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第6章-荊州編・第3話~強襲~

 劉備達が逃げ出したその日の内に、曹操軍は襄陽へと到着した。自ら軍を率いてきた曹操は城内には入らず、劉宗とその主だった配下に城門の外で面会した。


 「そう。劉備を初めとして、全員を取り逃がしたのね」


 「め、面目次第もございません」


 曹操は腕を組み、不機嫌そうな表情で蔡瑁を見下ろしていた。その体から放たれる威圧感に、蔡瑁はすっかり縮こまっている。


 しかし、不機嫌そうに見せているだけで内心は違う。劉備を自らの手で討ってこそ、覇道を成すに相応しい。劉備がここで捕らえられていない事に、曹操は満足していた。


 「ですが、劉備めを捕らえるべく、すでに手は打ってあります。曹操様には、じきに吉報をお届け出来るものと確信しております」


 蔡瑁の言葉には、そう、とだけ呟く様に返した。自らの手で討つ事を考えていても、荊州軍が兵を出すのを止める必要はなかった。利用出来るものは何でも利用する。


 もちろん、荊州軍だけに任せるつもりはない。


 「稟、我が軍はどうなのかしら」


 脇に控えた郭嘉に確認する。


 「はっ。すでに一部の部隊を劉備追撃の任務に就かせ、先行させています。後詰めの部隊の編成は風と閻行殿に任せてあり、あと半刻程で本隊の一部は先遣隊として出撃可能です」


 「さすがによく分かっているわね、稟。兵は最低限で構わないから、編成を急がせなさい」


 今の曹操軍にとっては、何よりも時間が惜しい。大した兵力を持たない桃香を討つのに大軍はいらない。ただ、取り逃がす事のない様に急いで発つだけでよかった。


 「桂花!」


 続いて荀或を呼ぶ。立ち去った郭嘉と入れ替わる様に、彼女は曹操の脇に立った。


 「荊州の占領地政策は貴方に一任するわ。頼むわね、桂花」


 「はいっ! 必ずや、華琳様の望まれる通りに」


 かすかに微笑んだ曹操から声を掛けられると、荀或は嬉しそうに返事をした。まるで、飼い主に褒められて喜ぶ犬の様だ。


 曹操が軍事面で最も信頼している人物が郭嘉ならば、内政面で最も頼りにしているのは荀或であった。狭量で偏見持ちと、人格には難のある荀或ではあるが、その能力はかなり高い。人間性の問題点を差し引いても、曹操が傍に置いておきたいと思った程である。特に後方支援に関しては、曹操軍の中でも飛び抜けていた。


 「お、お待ちください、曹操様」


 指示も終わり、その場を後にしようとした曹操を呼び止める人物があった。曹操は振り返り一瞥する。

彼女の放つ威圧感に、声を掛けた女性――蔡夫人は背筋が寒くなるのを覚えた。それでも、意を決して言葉を続ける。


 「劉宗の母にございます。我が子には、一体どの様な官職を頂けるのかお尋ねしたく……」


 子を思う一心で、恐怖に近いものを感じながらも蔡夫人は勇気を振り絞った。が、曹操の答えはそんな母の思いを粉々に打ち砕くものだった。


 「そうだったわね。私とした事が、すっかり失念していたわ。荊州の牧には代理の者を派遣する。劉宗はしばらくの間、籠っていなさい」


 「は……? それは、どういう……」


 「あんた、分からないの? 劉宗から荊州牧の任を取り上げる、って事よ」


 聞き返した蔡夫人に対して答えたのは荀或だった。曹操に向けていたのとは正反対の、まるで汚物でも見るかの様な表情で見下ろしている。


 最低でも、このまま州牧の地位は得られるものと思っていた蔡夫人は、当然食い下がる。


 「荊州牧の任は、父である劉表と兄、劉奇から継いだものです。ましてや、この地を荒らす事なく曹操様に帰順したというのに、あまりにもむごい仕打ちではありませんか」


 必死に訴える蔡夫人の姿は、曹操の目にはひどく醜いものに映った。


 「分かっていない様ね。私はこの国を、生まれや身分に左右されない、実力のある者が正当な評価を受ける事の出来る国に造り変えるの。確かに、劉表は政治家としては有能だった。だが、その息子も有能であるとは限らない。官職が欲しいのなら、己の才を見せよ! そうすれば、才に相応しい官職を与えてあげるわ」


