第7章-赤壁編・第2話~散花~
はぁ、と深いため息がこぼれる。どうすればいいのか、いくら考えてもまとまりはしない。そもそも、集中しようとすればする程、今の状態に陥った原因を思い出してしまう。妙案は思い浮かばず、出るのはため息ばかりだ。
関羽は足を止め、空を仰ぎ見る。自分の心とは正反対の青く澄みわたった空に、軽い嫌悪感を覚えた。
あれから3日が経過していたが、彼女の心は未だ混乱のただ中にあった。
その日の夜、関羽は鈴々と江夏城の中庭で手合わせをしていた。
そろそろ終了しようか。そんな考えが頭に浮かんだ矢先、桃香がやってきた。
「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん。久しぶりに、一緒にお風呂に入ろらない?」
「うん! もちろんなのだーっ!」
桃香の誘いに満面の笑みで応えた鈴々は、使っていた訓練用の蛇矛を放り出し、その場から駆け出した。
「こらっ、鈴々! 片付けくらいしたらどうだ!」
「面倒だから嫌なのだ。そんなのは、鈴々に負けた愛紗がやればいいのだ」
その言葉を受けて、関羽のまなじりがつり上がる。
「鈴々っ!」
しかし、雷を落とそうとした時には、鈴々の小さな体はかなり遠くにまで行ってしまっていた。
まったく、とため息混じりにぼやく。どうせ風呂で一緒になるのだ。説教はそこでたっぷりしてやればいい。そう思いながら、関羽は片付けを始めた。
そのやり取りを見ていた桃香の口から乾いた笑いがこぼれる。
「あはは……。相変わらず元気だね、鈴々ちゃんは。あ、私も手伝うよ」
「いえ、これだけですから大丈夫です。それよりも、桃香様は鈴々の方をお願いします。あいつを1人にすると、ろくな事をしませんから」
「うん、分かったよ。じゃあ、お風呂で待ってるね」
桃香を見送ると、借りた訓練用の武具を両手に抱え、関羽もその場を後にした。
倉庫に荷物を戻し、手続きを済ませる。屋外へと出た関羽は空を見上げた。綺麗な満月がぽっかりと浮かんでいた。
しばらくの間、月に見とれ、桃香との約束を忘れてしまう。
2人を待たせている事を思い出し、入浴の準備のため、あてがわれている部屋へと戻る。そんな彼女の前方を、見知った人影が横切った。
向かう先は城門だ。すっかり日も暮れたというのに、一体どこへ行くつもりなのか。自分の存在に気付いた様子のない一刀の姿を目で追いながら、関羽はそんな事を思った。
ふと、桃香から言われた言葉が脳裏に浮かんだ。
一刀さんに真名を預けないとね。
笑顔で言われた事は、関羽にとっては非常に難しい事だった。荊州では真名を預ける事が出来ず、結局、ずるずると先送りにしている状態だ。
そんな中、この状況は僥倖と思えた。どこへと向かっているのかは分からないが、一刀が1人でいるのは間違いない。
長坂坡で桃香様を守ってくれた事を理由にすれば、決しておかしくはないはずだ。
義姉を出汁に使う事に若干の後ろめたさはある。風呂で待たせてしまう事にも、心苦しさがあった。それでも、北郷殿に真名を預けるためだと伝えれば、きっと分かってくれるはず。そう自分に言い聞かせ、関羽は一刀の後を追った。
城門をくぐった一刀は街の中心ではなく、郊外の方へと足を向けていた。時折、足を止めては深呼吸をしている。初めは、後をつけている事に気付かれたのか、と緊張もしたが、周囲を窺う様子もなく、そうではないらしいと分かった。それでも、一刀が足を止める度、関羽も条件反射の様に体を強張らせて立ち止まってしまう。
いっその事、私に気付いて向こうから声を掛けてはくれないものか。そんな他力本願の淡い期待が叶う事はなく、時間だけが無為に過ぎていく中、関羽はついに覚悟を決めた。
次に北郷殿が足を止めたら、そのまま近付いて声を掛けよう。礼を言って、真名を預けて、城へと戻って桃香様に報告しよう。そう心に誓った矢先、一刀の足が止まった。
ドキリと心臓が跳ね、足が震える。それでも自分で決めた通り、止まる事なく足を踏み出していく。
このまま、もう少し近くに寄ってから声を掛けろ。歩きながら開きかけた関羽の口は、しかし、言葉を発する事はなかった。一刀の向かう先に人影を見たからだ。その人影の正体が分かった瞬間、彼女は心臓を締め付けられた様な苦しさに襲われた。
