド服に身を包んだ詠が仁王立ちしていた。
翠はもう1度まぶたを閉じ、詠に背中を向ける様に寝返りを打つと布団を頭まで被る。態度で寝かせろと訴えたのだが、当然、詠がそれを許すはずはない。足音高く寝台まで近付き、布団を両手でしっかりとつかむ。
「起きろって言ってんでしょ、あんたは!」
掛け布団を引っ張る詠に対して、翠は布団を自分の体に巻き付けて抗う。が、程なくして抵抗を止めた。
このまま布団を死守したところで辛辣な言葉をぶつけられるだけで、安眠など叶う訳がない。それに、いつの間にか眠気も薄まっていた。ならばここは詠に従っておいた方が面倒臭くないだろう。そんな事を思い、翠は布団を手放した。
「何なんだよ、朝っぱらから」
寝間着を乱れさせたままで寝台の上にあぐらをかく。従っておいた方がいい、とは思っても、やはり文句は言いたい。
「おはようございます、翠さん」
そう言って、開けっ放しになっている部屋の入り口から月が顔を出す。
「一刀さんがいないので、代わりに翠さんのお世話をさせていただこうと思って……。ご迷惑ですか?」
「いや、そんな事はないけど……」
迷惑、という訳ではない。男勝りだとはいえ、翠も太守の息女だ。身の回りの世話を侍女にやってもらう事には慣れている。ただ、月や詠に対しては友人という意識を持っているため、世話をしてもらうのには抵抗があった。
そんな思いを知ってか知らずか、2人はそれぞれ翠の腕を取る。寝台から引きずり下ろし、半ば強引に鏡台の前に座らせた。そして、2人揃って翠の長い髪に櫛を入れていく。
「それにしても、相変わらず無駄に綺麗な髪してるわね」
「無駄に、って……」
指の間からさらさらとこぼれ落ちる髪に、詠は羨ましさを覚えた。やっかみが大部分を占めた言葉に、月は思わず苦笑いを浮かべる。
「でも、昔から変わりませんよね。琥珀さん譲りの、真っ直ぐで素直な髪は。私のは癖が強いから、凄く羨ましいです」
「ボクだってそうよ。こうして縛ってなきゃ、広がっちゃってどうしようもないんだから。本当、出来るものなら交換したいわ」
他人に髪を鋤かれているだけでもくすぐったいのに、その上誉めそやされては非常に居心地が悪い。
「も、もういい! 後は自分でやるから」
ついには我慢出来なくなり、2人の手を振り払った。
「そうですか……? それじゃあ、次はお着替えを手伝いますね」
少しの間、名残惜しそうな表情を見せたものの、すぐに柔らかく微笑む。それに呼応し、詠は翠の服を準備し始めた。
「着替えくらい、あたし1人でやる! ……て言うか、月。お前、一刀の着替えを手伝ってんのか?」
あたしの着替えを手伝うって事は、普段は一刀の着替えを手伝っているって事で。なら、2人は一刀の裸を見ている事になる。
まさか、という思いに支配され、翠は月を鋭くにらんだ。
「い、いえ……。以前、一刀さんにそう言ったら、拒否されてしまって……。ですから、お手伝いした事はありません」
翠の迫力に圧された月は、その可愛らしい顔をひきつらせながら返事をした。
月の答えに翠は胸を撫で下ろす。と、冷静になったところでやっと目の前の幼馴染みが怯えている事に気が付いた。
「わ、悪い。……後はあたし1人でやるから、2人は下がっててくれ」
一言だけ謝ると、ばつの悪さに月から視線を外し、鏡へと向き直る。2人を突き放すためのむくれた顔が鏡に映り、そこからも視線を外す。それ以上は何も言わず、2人が部屋から出ていくのをただ待つだけだった。
「分かったわよ。じゃあ、ボク達は出ていくから。朝食の用意が食堂でされているから、とっとと着替えてきなさい。いいわね?」
念押しをしながら、詠は月の背中に触れて退出を促す。何か言いたそうにしていたものの、月は親友に従って部屋を後にした。
静かに扉が閉まった音を聞くと、翠は深いため息を吐いた。心の中のもやもやした物も一緒に吐き出せた様な気がして、少しだけ気持ちが軽くなる感じがした。
半ば無意識、反射的な行動だったとはいえ、月をにらみ付けてしまった事に対しては申し訳なさが残る。怯えた顔を思い出し、後で謝まろうと心に決めた。
悶々と考えるのはこれで終わり。翠は両手で自分の頬を叩き、気持ちを切り替える。
詠が言っていた様に、着替えて早く飯にしよう。昨夜は何も食べずに寝てしまったため、気が付けばすっかり空腹になっていた。
腰帯をほどくと、寝巻きはするりと肩から滑り落ちた。白く滑らかな肌と、張りのある形のよい乳房が露になる。と、胸の谷間で翡翠の首飾りが朝日を受けて光った。胸元に視線を落とし、右手で翡翠の粒をすくい上げる。
さっきの事を一刀が知ったら、嫌な奴だと思われるかな。翡翠の中に一刀の姿が見えた気がして、そんな思いが頭をよぎった。再度、暗く沈みそうになる思考を振り払う様に、何度も頭を激しく左右に振る。
「お帰りなさい、お姉様!」
またもや勢いよく扉が開かれた。同時に大きな声が響く。先程の詠の様に険のある声ではない。丸みのある明るい声だ。
「たっ、たんぽぽ!? 開ける前には声くらい掛けろよな!」
突如部屋に乱入してきた蒲公英に向かい、翠は胸元を両手で隠しながら叫んだ。驚きと恥ずかしさを誤魔化すためか、その声は必要以上に大きい。だが、注意を受けた蒲公英には全くこたえた様子がなく、笑顔を崩さないままでいる。
「も~、そんなに照れなくてもいいのに」
言いながら、蒲公英は後ろ手に扉を閉める。その様子を横目で見ながら、翠は蒲公英に背を向けて急いで下着を身に着け始めた。
背後から蒲公英が近付いてきている気配を感じるが、とりあえずは無視をする。従姉妹に構うよりは、とにかく下着だけでも身に着けて大事な部分を隠したい、という思いが勝っていた。翠が下着を着け終わったのとほぼ同時に、蒲公英が後ろから抱き付いた。
「お姉様ってば、相変わらず恥ずかしがりやなんだから~」
からかう様な口調ではあるが、その顔は純粋に嬉しそうだ。自分の帰還を喜んでくれているのだと、表情だけで感じ取れる。
裏返せば、それだけ心配してくれていたという事だ。事の顛末を伝えてあったとはいえ、やはり直接会えるまでは不安だったのだろう。そう思うと申し訳なく感じるのと同時に、普段は訓練を怠けたりして手を焼かせてくれる彼女の事が愛おしくなってくる。
左の頬に顔を擦り付けてくる蒲公英の頭を、翠は右手で優しくなでる。自分とは違う、柔らかくてしっとりとした癖毛が指に絡み付いて気持ちいい。
「お姉様、この首飾りは……?」
不意に蒲公英が尋ねた。翠の胸元へと向けられた視線の先では、一刀から贈られた翡翠の粒が揺れていた。
「な、何でもないぞ、これは!」
翠は慌てて両手で覆い隠す。大気に触れる事すら拒むかの様に、2つの手の平の間に強く挟み込む。だが、もう遅い。蒲公英の目にはしっかりととまっていた。
「何でもない事ないでしょ? ……もしかして、一刀さんから貰ったの!?」
核心を突かれ、翠の心臓は大きく跳ねた。
「ちがっ……!」
反射的に否定の言葉が口をついて出そうになる。だが、最後まで言い切る事はなかった。ここで否定をするのは、あの時確かめ合ったお互いの気持ちまで否定する事になりそうに思えたからだ。