 こう大喝し、その場を後にする曹操。残された蔡夫人はほぞを噛むしかなかった。






 襄陽を脱出した桃香達であったが、待ち伏せと追撃で度重なる襲撃を受けていた。ある者は囮となるために別の道を行き、ある者は追撃を防ぐために後方に残る。こうして散り散りになりながら、何とか逃げ延びる。そして今現在、桃香の側には一刀の姿しかなかった。


 南に向かってひた走る2人は民家を見付け、そこで少し休憩をする事にした。家の周りが荒れていると感じた通り、そこは空き家だった。見た感じだと、人がいなくなってそれ程経っていない様だ。


 近くにある井戸で渇きを癒す。2人が満足したところで家の中から見付けてきた桶に水を移し、2頭の馬にも飲ませてやる。やはり相当喉が渇いていたのだろう。2頭共、桶に鼻っ面を突っ込み、一心不乱に水を飲んでいる。


 一刀はようやく人心地つけた。まだ、敵がどこに潜んでいるか分からない状況ではあるが、水を飲んだ事で張り詰めていたものが緩むのを感じた。


 疲れた体の方もほぐそうと、軽く柔軟を始める。一緒にやろう、と声を掛けようとして、桃香の様子がおかしい事に気付く。


 「どうかしたのか?」


 うつむく桃香にそっと声を掛けた。


 「……ごめんなさい、私のせいで。一刀さんや朱里ちゃんは止めたのに、私が我を通したせいでこんな事に……」


 仲間が散り散りになってしまった今の状況は、桃香にはかなり堪えたらしい。今にも涙をこぼしそうな顔をしている。


 「何を今さら」


 「……そうだよね。今さら、遅いよね……」


 一刀の言葉がきっかけとなり、桃香の目からは涙がこぼれた。


 これに一刀は慌てた。責めるつもりで言ったのではないからだ。落ち込んでいる桃香に対する不用意な発言を詫びつつ、誤解を解くために言葉を発する。


 「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだ。弔問に桃香が行くか行かないか、議論をしていた時があっただろ? あの時に星が、桃香を守ればいいだけだ、って言ったよな。皆、俺も含めて覚悟は決まってたんだ。だから、謝る必要なんてないんだよ」


 「でも、一刀さんはこうなる事を知っていて引き止めてくれていたのに、私はそれを無視して……」


 「……桃香は俺に言ってくれたじゃないか。未来を知ったとしても何も変わらない。ただ、精一杯生きていくだけだって」


 未来からきた事を最初から正直に伝えていれば、琥珀さんは死なずにすんだのかもしれない。そんな後悔の念に苛まれていた一刀の心を癒したのは桃香の言葉だった。だから、それを否定する様な事は桃香の口から聞きたくなかった。


 「こうした方がいい。そう思って精一杯やった結果だろ? 違うのか?」


 うつむいたまま、桃香は首を激しく横に振って否定する。


 「それなら、胸を張ればいいじゃないか。だいたい危険性を説かれたからって、じゃあ別の誰かを代理で派遣します、って言うのは桃香らしくないだろ?」


 「私らしく……?」


 桃香が顔を上げた。


 「危険だと分かっていても仁義を貫く。そういう桃香だからこそ、皆が力を貸してくれているんだ。皆、桃香の理想が叶った国を見てみたい。そう思っているんだ」


 当然、自分以外の他人の考えなど、正確なところは分かるはずがない。だが、一刀自身はそうだった。桃香を励ますべく、皆という言葉を使い、はっきりと言い切る。


 「一刀さんも、そう思ってくれてるの?」


 涙をこぼしたのが気まずいのか、桃香は正面から一刀を見ようとはせず、下から窺う様に見上げている。その様子が可愛くて、思わず冗談が口から出てしまう。


 「俺は……、頼りなくて危なっかしくて放っておけないから、かな」


 もう、と文句を口にすると風船の様に頬を膨らませる。その姿に吹き出してしまった一刀につられ、桃香も声を出して笑った。


 ひとしきり笑いあった後、一刀は真剣な表情へと戻った。


 「わがままだって何だって、桃香には自分の思いや理想を貫いて欲しい。桃香にしか、俺達の行き先を指し示す事は出来ないんだ。俺達に出来るのは、そこに辿り着くための道を切り開く事だけなんだからな」