「翠……」
呟いてからハッとして口を塞ぐ。一刀に聞こえた気配が見られない事に安堵する。その間に、一刀は翠へと向かって歩を進め始めてしまっていた。
翠と会うつもりでいたのなら、私は立ち入るべきではない。頭ではそう考えているが、心と体は強く抗う。2人で何を話すつもりなのか、何をするつもりなのか、知りたい。そんな思いに心を支配され、体をも乗っ取られる。戻らなければ、という考えとは裏腹に、彼女の足は2人の方へと踏み出された。
気取られない様、大きく回り込んで2人に近い茂みの影に身を隠した。そこからこっそりと様子を窺う。翠が一刀に背を向けたまま立っている姿は見えるが、何を喋っているのかまでは聞き取れない。ただ、辺りを包む緊張感が尋常でないのは感じていた。
やはり、いつまでもこうしているべきではない。そもそも、今の行為は覗きに他ならない。そうだ、早くここから離れよう。
時間の経過と共に冷静さを取り戻した関羽は、ばれない様にその場を後にしようと2人に背を向けた。
「待ってくれ!」
突如、一刀の大声が響いた。ビクリと体が震え、動きが止まる。恐る恐る振り返るが、当然、関羽に向けての言葉ではなかった。しかし、これにより関羽はこの場を離れる機会を失う事となった。
「俺を、俺を殴ってくれ!」
「はぁっ!?」
「なっ!?」
一刀が発した突然の言葉に、思わず関羽も声を上げてしまった。慌てて両手で口を塞ぎ、茂みの影から2人を窺う。気付かれた様子が見られない事に、取り敢えずは安堵した。
だが、一刀の真意が分からない。この場から離れようという考えは、関羽の中にはすでになくなっていた。いけない事とは思いつつも、そのまま2人の様子を覗き続ける。
翠の右手が振り上げられる。わずかに間が空いた後、その手は振り抜かれた。乾いた音を残し、一刀の体は大きく右側へと傾いだ。
ぶたれた頬をさすりながら上体を戻す一刀。その顔は、ほんの少しだけ笑っている様に関羽の目には映った。
どういうつもりなのだろうか。一刀が自分をぶたせた理由を必死に考えてみる。だが、答えを見付ける事のないまま、彼女の思考は停止する事になるのだった。
「翠、俺はお前が好きだ!」
心臓が鼓動を止めた。その瞬間、視覚も聴覚も、触覚さえも失っていた。ただただ一刀の言葉だけが頭の中でぐるぐると回り続けている。
気が付いた時には、翠が何事か返事をしようとしていた。
これ以上、2人の姿を見ていたくはなかった。気配を消し、ゆっくりと離れようとする。
だが、やはり動揺は大きかった。服の袖が枝に引っ掛かっている事に気付かないまま動いたため、茂みを揺らせてしまった。ガサリと大きな音が鳴る。
「誰だっ!?」
翠の鋭い声が飛んできた。
関羽は体を縮こまらせ、息を殺す。なんとしても見付かる事だけは避けたい。もし見付かったら、一体どんな顔をして2人の前に立てばいいのか。
身体中から大量の汗が吹き出す。頼む、くるな。そう祈る事しか出来ない。
「駄目だ!」
突然、一刀の大声が耳に飛び込んできた。驚きで、関羽は思わず声のした方に顔を向けた。
「っ!」
こぼれそうになった声を押し殺す関羽の目は大きく見開かれていた。彼女の瞳には、翠をそっと抱き締める一刀の姿が映っていた。
視線を逸らす事は出来なかった。体は石の様に固まり、ただ2人の様子を凝視し続ける。そして。
一刀と翠は口付けを交わした。
そこから先の事を、関羽はよく覚えていない。気付くと夜が明けており、どうやって戻ってきたのか、あてがわれている部屋の前にいつの間にか立っていた。そこを桃香に見付かり、心配する義姉を無視して関羽は部屋へと飛び込んだ。
結局、その日は体調不良を理由に1日仕事を休んだ。それが、一昨日の事だった。
また、昨日は食事を奢る事を条件に鈴々と仕事を代わってもらい、一刀と翠に顔を会わせずに、何とか1日を過ごす事が出来た。
そして、今日。仕事が1つもないため、関羽は朝から街へと出ていた。下手に城内に残るよりは、2人に会う可能性が低いだろうと考えての事だった。
しかし、逃げ続ける事が出来るのも今日まで。明日には、江夏を離れる事になっている。