口をつぐみ蒲公英を見やる。いい答えが返ってくる事を期待しているその表情に、蒲公英にだったら伝えてもいいか、と思う。
心配をかけ続けた従姉妹への罪滅ぼし。翠はそんな風に考えていたが、本人の自覚していないところでは、誰かに一刀との関係を話したい、という思いも少なからずあった。
「……ああ、そうだよ。これは……、一刀から貰ったんだ」
それでも渋々、といった態度をとった。不満そうに唇を尖らせ、蒲公英から視線を外し、せがまれたから仕方なく答えてやるんだ。そんな風を装う。
「それでそれで?」
「な、何だよ、それでって……」
「一刀さんから、ただ貰った訳じゃないんでしょ? ねえ、どうなの? 愛の告白とかされちゃった?」
再び翠の心臓は跳ね、呼吸が止まる。少しの間の後、蒲公英へと背中を向ける様に体を回転させた。とてもではないが、恥ずかしくて顔を見せられない。
「……あ、ああ。その……、一刀に、好きだ、って言われた……」
何とか声を絞り出し、翠は首をすくめた。冷やかされるにしろ喜ばれるにしろ、大騒ぎして抱き付くくらいの事はしてくるだろう。そう思って身構えたのだ。
だが、蒲公英は抱き付いてこない。それどころか、声を上げる事すらしていない。不審に思い振り向くと、蒲公英はうつむき加減で立ち尽くしていた。
「たんぽぽ……?」
その肩が細かく震えている事に気付き、翠はそっと真名を呼んだ。
返事をする代わりに、蒲公英は顔を上げる。両の瞳から大粒の涙をあふれさせながら、彼女は満面の笑みを見せている。
「お、おい、どうしたんだよ?」
蒲公英が見せた予想外の反応に、翠は面食らった。おたおたした様子で声をかける。
「……えへへ、ごめんね」
袖口で溢れる涙をぬぐいながら蒲公英は続ける。
「ずっと一刀さんの事を想い続けてたお姉様の気持ちが届いたんだもん、すっごく嬉しくって……」
「あ……、うん、そうか……」
そう言われて、翠も照れたように笑った。
「で、でも、あたしが一刀の事を、す……、好きだなんて、どうして知ってるんだよ。たんぽぽだけじゃなく、誰にも話した覚えはないのに」
「そんなの、見てれば分かるよ。お姉様、一刀さんを見つめる目が全然違うし」
「なっ……!」
声を詰まらせて驚く翠に対し、蒲公英は少し呆れ顔になる。
「ひょっとして、自覚してなかったの? あんな分かりやすかったのに。きっと皆気付いてたと思うよ」
蒲公英の言葉を聞いて、翠の中には猛烈な恥ずかしさがこみ上げてきた。再び蒲公英に背を向け、顔を見せないようにする。
「と、とにかく! あたしは着替えてるんだから早く出てけ!」
「え~、一刀さんとのイチャイチャ話とか聞かせてよ」
「いっ、いいから出ていけーっ!」
いつの間にかにんまりとしていた蒲公英は、やり過ぎちゃった、といったかんじでペロリと舌を出した。
翠の背後から届く足音は徐々に小さくなっていく。と、急に音が止んだ。
「たんぽぽ、嬉しかったのはホントだからね。叔母様がなくなってからのお姉様は、笑っていてもどこか影がある感じだった。けど、一刀さんの事を話してる幸せそうな顔が見れて良かった」
そう言い残して蒲公英は部屋から立ち去った。残された翠の動じた顔は誰の目に止まる事もなかった。
すっかり辺りが夜の帳に包まれた頃、翠はひとりで武陵城内の東屋にいた。何をするでもなく、ぼうっと屋根にかかり始めた月を眺める。ただ、頭の中では蒲公英の口にした言葉がぐるぐると回っていた。
「よろしいですか、姫」
声をかけられて初めて、目の前に鷹那が立っている事に気が付いた。虚をつかれ、慌てて返事をする。その様子に取り立てて反応もせず、鷹那は翠の正面に腰を下ろした。
何か小言を言われるのか、と少し身構える。今日は兵の調練を行う予定だったのだが身が入らず、午後からは仮病を使って仕事をサボったからだ。しかし、その思いは杞憂に終わる。
「たまには私に付き合っていただけませんか?」
そう言って小振りの酒壷と杯をふたつ、2人の間の机に置く。
予想が外れた事に胸を撫で下ろしつつ、翠は杯を手に取った。酒を飲む気分ではなかったが、何となく断れない雰囲気があったのと、少し話もしたかったからだ。
酒の注がれた杯を、鷹那が手酌で注いだ杯と無言で軽く合わせる。澄んだ高い音が耳に残るうちに、一気に杯を空ける。鷹那も翠と同様に一息で飲み干していた。
ふう、と酒の香混じりの息を吐いている間に、再び杯は酒で満たされていた。それには口をつけずに鷹那を見ると、彼女はすでに2杯目を空けている。その姿を見ながら、相変わらずだな、と思っていると、3杯目を注ぎ終わった鷹那と目が合った。
「こうして姫と2人きりで酒を飲ませていただくのは初めてですね」
「そういやそうか。あたしじゃ鷹那の速さについていけないからなぁ」
「琥珀様くらいでしたか、私と差しで飲めたのは」
翠は手を伸ばして酒壷をつかみ、言いながら杯を空にした鷹那に注いでやる。申し訳ないです、と恐縮されるが首を横に振って返した。少しかしこまった風で口をつける鷹那。彼女が杯を置くのを待って、翠は意を決したように口を開いた。
「……その時ってさ、母様とどんな事、話してたんだ?」
真剣な眼差しで鷹那を見つめる。それを正面から受ける鷹那の表情には、これといった変化は見られない。まるで、そう尋ねられる事が分かっていたかのようだ。
「普段の延長のようなものでした。政務や軍務、その他、雑多な事柄なついて。まあ、それは本当に飲み始めの短時間だけでしたが」
かすかに鷹那の表情が和らぐ。付き合いの長い翠だから気付く事が出来た、ほんのわずかな変化。その顔は、昔を懐かしんでいるように翠の瞳には映った。
「ある程度、酒が進んでくると、話の種は決まって姫やたんぽぽの事でした」
「あたしの?」
「ええ。お2人の将来の事はいつも気にされていました」
「……ははっ、そうだよな。あたしなんかじゃ、母様の跡目を継ぐのに力不足もいいところだもんな」
翠の口から自虐的な乾いた笑いが自然とこぼれた。そうしてうつむく翠に対し、鷹那は声の調子を変える事もなく言葉を続ける。
「将来の事、といっても武将としてではありません。ざっくりと言えば女性としての将来を、琥珀様は母親として心配しておられました。たんぽぽはああいった性格ですからあまり案じていなかったようですが、姫の事はだいぶ気を揉んでいたようです。いい人が現れるか、悪い男に引っ掛かりはしないか、と」
そこでくいっと酒をあおる。目の前の空になった杯に酒を注ぐ事も忘れ、翠は次の台詞を待った。
「ですので、一刀さんが現れてから、正確には姫が一刀さんに好意を寄せるようになってから、琥珀様はいつも嬉しそうに飲まれていました」
朝、蒲公英にも言われていたが、自分の想いが周囲にばればれだった事を改めて思い知らされる格好となった。己の与り知らないところで酒の肴にされていたのかと思うと、思わず大声を上げたくなる。頭を抱え、叫びたい衝動を必死に抑え込む。
そんな翠の様子をわずかに気にした風を見せながらも、鷹那はそのまま話し続けていく。
