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第6章-荊州編・第4話~長坂橋の戦い~

 一刀と別れた翠は、南へと懸命に馬を走らせていた。桃香を安全な場所まで逃がし、一刻も早く一刀の下へと戻りたい。その一心だった。


 そこへ、後方から1騎の騎馬が追いかけてくる。敵か、と緊張が走るが、相手の姿を見て胸を撫で下ろした。後ろからやってきていたのは星だった。翠は黄鵬の速度を落とし、星の白馬と並走させた。


 「桃香様、ご無事で何よりです。翠も何事もない様だな。して、一刀はどうした」


 「馬がなくて、一刀は置いてこざるを得なかったんだ。頼む、星! 一刀を……!」


 本人は気付いていないが、翠の瞳はすがる様であった。星はわずかに意外そうな顔を見せた後、普段と変わらずニヤリと笑った。


 「任せておけ」


 そう言いながら手綱を強く引く。星の跨がる白馬は鋭くいななき、竿立ちになった。2頭の距離はみるみると開いていった。


 「一刀は私が何とかする! お主は桃香様をお守りする事だけを考えろ!」


 風切り音に混じってはいたが、星の声は確かに翠の耳に届いた。


 これで安心、という訳ではない。だが、これ以上何か出来る訳でもない。星の言葉通り、出来る事、やらなければならない事に全力を注ぐだけだ。翠は自分に強く言い聞かせると、黄鵬の腹を蹴った。再度、速度を上げ、黄鵬は南へと駆け続けた。






 襄陽を発った曹操軍は逃げる桃香等を追い、猛烈な勢いで南下を続けていた。そこへ楽進達が合流すると、曹操は行軍を止め、休憩も兼ねて報告を受けた。


 「ついに劉備と北郷の尻尾を捉えたわね」


 妖しい笑みを浮かべると、曹操は舌舐めずりを1つ。その顔は勝利を確信したかの様であった。だが、すぐにその表情は消えて普段通りのものへと戻る。


 「よくやってくれたわ。貴方達は後方に下がり、凪に治療を受けさせなさい」


 報告にきた李典に馬上から伝えると、隣に並ぶ夏侯惇へと顔を向けた。


 「追撃に戻る。脱落者が出ても構わないから、行軍速度を限界まで上げるわよ。ついてこられない者は後続に回収させればいいわ」


 その命令を受け、夏侯惇は全軍へと檄を飛ばす。劉備追撃を再開した曹操軍は、先程よりも速い速度で行軍を続ける。曹操が言った通り、脱落者が続出する激しい行軍であったが、それでも速度を落とす事はなかった。






 関羽もまた、己の愛馬に跨がって南を目指していた。彼女の馬は、反董卓連合解散の折りに西涼から贈られた馬の中でもとびきりの駿馬だ。燃える様な赤いたてがみが見る者の目を引く。


 そんな関羽の愛馬であるが、今は7割程の力で駆けていた。並走している1台の馬車に合わせているためだ。


 「馬良殿、長坂橋まではまだあるのか?」


 「いえ、前方に見える丘を越えればすぐです」


 関羽が問い掛けると、馬車を操る馬良は風や蹄の音に負けない様、懸命に声を張り上げて答えた。正面には確かに小高い丘がある。お陰で先が見通せないが、何とか無事に合流地点まで辿り着けそうだ、と関羽はわずかに安堵した。


 視線を再び馬車の方へと戻す。荷台には朱里と水鏡、そして水鏡女学院の子供達の姿がある。荷台の上はぎゅうぎゅう詰めだ。2人は荷台の中心で子供達を励まし、懸命に勇気付けている。朱里は燐とした軍師の顔とも、少し頼りない普段の顔とも違う、まるで大勢の妹をあやす姉の様な表情をしている。関羽の口元がほんの少しほころびた。


 丘の頂上に到達すると、一気に視界が開けた。頂上から見える景色の中には川が流れており、その川を挟んで大きく景色は違っていた。川の手前にはこれまでと同じ、草地混じりの赤茶けた大地が広がっている。対して川の向こうでは、乱立した木々が大きな森を作り出している。


 境界線の如く流れる川に架かる1本の橋が、合流地点である長坂橋だ。この近辺で橋はここしかなく、軍馬や荷車の通過にも耐えられるしっかりとした造りをしている。そんな長坂橋のたもとにいくつかの人影が見える。


 「おーい、愛紗ーっ!」


 その中の1番小さな人影が大きく手を振りながら叫んだ。聞き慣れた義妹の声に関羽の緊張も緩む。


 「分かっている、鈴々! すぐに行くから待っていろ!」


 と、返事もつい大声になった。


 鈴々は紫苑と共に、長坂橋を確保するためにわずかな兵を引き連れて先行していたのである。どうやら問題なく橋の確保は完了している様で、関羽も坂を駆け下り、橋の方へと急いだ。


 坂を下り切った関羽は橋のたもとで馬を止めた。


 「馬良殿は先に橋を渡ってくれ。子供達もさぞ疲れただろう。休ませた方がよい」


 「そうですね。では、失礼します」


 馬良は関羽に頭を下げ、ゆっくりと馬車を進ませた。長坂橋を渡り、森の中に入っていくのを見送った後、関羽は鈴々達の方へと向き直った。


 「桃香様はまだか?」


 関羽の問いに対し、紫苑は眉根を寄せ、悲痛な面持ちで首を横に振った。この場に桃香の姿が見えない時点で覚悟はしていた。激しい落胆も動揺もなく、やはりか、と思った程度だった。


 それでも当然、放っておく事は出来ない。


 「鈴々、紫苑、この場は任せるぞ。私は桃香様を探しに……」


 言いながら馬首を返した関羽は、視界の端に1頭の馬を捉えた。少し前に自分が越えてきた丘の上に、馬とその背に跨がる乙女の姿。


 「桃香様!」


 視線の先にいる人物が誰なのか、分かると同時に反射的に叫んでいた。桃香と翠、2人が並んで1頭の馬に跨がっていた。関羽達の上げる喜びの声に対し、桃香達は何の反応も示さずに坂を下る。


 味方と合流出来たのだ。安堵の表情の1つも見せてよいはず。関羽のそんな思いとは裏腹に、桃香達の乗る馬――黄鵬は馬足を緩める事なく、一気に坂を駆け下りてくる。その様は、ひどく余裕がない様に関羽の目には映った。


 下馬していた関羽の目の前で黄鵬は足を止めた。その背から急いで桃香が飛び降りる。思わぬ行動に面食らった関羽が慌ててその体を抱き止める。


 一体何をそんなに急いているのか。それを尋ねるより先に、翠が口を開いた。


 「愛紗、桃香様の事は頼んだ!」


 早口で言われた言葉に関羽が顔を上げる。翠は馬首を返しているところだった。


 「ま、待てっ!」


 これからどこへ行こうというのか。関羽には翠の意図が全く分からない。このまま行かせる訳にはいかないと思うものの、抱き止めた桃香の体が邪魔で動けなかった。


 「少し落ち着きなさい、翠ちゃん」


 紫苑も関羽と同じ様に考えたらしい。黄鵬の正面に立ち、行く手を阻む様に両手を大きく広げている。


 「どいてくれ、紫苑! 早く行かないと、一刀が……!」


 関羽の胸が跳ねた。


 本来なら、一刀も一緒にいなければならないはずだ。しかし、翠の口からその名が出るまで、関羽は一刀の事を失念していた。


 翠の言動からおおよその事は推察出来た。出来た瞬間、関羽の心は恐怖とも不安ともつかない何かに襲われた。足下の大地がガラガラと音をたてて崩れていく様な、そんな感覚を覚えた。


 「愛紗ちゃん、大丈夫なの?」


 不意に桃香の声が耳に届き、関羽は正気を取り戻す。心配そうな桃香の眼が関羽の瞳を覗き込んでいた。


 「え、ええ。何も問題ありません」


 もちろん、何の問題もない訳がない。強がりだった。そうして桃香を離そうとしたところで、自分の手が震えている事に気付く。桃香に気取られまいと、関羽は素早く手を引いた。