桃香に鈴々、翠は一旦武陵へと戻り、曹操との決戦に向けての準備に取り掛かる。一刀と朱里は、対岸にある柴桑へと孫策等と共に移り、そこで曹操に抗する策を改めて講じる事となっている。関羽は星と共に、そんな2人の護衛に就く手筈となっていた。つまり、翠はともかく、一刀とは嫌でも顔を会わせない訳にはいかないのだ。
どうしたものかと思案し、関羽は深い深いため息を吐いた。
「やれやれ。そんな辛気臭い顔をされては、酒が不味くなってかなわんぞ」
よく聞き馴染んだ声が不意に脇から入ってきた。声のした方に視線をやり、もう1度ため息をこぼす。
「はぁ、星か。貴様はまた、真っ昼間から酒を……」
「どうせ非番だ。問題はあるまい? そもそも、昨日一昨日と仕事を放り出した貴様が言えた義理ではなかろう」
痛いところを突かれ、関羽は言葉を詰まらせた。正確に言えば、昨日は鈴々と仕事を交換しただけなのだが、割り当てられた仕事を行わなかった事に違いはなかった。
「どうしたというのだ、まったく。まさか、一刀と翠の抱擁している姿でも見たのか?」
「き、貴様も覗いていたのか!?」
核心に限りなく近い部分を問われ、狼狽した関羽は反射的に答えていた。あまりの声の大きさに、星の整った顔がわずかに歪んだ。
「2人の間の空気が変わった事くらい分かるであろう。昨夜、一刀に酒を奢ってもらった折りに尋ね、恋仲になった事を聞いたのだ」
実際には、星と、どこからか話を聞き付けてやってきた孫策、黄蓋の3人で一刀を酔わせ、無理矢理聞き出したも同然だった。そこのところは伏せたまま、うつむく関羽に疑問をぶつける。
「にしても、貴様“も”覗いていた、とはどういう事だ? まるで、お主は覗いていたかの様な物言いだが?」
ニヤリと笑う星の顔を見て、関羽はようやく自分の失言に気が付いた。
元々、口では星に敵わない。今の様に、失点をしている状況ではなおさらだ。下手に誤魔化そうとしても、酒の肴を増やすだけだ。
「何でもない!」
これ以上は話さん。そんな気持ちを語勢で表す。だが、星に臆した様子は見られない。
「まぁ、待て。そこに腰掛けて、少し落ち着いたらどうだ?」
「待たん!」
「待てと言っているのだ、関雲長!」
関羽に劣らぬ程に語気を強めた星の声に、出かかった足が思わず止まる。振り返って見た時には、星の顔から笑みは消えていた。その真面目な表情には有無を言わさぬ雰囲気があり、関羽は仕方なく星を正面に椅子へと腰掛けた。
「お主が個人的に2人と気まずかろうとも、私はいっこうに構わん。だが、任務や仕事にまで影響が出ているのを見過ごす訳にはいかんぞ」
「そんな事、貴様に言われなくとも分かっている! ……分かっているのだ。このままではいけないという事くらい……。しかし、どんな顔で2人と会えばいいのか、いくら考えても答えが思い浮かばん……」
視線を落とした関羽の声には覇気がなく、弱々しい。そんな彼女を嘲笑うかの様に星は深くため息を吐き、肩をすくめて首を横に振った。
「まったく、関雲長ともあろう者が情けない。お主も所詮、鈴々や翠と一緒で、考えるよりも先に体が動くたちなのだ。うだうだと悩む暇があるのなら、取り敢えずでも行動しろ」
そこで1つ杯に口を付け、口中を湿らす。
「そもそも、だ。お主、一刀以外の男を好いた事があるのか? ……ないのであろう。ならば、いくら考えてみたところで答えなど出る訳があるまい。それに、結局は、己の想いにどうけじめを付けるか、というところに行き着くはずだ。なら、お主の思う通りにやればよいのではないか?」
しばらくうつむいたままでいた関羽の顔がゆっくりと上がる。真面目な表情は相変わらずだが、思い詰めた様な雰囲気はなくなっていた。
「まさか、お前に諭されるとはな。まあ、一応礼は言っておこう」
両手を机の上に突き、勢いよく立ち上がる。そして、半分くらい中身が残っていた星の飲みかけの徳利をむんずとつかむと、逆さにして一息であおった。星が止める間もない、一瞬のうちの事だった。
「行ってくる」
手で口元をぐいと拭い、徳利を机に叩き付ける様な勢いで置くと、関羽は踵を返して城へと歩を進める。その背中を、星は空になった徳利を軽く揺すりながら見送る。彼女の顔には、酒を飲まれた事に対する怒りや恨みは見られない。ただ、わずかに微笑んでいた。