「ですから、そこまで気になさる必要はないと思います。琥珀様の願いは、姫達が幸せになる事だったのですから」
頭の上から掛けられた言葉に、翠はゆっくりと顔を上げた。そこにはいつも通り、鷹那のすました顔があった。
「……もしかして、全部分かってたのか?」
「たんぽぽから事のあらましを聞いていましたから。その上で姫の様子を考えてみれば、だいたいの推察はつきます」
「……ははっ、そうか、お見通しか」
頭を垂れた翠の口から、またもや乾いた笑いがこぼれる。それでも、先程のような自虐的な雰囲気はない。
「……なぁ、母様はあたしの事、怒ってないよな?」
それは他人に尋ねるというよりも、自らに問うような言い方。不安をぬぐい去ろうと、自らに確認するような言い方だった。
「母様は呆れてなんか、あたしに愛想をつかしてなんかいないよな?」
「姫の幸せを望んでおられたのです。喜んでいらっしゃいますよ、きっと」
そう言って鷹那は薄く微笑む。
いつの間にか月は高く上り、東屋の下に月明かりは届かなくなっていた。翠の頬を伝う涙も鷹那の瞳には映らなかった。
「なあ、どこまで行くんだよ!?」
「いいから来いっ!」
腕をぐいぐい引かれながら文句を言う一刀。対する翠は一切の説明もなく、ただ一刀の腕を引いてずんずんと歩く。
桃香自身が兵を率いて孫策軍と合流したのが今日の昼の事だった。雑務が終わり、ようやく一息つけると思った矢先、一刀は翠に連れ出された。久しぶりに会えたというのにそれを喜ぶでもない翠の姿にがっかりしたものの、歩くのは止めない。腕力で敵わない以上振りほどけないし、立ち止まれば肩や肘が抜けそうなくらいの勢いで引っ張られているからだ。
「……ここらでいいか」
キョロキョロと辺りを見回した後、握っていた手を離した。そこは陣の外、森の中にわずかに入った場所だった。周囲に人の気配はまったくなく、離れた位置にある篝火と、木々の間からこぼれる月明かりだけが辺りを照らす。
翠は一刀へと向き直り居住まいを正す。そうしながらもわずかにうつむき、何か言いづらそうにしている姿に、一刀はピンと来た。
まったく、可愛いなぁ。無意識のうちに一刀の頬はゆるんだ。
「あ……、あのな。お前に……、話があるんだ」
「うん、言わなくてもいい。分かってるから」
変わらずもじもじとしている翠に近寄ると、一刀はその肩に手を添えた。えっ、という驚きの声と共に顔が上を向く。一刀は優しく微笑むと、瞳を閉じてそっと顔を近付ける。
その唇に柔らかいものが触れる、事はなかった。
「な、何してんだ! この馬鹿っ!」
目を開けると、顔を真っ赤にしてまなじりをつり上げる翠の姿が飛び込んできた。
「何っへ……、口付へがひたひんじゃ……?」
両手で突き放すように頬を押されているため、上手く言葉を発する事が出来ない。
「んな訳あるかっ! そんな事したくて連れ出すわけないだろ、この変態っ!」
なんだ、違うのか。少し落胆しながら2、3歩後ろにさがる。
「じゃあ、話って?」
「だ、だから……、それはだな……」
視線を外し、再び言い淀む翠。それを今度は黙って待つ。
告白した時の事を思い出し、一刀の中に気恥ずかしさが生まれた時だった。
「……あたし、大事な事を忘れてたんだ」
「忘れてた、って何を?」
「……母様の仇討ち」
言うと同時に、翠の拳がぎゅっと握りしめられた。
「お前と想いが通じたのがすごく嬉しくて、こんな大事な事がすっかり頭から抜け落ちてた」
悔しさのにじみ出ているその言葉を聞いて、なぜ言い淀んでいたのか、一刀には分かった。話の内容が他人に聞かせたくない事なのはもちろん、その原因が俺にもあるからだろう、と。
それが分かった代わりに、またひとつ疑問が浮かぶ。なぜこの事を話してくれたのか、その理由が分からない。原因の一端があるから、というだけではないような気がしていた。
「もしかして、仇討ちを諦める気になった……」
「それはない」
言い切らないうちに、きっぱりと否定される。先程までとは別人のようだ。
「じゃあ、何でこの事を俺に伝えようと思ったんだ? あんなに言いづらそうにしてまで」
「それは……」
一刀の問いかけに対し、またもや口ごもる翠。一刀の足元へと視線を落としながら、小声で言葉を発する。
「あたしだって、言おうかどうか迷ったんだ。軽蔑されると思ったから」
「軽蔑って、何で?」
「母様の仇討ちを忘れてたんだぞ。薄情なのもいいとこじゃないか。だから、黙っていようかと思ったんだ。言わなきゃ分からないし」
それはそうだ。言われて初めて、彼女が失念していた事を知ったのだから。
「けど、それはお前に嘘を吐いてる、っていうか、隠し事をしているみたいで嫌だったんだよ」
それはとても翠らしい答えだった。あまりにもらしすぎる答えに、一刀はつい吹き出してしまった。その笑い声に、翠は顔を上げてキッとにらむ。
「な、何がおかしいんだ!」
「ごめんごめん。おかしいとか変とかじゃなくて、翠らしいな、と思って。そういう、真っ直ぐで馬鹿正直なのってさ」
言いながら、一刀は翠の頭に手を乗せ、小さい子を安心させるように優しくなで始めた。音を立てるくらいの勢いで翠の顔が真っ赤になり、その事を隠すように彼女は下を向いた。一刀はうつむく翠に向かい、優しい口調で語り掛ける。
「軽蔑はしないし、嫌いになったりもしないよ。だって、仇討ちを忘れるくらい、俺と付き合うようになったのがうれしかったって事だろ? それに、いくつもの事を同時に考えられるような器用さを翠が持っていない事も分かってる」
「……なんか、馬鹿にしてるみたいな言い方だな?」
そういった不器用さも含めて一刀は翠を好きなのだが、彼女にはその事がうまく伝わらなかったらしい。翠はすねたように呟く。もっとも、それが本心なのか、それともただの照れ隠しなのか、正確なところは一刀には分からなかった。
「馬鹿になんてしてないさ。信じられないなら、証拠を見せようか?」
「証拠?」
思わず聞き返し顔を上げた翠に対し、一刀は黙したまま顔を近付けた。先程とは違い不意打ち気味だった事もあってか、2人の唇はそのまま重なり合った。
しばらくの間、身じろぎひとつしない2人。ゆっくりと、名残惜しそうに唇を離したのは一刀の方だった。
「信じてくれた? 馬鹿になんてしてないし、嫌いにもならないって事」
まるで熟れ過ぎたトマトのように、今までにも増して翠の顔は赤い。恥ずかしそうにうつむき少しの間静止していたが、小さく首を横に振る。
「し、信じられない、から……」
消え入りそうな声を受けて、一刀は笑顔で翠の体を抱き寄せる。
「そうか。なら、信じてくれるまで何度でもしてあげるよ」
翠の耳元で呟くと、一刀は再び翠と唇を重ねるのだった。
一刀と翠の2人は寄り添い、大木に背中を預けて草むらに腰を下ろしていた。
季節はすでに晩秋から初冬へと移ろっている。いくら大陸の南方とはいえ、夜の木立を抜けてくる風は冷たい。それが触れ合う肩と握った手の温もりを際立たせ、愛しい女性が傍に居る喜びを一層強く一刀に感じさせていた。