 「はいっ!」


 歯切れのよい返事をした桃香の顔には、もう迷いや後悔は残っていない。


 「じゃあ、行くか。いつまでものんびりしていると、追い付かれちゃうしな」


 桃香の様子に安心した一刀は馬の方へと歩き出した。桃香もそれに続く。


 暇そうに草を食んでいる馬の首を軽く叩く。もう少し頑張ってくれよ、と声を掛けながら、馬の鞍に手を添える。その時、一刀の目の前を突風が吹き抜けた。


 わずかに遅れて、何かが激しくぶつかった様な衝撃音。そして、恐怖に彩られた女性の悲鳴。


 「きゃあぁーっ!」


 「桃香っ!?」


 反射的にその名を叫び、彼女の方へと振り返る。そこには横倒しになりかけている馬と、その背から弾き飛ばされたらしい桃香の姿があった。


 一刀がどうにか出来る位置ではなかった。鞍から手を離し、桃香に向かって足を踏み出した時には、彼女の体は地面に投げ出されていた。


 横倒しになった桃香の馬を飛び越え、慌てて駆け寄る。


 「大丈夫か、桃香!?」


 地面に横たわっている桃香だが、目は開いていた。目立った外傷もない。


 「……う、うん。何とか……、痛っ!」


 上体を起こそうとして地面についた右手を押さえる。骨が折れている感じはなかったが、それ以上の事は一刀には分からない。恐らくは、投げ出された時に挫いたのだろう。分かるのはその程度だ。


 「他に痛むところはあるか?」


 一刀は桃香の脇にひざまずき、背中を支えて上半身を起こしてやる。


 「後は……、落ちた時に打った、お尻が……」


 少し恥ずかしそうにしながら桃香は答えた。しかし、一刀は真剣な表情を崩さない。


 「悪いけど、しばらくこのままで待っていてくれるか?」


 一刀は返事を待たずに立ち上がる。倒れている馬の方へと近寄り、その体を見下ろした。首の付け根辺りにバスケットボール大の陥没がある。一体、何をどうやったのか見当もつかないが、桃香ごと馬を吹き飛ばして死に至らしめたのはこれだろう。という事は、こんな芸当を出来る者が近くに潜んでいる事になる。


 一刀は馬の体を飛び越えると抜刀した。右手1本で太刀を握り、周囲を窺う。誰一人見当たらない。だが、民家の裏手にある竹林からかすかに人の気配が感じられた。


 体を竹林の方へと向ける。確かに気配は感じたが、やはり人の姿はない。確認に行くべきか、とも考えたものの、桃香の側からあまり離れるのは良くないと思い止まる。


 不意に竹林の枝葉が揺れた。一刀に緊張が走る。


 竹林の中からは、1人の少女が歩み出てきた。銀髪に褐色の肌。顔といい腕といい、露出している肌の至るところに大きな傷痕がある。少女は一刀へ無造作に歩み寄り、5メートル程の距離を開けて止まった。


 「劉備と北郷一刀だな? 私と共に、曹操様の下へきてもらおう」


 曹操軍か。一刀は小さく舌打ちした。本隊はまだの様だが、ぼやぼやしていれば追い付かれてしまう。かといって、馬を倒したのが目の前にいる少女であるなら、すんなり逃げられるはずもない。


 「断る、と言ったら?」


 「その時は、この楽進が力ずくで連れていくだけだ」


 そう言うと、楽進と名乗った少女は構えをとった。


 目の前の楽進を倒し、突破口を開くしかない。一刀も覚悟を決めた。


 楽進の構えを見る限り、彼女は武器を持たない無手の様だった。一刀は左足を前に出すと、両手で柄を握り、切っ先を後方に向けて右腰に太刀を構える。脇構えと呼ばれる構え方だ。


 脇構えでは刀が自分の体の影に入るため、相手からは刀身が見えなくなる。そのため、間合いを測られにくくなる効果があった。


 この構え方を翠達との訓練で使用した事はない。槍が相手では初めから間合いで負けているため、隠す意味がないからだ。それに、何度も立ち合っていれば、自然と間合いは把握される。