 そんな2人の向こうでは、紫苑が黄鵬の鼻筋をそっと撫でていた。


 「貴方らしくないわ。この子の様子を見てみなさい」


 紫苑に言われ、翠は黄鵬の背に跨がったまま、身を乗り出してその顔を窺った。


 桃香の視線をかわすべく、関羽も黄鵬の方へと視線を向けた。多少離れた位置から見ている彼女にもはっきりと分かる。黄鵬はすでに限界に達していた。


 無理もない。朝から走り詰めの上、途中からは翠と桃香の2人をその背に乗せていたのだから。


 翠はひらりと黄鵬の背から飛び降りた。労をねぎらう様に軽く鼻筋をたたくと、黄鵬は鼻面を翠の胸へと押し付けた。翠も黄鵬の顔を抱き締めてそれに応える。まるで、子供が母親に甘えている様な光景だ。


 「詳しく状況を教えてくれるかしら?」


 翠は紫苑に促され、黄鵬をその胸に抱いたまま、事のいきさつを説明し始めた。


 桃香を守るために一刀が傷付いた事。一刀の乗る馬がなかったため、1人その場へ置き去りにせざるを得なかった事。そんな一刀の救出を、逃げている最中に会った星に頼んだ事。それらを桃香に補足されながら、早口で説明していく。


 「分かった。ならば、私が北郷殿の救出に向かおう」


 関羽は矢も盾もいられなかった。言うなり自分の馬の鞍に手を掛けた。


 「な、何言ってんだよ、愛紗。あたしが……」


 「お前の馬の様子では、しばらくは無理だろう?」


 「だから、誰かの馬を貸してもらえれば、それでいいんだよ!」


 「それに、馬だけでなく、お前自身の疲労もかなりのものではないのか? 追撃してくる敵と交戦する可能性も低くはない。そんな状態では、いくらお前でも危険だ」


 「そんなのっ……!」


 関羽の指摘に図星を刺されたか、翠は言葉を詰まらせた。


 馬に乗るためにはかなりの体力を使う。全力で疾駆する馬ならなおさらだ。いくら馬術に長けた翠であっても、程度の違いこそあれ、疲労する事には代わりない。


 翠の反論がないと見るや、関羽は己の体を馬上へと上げるべく、膝をわずかに曲げて腰を沈めた。


 「ちょっと待つのだ、愛紗!」


 と、そこで鈴々が大声を上げた。機先を削がれた関羽は腰砕けになる。


 「何だ、鈴々! いきなり大声を出して!」


 振り返った関羽は眉尻を吊り上げて叱責した。だが、鈴々は全く気にする様子もなく、北の方角を見詰めている。


 「馬の蹄の音が聞こえるのだ。それも、すごく沢山の」


 そこにいる全員がはっとして、鈴々の視線を追った。彼女が口にした蹄の音は聞こえない。だが、小高い丘の向こうには、もうもうと土煙が舞い上がっていた。


 丘が視界をさえぎっているため、土煙を上げている者の姿は見えない。それでも、大きく横に広がった土煙を見るに、相当な数の人と馬がいるだろうと予測出来た。十や百では利かない。数千から万にまで届きそうな規模だった。


 北から迫る大軍となれば、曹操軍か劉宗軍しかない。どちらにしても、敵である事に代わりはなかった。


 「翠ちゃん、愛紗ちゃん。心苦しいけれど、一刀さんの事は星ちゃんに任せるしかないわ。私達は桃香様をお守りする事に全力を尽くしましょう」


 沈痛な面持ちの紫苑から発せられた言葉に、翠も関羽も抗えない。ただ誰もが一刀の無事を祈り、星に一縷の望みを託す事しか出来なかった。






 「……ろ。起きろ、一刀」


 遠くで誰かの声が聞こえた。だが、まぶたは鉛の様に重く、開かない。


 「やれやれ、仕方がない」


 そんな言葉が聞こえたかと思うと、誰かが顔のすぐ側まで近寄ってきた気配を感じた。1拍の間の後、


 「フゥッ」


 「うわあっ!」


 耳に優しく息を吹き掛けられ、一刀は飛び起きる様にして目を開いた。左耳を両手で押さえる彼の目には、ククッと笑いをこぼす星の姿が映っていた。


 「な、何してるんだよ!」


 尻を地面に付けたまま、非難する様に大声を出した。驚きと恥ずかしさで顔は赤く呼吸も荒い。


 「寝ているお主を起こしてやっただけだ。文句を言われる事ではあるまい? それとも、もっと艶っぽい起こされ方をする方がよかったか?」


 しなを作り、流し目を一刀へ向ける。蠱惑的な瞳にどきりとし、一刀は思わず言葉を詰まらせてしまう。その姿が予想通りだったのか、再度星の口から押し殺した笑い声がこぼれた。


 からかわれ、笑われる。いつもの事だが、一刀からすれば面白くない。仏頂面で顔を右へと向けた彼の視界に、大地に伏せているいくつかの骸が飛び込んできた。そのどれもが曹操軍の軍装に身を包んでいた。


 星のお陰で助かったのだ、とすぐに理解出来た。一刀は顔の向きを正面へと戻し、座ったままの姿勢で星を見上げた。


 「助けられたみたいだな。ありがとう」


 「この木に寄りかかって動かないお主を見付けた時には、さすがに私も肝を冷やしたぞ。敵中で眠る様な真似をするのは度胸があるのではなく、ただの馬鹿だ」


 星が一刀を見付けた時、一刀は木に背中を預け、地面に腰を下ろして眠っていた。実際には楽進との戦闘で受けた痛手が大きく、半ば気を失ってしまった格好なのだが、その姿は星に、間に合わなかった、と勘違いをさせた。翠と一刀への謝罪の言葉を胸の内で呟いた星は、彼の傍らに座り込んだところで寝息をたてている事に気付いたのだった。その後、近寄ってきた曹操軍の兵士を蹴散らし、今にいたっている。


 ありがとう。もう1度礼を言ってから一刀は立ち上がった。体はまだ重く、あちこち痛い。それでも、翠と別れた直後よりはだいぶましになっていた。


 「大丈夫なのか?」


 「大丈夫じゃない、って言ったって、どうにもならないだろ?」


 気遣う星の言葉に、一刀は笑って返した。


 ようやく体が覚醒したらしい。遠くから行軍している音が聞こえてきていた。多くの人間が大地を踏む音、馬のいななき、武器や鎧がぶつかり合う金属音。それらの音が混然となって一刀の耳に届いていた。


 彼等がいるのは、街道から逸れた脇道にある木立の中だ。そこからでは、行軍する軍勢の姿は見えない。


 「ならば、行くぞ」


 一旦、その場を離れた星は馬の手綱を握って戻ってくる。2つある手綱のうち、1つは彼女の白馬に、もう1つは別の馬へと繋がっていた。


 「あの連中の馬を奪ったのだ。問題はなかろう?」


 一刀に手綱を手渡しながら、星は倒れている曹操軍兵士を顎で指し示した。


 星が白馬に跨がると、一刀もそれに続く。ひらり、とはいかないが、何とかその身を馬上に置いた。そのまま2頭並んで木立を抜ける。


 一刀達のいる脇道は少し高台になっており、道の反対側まで行くと街道が見下ろせた。


 その光景に、一刀は思わず息を飲んだ。人が街道を埋め尽くしている。まるで、水の代わりに人が流れる川の様であった。


 「まさか、長坂坡の戦いを切り抜けなきゃならなくなるとはな……」


 ぼそっと呟く。


 「そういえば、一刀の知る歴史ではこの一戦、どうなっているのだ?」


 星はその呟きを聞き逃さなかった。馬上で、顔だけを左側に並ぶ一刀へと向けた。


 「ああ。敵中に取り残された劉備の御子を、趙雲が救うんだ。赤ん坊を胸に抱き、百万の軍勢の中を単騎で駆け抜けて」


 「ふむ。さすがは私だな。そんな事、他の者には到底真似出来まい」


 一刀の話を聞きながら、星は満足そうに頷いた。彼女の事ではないのだが、その顔は大層誇らしげに見えた。と、急ににやりと笑う。


 「ならば、一刀がその赤子、という事になるな。私のこの胸に抱かれて行くか?」


 そう言って、一刀に向かって手を広げる。だが、今回は自分で話を振っただけに、一刀の方も予想が出来ていた。いつもいつもからかわれてたまるか、と特に慌てた様子も見せず、平静を保ったままで返事をする。