「……なあ、やっぱり一刀も仇討ちを止めた方がいいと思ってるのか?」
何をするわけでもない、ゆったりとした雰囲気に包まれ至福の時を過ごしていると、翠が口を開いた。その声音には今の空気に似つかわしくない固さがあった。一刀は思わず、えっ、と聞き返してしまう。
「さっき聞いたろ? 仇討ちを止めるのか、って」
「そうだな……」
翠の方から正面へと視線を戻し、少し考えるようにしながらゆっくりと口を開く。
「仇を討ちたい、っていう気持ちは分かる。でも、仇を討ったからって琥珀さんが生き返るわけじゃないし、何がどうなるものでもない。むしろ、今度は翠が仇として恨まれるだけだ。それを返り討ちにすれば、また別の人に恨まれるだけだし、逆に翠が討たれたりしたら……、残された者はやっぱり相手を恨まずにはいられないと思う」
想像しただけで不安や恐怖に襲われ、知らないうちに翠の手を握る腕に力が入った。
「考えただけでも胸が張り裂けそうになるけど、それでもどこかで止めないと。じゃないと、いつまでもこんな事の繰り返しになるから。……ごめん、ひどい事を言ってるのは分かってるんだ。でも……」
言葉に詰まる一刀の手に、ふっと柔らかいものが触れる。視線を送れば、翠の両手が彼の右手を包んでいた。
「一刀の言いたい事は分かる。前に、桃香様にも同じような事を言われて、あたしなりに考えてもみたから。でも、駄目なんだよ」
今度は翠が一刀の手を強く握った。潰れそうに痛かったが、一刀はそれを表情や声には出さずに続きを待つ。
「あたしには、母様の仇討ちを諦める事なんて出来ない。母様の死を忘れる事なんて出来ないんだよ!」
叫んだ翠の瞳に涙がにじんだ。
翠の中で琥珀の死に関する事の整理が出来ていないのだ、と改めて思い知らされた。もちろん、一刀の中にも後悔や悲しさといった感情はある。自分の、この世界での母親と思っていた人なのだから。
それでも翠との思いの強さに開きがある事を知れば、今まで彼女の気持ちを分かったつもりでいたのが恥ずかしくも悔しくもなる。だからこそ、翠をこんな気持ちのままにしておく事は出来ない。
一刀は空いている左手を伸ばし、翠の頭を自分の胸へと抱き寄せる。
「忘れるなんて、俺にだって無理だよ。忘れる必要なんかない」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「……許してやればいいんだ」
一刀の答えが予想の範疇になかったせいか、抱き寄せられた時にゆるんだ翠の手に再び力がこもる。
「……母様を殺した相手を、か? そんなの……、忘れるよりも難しいじゃないか」
「そうだな……。でも、忘れるよりはずっといいだろ? 琥珀さんが殺害されたのを忘れるって事は、琥珀さんが生きてた事も、一緒に生きた思い出も、全て忘れてなかった事にするのと一緒じゃないか? 琥珀さんは確かに生きてた。この国と、民と、そして翠や俺達のために生き抜いたんだ。……そうだろ?」
「分かってる、分かってるよ、そんな事……。けど……」
しばらくの沈黙の後、
「……難しいよ、やっぱり」
一刀の胸で搾り出すように呟いた。
「なんじゃと? 公瑾よ、もう一度言ってくれんか? 歳のせいか、耳が遠くなったようでな」
軍議の席で周瑜から下った軍令を、最も近い位置に座る黄蓋が聞き返した。
「ですから、曹操軍との決戦に備え、各船には三月分の兵糧を積み込むようにと命じたのです」
周瑜が言った内容は、直前に彼女の口から聞かされている通りだった。それはこの場にいる誰もが分かっている。天幕の末席にいた者の耳にまで、周瑜のよく通る声は届いていた。もちろん、一番近い席に腰を下ろしている黄蓋が聞き漏らす事などあるはずがない。
ならば、なぜ聞き返すような真似をしたのか。その答えを自ら示すように彼女は抗言する。
「正気か、公瑾!? そのような弱腰で曹操に勝てると思っておるのか! 糧食など3日で十分。それくらい決死の覚悟を決めねば、曹操を討ち滅ぼす事なぞ叶いはせん!」
黄蓋の声には多分の怒気が乗っていた。それを受け流すようにため息を吐き、周瑜は黄蓋の言葉に反論する。
「いくら水軍の質で大きく勝っているとはいえ、曹操軍は一筋縄で勝てる相手ではありません。そこは黄蓋殿のおっしゃる通り。だからこそじっくりと腰を据え、機をうかがう必要があるのです」
続けて、長期戦を展開する事で得られるであろうふたつの利を説明し始める。
曹操軍の大部分は河北育ちであり、南方特有の気候風土に慣れていない。この事は将兵の体調や疲労の蓄積に大きく影響を及ぼし、実際、曹操軍の軍中では疫病が流行り出している、という間者からの報告も上がっていた。このまま時が流れればさらに影響が大きくなる。そう周瑜はにらんでいた。
さらには、曹操軍は中原から江東まで遠征を行っている。時間が経てば望郷の念は強くなり、軍全体の士気は下がる。ましてや、対峙しているだけで戦端が開かれない状況が続けばなおさらだ。
周瑜の算段では、その機が熟すのに2、3ヶ月は掛かると思われた。
そう説明を受けても、黄蓋に納得した様子は見られない。憮然とした表情で声を荒げる。
「奴等は劉表の持っておった水軍を無傷で手に入れておる! 間を置けば置いただけ、奴等の練度も上がろうが! 曹軍の陣容が整わぬうちに、一気に勝負を決めるべきじゃ!」
「それも織り込み済みです。その分を差し引いても、今は機を待つべきだと判断したのです」
いくら宿将である黄蓋が吠えてみたところで、軍の方針がそう簡単に覆るはずがない。彼女自身もそれが分かっているからか、しばらく周瑜をにらみ付け、勢いよく立ち上がった。
「貴様では話にならん! 策殿が戻ったら直接話をつける!」
吐き捨てるように言うと、天幕から立ち去ろうとする。
「当然、伯符も了承していますが?」
「……言われんでも分かっておるわ!」
背中から投げつけられた言葉に、黄蓋は苛立ちを隠そうとすらしなかった。
曹操軍の陣中には、長期戦を予想してか、天幕だけでなくしっかりとした造りの屋敷もいくつか建設されていた。
そのうちのひとつ、一番大きな屋敷の中。すっかり夜も更け、あらかたの将兵も寝静まったような時刻に少女は目の前の扉を叩いた。
「入りなさい」
扉越しのせいか少しくぐもっていたものの、入室を許可する声はしっかりと耳に届いた。
「失礼します~」
のんびりとしたしゃべり方で断り、少女はその長くふんわりとした金色の髪を揺らしながら部屋へと入る。そこにはろうそくの灯りで書物を読む曹操と曹操軍筆頭軍師、荀彧の姿があった。
荀彧が曹操の部屋にいるのは、その立場を考えればおかしな事ではない。が、彼女の行っている行為は、誰の目にもおかしな行為と映るだろう。主君の足を恍惚とした表情で舐めているのだから。
「どうしたのかしら、風。こんな夜更けに」
それでも、曹操の様子は普段とまったく変わらない。書へと視線を落とした姿勢のまま、入室した程昱へと問い掛けた。
「たった今、間者から報告がありまして~」
対する程昱も程昱で、荀彧を気にする気配は微塵もない。彼女達にとっては、荀彧のとっている奇異な行動も日常の事であった。