 だが、今回は話が別だ。相手が無手なら、刀の方が間合いは長い。しかも、初めて刃を交える相手である。間合いの優位を最大限に活かす事が出来る。


 一刀は脇構えのまま、摺り足でじりじりと間合いを詰める。楽進も、さすがに不用意に距離を縮める事はせず、同じ様に摺り足で少しずつ前に出る。


 やりづらそうに、楽進は何度か飛び込む様な仕草を牽制として見せている。一刀もわずかに反応はするが、太刀は決して振らない。振れば間合いを測られる。振る時は、一撃で決める必要がある。確実と言える状況になるまで、おいそれと仕掛ける訳にはいかなかった。


 刀身を隠しているとはいえ、目に触れさせたせいか、楽進は間合いの外で前進を止めた。一刀の間合いまで、後2歩。そこから1歩、さらに内に入る事が叶えば、一撃で仕留める自信がある。


 じり、と左足をわずかに前に出す。気取られない様、それまでと同じ動きを意識しながら。それでも楽進は何かを感じ取ったのか、一刀が前に出た分だけ後ろ足を引いた。


 夏の残り香を含む風が緩やかに吹き抜ける荒野に、2人の大地を踏む音だけが響いている。両者の間では、静かだが激しいせめぎ合いが行われていた。


 膠着した状態に、先に痺れを切らせたのは一刀だった。本来なら、今すぐにでもこの場を離れたい。このまま、いつまでも睨み合いを続けている訳にはいかないのだ。


 左足を1歩、前に踏み出す。足を前に出しただけのフェイントだが楽進は大きく後ろに跳び、一刀が詰めた分以上の距離を空ける。


 一旦、仕切り直しだ。両者共に構え直し、再度間合いを詰め始める。さっきよりも1歩分だけ楽進は内に入ってきた。だが、それ以上近付く事はしない。一刀が前に出れば後ろに下がり、一刀が下がれば前に出て、一定の距離を保ち続ける。そして、一刀が再びフェイントを見せれば、楽進ももう一度、後方へと跳んで距離を取る。


 が、そこからは1度目と違っていた。後方へと跳んだ楽進は着地と同時に大地を蹴り、弾丸の様な勢いで一刀へと突進する。


 一刀の顔に焦りや驚きの色は見えない。遠間から突っ込んでくる可能性は頭の中にあった。後は、タイミングを合わせて迎撃するだけだ。足を踏ん張り腰を回す。少し遅れて肩が始動。太刀が走り出す。


 楽進が左手を顔の高さにまで上げた。籠手は装備しているが、そんな物で防げるはずはない。腕を切り飛ばし、切っ先で喉笛を裂く。一刀は一切のためらいもなく太刀を振り抜きにいった。


 鈍い金属音が一刀の耳に響く。同時に、手には強い衝撃が走る。思わず柄から手を離しそうになる。


 一刀の振るった太刀は楽進の左腕を切り飛ばすどころか、逆に弾き返されていた。まったく予測もしていない事態だが、それに驚いている暇はない。楽進の右拳が一刀の顔面目掛け繰り出される。


 「くっ!」


 腰を落として何とかかわす。風圧で前髪が揺れた。腰砕けになりながらも、そのまま数歩後ろに下がって距離を取った。


 わずかに体勢の崩れていた楽進は追撃してこない。助かったと思いつつ、一刀は構えを直して楽進を見た。そうして、わずか数秒前の事を思い出す。


 確かに楽進の腕に当たった。それは間違いない。実際、手には痺れが残っている。だが、さっきの衝撃は、まるで岩でも斬りつけたかの様だ。すでに数え切れない程の人を斬ってきた一刀にも初めての事だった。


 楽進は左手の握力を確かめる様に数回握った後、おもむろに籠手を外した。その様子に、一刀の中に動揺が走る。真っ二つに斬られた籠手。だが、その下の腕には傷がない。わずかに赤くなっているのが見て取れる程度だ。つまり、一刀が全力で振るった太刀を、籠手ではなく体で受け止めた事になる。


 「今度はこちらの番だ」


 楽進は再び大地を蹴った。先程と同様、一気に距離を詰め、拳を連続で放つ。その攻撃に一刀は防戦一方となった。もちろん、回転の速い楽進の攻撃は捌くだけでも大変ではあった。それ以上に、刀を弾き返された事実が一刀から攻撃意欲を奪っていた。