 「自分の身くらい、自分で守ってみせるさ」


 「戦場で眠りこけ、私に助けられた者の言葉とは思えぬな」


 返す言葉はなかった。逆にやり込まれ、一刀は恨めしそうに横目で星を睨んだ。星はすまし顔で一刀の方を見ている。


 その星の頬が緩んだ。


 「冗談だ。そんな顔をするな。……いくら私でも、そこまでの余裕はないからな。そうでなくては困る」


 そう言うと、曹操軍が埋め尽くす街道の方へと馬を進ませる。ゆっくりと歩く星の後を一刀も続く。


 「そういえば、翠と桃香は無事なのか?」


 今更ながら思い出し、つい口を突いて出てしまった。その問いに、前を行く星が正面を向いたままで答える。


 「私がお主を助けに戻ったのは、翠に頼まれたからだ。あの時はまだ、曹操軍の姿は見えなかったからな。今頃、無事に長坂橋まで辿り着いているだろう」


 それを聞いて、一刀の中からは少しだけ不安な気持ちが消えたのだった。


 合流予定地点である長坂橋へは、今いる道からでは到達する事が出来ない。一旦、街道まで戻らざるを得ないのである。しかも、桃香達との合流を果たすためには曹操軍の前に出なければならなかった。大事な仲間、何より、最も大切な女性に再び逢うためには、それを成し遂げるしかなかった。


 星の白馬が足を止めた。一刀もそれに倣う。2人の姿を隠している茂みは、5歩程先で途絶えていた。これ以上先へ進めば、いつ見つかってもおかしくはなかった。


 「一刀、何があっても足は止めるなよ。足を止めれば、包まれて終わる」


 「分かってる。死に物狂いで星に付いていくさ。それでも、もし駄目な時は……、見捨てていってくれていいからな」


 もちろん死にたくはない。だが、ここで2人揃って命を散らす訳にはいかない。自分が原因で星を死なせる事だけは、何としても避けなければ。


 一刀の思いに気付いているのかいないのか、星はかすかに口元を緩めただけで、返事はしなかった。


 その顔が、再び引き締まる。


 「行くぞ!」


 槍を片手に叫ぶ。と同時に、馬の腹を蹴った。星の白馬は鋭くいななくと、勢いよく駆け出していく。一刀も同様に馬の腹を軽く蹴り、星の後を懸命に追った。


 一刀達の行く手を塞いでいるのは曹操軍の第3陣。およそ十万の軍勢である。


 この第3陣のほとんどは、元袁紹軍の兵で占められていた。そのため、彼等の練度や士気は、以前からの曹操軍兵士と比べると大きく劣っていた。行軍の隊列は乱れ、あちこちで私語が飛び交っている。本来なら軍紀を正すべき立場の者まで一緒になっている始末だ。当然、周囲に対する警戒も非常に薄い。馬の大地を蹴る音が喧騒にかき消された事もあり、曹操軍が2人の存在に気が付いたのは、まさに接触する直前だった。


 長く伸びた曹操軍に、横から2騎の騎兵がぶつかっていく。その姿は、大蛇の腹に食い付く蟻の様であった。しかし、彼等はただの兵隊蟻ではない。大きな顎を持った、非常に強力な蟻だ。


 2匹の蟻は強靭な顎で大蛇の皮を食いちぎると、その体内へと侵入していく。そのまま大蛇の肉を食い散らかし、頭へ頭へと上り続ける。


 一刀の前を行く星は右手に槍、左手に剣を持ち、当たるを幸いに次々と敵をなぎ倒していく。吹き上がる血飛沫で、彼の視界は赤く染まるほどだ。


 一刀も太刀ではなく槍を握っていた。馬上で扱うには、間合いの長い槍の方が勝手がよかった。さすがに両手を離して馬に乗る事は出来ないため、左手で手綱を握り、右手1本で槍を手繰っていた。そうして、星の作り出した道を死に物狂いで駆け抜ける。


 息を吸うと、宙を舞う血の飛沫が肺にまとわり付く感じがした。胸の中が血の臭いで一杯になり、不快感が広がっていく。呼吸をすればするほど、ひどくなる。肺胞の表面がべっとりと血で覆われたかの様に呼吸が苦しい。息が切れ、意識が朦朧とし始める。星の姿もおぼろげとなり、周囲の喧騒もどこか遠くに聞こえた。


 そんな中、何かが目の前で揺れた気がした。


 『……翠!』


 風にさらさらと流れる長い髪。翠のポニーテールに束ねた髪が目の前にあった気がして、一刀は大きく目を見開いた。


 当然、翠の姿はそこにはない。一刀の目の前で揺れていたのは、星の跨る馬の尻尾だった。


 「どうやら、無事だった様だな?」


 星は馬足をゆるめ、一刀に並びかけてくる。辺りには、彼女以外の姿はない。曹操軍はすでに後方へと離れている。いつの間にか、一刀は敵中を突破していた。






 桃香を追撃してきた曹操軍の第1陣は、眼前に横たわる川を前にその足を止めていた。川幅は5メートル程度だが、速い水流が地を削り、小さな谷を作っていた。地面から川面まではおよそ3メートル。流れの速さから水深もかなり深い事が予想され、徒歩や馬での渡河は不可能だった。


 もちろん、川には橋が架かっていた。その橋は兵馬が問題なく通過出来る程、頑丈に作られていた。橋自体に問題はない。問題なのはその橋――長坂橋の前に1人の少女が立ち塞がっている事だった。


 立ち塞がる赤毛の少女の背丈は、曹操軍の中で最も背の低い許緒と同じ程度しかない。そんな小さな体躯とは不釣り合いの長い蛇矛を両肩に担ぎ、少女は橋の前で仁王立ちをしていた。


 「張飛とは、厄介ね」


 横に大きく広がっている部隊の中央で、曹操はそう呟いた。平静を装ってはいるが、声には焦燥感がにじみ出ていた。


 かつて、黄巾党の討伐を桃香の率いる義勇軍と共に行った時、曹操は少女の強さを目の当たりにしていた。一時、客将として召し抱えていた関羽からも、自分より義妹である張飛の方が強い、と聞かされていた。その強さは、曹操もよく分かっていた。


 しかし、いくら強いとはいえ、1人で要衝を守るなど無謀すぎる。そう考えた曹操は周囲を探らせたのだが、兵が伏せられている気配はなかった。対岸にある森の中までは調べられなかったものの、大した兵力を伴わずに弔問へと訪れた事は聞いていたため、伏兵はないと断定。数に飽かして押し潰そうと、まさに号令を発しようとした時だった。


 鈴々は肩から蛇矛を下ろし、石突きを地面へと力一杯突き立てる。わずかに大地が揺れた。


 「鈴々の名は張飛、字は益徳! ここから先には誰も進ませないぞーっ! 命が惜しい奴は、とっととお家へ帰るのだーっ!」


 鈴々の咆哮が大気を震わす。声と文言は子供のそれだが、迫力だけは紛れもなく本物である。鈴々の放った殺気にあてられ、曹操軍のあちこちで馬が暴れ出した。


 殺気にあてられ、取り乱したのは馬だけではない。一部の兵もまた、冷静さを失っていた。


 「止めろ、お前達! 隊列を乱すな!」


 夏侯淵の制止も無視し、数人の兵が鈴々へと向かっていく。


 鈴々は地面へ突き立てた蛇矛を右手1本で引き抜くと、両手で握り直した。蛇矛を一薙ぎすると、突風が舞い起こる。風が吹き抜けた後には、鈴々へと仕掛けた兵士の骸が転がっているだけだった。