「どうやら、連合軍は長期戦を選択するようなのですよ~」
「なるほど。遠征軍というこちらの弱点をつく腹積もりね」
「まあ、そうでしょうね~。それから、もうひとつ。短期決戦を挑みたい黄蓋と周瑜の間で、少し衝突があったとの事です~」
「そう……、分かったわ。引き続き、敵の動きを探らせなさい」
程昱は頭を下げ、曹操の部屋から出て行った。
しばらくの間、曹操は1人思案にふけたが、思い出したように右足をついと引いた。すると足元で、あっ、と小さく声が漏れる。荀彧は己の唾液でてらてらと光る曹操の足を惜しげに見詰めていた。
「桂花、あなたはどう思うの? 風の報告を聞いて」
曹操の問いに荀彧は顔を上げた。彼女の顔は紅く上気し、目はとろんとして見える。だが、その言葉まではほうけていない。
「軍師と将が意見を異にするのはよくある事。それも、我が軍で言えば春蘭のような、己の武勇に自信を持ってる者であれば、なおさら戦術や戦略を軽んじる傾向があります。堅実ではあっても消極的な周瑜の考えとぶつかったとしても、おかしくはありません」
「……ふふっ、そうね」
荀彧の答えに満足したのか、曹操は短く笑う。その笑みを淫靡なものへと変え、濡れた爪先を荀彧の顎から頬へと這わせる。少女は心底幸せそうな顔で、主君の足に頬擦りを続けるのだった。
本拠地である建業で諸々の雑務を終えた孫策が前線へと戻ったのは、周瑜と黄蓋が衝突した日から5日後の事。早速行われた軍議の席で黄蓋は己の意を述べるものの、呆気なく却下される。
「何故じゃ、何故分からん!? そのような戦い方では曹操には勝てん!」
「何故って言われても……。ねぇ、ちゃんと説明したんでしょ?」
すごい剣幕でがなり立てる黄蓋に、孫策は面倒くさそうな顔を見せた。そのままの表情で横を向くと、隣に座る親友に厄介事を押し付ける。
「無論だ。相手の疲弊を待ち、士気の落ちたところで仕掛けると……」
「じゃから、そんな弱腰では勝てんと言うておる! のう、策殿。策殿なら分かっておるはずじゃ。奴等の体制が整わぬうちの短期決戦こそが、我等に勝利をもたらすと」
周瑜に押し付けるたはずのものがあっという間に戻ってきた。
「はぁ~……。いい? これは劉備達も納得してくれている事。あなたが何を言おうと、方針を変えるつもりはないわ」
さもうんざりといった風で吐かれたため息はとても深い。その後を一息で言い切り、これ以上の問答はしないとばかりにそっぽを向く。
歯噛みしながら立ち尽くす黄蓋。そんな彼女に、軍議を進行する邪魔になるからと周瑜が着席を促そうとした時だ。
「そもそも、儂は劉備なんぞとの同盟に賛成してはおらん」
黄蓋の放った言葉で、劉備軍の面々の顔色が変わる。自分達の主が貶められたのだ。穏やかでいられるはずがない。
当の本人である桃香は苦笑いを見せているものの、鬼の形相で立ち上がろうとした愛紗は紫苑に押し止められる。
「祭! いい加減にしろ!」
黄蓋の暴言を咎めたのは、孫策の妹である孫権だ。彼女は大机を激しく叩きながら立ち上がる。が、黄蓋はそれにもひるまない。
「権殿は黙っていてくだされ! ……文台様が生きておられる頃であれば、このような作戦を採られる事はなかったじゃろうな」
「……っ! 母様の事は関係ないじゃない!」
今度は孫策が語気を荒げて立った。その際、座っていた椅子が勢いよく倒れてけたたましい音を立てた。しかし、誰もそれを気にする事がないほど、天幕内は緊張感が支配している。
「関係ない事などありますまい。儂を含めた将兵だけでなく領民の多くも、策殿が文台様の息女だからこそこうしてついてきているのじゃ。それを、文台様の目指した天下統一を半ばで諦め、今度は腑抜けた策を採る。……儂にはあの世で文台様に会わす顔がありませんな」
ぐっ、と拳を握りしめる孫策を馬鹿にするように、黄蓋は鼻で笑って言葉を続ける。
「今頃、江東の民達は思い違いをしていた、と嘆いている事じゃろう。江東の虎の娘は、ただの猫だったのじゃから」
「……なんですって? もう一辺、言ってみなさい」
「ふん、何度でも言うてやりましょう。江東の虎の娘は猫じゃ。それも、牙も爪もなまったただの家猫よ。ネズミ一匹捕まえられん、正真正銘の駄猫じゃ!」
「……そこまで言ったからには、覚悟は出来ているんでしょうね?」
声は小さく口調も穏やか。しかし、孫策の放った言葉からは怒気と殺気が溢れかえっている。一同が背筋に冷たいものを感じる中、孫策の真正面に立つ黄蓋だけが小馬鹿にするような笑みを浮かべていた。
天幕内には声をあげる者はおろか、物音ひとつたてる者はいない。誰一人動けずに、ただ相対する二人の姿を見詰めている。
水を打ったように静まりかえる中で不意に聞こえた衣擦れの音。孫策の右手が腰に下げた愛剣、南海覇王へと伸びていた。彼女が柄に手をかけた瞬間、止まっていた時が再び動き出した。
「いかん、雪蓮!」
「駄目です、姉様!」
周瑜、次いで孫権が弾けるように立ち上がり、孫策を諌めると共に力ずくで抑える。
「やれやれ、止めんでもよいものを。策殿のなまくらな腕でどうにかなるほど、儂はまだもうろくしてはおりませんからな」
挑発的な物言いに、さらにいきり立つ孫策。周瑜はそんな親友を必死に押し止めながら指示を出す。
「雪蓮! 何をしている、思春、明命! 早く祭殿を連れていけ!」
孫権の隣で孫策を抑えている甘寧と、あまりの状況におろおろとしている周泰。まったく反対の対応を見せていた二人だが、周瑜の命令を受けて黄蓋を両側から挟み込む。
「何をする、お主等? 儂の話はまだ終わっておらんぞ!」
そのままがっしりと腕をつかみ、文句を言う黄蓋を引きずるようにして無理矢理天幕の外へ連れ出していった。
怒りの矛先を失った孫策は周瑜達をやんわりと振りほどく。冷静さを取り戻したのかと思いきや、自分の倒した椅子を起こすとそこにどっかと腰を下ろし、背もたれに体を預けるようにして天を仰いで気だるそうに口を開いた。
「……で、どうするの?」
「どうする、とは何がだ?」
「決まってるでしょ、祭の処罰よ。あれだけの暴言、とがめなければ将兵に示しがつかないわ」
面倒臭そうに上体を起こすと、今度は机に両肘をついて体を支える。
「まあ……、棒罰三十回、といったところか」
この答えに不満があるのだろう。孫策は周瑜の顔をねめるように見上げる。その表情にちらりと目をやっただけで、周瑜も椅子に座り直した。
「曹操との決戦を控えている今の状況で、黄蓋殿を処刑する訳にはいかないだろう? そんな事をすれば、兵達の動揺を抑え切れなくなるぞ」
「分かったわよ!」
強い口調で返事をすると、孫策はまたもや立ち上がった。一目で不機嫌と分かる顔をして大股で歩き出す。その向かう先は天幕の出入口だ。
「どこへ行く、雪蓮」
「今日の軍議は中止! 桃香もいいわね!?」
「は、はい!」
語勢に圧されて思わず出てしまった桃香の返事を背に受け、孫策は肩を怒らせたまま天幕を後にする。そんな親友の背中を見送った周瑜は額を押さえて深いため息を吐いた。