 「ぐっ……!」


 腹部を狙ってきた楽進の右拳を左腕で防ぐ。それに合わせて後ろに跳び、一刀は距離を離した。楽進は追撃してこない。見れば、彼女の肩は上下に揺れている。一方的に攻撃を続けて乱れた呼吸を整えているのだ。


 一刀にとって、この間はありがたかった。混乱している頭の中を整理する。


 攻撃が効かなかったのは間違いない。筋肉を鍛えて刀を弾ける様になるとは思えないが、事実、楽進の体には傷1つない。ならばどうするか。彼の中でイメージは出来上がった。


 三度、楽進が距離を詰めてくる。顔面を狙ってくる右拳を身を屈めてかわす。そこへ、今度は左拳が迫る。一刀は太刀を持つ右腕でその攻撃を防いだ。衝撃で太刀が手からこぼれる。好機と見た楽進は右手を大きく振りかぶる。


 だが、一刀の狙い通りだった。繰り出された拳をかわしながら、左手で手首の辺りをつかむ。そのままくるりと反転し、柔道の一本背負いの要領で楽進の体を担ぎ上げた。腕を強く引き、楽進を頭から地面に落としにいった。


 「……っ!」


 一刀の背中からわずかに唸る声が聞こえた。落下寸前に左手を突かれたせいで、楽進を頭から落とす事は叶わない。だが、彼の狙いはまだ終わりではなかった。


 自分の体を預ける様にして、楽進の体を大地の上にたたき付ける。そのままの勢いで前転して上体を起こすと、振り向きざまに右拳を振り上げた。


 どれだけ筋肉の鎧をまとっても、守る事の出来ない箇所が人間の体にはいくつかある。のどや下腹部、男性の場合であれば股間もそうだ。その中から一刀が狙いを付けたのは眼球だった。拳ではなく、親指で突きにいく。


 しかし、狙い通りに眼球を捉える事は出来ない。直前で腕を払われ、爪がまなじりの脇を裂くにとどまった。そのままの勢いで大地を殴った一刀の体は巴投げの要領で投げ飛ばされ、逆に背中を強かに打ち付ける事となった。一瞬、呼吸が止まるが、それに構ってはいられない。片膝をついて起き上がりながら振り返り、脇差を抜く。その視線の先で、楽進もゆっくりと立ち上がる。


 「……どうやら、貴様を侮っていた」


 楽進は右手の親指で目尻の血を弾く様に拭うと、その手を腰の右側へ持っていく。足を大きく開いて腰を落とし、まぶたを閉じる。ゆっくり、大きく息を吐く動作が一刀からも見て取れた。


 まずい。直感でそう感じた。


 一刀がこの世界に来て一番大きく成長したのは、危険を察知する能力かもしれない。幾多の戦場を潜り抜け、自分よりも圧倒的に強い者と戦ううち、本人も気付かないところで自然と磨かれていったものだ。それが今、激しく警鐘を鳴らしている。


 自分の直感を信じ、一刀は駆け出した。ともかく距離を詰めなければ。何がどうなるのかも分からないが、それだけを考えて楽進へと迫る。


 「はあぁっ!」


 だが、楽進の方が早い。一刀が肉迫するよりも先に、腰にためていた拳を気合と共に前方へと突き出した。


 両者の距離は、未だ2メートル近くある。到底、拳が届く距離ではない。そのはずだが、しかし、一刀の体は後方へと大きく吹き飛ばされる。砂埃を巻き上げながら、赤茶けた大地の上を数回跳ねて転がる。


 吹き抜ける風がもうもうと立ち上る砂埃を晴らすと、大地に力なく横たわる一刀の姿があった。


 拳を突き出した体勢のまま、しばらく肩で息をしていた楽進は構えを解くとゆっくりと歩き出した。勝利を確信しているのか、その足取りに警戒心は見られない。真っ直ぐに一刀へと近付いていく。


 「一刀さんっ!」


 桃香の悲鳴にも似た声が響いた。その声に反応する様に、一刀の指がぴくりと動く。


 「……くそっ。何なんだよ、一体……」


 大地に顔を付けたまま、搾り出す様に呟いた。


 楽進が拳を前に突き出した瞬間、まるで巨大なハンマーか何かで殴られた様な衝撃を受けた。予想もしていなかった事に何の対処も出来ず、ただ吹き飛ばされるだけだった。


 これか、と思う。どういった原理なのかは分からないが、この一撃が桃香の馬を死に至らしめたのだ、と。自分が生きているのは運がよかったのか、それとも、手加減をされたのか。