 たった一振りで5人からの兵を殺める。鈴々の圧倒的な強さを前に、曹操軍兵士の間には動揺が走った。


 「華琳様、ボクがやります!」


 そう言って飛び出したのは、曹操の親衛隊を務める許緒だった。


 「待ちなさい、季衣!」


 許緒の膂力は、曹操軍で1、2を争う程に強い。だからこそ、親衛隊にも選ばれているのだ。だが、力だけでは張飛には勝てない。そう思い制止したのだが、許緒は曹操の言葉には耳を貸さなかった。鎖の先につけられた巨大な鉄球を頭上でぐるぐると振り回し、それを鈴々へと向けて投げ付ける。


 遠心力によって勢いが増した鉄球が、自分へと猛スピードで迫ってくる。常人であれば、恐怖に体がすくみ、逃げる事もままならないだろう。しかし、鈴々は違っていた。


 「こんなのじゃ、鈴々はやられないのだ」


 不敵に笑うと、蛇矛を持つ両手の間隔を狭め、左足を大きく上げた。腰の回転を使って地面と水平に振られた蛇矛は鉄球とぶつかり、激しい激突音を辺りに響かせた。まるでバットの真芯で捉えられたボールの様に、見事に弾き返された許緒の鉄球。鎖を握る許緒の体は鉄球に引っ張られ、数メートルも後方へと飛ばされた。


 「春巻き頭じゃあ、鈴々の相手にはならないのだ。夏侯惇のお姉ちゃんなら、少しは鈴々と戦えるかもしれないけどな~」


 鈴々の表情は、余裕綽々といったところだ。あからさまな挑発であったが、夏侯惇がそれに引っ掛からない訳はなかった。


 「いいだろう。なら、私が相手になってやる」


 大地に強く体を打ち付けた許緒をしゃがみ込んで介抱していた夏侯惇は、すっくと立ち上がって大剣を手に取った。彼女からすれば、妹分である許緒の敵討ち、という意味合いも強い。鈴々との一騎討ちを受けない道理はなかった。


 「待ちなさい、春蘭」


 鈴々との一騎討ちへと進み出ようとした夏侯惇を、曹操が制止する。


 「私に任せてください、華琳様。すぐに張飛の首を跳ねてみせます」


 「待ちなさい、と言ったのが聞こえなかったのかしら?」


 2度目の声は明らかに苛立っていた。その事に気付いた夏侯惇は足を止め、曹操を振り返る。彼女は曹操軍最強の武人とは到底思えない、怯えた子犬の様な顔を見せていた。


 「いいから、こちらにきなさい。秋蘭、貴方もよ」


 曹操は夏侯姉妹を呼び寄せると、2人に何事か耳打ちをした。曹操の指示を受けても普段と変わらない表情の妹に対し、姉である夏侯惇は明らかに落胆した顔をしていた。


 「私達の目的は何? 劉備をここで討つ事でしょう? ならば、そのために幾重にも手を講じておくのは当然よ。もちろん、貴方が張飛に負けるとは微塵も思っていないわ。我が最強の剣である貴方を止められる者があって?」


 「も、もちろんです、華琳様! 必ずや、華琳様の期待に応えてみせます!」


 曹操の言葉で夏侯惇の顔はぱあっと華やぐ。それはまるで、ぱたぱたと尻尾を振って喜ぶ犬の様だった。


 夏侯惇はよくも悪くも単純である。それだけに、発揮出来る力はその時の感情に左右されやすい。おだてられ、上機嫌となった彼女はぐるぐると腕を回し、意気揚々と橋のたもとへと歩き出す。その背中を、曹操と夏侯淵は頼もしく思いながら見送った。


 夏侯淵が持ち場に戻ると、曹操は次に郭嘉と典韋を呼び寄せた。曹操は耳打ちをして指示を出す。それを受けて軽く打ち合わせると、郭嘉は元の場所へ、典韋は後方へと消えていった。


 楽進達から報告を受けた時には二万人近くいた兵が、今は一万五千人程度しかいない。およそ3割を脱落させる程の強行軍を行ってまで、曹操が桃香の首級を挙げる事にこだわるのには理由がある。


 漢中を失った状態で益州に攻め込むのには、多大な損害を覚悟しなければならない。益州という巣穴から出てきている今こそが劉備を討つ絶好の機会。曹操はそう考えていた。


 だからこそ、急いでこの場を突破しなければならない。時間を掛ければ掛けただけ、遠くへ逃げてしまう。


 辺りに鋭い金属音が響いた。鈴々と夏侯惇の一騎討ちはこの間に始まっていた。


 夏侯惇の両腕から繰り出される重い斬撃を、鈴々はいとも簡単に弾き返した。夏侯惇の攻撃を正面から防げる者は曹操軍にも数える程しかいない。少女の強さに、兵達の間にはまたもや動揺が走った。


 振り下ろした大剣を弾かれてバランスを崩した夏侯惇に対し、鈴々が反撃に出た。突き、払い、振り下ろし。次々に振るわれる蛇矛に夏侯惇も大剣を返していくが、手数も一撃の威力も鈴々の方が勝っていた。夏侯惇は徐々に押され始めた。


 曹操の口元がニヤリと歪む。命令通り、上手くやっている。そんな、満足からくる笑みだった。


 少しずつ下がる夏侯惇に引きずられる様に、鈴々もまた、少しずつ前に出ていく。橋のたもとに陣取っていたはずの鈴々は、橋から少し離れた位置にまで動いている。


 曹操の右手が前方へと振られた。


 「今だ、行けっ!」


 合図を受けた夏侯淵が命令を出した。すると、数10人の兵士が一斉に橋へと向かって駆け出した。


 「にゃっ!? ま、まずいのだ!」


 「行かせんっ!」


 慌てて橋へと戻ろうとする鈴々を、夏侯惇が妨害するべく動く。力を込めた一撃は蛇矛に弾かれたが、鈴々の動きを止める事は出来た。


 「くそーっ! やり方が汚いのだ!」


 「ここは戦場だぞ、張飛! 貴様と武勇を競っている訳ではないのだ! 汚いだの卑怯だの、甘い事をぬかすな!」


 吠えると共に、再び強烈な攻撃を放つ。速度も威力も、先程鈴々が繰り出した攻撃と遜色なかった。


 夏侯惇は全力を出していたのではなく、わざと力を抑えて戦っていたのだった。自然な形で後退し、張飛を橋から引き離せ。曹操からそんな命令を受けていたためだ。


 橋へと向かう兵が気になっているためか、鈴々の動きは急に精彩を欠き始めた。夏侯惇の攻撃に対し、防戦一方となる。当然、曹操軍の兵を止める事は出来ない。自分の横を通過していく敵兵を、ただ見送る事しか出来なかった。


 これで橋を突破出来る。そんな曹操の考えは、すぐに打ち砕かれる事となった。


 男達の悲鳴が上がる。それも、1つや2つではない。橋へと足を踏み入れた兵は次々と倒れ、川へと落ちていく。しばらくして悲鳴が収まると、屍の山の中には長い髪を風になびかせる少女の姿が見えた。栗色のその髪には陽光が煌めき、いっそ神々しくもあった。


 「何やってんだよ、鈴々。鈴々に任せとけばいいのだーっ、なんて言ってたくせに」


 そこにいたのは翠だった。彼女は構えを解くと、槍を片手で持って歩き出した。倒れている死体を避けながら、少し馬鹿にした様な笑みを見せる。


 「うーっ! 余計な事をしなくてもいいのだ、翠! 鈴々1人でも、ちょちょいのぷーで簡単にやっつけられたんだからな!」


 助けてもらったにも関わらず、鈴々は不満を隠そうともしない。頬を膨らませ、翠を睨み付けている。


 この状況は、曹操にとっては完全に想定外だった。張飛を殿に残し、劉備や他の者はすでに後退しているとばかり考えていたからだ。


 そして、この状況で翠が出てくるのは、曹操からすると1番厄介であった。ここにいる兵の中には、関中での涼州連合軍との戦に参加していた者も少なくない。彼等の脳裏には、あの一戦で翠が見せた鬼神の如き戦振りが焼き付いている。曹操軍の動揺はさらに広がっていった。