「まったく……。すまないな、劉備。今日のところは容赦してくれるか?」
「はい、それは構いませんけど……。あの、大丈夫ですか?」
「心配は無用だ。決戦に影響は出さん」
強い口調で言い切り、周瑜も席を立つ。次いで孫権が立ち上がり、陸遜ら文武官が後に続く。結局は、天幕に残っているのは劉備軍側の人間だけとなってしまった。
「……それでは、私達も戻りましょうか」
「にしても大丈夫なのかよ、あんなので」
紫苑に促されて腰を上げると同時に、翠がぼそっと口に出した。
誰も答えを口にしない。しかし、彼女達の表情にははっきりと答えが表れていた。不安である、と。それは、感情が表に出やすい桃香や愛紗だけではなく、心の内をあまり読ませないはずの星や紫苑まで一緒だった。
影響を出さない、と周瑜は言い切った。だが、今回の件を丸く納めるのは難しいだろう。この場にいるほとんどの者がそう感じていた。
黄蓋に対する刑はその日の夜に執行される事となった。陣の中央、開けた場所に引き出された彼女の体は、罪状と刑罰の量が読み上げられている横で、刑台に括りつけられていく。
腰ほどの高さのある台にうつぶせに寝かされて四肢を固定。さらには、猿ぐつわのように布を噛ませられる。黄蓋が抵抗しなかったため、準備はすんなりと整った。
本来であれば、すぐにでも執り行われるはずである。しかし、刑の執行官は樫の棒を手にしたまま固まっている。静寂に包まれていた広場に、次第にざわめきが広がっていく。
「孫家の宿将、黄蓋殿が相手では、さすがに一兵卒では荷が重いか」
「まあ、やりづらいのは間違いないよな。でも……」
群衆の中、星の呟いた言葉に歯切れ悪く一刀が返す。彼等の周りにいる孫策軍の兵士も同じ気持ちなのか、ざわついてはいるものの、ヤジを飛ばしたりする者はいない。
しかし、このままの状況をずっと続けている訳にはいかない事もこの場にいる誰もが理解していた。もたもたしていれば孫策の怒りに火がつくのは明白だった。
「何をしておる。早くやらぬか」
そんな中、黄蓋が猿ぐつわをはずして声をかける。刑を受ける側に促されるというおかしな事態であったが、それでも執行官のためらいは消えない。
「早くせい。でないと、お主にまで責めがおよぶ。……なに、心配せんでもよい。たかだか三十回の棒罰ごときでまいるほど、やわな鍛え方はしておらん」
そう言うと、声を上げて笑う黄蓋。それが気に入らなかったのか、
「早く始めろ!」
という孫策の怒声が笑い声をかき消した。
「……で、では、いきます」
猿ぐつわを噛み直す黄蓋の背中に声をかけると、執行官は樫の棒を両手でしっかりと握りしめ、上段に振り上げる。
広場はしんと静まり返り、その場にいる誰もが固唾を呑む。執行官の動きの止まったわずかな間がとても長く感じられた。
「……ひとつ!」
執行官の口が開く。と同時に、樫の棒が振り下ろされる。
彼の声は半ばやけくそ気味に大きかった。が、振り下ろされた棒は声量とは裏腹に力無い。黄蓋の背中から、まるで平手で打ったような軽い音がした。
当然、孫策がこんな事で納得するはずはなかった。
「なんだ、それは!」
激昂した孫策は鬼の形相で刑台に上がると、すっかり腰の引けてしまっている執行官からひったくるようにして棒を奪う。その感触を確かめるように棒を数回振ると、空気を裂く音が離れた位置にいる一刀達の耳にも届いた。
「……さて、と。覚悟はいいかしら、祭?」
振るっていた棒を肩に担ぎ、孫策は黄蓋の背中を見下ろした。その顔にうっすらと浮かぶ笑みは、広場にいる者達の背筋を凍えさせた。
それでも、黄蓋だけは挑発的な言葉を口にしていく。
「策殿自らやってくださるとは、お優しいですなぁ。歳のせいか、儂もめっきり疲れやすくなりましてな。その細腕ならば、ちょうどこりもほぐれましょう」
「……そう。なら、満足するまでやってあげるわっ!」
言うが早いか、孫策の握る棒が振り下ろされる。先ほどとは違い、まるで何かが破裂したかのような音が轟き、わずかに遅れて黄蓋の口から苦悶の声が漏れた。
「みっつ!」
孫策が続けて殴打したのとほぼ同時に、補佐官が慌てて猿ぐつわを噛ませた。そのせいで、黄蓋の声はほとんど聞き取れなくなり、ただ棒をしたたかに打ち付けられる音だけが広場に響いた。
黄蓋の受ける罰をしっかりと見つめる者、目を背ける者など兵達の様子は様々だ。黄蓋直属の部下の中には、明らかに孫策に対して敵意のこもった目を向けている者もいる。それらに一切関心を向ける事なく、孫策の執り行う刑は進んでいく。
たった数回で黄蓋の衣服は破れ、10回を数えた頃には皮膚までもが裂けた。打たれるたびに舞う赤い飛沫が孫策の顔や腕を染める。
そんな返り血で汚れる事もいとわない孫策の腕が、20回に達したところでピタリと止まった。
棒罰の回数は、あと10回も残っている。なぜ、という思いが広場にいる者達の頭に浮かぶ。ひょっとして、恩赦をかけてくれるのか。そんな事を考える者も中にはいた。だが、孫策はそれほど甘くはない。
「何をしている! 水をかけろ!」
そう命令をすると、桶にくまれていた水を補佐官が黄蓋に向かってぶちまけた。少し遅れて、びしょ濡れになった頭が左右に振られた。
「情けないわね。あれだけの事を口にしておいて気を失うなんて」
「……いや、あまりにも策殿のあんまが心地好かったのでな、思わず寝てしまいました」
血みどろの状態での強がりに、あざけるような笑みを浮かべていた孫策のこめかみがピクリと動く。
「……なら、昇天するくらい気持ちよくしてあげるわよっ!」
孫策による棒罰が再開される。振るわれる棒は彼女の苛立ちによってさらに苛烈さを増していく。
汗にまみれる黄蓋の顔が苦痛に歪む。その度に、回数がひとつずつ減っていく。早く終わってくれ、と誰もが祈る思いで見守っていた。
そして、ようやく後1回、というところまで辿り着いた。ここまで殴られ続けた黄蓋は息も絶え絶えではあったが、その目はしっかりと開かれていた。
「さん……じゅうっ!」
初めて両手で振り下ろされた棒は、最後の数を数えるのと同時にボキリと音をたてて真っ二つに折れた。頭の部分は弧を描いて地面に落ちる。孫策はそれを一瞥すると、手元に残った棒の根元を地面に転がる片割れに向かって放り投げ、何も言わずに刑台を降りた。
刑が終了すると、黄蓋には治療が施された。傷は背中のほぼ全面にわたっており、しばらくの安静が必要ではあるものの、命に別状はなかった。それを聞き、孫権を始めとする将兵達はとりあえず安堵した。
それと同時に、先代当主、孫堅の代からの忠臣である黄蓋に対する孫策の容赦ない仕打ちに不満を抱く者も少なくなかった。
そんな中、治療の終わった黄蓋は陣のすみに建つ小屋に移された。木造で、小さいながらもしっかりとした造りの建物だが、居住用に建てられたものではない。刑の終わった黄蓋の身柄を確保しておくための、いわば牢獄がわりである。
窓は高い位置に換気用のものがあるだけ。出入り口は見張りの兵に固められている。そんな状況に置かれた黄蓋に出来るのは、傷が癒えるのを待つ事だけだった。