鏡を前にしてその長い髪をすき、身だしなみを整える。これからの事を思うと、翠の顔は締まりなくニヤけてしまう。
一刀からデートに誘われたのは昨日の夜の事だ。もちろん、翠にはデートという言葉の意味が分からなかったが、2人で遊びに行く事だと教えられると、恥ずかしくありながらも嬉しかった。
明日になれば、また離ればなれになってしまう。短くとも1月くらいは会えなくなる。それまでなるべく一緒にいたい、というのが翠の想いだった。一刀も同じ様に考えていてくれた事は、彼女にはとても幸せな事に感じられた。
「へへ……、でーと、か」
小さく声に出して呟いた。昨日まで知らなかった言葉なのに、その響きはとても甘美だった。
今、鏡の中にいる自分の顔は誰にも見せられない。もし見られたら、恥ずかしさで死んでしまう。そんな事を思うくらい、翠の顔はニヤついていた。
左手で襟元を引く。あらわになった首筋にかけられた細い鎖を右手でつまみ上げる。鎖の先に付けられた翡翠の粒。それを、自分の目の高さにまで上げた。
鎖を指で弾く。小さな宝石は振り子の様に揺れ、窓から差す陽の光をその身に受けて幾度となく煌めいた。
今までに感じた事のない幸福感に包まれる翠だったが、それはすぐに破られる事となった。
「た、大変でしゅ!」
勢いよく扉が開け放たれ、声と共に朱里が部屋へと飛び込んできた。いきなりの事に、翠は大慌てで首飾りを胸元へ仕舞い、朱里へと向き直った。
驚きのせいか翠の顔は赤く、呼吸も荒い。だが、入り口に立つ少女の方が顔を真っ赤にして、息も上がっていた。その様子から、火急の用件なのは明らかだ。だが、幸せなひとときを邪魔された翠にしてみれば、面白くない。
「なんの用だよ。いきなり、あたしの部屋に飛び込んできて」
朱里の行動を責める様に、後半部分の語気を強める。
「はわわ……。ご、ごめんなさい。でも、一刀さんが大変な事に……」
「一刀が!?」
おどおどしながら発せられた朱里の言葉に一刀の名前を聞いた時、翠は鏡台から椅子を倒す勢いで立ち上がった。その姿に、朱里の肩がすくむ。
そんな事はお構いなしに翠は朱里へと近付き、その正面に仁王立ちとなった。
「一刀が大変って、何なんだよ!?」
今にもつかみかからんばかりの勢いで翠が詰める。対する朱里は肩をすくませたまま、翠の顔色を上目遣いで窺う。
「あ、あの……。愛紗さんが一刀さんに勝負を申し込んで、お2人が今、中庭で戦っているんです」
「勝負!? 訓練じゃなくてか?」
「普通の訓練であれば、急いで翠さんに伝えにきません。星さんも、鈴々ちゃんも止めてくれなくて、桃香様から翠さんを呼ぶように言われて……」
「中庭だなっ!?」
朱里の言葉を遮ると同時に床を蹴る。朱里の脇を抜け、廊下へと躍り出た。
「中庭の、演武場です! ……えっ!?」
背中から追いかけてくる声に驚きの色が混じる。窓枠に手を掛けた事が原因だろうとは、振り返らずとも分かった。
ここは2階だ。目も眩む様な高さ、ではないが、地面まではそれなりの高さがある。落ちたりすれば、怪我をするのは免れない。
しかし、翠に迷いはなかった。自らの体を窓の外、宙空へと投げ出す。馬鹿正直に階段を使って1階へと下り、出入り口から外へと出て建物をぐるっと回るよりは、窓から外に出た方が相当早い。
当然だが、落下の風圧で短いスカートは完全にめくれ上がり、翠お気に入りの薄緑色の下着がさらけ出される。片膝をつく様な格好で衝撃を殺して着地に成功。すると、辺りをキョロキョロと窺いながら、素早く身なりを整える。人影がない事に安堵すると、翠は中庭を目指して駆け出した。
関羽の強烈な薙ぎ払いが一刀の胴を襲う。剣で防ぎ、なんとか直撃は免れたものの、威力に押された一刀の体は宙に浮かされる。バランスを崩して倒れる一刀に対し、わずかに離れた位置から、関羽が厳しい表情で大刀の切っ先を向け続ける。
翠が中庭へ到着した時に目にしたのは、そんな光景だった。
一刀の服はいたるところが汚れ、擦り切れている箇所も確認出来た。