 この上、もし春蘭が張飛に負ける様な事になれば、部隊が瓦解するのは免れない。思い付いた最悪の事態を避けるため、曹操は夏侯惇に後退命令を出した。夏侯惇は不満そうではあったものの、素直に後退。曹操軍と鈴々達は、互いを牽制する様に睨み合う事となった。




 両者が睨み合いを始めてからおよそ1時間。にわかに曹操軍の後方が騒がしくなり始めた。


 「流琉が戻ってきたのでしょうか?」


 「いくらなんでも早すぎるわ。まだ半刻くらいは必要なはずよ」


 夏侯淵の問い掛けに曹操が答えている間にも、騒がしい声はどんどんと大きくなっていった。その声が悲鳴や怒号であると気付くまで、それほどの時間は掛からなかった。


 夏侯姉妹に後方の確認をさせようと、右側に控える夏侯惇の方を向いた時だ。曹操は自軍の兵の中から2つの影が飛び出すのを目撃した。あまりに突然の事に、曹操の体も思わず固まってしまう。その飛び出してきた影を、ただ見詰める事しか出来ずにいた。


 それは、曹操だけではなかった。そこにいる全員の視線が2つの影に集まっていた。


 2つの影は2騎の騎兵だった。頭のてっぺんから爪先まで、血濡れて真っ赤に染まっている。一刀と星、2人は十万をゆうに超える大軍の中を突破し、何とかここまで辿り着いたのであった。


 「星とお兄ちゃんなのだ!」


 2人に気付いた鈴々は、喜びのあまり駆け出した。翠はとっさに首根っこをつかみ、それを引き止める。


 「あたし達がしなきゃならないのは、この橋の確保だぞ。それをほっぽり出してどうするんだよ」


 「嬉しくて、つい忘れてしまったのだ。にゃはは~」


 翠に注意されても、鈴々は大して悪びれた風もなく笑った。まったく、と、ため息が翠の口からこぼれた。そんな彼女の瞳に光るものがあった事に、鈴々は気付く由もなかった。


 「何とかなったな……」


 一刀はしみじみと呟くと、馬の背に突っ伏した。


 何とかなった。まさにその言葉通りだった。道中、何度死を覚悟したか分からない。一刀が参加した戦の中でも、険しさは群を抜いていた。それを、かすり傷と呼べる様な怪我だけで切り抜けられたのは、奇跡と言っても過言ではないと思えた。


 「一刀よ、みっともない格好を見せるな。我等はたった2人で十万を超える曹操軍に勝ったのだぞ。それを奴等に見せつけてやるのだ。しっかりと胸を張れ」


 疲労困憊でぐったりしている一刀と違い、星は自分で言った通り、背筋を伸ばして胸を張っていた。堂々としたその様は大層誇らしげで、一刀も倣う様に姿勢を正した。


 もちろん、星にも疲労がない訳はない。彼女が先頭に立って道を切り開いてきた分、むしろ一刀よりも疲れは大きかった。それでも、武人としての誇りと体面、そして何より、無事に切り抜けたという充足感が疲労を凌駕していた。


 星は橋へと向かい、ゆっくりと馬を進めた。一刀もそれに続き、翠の下へと馬を歩かせ始めた。


 敵軍の目の前を堂々と横切っているのに、攻撃も妨害も受けない。その状況が、一刀には何だか面白かった。敵兵の方へと視線をやれば、彼等は皆、呆気にとられた様な顔で一刀の事を見ていた。頬が緩みそうになるのをこらえながら正面に向き直る。と、星の馬が立ち止まっていたため、一刀も自然と馬を止めた。


 星は曹操軍の方を見詰めていた。視線の先を追ってみると、そこには1人の女性の姿があった。綺麗に切り揃えられた黒髪に、眼鏡を掛けた女性。年の頃は自分とそう変わらない様に一刀には見えた。


 「久しいな、稟。2年振りか」


 「ええ。相変わらず無茶をするわね」


 「ふっ。この程度、無茶のうちには入らん。……ところで、風は元気にやっているのか?」


 「貴方といた頃と、何の変わりもないわ。自分の調子に周囲を巻き込むところとか」


 「そうか、それは何よりだ。本来なら、昔話を肴に3人で酒を酌み交わしたいところだがな……」


 2人は互いに寂しげな笑みを浮かべた。


 「……では、な」


 わずかな沈黙の後、星は再び馬を前へと進ませた。彼女は会話の相手の方を振り返る事はなかった。


 その後は足を止める事もなく、すんなりと長坂橋のたもとまで着く事が出来た。馬を降りた2人に翠と鈴々が駆け寄ってくる。


 「お帰り、お兄ちゃん、星。無事でよかったのだ」


 鈴々は勢いよく一刀に抱きついた。疲労困憊の体には、体当たりの様に抱きつかれるのはかなり厳しい。勢いに押され、バランスを崩しながらも、一刀は鈴々の体を何とか受け止めた。


 ただいま、と言いながら、鈴々の短い髪をくしゃくしゃと撫でる。すると、鈴々は満面の笑みを一刀に見せてくれた。


 一刀は髪を撫でたままで顔を上げ、胸元にいる鈴々からその向こう、翠へと視線を移した。一刀の視線と、一刀の事を見詰めていた翠の視線とが絡まる。


 「……ただいま、翠。心配かけたよな?」


 少し距離はあったが、一刀には翠の瞳が潤んでいる様に見えていた。


 「べ、別に、心配なんか……。星に任せたから大丈夫だ、って、あたしは信じてたから」


 一刀の言葉で不意に恥ずかしさを覚え、翠はうつむいた。足元に視線を落とし、窺う様に一刀をチラチラ見る。そのしぐさが大層可愛く、一刀も思わず赤面してしまった。


 そんな2人の間に、星が口を挟む。


 「ほぅ、お主がそこまで私の事を買ってくれていたとは知らなかったな。にしても、あの時の慌て振りと言ったらなかったぞ。あれだけ見れば、お主が錦馬超と呼ばれる武人だとは誰も思うまい」


 「な、何言ってんだ、星! 適当な事を言うなよ!」


 先程までのしおらしさはどこへやら、翠は星に飛び掛からんばかりの威勢で否定する。こうしてむきになればなるほど、星にとってはいいおもちゃだ。


 「適当とは心外だな。私に向かい、涙ながらに一刀の事を頼んだのはお主であろう? 一刀が死んだら、あたしも生きていけないとか何とか……」


 「いっ、言う訳ないだろ、そんな事!」


 顔を真っ赤にさせる翠に、星は笑いをこらえ切れなくなった。大きな声で笑う星を忌々しげに睨んだ後、翠は一刀へと視線を戻した。目が合うと、一刀はそっと微笑んだ。


 「とにかく、2人はとっとと後ろに下がれよ。ここはあたしと鈴々に任せとけばいいから。桃香様も、お前等の無事を案じてるんだ」


 確かに、この場に残ったところで出来る事はないと思えた。むしろ、足手まといになるだけだろう。そして、それは星も同じ考えだった。


 「ああ、私達は休ませてもらうとしよう」


 手綱を引き、歩き出す。木製の橋を踏む蹄の音が、小気味よく辺りに響いた。




 「星ちゃん! 一刀さん! 無事だったんだね!?」


 長坂橋を渡った先にある森の中。そこで一刀と星の帰還を待ちわびていた桃香は、その姿を見るなり、大慌てで駆け寄った。


 2人の事が心配だったのはもちろん、特に一刀に対しては、自分のせいで、という思いが強くあった。それだけに、無事に戻ってきてくれた事は嬉しかったし、安堵もした。ほっとしたせいか、桃香の瞳からは涙がこぼれていた。


 「桃香様、星さん達も戻りましたし、急ぎこの場を離脱しましょう」


 朱里は撤退を進言する。これは当然の判断だった。もっと言えば、一刀達の帰還を待たず、先に撤退していても全くおかしくない状況であった。


 桃香は流れる涙を袖で拭う。その双眸には強い決意が宿っていた。


 「ごめんね、朱里ちゃん。私にはやらなきゃならない事があるから、撤退は出来ないよ」


 「何を言われるのですか、桃香様! 撤退を開始するのが遅くなれば、その分、逃げ切るのが困難になるというのに!」


 桃香の発言に関羽が反論した。翠と鈴々が殿を務めている間に撤退する。この場にいる誰もが考えていた事で、関羽の言葉は至極真っ当だった。それを理解した上で、桃香はなおも自分の意思を口にする。