「……誰じゃ?」
薄暗い部屋の中、ふと人の気配を感じてうつ伏せのまま顔を上げた。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「いや。お主は……、たしか蒋幹じゃったか」
明かりの乏しい室内ではあったが、すらりとした体の影をとらえる事は出来た。
「傷によく効く薬草を持って参りました」
蒋幹の両手には、包まれるようにして小鉢が持たれていた。薬草は、すでにすりつぶされた状態でその中にあった。大事そうに小鉢を持ったまま、蒋幹は黄蓋の隣に座り込む。
「少ししみるかもしれませんが」
言われて身構えたものの、蒋幹の指で薬を塗られた瞬間、予想以上の痛みで思わず声が漏れた。背中から聞こえる謝罪の声に、気にするな、と応えて首を横に振るだけで精一杯だった。
痛みに耐える事しばらく。蒋幹の指が黄蓋の背中から離れた。
「……塗り終わりました。これを毎日続ければ、10日とせずに傷口はふさがります。黄蓋殿には早く傷を治してもらい、また雪蓮のために働いていただかないといけませんから」
濃い緑色の薬草で汚れた指をぬぐいながら蒋幹は声をかける。だが、黄蓋からの返事はない。黄蓋殿、と名前を呼びながら顔を覗き込むと、何やら思い詰めた表情をしていた。
「……ふん、策殿のために、か」
「……何かおかしな事を言いましたか?」
「いや。ただ、もう策殿に従う事はないと、そう思っただけじゃ」
黄蓋の言葉が予想外だったのか、蒋幹は一瞬言葉に詰まった。
「……こ、黄蓋殿。昼間の件は感情的になった雪蓮にも非があるとは思いますが、しかし……」
「別に棒罰を受けたから言っている訳ではない。袁術を始末せんかったり、劉備なんぞと同盟を結んでみたりと、文台様が存命であればとらぬであろう対応ばかり。策殿は文台様の遺志を継いでおられるとばかり思っておったが、そうではなかった。ならば、儂は……」
「急いて答えを求める事ではないのではありませんか?」
黄蓋の言葉をさえぎった蒋幹はスッと立ち上がった。体を動かせない黄蓋は、それを横になったまま見上げた。
「策殿や冥琳に言ってくれて構わんぞ。お主の手柄になろう」
「私個人の手柄になど興味はありません。……ゆっくりと静養し、落ち着いて考えられた方がよろしいかと」
では、また明日。そう言い残して蒋幹は屋敷から去っていった。
翌日、その言葉通りに黄蓋の捕らえられている小屋を訪れる蒋幹。前日と同様、薬を患部に塗っていく。そうして5日もたつと、黄蓋の傷はほとんどふさがり、日常生活を送るのには不自由ない状態にまで回復した。
「さすがは歴戦の勇将、黄蓋殿ですね。完治まであと数日とかからないでしょう」
薬を塗り終えた背中を見て、蒋幹はそう感嘆した。傷の治りは常人よりも早く、実際、彼女が口にした日数よりも短かった。
すまんな、と短い礼を返し、黄蓋はあらわになっていた上半身に衣服をまとっていく。あっさりとしたその言葉からは、傷が治る事への喜びは感じられない。
「……やはり、雪蓮のためにそのお力を振るう気にはなりませんか」
「節を曲げるつもりはないわ。暇をもらい、どこぞで狩りでもしながら余生を過ごすかのう」
「余生などと……。まだ、そんな歳ではないではありませんか」
黄蓋は蒋幹に背を向けたまま微笑んだ。
「確かに、まだまだ若い者に負けるつもりはないが、もうよかろう。文台様から頼まれた策殿達の後見も、遺志を継いでいればこそじゃ。今の策殿を知れば、文台様も文句は言わんじゃろうて」
ふっと顔が上がる。小さな窓から夜空を見上げるその顔は、少し寂しそうだ。
「あの時、文台様と共に逝っておれば、このようなわびしさを味わわずにすんだのかもしれんな。……程普殿や朱治殿がうらやましいわい」
遠い目をした黄蓋と、その姿を背中から見つめる蒋幹。2人は黙ったまま、静かな時が流れる。
遠くから虫の音が聞こえてくる。季節外れに、たった1匹だけ鳴くその声はとてももの悲しい。
「……いや、少し感傷的になった」
振り向いた黄蓋の顔には照れたような笑みが浮かんでいた。
いえ、とだけ言って、蒋幹は首を振る。黄蓋の表情とは対照的に、彼女のそれは固い。
「……ですが、やはり黄殿の武がここで失われてしまうのは残念でなりません」
「そこまで儂を買ってくれるのはありがたいが、さっきも言った通り、もう策殿に仕える気は……」
「それは分かっています。ですからそのお力、我が主にお貸しいただけませんか?」
「我が主? お主、ただの書生ではなかったのか?」
黄蓋の眉根が寄る。彼女が孫策軍の陣を訪れた時、仕官もせずに諸国を遊学していると言っていたからだ。
その問いに返事はない。蒋幹は表情ひとつ変えず、ただ黙って目の前の人物を見つめている。
「……この状況で儂を引き抜こうとする者など、1人しかおらんか。……よかろう、話を聞いてやるわい」
その言葉を聞いた瞬間、蒋幹の口角が大きくつり上がった。
曹操軍の軍師、郭嘉は夜更けに1人、陣中を徘徊していた。いくら南方といってもすでに冬。昼間はともかく、日が落ちればすこぶる寒い。その寒さがもやのかかった頭をすっきりさせてくれる気がしたのだが、それでも妙案は浮かばなかった。
劉備・孫策連合軍に対してどう攻めるか。その策が思いつかないのである。
とはいえ、それでも知者である曹操の軍師。しかも、同じく軍師である荀彧や程昱よりも軍事に明るい彼女だ。何の策も思いつかなかったわけではない。それどころか、必勝ともいえる戦略を献策していたのだ。
劉備と孫策、両者の兵力と意識がこの荊州に集中している隙に、それぞれの本拠地である益州と揚州を陥落させる。もし本拠地の救援に撤退するようであれば、荊州に配備している兵力で追撃をかける。
それが郭嘉の考えた戦略であった。
同時に3方面に対して戦力を展開させるのは、国力と兵力で大きく勝っている曹操軍だからこそ出来る作戦である。最低限の兵力しか置いていないであろう両軍の本拠地を落とす事は容易く、自軍の損耗も抑えられる。これほど確実で、これほど効率的な作戦は他にない。郭嘉はそう確信していた。
しかし、それと同時に確信していた事がもうひとつあった。曹操がこの策を聞き入れるはずはない、という事だ。そして、それは的中した。覇道を掲げる曹操からしてみれば、この戦略は逃げも同然であったからだ。
結果が分かっていても献策したのは、軍師として主君の勝利を何よりも優先させたからである。曹操はその思いを汲んだ上で、新たな策を考えるように彼女に命じた。しかし、筆頭軍師である荀彧からは、主君に対する理解と愛が足りない、と罵詈雑言を投げつけられた。主の心遣いに報いるためにも、荀彧の鼻を明かすためにも、なんとしても新たな策を考えねばならなかったのだ。
ただ勝つだけであれば苦労はない。水軍と陸軍、その両方をもって包囲するように戦いを展開させていけば、戦力に劣る連合軍の息が先に上がるのは間違いない。だが、それでは被害が大きすぎる。将来の国家の安定を考えれば、いたずらに戦力を損なうのは避けるべきだ。何より無策での力押しなど、軍師としては自ら無能であると証明しているようなものだ。