確かに鍛練の域を出ている様に感じる。関羽の動きは、全力とまではいかなくとも、一刀の力量に合わせて加減している風には見えない。さすがに殺意は感じられないが、このままでは一刀が大きな怪我をしかねない。
2人を止めるため、間に割って入ろうと1歩足を踏み出す。その前に、1人の女性が立ちはだかった。
「悪いが、2人の邪魔をさせる訳にはいかんな」
「何が邪魔だ! このままじゃ、一刀が大怪我するかもしれないのは、お前だって分かってんだろ!?」
まなじりを吊り上げて叫ぶ。だが、そんな翠の怒号にも、星は1つも怯んだ様子を見せない。
「そういきり立つな。小さな切り傷や打ち身程度ならともかく、愛紗が一刀にそんな怪我をさせる訳があるまい。少しは信用したらどうだ?」
普段通りのたたずまいを崩さない星。その向こう側に、立ち上がった一刀の姿が見える。
「さっきのを見て、信用なんか出来るか! 第一、何で愛紗はこんな事してんだよ!?」
「ふむ……。お主、全く心当たりはないと言うのか?」
「あるよ! あいつは未だに一刀の事を嫌ってるんだろ!? 2年も前の事を、何で今さら……」
逆に返された問いかけに即答する翠だったが、星のまとう雰囲気の変化に気付き、言葉を切る。星の瞳が憐れみの色をはらんでいる様に見えた。
「……本当に、そう思うのか?」
念を押す様に尋ねられ、当たり前だろ、と返す。すると、星は盛大にため息を吐いた。
「まったく……、この色ボケは」
小声で、しかし、吐き捨てるかの様な口調だった。
「な、何だよ、色ボケって」
「一刀と恋仲となった事に浮かれ、周りが見えていないから、色ボケだと言ったのだ。いくらお主でも、自分だけが一刀の事を好いている、等とは思っていまい」
「そんなの、分かってるよ。桃香様とか月とかは、一刀の事を想ってるかもしれないって。けど、それと愛紗がどう関係ある……!」
不満そうな顔で喋り始めた翠だったが、何かに気付いた様にはっとした表情を浮かべると、口を開けたままで声を発するのを止める。
まさか、そんな事ある訳がない。もしそうだとしたら、どうして一刀をあそこまで痛め付けているのか、その理由が分からない。
そう思いながらも、頭に浮かんだ答えが口から滑り出る。
「まさか、愛紗も一刀の事を……?」
自分の考えに自信がないせいか、翠の語り口は緩やかだった。星からは、当然だ、と言わんばかりの大業な首肯が返ってきた。
「で、でも、だったら何で、一刀を傷付ける真似してんだよ!」
「だから、信用しろと言ったのだ。小さな傷は作っても、大きな怪我をさせるはずがあるまい」
翠は星から一刀達の方へと視線を移す。
星から言われた事に納得出来ない訳ではない。ただ、耐え続ける一刀の動きはかなり一杯に見える。ちょっとしたきっかけで大怪我に繋がってしまいそうな、そんな危うさは拭えない。
「がはっ!」
一刀の呻き声が翠の耳に届いた。関羽の振るう大刀の石突きをみぞおちに受け、片膝をつく一刀の姿が翠の瞳に映る。
我慢出来なかった。その瞬間、翠は力強く大地を蹴っていた。
一刀達へと注意を向けてしまった事で、一瞬だけ星の反応は遅れる。制止を振り切り、翠は一刀の下へと駆け寄った。
「大丈夫か!?」
言いながら、うずくまる一刀の隣にしゃがみ込む。
「翠? ……大丈夫だから、離れててくれ」
肩に置かれた手を払い除けて立ち上がろうとする一刀。翠はそれを両肩に手を当てて押し止める。
「馬鹿言うな! こんなぼろぼろの状態で……」
翠が肩を上から押すと、圧力に耐えかねて一刀は倒れてしまう。大した力は入れていない。とうに限界を迎えていたのだと、改めて覚る。
何でこんな状態まで痛め付けたのか。翠の中に沸々と怒りが込み上げてくる。
関羽に背中を向けたまま、翠はゆっくりと腰をあげていく。
「どういうつもりなんだ、愛紗。何で一刀にこんな事を……。これ以上やるってんなら、あたしが相手になってやる!」
振り返り様、怒りを隠す事なく叫んだ。しかし、関羽の顔を見た瞬間、翠の中の怒りは矛先を見失い、霧散する事となった。
わずかに微笑む関羽の瞳には、悲しみの色がありありと浮かんでいる。ほんの些細な事で涙がこぼれてしまうのではないか。翠にはそう思えた。