 だが、それはどちらでもよかった。体中の骨がばらばらにされたかの様ではあった。それでも体は動く。なら、やるべき事はただ1つ。鉛の様に重い体に鞭を打ち、一刀は立ち上がった。


 楽進はその顔に驚きの色を浮かべて足を止めた。


 「貴様では勝ち目はない。それでも、まだやるつもりか?」


 「……当然だろ。主君を見捨てる様な真似が出来るか」


 自ら手放した太刀はもちろん、脇差さえもさっきの衝撃によって彼の手からこぼれている。満身創痍で武器もない、まさに絶体絶命の状況。だが、一刀はまだあきらめてはいなかった。


 楽進はわずかに顔を曇らせた後、両手を上げて構えを取った。


 「なら、この一撃で決める」


 射貫く様な眼で一刀を睨み、楽進は大地を蹴った。その速度は先程までよりもかなり遅い。それでも、今の一刀は立っているのがやっとの状態だ。自分の顔面に向かって伸びてくる楽進の拳を見ている事しか出来ない。


 『もう駄目!』


 桃香は直視出来ずに顔を伏せる。


 その時、一刀まで拳3つ分くらいの位置にまで迫っていた右腕を止め、楽進は後ろへと飛びずさった。直後、一刀の目の前を何かが風を切り裂いて飛んでいった。さらに、後転とびの連続で離れていく楽進を追う様に、その何かは次々と一刀の視界を横切っていく。


 一刀は顔を右に向ける。視線の先には矢が落ちている。それを確認すると、今度は左へと顔を振った。1騎の騎兵が自分の方へと駆けてきている。


 「翠ちゃん!」


 一刀の後ろから桃香の嬉しそうな声が聞こえた。栗色の長い髪をなびかせて疾駆するのは、確かに翠の姿だった。


 「一刀、大丈夫かっ!?」


 翠は己の跨がる黄鵬を一刀の前で止めた。1度、楽進を牽制する様に睨んだ後、黄鵬の背から飛び降りる。


 「遅いぞ、翠」


 「仕方がないだろ。あたしだって、全力で……。お、おい、一刀!?」


 文句を言う一刀に対し、翠も反論する。その途中、急にふらついた一刀の体を、翠は慌てて抱き止めた。不安な表情を隠す事もなく、一刀の耳元で彼の名を叫ぶ。


 「翠の顔を見たら、安心して力が抜けただけだ。大丈夫だから、耳元でそんな大声出すな」


 翠から離れ、微笑んでみせる。翠の心配そうな表情は変わらない。


 「それから、さっきのは嘘だ。ありがとう、助かったよ。……後は頼む」


 そう言うと、一刀は踵を返した。翠にいらぬ心配をかけない様、しっかりと大地を踏みしめながらゆっくりと歩を進める。


 その背中をしばらく眺めてから翠も振り返った。すでに楽進は戦闘体勢に入っていた。翠も構えをとりつつ、怒気を孕んだ声を発する。


 「言っとくけど、今のあたしに加減なんか出来ないからな!」


 叫ぶと同時に腰を落とし飛び出す。一足飛びに楽進へと肉薄すると、槍を激しく突き出す。その攻撃は翠から見て左、背中側へと回り込まれながらかわされた。


 楽進の右腕を引く動きが視界の端に入る。右足を前に出すと同時に左足を引き、回転しながら繰り出された拳をかわす。そのままの勢いで回転を続け、楽進の胴を薙ぎ払いにいく。籠手すらしていない左腕で防ごうとする姿に、翠は勝利を確信した。