被害を最小限に抑え、確実な勝利を手に入れる。そんな条件を満たす策を考え出す事が容易いはずはなかった。
「あれは……?」
足を止め、ふと顔を上げた郭嘉の瞳にゆらめく灯りが映った。こんな時間にいったい誰が、と自分の事は棚に上げ、誘われるように灯りの方へと近付いていく。
灯りのこぼれる東屋の下には、腰掛ける曹操とその脇に立つ程昱の姿があった。
「華琳様、このような夜更けに……、像棋ですか?」
机の上に転がる像棋の盤と駒を見て尋ねる。
「ええ、そうよ。あなたこそ、こんな時間にどうしたのかしら?」
曹操は微笑みながら尋ね返した。
「いえ、私は……」
連合軍に対する策を思案中だ、とは言えなかった。彼女の自尊心と虚栄心がその言葉を飲み込ませる。
「奴らに対してどう攻めるか、いい案が浮かばねーんだろ」
核心を突かれ、思わず郭嘉はその友人をにらんだ。
「おおう、風じゃないのですよ~。言ったのは宝譿なので~」
そう言って程昱はとぼけてみせる。彼女が腹話術で喋らせている事はばればれなのだが、深く追求する事は宝譿の発言を暗に認めた事になるため、郭嘉はそれ以上何も言えない。
「ふふっ、なら、そんなあなたにはとてもいい知らせでしょうね。風、稟にも教えてあげなさい」
曹操の言葉に郭嘉は睨むのを止め、大きく息をして心を落ち着かせた。
「はい~。孫策軍の将、黄蓋がこちらに投降する事になりました」
「なっ!? 本当なの、風?」
予想外の話に、郭嘉の口からは驚きの声がこぼれた。
孫策と黄蓋の仲がギクシャクしている、とは報告を受けていた。軍の方針に従わずに罰を受けた事も聞いている。それらの事が原因で投降を決めた、というのは分からなくもないのだが、釈然としない何かが郭嘉の中に残った。
「ところで、あなたも1局どうかしら? たまには気分を変える事も必要よ」
曹操は像棋の駒を鳴らせてみせる。考えを巡らせていた郭嘉はその言ももっともと思い、曹操の正面に腰を下ろそうとする。
「ただし、負けたら罰があるけど」
曹操はにやにやと笑いながら下を指差す。その指先を覗き込んで、郭嘉は自分の目を疑った。
曹操が腰掛けていたのは椅子ではなく荀彧。しかも、一糸纏わぬ姿で恍惚の表情を見せている。
視線を上に戻せば、からかうような目を向けられた。
『という事は、私が勝てば華琳様を裸にして……』
いけない妄想が郭嘉の思考を蝕んでいく。案の定、彼女は猛烈な勢いで鼻血を吹き出し卒倒。しかし、その顔は荀或に勝るとも劣らないほど幸せそうだった。
孫策軍の陣近くにある森。その中に蒋幹の姿があった。
常緑樹が多いこの森は、冬でも差し込む光の量は少ない。そんな薄暗い中ではあるが、彼女の足取りは軽かった。
曹操軍の間者である彼女は、その内情を探る事を目的に劉備・孫策連合軍に潜入していた。それが黄蓋の離反まで成功させた。仲間に投降の日時も伝え、後は開戦前に姿をくらますだけ。役目を果たすだけではない、十二分な活躍である。蒋幹はそう自負していた。
勝利のあかつきには、功労者として華琳様のご寵愛を賜れる。そう思うと、自然と心が浮き立つのだった。
「お帰り、海霧。どこに行ってたの?」
蒋幹が陣へと戻ると、孫策と周瑜が待ち構えるように出迎えた。
「少し近場を散策してきたのだ」
当然、本当の事を言えるわけがない。ごく自然に、一切の淀みなく嘘を吐いた。
「ちょっと~、私達幼馴染みでしょ。隠し事なんかしないでよ」
朗らかで冗談ぽい口調ではあった。が、笑顔を見せている孫策の目だけは笑っていない。そこに気付いた瞬間、蒋幹の背筋に寒気が走った。気圧された隙を突くように、孫策の言葉は続く。
「曹操の間者とつなぎをとっていたじゃない。正直に言っていいのよ?」
「……冗談にしては趣味が悪いな」
それでも蒋幹の顔色が変わる事はない。追究を受け流し、孫策の前を通り過ぎようとする。その行く手に周瑜が立ちふさがった。彼女が右手をさっと上げると、戟を手にした兵達が周囲を取り囲む。
「悪いが、お前が曹操の間者である確証はつかんでいる。おとなしくしてもらおうか」
周瑜は鋭い視線を投げつける。それをいなすかのように薄く笑うと、蒋幹はぐるりと周囲を見回す。兵士達はしっかりと腰を落とし、じりじりと包囲を縮めていた。
「仕方がない」
孫策達に何とか聞き取れる程度の声で呟くと、蒋幹は自分の服の留め金に手をかけた。ひとつずつ上から順番に留め金を外し、その度に服がはだけて素肌があらわになっていく。
突飛な行動に面食らった兵達の緊張がわずかに緩んだその瞬間だった。蒋幹は勢いよく服を剥ぎ取り、大きく広げて己の姿を隠す。ほぼ同時に金属音が鳴り、その場にいる者達の視線が音のした方に集まった。そこには南海覇王を抜いた孫策の姿。その足元には匕首がふたつ転がっていた。
「よくぞ見破ったな、雪蓮、冥琳。そこは褒めといてやるよ。だが、詰めが甘い。残念だったな!」
蒋幹の声が響く。が、その姿はない。直前まで彼女がいたところには脱ぎ捨てられた服が転がっているだけだ。
姿を見失い慌てふためく兵達。それとは対照的に孫策は落ち着き払っている。
「捕らえよ、明命!」
孫策が叫ぶと、少し離れた位置にある木の枝が大きく揺れた。わずかに叫び声が聞こえたかと思うと、何か大きな塊が木の上から落ちてくる。それはうつぶせに組み敷かれた蒋幹と、彼女を後ろ手に縛り上げている周泰だった。
「くっ……、貴様、放せっ!」
わめきもがく蒋幹だが、一向に抜け出せる気配はない。むしろ、もがけばもがくほど縛られた縄が食い込んでいく。
「ふふっ、みっともない姿だわ、海霧」
はっとして正面に顔を向ける蒋幹の瞳に飛び込んできたのは、笑顔を見せる孫策の姿。だが、それは喜びや幸せの色の感じられない残忍な笑みだ。
「あなたには、ずっと彼女が張り付いていたのだけれど、どうやら気付いていなかったようね」
その言葉に、蒋幹は自分の背に乗る周泰へ再び目を遣った。こんな幼さの残る少女に自分が遅れを取るなど、思いも寄らない事だった。
「あなたはこの私を謀ってくれた訳だけど、私はあなたに感謝しているのよ。だって、あなたのおかげで曹操を破る策が実行できたんだもの」
「何だと? それはどういう……」
「だから、せめてものお礼に、苦しまずに逝かせてあげるわ」
孫策へと顔を上げた蒋幹の頭部を南海覇王が貫いた。服の下に着込んでいたのであろう黒装束を真っ赤な血が染めていく。彼女は孫策と周瑜の手のひらの上で踊らされ、何も知らぬままに絶命した。
乾いた風が長江の上を吹き抜ける。決戦の時はすぐそこにまで迫っていた。
相当長い間お待たせしてしまい、申し訳ないです。半年以上も執筆から離れていたためおかしなところも多々あったかと思います。また、量のわりに話が進んでないじゃないか、と思われた方もいらっしゃると思いますがご容赦ください。
次話では赤壁の戦い開戦から、以前投稿してあった最終話前までの部分を書く予定です。またしばらく間が空くと思いますが、できる限り早く投稿したいと考えておりますので、お待ちいただければと思います。