ようやく、ここで自分の想像が確信へと変わった。愛紗も一刀の事が好きなのだ、と。
「あ、愛紗……」
何と声を掛けていいのか分からず、やっとの事で関羽の真名を口にする。だが、続く言葉が出てこない。自分は一体どんな顔をすればいいのか、それすら分からない。
翠が答えを出せないままでいると、関羽は無言で踵を返した。その背中に手を伸ばしかけて何も掛ける言葉がない事に改めて気付き、翠は己の手を下ろした。
中庭を後にした関羽は城門を潜り街へと出た。特に向かう先がある訳ではない。ただあの場にいたくなかっただけだ。
翠や一刀はもちろんだが、1番顔を会わせたくないと思ったのは桃香だ。他人の懐にするりと入り込み、笑顔と優しさで包んでくれるのが義姉の長所であると理解しているが、逆に今はそれが鬱陶しく思える。
太陽はまだ高い位置にあり、街中は人でごった返していた。雑踏の中を1人歩いていると、周囲の喧騒とは反対に彼女の心は平静さを取り戻していく。
たまたま街中で星に出会い、焚き付けられたのが数刻前。考えても答えが出ないのだから、と言われ、真っ先に思い付いたのが、刃を交える事だった。それで答えが見付かったのか、と問われれば、よく分からない。その行為自体には意味がなかった様にも思う。だが、今朝までよりはずっと、心は晴れやかになっていた。
「愛紗」
雑踏の中、不意に真名を呼ばれて足を止める。振り向くと、いつの間に追い付いたのか、星の姿がそこにはあった。
「すまなかったな、翠を止められず」
「別に、翠を近付けるなと頼んだ覚えはないぞ」
距離を詰めながら謝る星に対し、関羽はそっけない返事をする。翠が2人の間に入るのを止めたのも、2人を止めない様に鈴々を言いくるめたのも星の独断であり、関羽が頼んだ事ではなかった。
そっけない返事はしたものの、星の気遣いを嬉しくも感じていた。他人をからかうのが好きなせいか、星は心の機微に聡いところがある。問題行動も少なくないが、今は側にいてくれた事に感謝しかない。もっとも、それを正直に口に出すと調子に乗って酒をせびってくるのが見えているから伝えはしないが。
それでも、感謝の気持ちは彼女を普段より饒舌にさせた。一刀と刃を交えた事で得た答えを語り始める。
「……多分だが、あの光景を私は見たかったのだと思う。2人の間に、私なんかが割り込める隙間等ありはしない。私はそれを見たかったのだろう」
関羽は星に背中を向ける。自虐的に笑いはしたものの、ちょっとしたきっかけで涙がこぼれそうな気がしていた。
「そもそも、初めからそんな物は存在していなかったのだろうな。それに気付かず……。いや、気付かない振りをしていただけだな。だから、2人が口付けを交わしている姿を見てもなお、未練がましく想い続けていたのだ」
絞り出した様な声はわずかに震えていた。そんな関羽の背中を、星が幼子をあやす様に優しく叩く。
「今日は私が奢ってやる。お主の気のすむまで、呑み明かそうではないか」
「……珍しいな、貴様が誰かに酒を奢るとは」
関羽の言葉に、星は黙って微笑んでいる。
1人になりたいとは思っていた。だが、自分の事を気遣ってくれているのは確かに感じるし、星ならば絶妙の距離を保ってくれるだろう。そう信じて、関羽は星と連れ立ち店へと入っていった。
鳥のさえずりが耳に届く。柔らかい枕は心地よいまどろみを与えてくれる。
こんな柔らかい枕は久しぶりだな。一刀はまぶたを閉じたまま寝返りをうち、枕に顔を埋める。柔らかくて、すべすべして、温かい。今までに感じた事のない心地よさを満喫すべく、顔を左右に振って頬を擦り付ける。
「ひぁっ!」
いきなり悲鳴が聞こえた。驚きで体が固まる。
まさか、と思い、一刀は枕から顔を上げてまぶたを開けた。目の前には肌色の物が2本。それが何であるかはすぐに分かった。
腹這いの姿勢から、腰と首を捻って恐る恐る背中側に視線を向ける。そこでは、顔を真っ赤にした翠が一刀を睨んでいる。夕日の様に赤いのは、怒りのせいか、はたまた恥ずかしさのせいか。どちらにせよ、このままの体勢でいるのは危険だ。
「ご、ごめん!」
叫ぶ様に謝ると、翠の太ももから飛び起きる。が、体のあちこちに痛みが走り、上体を起こしたところで一刀の動きは止まってしまう。