 「愛紗ちゃんの言っている事は分かるよ。皆、私を逃がすために懸命に戦ってくれている。もちろん、その思いを無駄にするつもりはない。でも、今を逃したら、曹操さんと面と向かってお話が出来る機会は、もうないと思うの」


 桃香の考えは、誰も予想していないものだった。一同が言葉を失う中、最初に口を開いたのは、やはり関羽であった。


 「その様な事、無理に決まっています。桃香様の掲げる理想は王道。曹操の目指す覇道とは対極に位置するものです。対話をしたからといって、どうなるものでもありません。そもそも、曹操が桃香様との対話を受けるかどうかも分からないのに……」


 愛紗ちゃんは私の事を心から心配してくれている。それは相手の目を見ればすぐに分かった。申し訳ないとは思う。それでも、桃香には自分の意思を曲げる事は出来ない。


 「愛紗ちゃんの言う通りかもしれない。でも、そうだと決まった訳じゃないでしょ? 初めから諦めてたら可能性はないよ。戦争をせずにすむのなら、それに越した事はないもん」


 しかし、とだけ言って、関羽は次の句を繋げなくなった。


 「こうなった桃香様はてこでも動かんぞ。それは、お主が一番よく分かっているであろう?」


 星に言われ、関羽は大きくため息を吐いた。その顔には、はっきりと諦めの色が浮かんでいた。


 「分かりました。その代わり、私が桃香様の護衛に就きます。もし危険だと判断すればその場で打ち切りますが、よろしいですね?」


 「うん! ありがとう、愛紗ちゃん」


 桃香は満面の笑みを浮かべ、関羽の体を優しく抱き締めた。嬉しさと申し訳なさからの行動だ。突然の事に女同士であるにもかかわらず、関羽の頬は真っ赤に染まった。


 撤退準備は紫苑達に任せる事とし、桃香は関羽を伴って戦場へと戻る。陽光は木の葉に遮られ、森の中は昼間だと思えないほどに薄暗い。それでも2人の進む先、森の出口は明るく光っていた。それはまるで、不安と期待の入り交じる桃香の心の内を表しているかの様だった。


 森を抜けると一気に視界が開けた。すぐ前を流れる川に架かる橋の上には翠と鈴々の姿があった。その向こう側に、川岸に沿って曹操軍は展開していた。


 辺りは驚くほどに静かだった。水の流れる音や、そよ風に揺れる木の葉の擦れる音も聞こえる。ここが戦場である事を忘れてしまいそうになるほどだ。


 そんなところに桃香が姿を現した事で、曹操軍にざわめきが生まれた。それは水面に起きた波の様に全体へと広がっていく。


 「と、桃香様!? こんなところに何しにきたんだよ?」


 急にざわめき出した曹操軍に何事かと振り返った翠は、驚きで思わず大声を上げてしまった。その横では、鈴々もびっくりした顔を見せている。


 そんな2人に軽く微笑みを返し、桃香は橋を渡り始めた。1歩1歩確かめる様に、ゆっくりと足を前に出していく。そのまま2人の前で立ち止まった。


 「ありがとう、鈴々ちゃん、翠ちゃん。後は私に任せて」


 それだけ言うと、桃香は2人の脇を抜け、曹操軍の方へと再び歩き出した。


 「任せろって、どうするつもりなんだよ」


 「大丈夫だ。桃香様は、私が命に代えてもお守りしてみせる」


 桃香に続き、関羽も翠の横を通り抜ける。強張ったその横顔から覚悟のほどを感じ、翠はそれ以上、何も言わなかった。


 曹操陣営はといえば、大将首を取る好機とばかりに血気に逸る夏侯惇が曹操に諫められている。


 「落ち着きなさい、春蘭。劉備の様子だと、私に舌戦を挑むつもりの様よ?」


 「それで、お受けになるのですか?」


 夏侯淵に問われると、曹操は口元を緩めた。


 「劉備が私に何を言うつもりでいるのか、楽しみだわ。春蘭の手綱は任せるわよ」


 舌戦で負ける事はない、という自信に満ちた余裕の笑みだった。夏侯淵に姉である夏侯惇の暴走を防ぐように言うと、曹操は自らの跨がる愛馬、絶影をゆっくりと進ませた。


 桃香は橋のたもとに1人で立っていた。関羽は桃香から数歩下がった橋の上に、偃月刀を突き立てる様にして仁王立ちをしていた。もし、桃香に危害を加える様な動きを見せれば、すぐにでも飛び出していける構えだ。


 桃香から5メートルほど離れた位置で曹操の馬は止まった。曹操に馬から降りる気配は見られない。馬上から見下ろす曹操と、それを見上げる桃香。両者はかすかに笑みを見せていたが、その雰囲気はまったく違う。あざける様な高圧的な笑みを見せる曹操に対し、桃香の笑みには不安が入り混じって見えた。


 「お久しぶりですね、曹操さん」


 「こうしてまみえるのは反董卓連合以来だから、2年振りになるのね。で、今日は挨拶を言いに、わざわざ出てきたのかしら?」


 「いえ……。曹操さん、兵を退いてもらえませんか?」


 桃香のいきなりの申し出に、曹操は呆れた様に鼻で笑った。


 「いきなり何を言うかと思えば……。貴方、現状を理解出来ていない訳ではないのでしょう? 我が軍の前に、貴方の命は風前の灯。にもかかわらず、どうして私が退いてあげなければならないの?」


 「それは、私と曹操さんが戦う必要はないからです。争いもなく、人々が幸せに暮らせる国にしたい。その思いは同じはず。なら、ここで私達が戦う意味はありませんよね?」


 「確かにそうね。私も貴方も、平和な国を目指して戦っている。でも、それなら私がここで退くより、もっと良い方法があるでしょ?」


 曹操の顔に浮かぶ不敵な笑みを見て、桃香には嫌な予感が走った。尋ねる事をためらう間に、曹操の口から答えが発せられる。


 「今この場で、貴方が私に降伏すればいいのよ。そうすれば、後は揚州を支配している孫策が残るだけ。乱世の終結はぐっと近くなるわ」


 「それは出来ません」


 今度は即答だった。馬上の曹操を睨み付ける様にしながら、きっぱりと拒否した。桃香の答えは想定内だったのか、曹操は眉1つ動かす事はなかった。


 「なぜなの? もちろん、貴方とその部下の命は保証するし、役職を与える事も約束するわよ。それに、そこにいる馬超の罪も減じてあげる。決して悪い話ではないでしょう?」


 桃香には、曹操は本気で言っているのではない様に感じられた。しかし、余裕たっぷりの表情からはその真意を探る事は出来ない。


 元々、駆け引きで曹操さんに勝てる訳がないんだから。余計な考えを振り払い、桃香は自分の本心を口にする。


 「私は、曹操さんのやり方は間違っていると思います。力で他者を屈服させるやり方で得られるのは、一時の平和だけ。皆がいつまでも平和に暮らせる国を創る事は出来ません」


 「そう……。でも、それは少し虫がいいのではないかしら。私には、目指しているものが同じだから兵を退け、と言い、方法が違うから、とこちらからの提案はつっぱねる。ちょっとわがままが過ぎるわね。そもそも、方法が違うと言うのなら、私が退いた後はどうするつもりだったの? 目指すものが同じでも方法が違えば相容れない事は、今、貴方が言った事よ?」