 ついさっき一刀が放った初撃と同じ、金属音に似た鈍い轟音が辺りに響いた。


 一刀の太刀と同様、翠の槍は弾かれている。だが、一刀の時とは違い、楽進の体も弾かれていた。そのまま後退し、楽進は翠との距離を取った。


 「さすがに、我が軍を1人で抜いただけの事はある」


 呟く様に言うと、足を大きく開いて腰を落とし、右拳を腰に付ける。


 その構えを見て、一刀は翠に向けて警告しようと思ったが、彼女の表情を見て止めた。一瞬、驚いた顔をしたものの、今は薄く笑っている。心配はいらない、と思えた。


 「なるほどな。そういう事か」


 一刀の耳にも届かない様な小さな声で言うと、翠は普段通りの構えをとる。彼女の顔からは、すでに笑みは消えていた。


 「はあぁっ!」


 楽進は右拳を突き出す。


 「ふんっ!」


 わずかに遅れ、翠も槍を振るった。何もない空間を薙いだはずが、何かを激しくたたいた様な音が響く。直後、翠の左側の大地がえぐれた。


 肩を忙しなく上下させながら唇を噛む楽進。対して翠はニヤリと笑い、槍を肩に担ぐ。


 「大したもんだ、ここまで氣を操れるなんてな。けど、あれだけの時間があれば、防ぐくらいあたしにだって出来るんだよ」


 自慢気に言うと、担いだ槍を下ろして構えなおす。


 「これで終わりにするぞ!」


 翠は楽進へと駆け寄った。


 楽進が一刀や翠の刃を生身で弾く事が出来たのも、手を触れる事もなく一刀に打撃を加える事が出来たのも、全ては彼女が操る氣によるものだった。身体能力の強化など、その有用性は高い。だが、万能ではなかった。氣を扱うためには体力を消耗する。特に、氣を弾丸の様に打ち出すのは、1回だけでも相当体に負担がかかる。それを、楽進は短時間の内に3回も行っているのだ。すでに体力は限界にきていた。


 翠の攻撃をかわす事は出来ない。氣で体を硬化させて、正面から防御しかなかった。


 その行動は翠の予想の範疇だった。槍を手の中で滑らせて柄尻をつかむ。そして、刃ではなくその付け根辺りで楽進の体を打ち付け、そのまま全力で振り抜く。まるで野球のボールの様に楽進の体は数メートル吹き飛び、大地の上を転がった。


 確かに体を硬化させる事で刃を通らなくする事は出来る。だが、力や衝撃の全てを無効化出来る訳ではない。力で負ければ、今回の様に痛手を負う事になるのである。


 楽進はゆっくりと起き上がった。その体はすでにぼろぼろ。だが、目は死んでいない。


 まだ油断は出来ないと、翠は気を引き締め直す。


 「凪ちゃん!」


 「凪、ここにおったんか!」


 急に2つの声が響いた。楽進の背後の木立から、2人の少女が姿を現す。その内の1人、胸の大きい方には翠も見覚えがあった。


 長安を曹操軍と合同で攻めた時に会った、確か李典といったか。しかし、もう1人、眼鏡を掛けた少女の方には見覚えはなかった。


 眼鏡を掛けた少女の名は于禁。元々、同じ村の出身だった3人は、曹操に仕えた後も3人一緒の任務を言い渡される事が多かった。今回も劉備追撃の任を受け、3人揃って本隊より先行していたのだった。


 「馬超がおんのかい。こりゃあ、かなり厳しいな」


 翠の姿を確認した李典は、その大きな槍を構えて楽進の前に出る。それに于禁も続く。


 「……何をしている、真桜、沙和。早く後退しろ」


 「後退するなら凪ちゃんも一緒なの」


 「せや、凪1人を置いて行ける訳ないやろ」


 楽進の言葉に、于禁と李典は翠を見据えたままで反論した。しかし、楽進にはこのまま2人を戦わせる訳にはいかなかった。自分よりも武で劣る2人では、馬超には到底及ばない。それが分かっていたからだ。そして、何としても後退しなければならない理由もあった。


 「あれを見ろ。劉備と北郷だ。2人がここにいる事を、沙和達が華琳様にお伝えしてくれ」


 この場で2人を捕らえられれば最良だったが、それが不可能になった以上、曹操への報告だけはしなければならない。


 「何をこそこそ言ってるんだか知らないけど、あたしは誰1人逃がす気はない!」


 でも、と問答を始めようとする于禁の言葉をさえぎる様に、翠の鋭い声が飛んだ。槍を構え、そのまま楽進達へと迫る。


 「逃げろ、2人共!」


 「何言うとんねん! 逃げるんなら3人一緒や! 沙和!」


 「応なの!」


 前に出ようとした楽進を于禁が押し止める。2人を守る様に、李典は翠との間にその身を置く。


 「回れ、螺旋槍!」


 李典の持つ、西洋のランスに近い形状をした槍が唸りを上げて回転を始めた。その回転している槍を大きく振り上げる。


 「そんなハッタリであたしがビビるかっ!」


 「アホォ! 狙いはお前やないわ!」


 突進の速度を落とさない翠に対し、李典も怯む様子を見せない。大きな胸を揺らしながら、振り上げた槍を目の前の大地へ突き立てる。物凄い速度で螺旋状に回転する槍はまるで削岩機の様だ。けたたましい音を上げながら地面を削り、周囲に小石や泥を撒き散らす。