「あぁもぅ。無理しないで、もう少し大人しくしてろよ」
翠に肩をつかまれ、強引に寝かされる。彼の頭は、再び翠の膝の上へと落ち着いた。
「そ、その代わり、もう変な事はするなよ? 今度やったら殴るからな」
先程よりさらに赤みが増した気がして、恥ずかしさが原因だったのだと分かった。
こんな顔で言われても、全く迫力はないよな。それでも、せっかく膝枕をしてくれると言うのに、それをわざわざふいにする必要はない。言われた通り、一刀は大人しく横になっておく事にした。
「ところで、俺、どうしたんだ? 最後で関羽にいいのをもらったのか?」
関羽に勝負を申し込まれ、もちろん訓練用の模造刀ではあるものの、中庭で一騎討ちをしたのは覚えている。全く歯が立たず、それでもなんとか食らい付こうとしていたはずだ。
一刀が膝に頭を乗せた状態で尋ねると、大きな山を作っている胸の影から翠が顔を覗かせた。
「あたしが止めに入って、愛紗があそこから離れたら、すぐに気を失ったんじゃないか。覚えてないのか?」
言われても、そうなのか、ぐらいの感覚でしかない。ただ、あの場にいなかったはずの翠の声を聞いた記憶が、頭の奥の方にある様な気がした。
「細かい切り傷や打ち身は多いけど大きな怪我はないし、疲労と、強い緊張から解放された気の緩みで失神したんだろう、ってさ」
またカッコ悪いところを見せたな、と思う。今さらなのは十分承知しているが、それでも好きな女性の前で情けない姿を見せたくはない。ばつが悪くなった一刀は、わざとらしく咳をしてから寝返りをうつ。翠に背中を向け、これ以上は言われたくない、と態度で表した。その思いを酌んだらしく、翠もそこで口を閉じた。
穏やかに晴れた秋の空が広がる。風に揺れる木の葉が作り出すアートの様な木漏れ日を全身に浴びる。恋人との2人だけの時間がゆるりと流れていく。
今を表す言葉を、一刀は1つしか知らない。
──幸せ。
これだけだ。
血ヘドを吐く思いで耐えてきた鍛練も、泥土にまみれて潜り抜けてきた死線も、今この時のためにあったのだと考えれば、素敵な思い出に変わる様な気がした。
「……なぁ、一刀」
不意に翠が口を開いた。しかし、発したのはその一言だけで、後が続かない。しばらく無言で待つと、あのさ、とだけ言って、また黙ってしまう。言いづらそうにする翠の姿に、彼女が何を言わんとしているのか、おおよその見当がついた。
一刀は何も喋らない。何だよ、と尋ねる事もしない。見当通りの事を聞こうとしているのなら、それはこちらから迎えにいってはいけない事の様な気がしていた。
そうしてどれ程の間、翠がためらいを繰り返しただろうか。
「……やっぱり、いい」
呟く様に言って、まだ始まってもいない会話を自分から打ち切った。
2人共、沈黙する。先程まで感じていた幸福な時はすっかり過ぎ去り、気まずさが辺りを支配した。
2人切りのこの時間を苦痛なものにはしたくない。一刀の方から沈黙を破っていく。
「ありがとうな」
急に礼を言われ、翠は不思議そうな表情で一刀の顔を覗き込んだ。
「さっきの続きだよ。……ありがとう。気を失ってから、ずっとこうしててくれたんだろ?」
「医者に診せる必要はない、って言われたからな。まあ、ずっと、って言っても、大した時間じゃなかったし」
少し照れ臭そうにしながら返された翠の言葉。しかし、太陽の傾きを見れば、2時間くらいは経っていてもおかしくはなさそうだ。せっかちで、じっとしている事の苦手な翠が2時間もの間、ただ膝枕をしてくれていた。嬉しさと同時に、心配をかけてしまった事への申し訳なさが心の中で生まれた。
「ごめん」
一刀が謝ったのは、もちろん心配させた事に対して。そして、大事な約束を失念し、破ってしまった事に対してだった。
「ごめん。デートの約束をしてたのに、こんな事になって」
言われた翠は首を横に振った。
「いいさ、別に。遊びに行けなくなったのは確かに残念だけど、大切なのはそっちじゃないし。あたしにとっては、お前と一緒にいれる事の方が大切だから、それで十分って言うか……」
膝枕をする一刀へと視線を落とし、微笑んでいた翠だったが、自分が恥ずかしい事を口に出していると気付いてしまったらしい。瞬間的に紅潮させた顔を上げ、口をつぐむ。