 「後日、会談の場を設けさせてもらって、話し合いでお互いの考えを擦り合わせていければ……」


 フンッ、と鼻で笑い、曹操は桃香の言葉を遮った。


 「話し合い? そんなものでどうにかなると、本気で思っているの?」


 「もちろんです! 確かに、言うほど簡単な事ではないと分かっています。でも、現に今、こうして私達は話し合っているじゃありませんか。お互いの事を分かり合うために」


 桃香は語勢を強めた。見下した様な視線をぶつけられて気圧された心を奮い立たせるためだ。


 「分かり合うため、ね」


 曹操はうつむき、そう呟いた。その声は小さく、桃香の耳には届かなかった。


 「すぐには無理でも、きっと私達は分かり合えるはずなんです。だって、本当は皆、戦いなんてしたくない。皆仲良く手を取り合い、助け合いながら生きていきたい。そう思っているんです。だから、私は分かり合えると信じています。もちろん、曹操さんとも」


 「残念だけどね、劉備。それは違うわ。人の本質は、そんなに綺麗なものではない。自分が幸せになるために、平気で他人を不幸に出来る。自分の欲のために、平気で他人を裏切れる。自分の愉悦のために他人を傷付け、殺し、奪う事が出来る。それが人間よ。だからこそ、支配者は圧倒的な力を持たねばならない。力を見せつけ、他者に抑制を迫る。そうでなければ、秩序のある国を創る事など出来はしないわ」


 「違います! ほとんどの人は他人を傷付けたいなんて思っていません! それに、曹操さんが言った様な人達だって、きっと間違っていると分かってくれるはずです」


 「……そう。あくまで貴方は人を信じると言うのね?」


 はい、と力強く返事をする桃香。その瞳には、確固たる意思が宿っている。


 対する曹操の顔からは、いつの間にか笑みが消えていた。わずかに眉根が寄り、苛立ちが面に出ていた。


 「ならば、思い出してみよ! なぜ、徐州を失ったのかを! なぜ、我が軍の前に裸同然で立っているのかを! 人を信じ、裏切られた結果ではないのか!?」


 桃香は言葉を詰まらせた。曹操の言った通りだからだ。


 徐州では同盟を結んだばかりの袁術に裏切られた。恩人に対する弔問を利用され、今の絶体絶命の状況に追い込まれた。他者を信じ、義を重んじたばかりの結果だった。


 「少しは現実を見られる様になったかと思っていたのだけれど、私の見込み違いだったわね。初めて会った時と何も変わらない、ただ、いたずらに理想を追い求めるだけ。よくもそれで私の前に……」


 「私は! 私は、何があっても自分の理想を捨てません。何度裏切られたって、人を信じる事を諦めません!」


 「それなら……」


 曹操は絶影の背に縛っておいた愛用の大鎌、絶を手に取った。そのまま大きく振り上げると、刃を地面に突き立てる。とっさに出た関羽の足は、1歩だけ前に踏み出されて止まった。


 「それなら、もっとこちらに来なさい。じっくりと話し合いましょう。見ての通り、私は丸腰よ。何もしないわ」


 さあ、とばかりに曹操は腕を開いた。しかし、桃香は動けない。


 「あら、どうしたのかしら? 貴方、言ったわよね。人を信じる、と。それなら、私の事も信じてくれるのではないの? だからこそ、私との対話を望んだのではないの?」


 苦しそうな顔でうつむく桃香を、曹操は馬上から勝ち誇った表情で見下ろしている。そのまま追い討ちをかけるべく、さらに口を開く。


 「所詮、貴方はただの田舎娘よ。現実を知らず、口先だけで何の覚悟もない」


 曹操の放つ言葉は、次々に桃香の胸へと突き刺さった。あまりの苦しさに、思わず耳を塞ぎそうになるほどだ。それでも、曹操の言葉を正面から受け止め続ける。ここで逃げたり耳を塞いだりすれば、自分が間違っていると認めた事になる。そう思ったからだ。


 「……分かりました。なら、そちらに行きます」


 うつむいていた顔を上げ、再び曹操を視界の中央に捉えた。曹操がわずかに驚いた様に見えた。


 「桃香様、無茶です! 曹操殿が約束を守る保証など、どこにもないのですよ!? その様なやけを起こされては……」


 桃香を引き止めようと、関羽が慌てて駆け寄った。少し痛いくらいの力で左腕をつかんでくる関羽の手に、桃香は右手をそっと重ねた。


 「大丈夫だよ、愛紗ちゃん。曹操さんが嘘を吐く訳ないもの。私はそう信じているから」


 にっこりと笑ったその顔には、決意のほどがにじみ出ていた。それを見せられては、関羽にそれ以上抗う事は出来なかった。


 関羽が左腕を放すと、桃香は自由になった手で腰から剣を外した。靖王伝家――桃香の家に代々伝わってきた家宝であり、黄巾賊討伐のために義勇軍を興した時に母から受け継いだ宝剣を関羽へと預ける。


 その光景を忌々しげに睨み付けているのは他でもない、曹操だった。彼女は鈴々と翠の出現によって激しく低下した自軍の士気を、この舌戦に勝利する事で取り返そうと考えていた。完膚なきまでに叩き潰せる自信はあったし、事実、そこまで追い込んだはずだった。


 しかし、桃香が曹操の言葉に従うとなると、話は変わってくる。このままでは、桃香の話を聞かざるを得なくなるからだ。


 曹操からしてみれば、桃香の行動は誤算だった。彼女は桃香の事を完全に見くびっていた。桃香は曹操の見立てよりもずっと頑固で愚直であったのだ。


 己の信念を貫き通すべく、桃香は曹操へ向けて足を踏み出した。


 1歩ずつ、ゆっくりと足を前に進める。その度に、曹操の顔が怒りで歪んでいく。そして、10歩目を刻もうとした時だった。


 「くるなっ!」


 こらえ切れなくなった曹操が叫んだ。若干ヒステリックさをはらんだ、切り裂く様な鋭い声。突然の声に驚き、桃香の体はビクリと跳ねた。


 「それ以上、近付いてみなさい。その首を刎ねるわよ」


 言いながら、曹操は大鎌へと手を伸ばす。彼女が馬上で大鎌を構えたのと、桃香の前に関羽が飛び込んだのはほぼ同時だった。


 「茶番はこれまでよ。例え目指す先が同じでも、私と貴方やり方は対極に位置する。話し合いなどで折り合いが付くはずはないわ」


 「……私には、そうは思えません。目指す先が一緒なら、きっと分かり合えるはずです」


 刺す様に鋭い曹操の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、関羽の背中越しに自分の信念をぶつける。それ以降は黙ったまま、両者の視線だけが絡まる。強烈な緊張感に支配された2人の周囲からは風のそよぐ音さえも消えている。関羽ですら一言も言葉を発せず、身じろぎ1つ出来ない状況だった。


 どれ程の間そうしていたのか、不意に曹操の口元が緩んだ。


 「ふふっ、貴方も大概頑固ね。もし貴方が、自分の信念を貫き通したい、と言うのなら、簡単な事よ。私を否定してみなさい。もちろん、私のやり方でね」


 「……つまり、力で、戦争で曹操さんに勝て。そういう事ですか?」


 「ええ、そうよ。私が負けるという事は、私が間違っている事の証。そうなれば、貴方の声に耳を貸してあげてもいいわ」


 桃香は唇を噛んだ。戦いをやめたくて話し合いを望んだにもかかわらず、話し合いをするためには戦わなくてはならない。明らかに矛盾していた。それでも、


 「分かりました。私は曹操さんと戦います。戦って、勝って、自分の理想を叶えてみせます」


 と、決意を口にした。


 曹操からは変わっていないと言われたが、実際には、桃香は少なからず成長していた。村を出たばかりの頃は、理想を声高に叫んでいればいつか叶う。そんな風に思っていた。


 しかし、今は違う。理想とは、自ら叶えるものだとはっきり自覚している。そして、理想を叶えるためには少なくない対価を支払わなければならない事も分かっている。


 戦いたくはない。それでも、戦った先にしか自分の思い描く平和な国がないと分かれば、桃香には迷いはなかった。


 「行こう、愛紗ちゃん」


 関羽の背中に声を掛けると、返事を待たずに踵を返した。関羽がそれに倣おうとした時、曹操軍の中から少女が1人飛び出したのが視界の端に映った。とっさに構えを取り直すものの、少女が丸腰であると分かり、少し緊張を緩めた。