 さながら、弾幕の様になったところへ翠は全速力で突っ込んだのだ。思わず顔を背け、足も止まる。


 「よっしゃ、今のうちに逃げるで!」


 石つぶての弾幕の向こうから、かすかにそんな声が聞こえた。だが、翠は動く事が出来ない。弾幕と轟音が止み、煙幕の様に視界をおおっていた土煙が晴れた時には、すでに3人の姿はなかった。


 時間から考えて、まだ遠くには行っていないはずだ。追いかければ討つ事も可能だろう。そう思ったものの、翠は槍を下ろした。今、第一に考えなければならないのは、桃香を守り切る事だ。決して敵を討つ事ではない。


 翠は一刀の方へと小走りで戻っていった。


 「桃香様は大丈夫みたいだな」


 立ち上がった桃香を見て、翠は感じたままを口にした。事実、桃香は腕を挫いた程度で怪我らしい怪我をしていない。


 「早く逃げろ。すぐに追手がくるはずだ」


 無事な事に安堵する翠に比べ、一刀の表情は固いままだ。未だ危険な状況下に置かれているとはいえ、最大の危機は脱したのだ。少しは労いの言葉も掛けて欲しかった翠だが、すぐにその理由を知る事になる。


 「そうだな、じゃあ……」


 不満を面には出さず、辺りを見回した翠はある事に気付く。馬がいない。


 傍らで桃香の馬が地に伏せているのは視界に入っている。もう1頭、一刀が乗っていたはずの馬がいなかった。驚いて一刀へと向き直る。


 一刀はほんのわずかに微笑んでいた。寂しさを孕んでいる様にも見えるその表情のまま、彼は黙ってうなずいた。


 翠の眉根にしわが寄った。不安とも悲しみともつかない顔を見せる。瞑目し、口に出したい個人的な思いを捨てる様に、深く息を吐いた。


 目を開けると同時に一刀に背を向ける。


 「行くぞ、桃香様」


 桃香の背中を押し、強引に歩かせる。


 「で、でも、一刀さんはどうするの?」


 「……いくら黄鵬でも、3人乗るのは無理だ。桃香様は無事に逃がさなきゃならないし、一刀じゃ黄鵬に乗れない。あたしと桃香様で行くしかないんだ」


 翠の声には無念さがにじみ出ていた。こうするしかない、分かってくれ。そう言われている様だった。その言葉に、桃香は改めて自分の甘さを思い知らされた。


 『翠ちゃんも一刀さんも、私を守るために精一杯やってくれている。本当は一刀さんを助けたいのに、自我を押し殺してまで……。それなのに、私は……』


 桃香は唇を強く噛んだ。形のよい、薄い桃色の唇に赤みが増す。


 「行こう、翠ちゃん」


 力強い口調で言うと、桃香は自ら率先して歩き出した。一刀を振り返る事はしない。


 黄鵬の脇に立つと、体を持ち上げるべく鞍に手をかける。挫いた腕の痛みで顔が歪むが、構わず力を込めた。


 『これくらいの事で、泣き言なんて言っていられない』


 続いて翠も黄鵬の背に跨がる。以前、一刀にした様に、自分の体の前に桃香の体を置いた。


 翠は少し遠い位置にいる一刀を見る。


 「桃香様を安全な場所まで連れて行ったら、すぐに戻ってくる。だから……」


 「分かってる。そんなに心配そうな顔をするなよ」


 一刀はニカッと笑った。それが自分を勇気づけるための強がりだと透けて見え、翠は涙が溢れそうになった。


 だが、泣く訳にはいかない。一刀の思いに応えるため、翠も必死に笑った。


 「じゃあな、一刀。……行けっ、黄鵬!」


 ぼろぼろの状態の一刀が、たった1人で曹操軍の追撃をかわせるとは思えない。それでもわずかな可能性を信じて馬を走らせる事しか、今の翠に出来る事はなかった。

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