今、どれだけ恥ずかしさにうち震えた顔をしているんだろう。翠の表情は大きな胸に邪魔をされて窺い知る事が出来ない。眼福と思っていた存在を、一刀は今、非常に疎ましく感じていた。
昼に江夏を発った船は順調な航海を続けていた。風はなく、波もほとんどない。川面を滑る様に進んでいく。それでも、柴桑に着くのは明朝だという。黄河も大きいと思っていたが、長江はさらにでかい。
「まったく、馬鹿みたいに広い」
「そうだな」
呆れた様に呟いた関羽の隣で、一刀が相づちを打った。2人は船の欄干にもたれ掛かりながら川面を眺めていた。
といっても、かがり火が焚かれているのは舳先の方だけで、2人の位置では頼りになるのは月明かりだけだ。時折、暗い中に魚の跳ねる音が響く。
「それで、話って?」
「ああ、そうだった」
関羽は水面から一刀へと向き直り、一刀もまた、関羽を正面にして姿勢をただす。彼女の方から話があると誘ったのだが、何となく切り出すきっかけがつかめないうちに、一刀から話を振られてしまった。
「昨日の事は申し訳なかった」
「大丈夫だよ、別に。関羽も相当手加減してくれたんだろ? じゃなきゃ、大きな怪我もしてたろうし」
神妙な面持ちで頭を下げた関羽に対し、一刀は笑顔で返答をした。
少しだけ、いたたまれなくなる。関羽に手加減をするつもりはなかったからだ。もちろん、殺意を持って一刀と刃を交えた訳ではない。本気でやるつもりが、本気になり切れなかった。無意識のうちに力を抑え、手心を加えてしまっただけだ。
「で、それだけ?」
何も喋らないでいると、一刀が再び問い掛けてきた。
関羽はそれを慌てて否定する。まだ、本題に入ってもいない。話が進まない事にイラつく様子も見せず、丸みを帯びた声音で尋ねてくれた一刀の優しさを感じながら口を開く。
「荊州では助かった。貴方がいなければ、桃香様をお護りする事は叶わなかっただろう」
「そんなの、俺1人の力じゃないよ。翠も星も、関羽だって、皆で力を合わせた結果じゃないか」
関羽はかぶりを振ってから、一刀の瞳を真っ直ぐに見詰める。
「謙遜する必要はない。これは事実だ。……それに、私は思い違いをしていた。桃香様に仕えてはいても、いざとなれば桃香様よりも翠の方を選ぶと思っていたし、翠もそうだと思っていた。本当に、申し訳ない」
再度、関羽は頭を下げる。
「そう思われても仕方がないか、とも思うけど、少し傷付いたかな」
不満を口にする一刀の顔は、しかし、笑っていた。その様子に、関羽は胸を撫で下ろす。
「改めて、これからも共に戦う仲間として、貴方に我が真名を預けたい。受け取ってくれるか?」
自分でも驚く程、すんなりと言葉が口を衝いて出た。
一刀への想いを捨てる事が出来た。異性ではなく、ただの仲間として見る事が出来る様になったのだ。
今まで言えなかった事を口にし、関羽はそう確信した。だが、その思いはあっけなく崩れ去る。
「いいのか? ……じゃあ、俺の事も、一刀、って呼んでくれるか? 桔梗さんと魏延くらいなもので、後は皆そう呼んでくれてるし」
その申し出に、関羽の心臓が跳ねた。
嬉しい。思わずそう感じている自分に気付き、情けなくなる。彼への想いを捨て去れていなかった事を思い知らされた。
そしてもう1つ、分かった事が。
北郷殿は私の想いに気付いている。気付いた上で、あえて気が付いていない振りをして、他の者と同じ様に接しようとしてくれている。一刀と呼ぶからには、今の自分の想いを捨てなければならない。そうでなければ、その名を呼ぶ資格は得られない。
好きな男性から、ただの戦友へ。共に戦う仲間、と自分で言ったくせに、胸が締め付けられる思いだった。
「……分かった」
しばらく黙った後、うつむいたままで返事をする。改めて自覚した己の想いを捨て去る覚悟は固まった。
ただ、その前に1度だけ。たった1度でいいから、恋人の様に呼んでみたい。
「じゃあ、改めてよろしく、愛紗」
「こちらこそ、よろしくお願いします、一刀……殿」
関羽は顔を上げた。その瞬間、雲が月を隠す。
辺りは漆黒の闇に覆われ、彼女の頬を伝った涙は誰の目に止まる事もなく、ただ甲板を濡らした。