 関羽は曹操と少女を視界に納めたまま、桃香を背にじりじりと後退を始める。その頃には、翠と鈴々も2人の側に駆け寄ってきており、桃香を囲んで守る体制を取っていた。


 少女は曹操の跨る馬の脇で止まり、身を屈めた彼女に何やら耳打ちをしている。すると、曹操の顔がにやりと歪んだ。その表情に、桃香達は一様に嫌な予感を感じ、それは的中する事となった。


 「せっかくの決意表明のすぐ後で残念なのだけれど、貴方が理想を実現する機会はなくなったわ」


 曹操が右手を上げる。すると、曹操軍の兵士は統率の取れた動きを見せ、横に大きく展開していた部隊が縦列隊形を取ったいくつかの集団にまとまっていく。各集団の間には大きな空隙が生まれ、そこから新たな一団が次々と顔を出してくる。彼等は皆、取り分け屈強な兵達だった。10人程で一まとめとなり、それぞれが大きな丸太を引きずっていた。


 「なっ……! 奴等、あれで橋を作るつもりか!?」


 関羽が驚きの声を上げた。その言葉通り、丸太は川岸まで運ばれた後、他の兵の協力も受けて地面に立たされた。丸太の長さは、川に渡すのに十分であると一目で分かるほどだった。


 「ど、どうするのだ、桃香お姉ちゃん、愛紗~」


 鈴々がおろおろしながら2人の義姉に尋ねた。しかし、2人にもよい答えは浮かばず、ただ曹操軍の動きを見ている事しか出来なかった。


 このまま丸太で橋を架けられれば、長坂橋を押さえていても渡河されてしまう。かといって、何10本もの丸太を一遍に渡されるのを防ぐ術はない。


 丸太を渡されても、数本分をまとめて固定するまでは大軍に通過される事はない。それまでの間に後退するしかないが、長坂橋を放棄すれば、今度はここから雪崩れ込まれる事になってしまう。桃香を逃がすためには誰かが殿を務めなければならないが、その者の生還できる可能性は限りなく低い。


 「愛紗と鈴々は桃香様を連れて逃げろ! ここはあたしが引き受ける!」


 叫ぶと同時に、翠は3人の前に出る。


 「翠ちゃん!?」


 「悪いな、桃香様。やっぱりあたしは母様の敵討ちを諦められない。ここを逃せば、もう奴を討つ機会がないかもしれないんだ。あたしはここに残る!」


 母の敵を討つ。未だにその思いを強く抱く翠にとって、今の危機的状況は好機でもあった。桃香が舌戦をする、という事で手を出すのを抑えてはいたが、もう我慢する必要もない。曹操さえ討てれば、そのまま討ち死にしても構わないとさえ思っていた。


 そんな翠の覚悟も打ち砕くべく、曹操が命令を発する。


 「橋を架けろ! 我等の勝利は目前だ! 総員、気力を振り絞って奮闘せよ!」


 曹操軍から大きな鬨の声が上がった。その声に負けない程の轟音が響き、大地が小さく揺れる。


 何度も何度も、繰り返し発生する轟音と地響き。その中に、別の音が混ざり始める。


 何かが勢いよく崖を転がり落ちる音。そこに、大きな何かが水に落ちる音が続いた。さらには、人の発する悲鳴や苦悶の声。


 一体何事が起こったのかと、桃香達は曹操軍の方へと目を遣る。そこには、川を飛び越えて降り注ぐ無数の矢に蜂の巣にされ、大混乱に陥った敵兵の姿があった。


 援軍が間に合うはずもない。どういう事か、桃香が曹操軍と同じくらい混乱した頭で状況を把握しようとしていると、何者かの声が背後から聞こえてきた。


 「ふふっ、久しぶりよね、曹操、劉備」


 驚きに包まれたままで振り返ると、そこには桜の花びらの様な淡い色の髪をなびかせた女性の姿があった。


 「そ、孫策さん!?」


 予想もしていなかった人物の登場に、桃香は思わずすっとんきょうな声を上げた。あんぐりと口を開いている桃香に、孫策はひらひらと手を振り、微笑みながら歩み寄る。そのまま、彼女は何も言わずに桃香の脇を通り抜けた。さらには他の3人の間も抜け、曹操と真正面から対峙。苦虫を噛み潰した様な表情の曹操に対し、孫策は余裕の笑みを浮かべていた。


 気が付けば、曹操軍に降り注いでいた矢の雨は止んでいた。


 「なぜ、貴方がここに?」


 「あら、曲がりなりにもこの国の丞相ともあろう者が、私がここにきた理由も分からないの?」


 明らかに挑発と分かる孫策の発言に、曹操の顔がさらに歪んだ。それを見た孫策は満足そうだった。


 不意に、孫策が体ごとくるりと振り返った。桃香を正面に捉え、じっと見詰める。


 「ねぇ、劉備。私と同盟を結ばない?」


 あまりにも軽い調子で切り出された話に、桃香の目は点になった。桃香だけではない。翠や関羽も同様だ。

そのまま目をしばたたいた後、


 「……は、はい! もちろんです!」


 と、桃香は大声で返事をした。


 これからの両者の運命を担う重要な同盟は、こうしてあっさりと締結された。が、それに苦言を呈する人物が現れる。


 「私達のこれからを決める事になる、大事な同盟だぞ。そんなに簡単に決めてくれるな」


 規則正しいリズムの足音と共に、周瑜が橋を渡ってくる。


 「いいじゃない。お互い、同盟を結ぶ事を考えていたんだし。もっとも、そうしないと曹操に対抗出来ない、ってのが本当のところだけど。ねぇ?」


 笑顔で返す孫策に対し、周瑜は眉間にしわを寄せて大きくため息を吐いた。話を振られた桃香は愛想笑いをするしかない。尚も続く周瑜の諫言を聞いていると、私と愛紗ちゃんみたい、と感じ、少しくすぐったくなった。


 孫策は周瑜を適当にあしらうと、再び曹操へと向き直った。


 「という訳なんだけど、どうする? もし、貴方がここで一戦交えたいと言うのなら、付き合ってあげるわよ? こっちとしては徐州での借りもあるし。もっとも、その今にも瓦解しそうな兵で戦う気があるのなら、だけどね」


 自信たっぷりの表情で曹操、そして曹操軍の兵達を見遣る。彼女の視線だけで、部隊の一部に動揺が走っていた。


 孫策が言った通り、曹操軍の士気は最低にまで落ちていた。ちょっとしたきっかけで、いつ壊走を始めてもおかしくないほどだ。鈴々と翠、猛将とはいえ、たった2人に行く手を阻まれ、桃香を舌戦で打ち負かす事も出来ず、最後の気力を振り絞らせた直後に現れた援軍から逆襲を受ける。曹操軍の士気は、短時間の内にあまりにも激しく乱高下し過ぎていた。


 「いいでしょう。貴方達の同盟締結のお祝いに、この場は引いてあげるわ」


 それまでしかめっ面をしていた曹操はふっと息を吐き、表情を緩めた。


 「でも、覚えておきなさい。次に会う時が貴方達の最後よ。首を洗って待っておく事ね」


 孫策と桃香を順番に見遣った後、曹操は馬首を返した。


 もうしばらくすれば、後発の部隊が到着するはずであった。だが、今の状況で戦闘になった場合、その来着まで戦線を維持出来る自信が曹操にはなかった。仮に持ちこたえたとしても、かなりの損害を被る事になる。桃香と孫策を討ち取る好機ではあったが、無理をすべきではないと判断し、曹操は後退を決めた。


 「ふん。勝ち目が薄いから撤退するくせに、偉そうな口をきいてくれるわ」


 負けを認めなかった事が面白くないのか、小さくなっていく曹操の背中に向かい、孫策が吐き捨てる様に言った。


 曹操軍がその場から姿を消すと、桃香達は長坂橋を落とし、後退を開始する。こうして桃香達は絶体絶命の危機を乗り越えると共に、荊州へと進出した目的の1つである孫策との同盟も果たす事に成功したのだった。

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