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第6章-荊州編・第2話~争乱の序曲~

 関羽と雛里、一刀の3人は援軍として兵一万を率い、江陵を訪れた。


 劉表軍の守備兵に案内されながら、一刀は隣を歩く雛里の様子を窺った。武陵を発った時から、なんだか少しおかしい気がしていた。何かに怯えている様な感じだ。いつもおどおどしている事が多いのは確かだが、それでも普段とは違う様に見えていた。


 「どうかした?」


 「い、いえっ。何でもないでしゅ」


 そうは言っても、落ち着いていないのは明らかだ。


 まあ、人見知りが激しいせいだろうな。そう考え、一刀はそれ以上気にするのを止めた。


 案内されるままに城壁の上へと続く長い階段を上がる。一刀や関羽はともかく、雛里は少し苦しそうだ。


 階段を上り切ると一気に視界が開けた。吹き抜ける風がうっすらと汗を掻いた体に心地よさを与えた。


 「文聘様、劉備軍の方々をお連れしました」


 机を囲う様にいくつかの椅子が置かれている。その中の1つに女性が腰かけていた。ここまで案内をしてくれた兵は女性の前で姿勢を正した。


 「ご苦労。通常任務に戻れ」


 文聘と呼ばれた女性に言われると、兵は1つ礼をして立ち去っていく。よく訓練されているのがそれだけで分かった。


 「よくきてくれたねぇ。私がこの江陵を任されている文聘だ。よろしく頼むよ」


 ゆっくりと立ち上がった文聘に、一刀も関羽もぎょっとした。


 歳の感じは30代半ばといったところ。筋肉質で、女丈夫と呼ぶに相応しい体つきをしている。そして、何より目を引くのがその身長だ。


 劉備軍の女性の中で最も背が高い魏延でさえ、一刀とほぼ同じ身長である。だが、目の前にいる文聘は一刀より明らかに高い。


 一刀だけでなく関羽まで無意識のうちに気圧されていた。文聘が1歩前に出ると、2人は揃って足を1歩下げてしまう。


 「やだねぇ、取って食いやしないよ」


 2人が見せた様な反応に慣れているのか、文聘はカラカラと笑う。一刀達は気まずさに苦笑いを浮かべるしかなかった。


 「ん? そこにいるのは鳳統ちゃんかい?」


 一刀の背中に隠れる様にしていた雛里の体かビクッと揺れた。返事はせず、ただ一刀の服の裾をギュッとつかんだ。


 「やっぱり鳳統ちゃんだ。しかしまあ、大きくなって」


 久しぶりに親戚の子と会ったおばさんみたいだ。大きな体を屈めて雛里へと顔を近付ける文聘を見ながら、一刀はそんな事を思っていた。


 文聘は雛里の脇に手を入れると、事も無げに彼女の体を持ち上げる。そのまま、父親が子供をあやす様に上下に体を揺すり、さらに回転まで始める。嬉しそうな文聘とは対照的に、雛里は恐怖で顔をひきつらせ、声も出せない。


 雛里が何に怯えていたのか、やっと分かった。


 ようやく解放された時には、雛里はふらふらになっていた。一刀が慌てて手を伸ばす。髪はボサボサになり、スカートの裾は捲れ上がっている。普段の雛里であれば急いで直しただろうが、そんな余力も今の彼女にはなかった。


 「……申し訳ない、まだ名乗っておりませんでした。我が名は関羽。義姉、劉玄徳の名代として参りました。それから、こちらは北郷と申します」


 あっけにとられていた関羽は思い出した様に挨拶を始めた。手を合わせ、礼をする関羽に続き、一刀も頭を下げる。


 「失礼ですが、文聘殿は鳳統とどういった関係で?」


 「私が襄陽にいた頃、よく水鏡女学院の学生に武術の稽古をつけに行っていてね」


 少し懐かしそうな顔を見せる。武骨な感じではあるものの、雛里へ向けた顔からしても母性の強い女性の様だ。


 「ところで、孫策軍はどこに?」


 「ああ、そうだったね。こっちだよ」


 一刀に言われ、思い出した様に文聘は答えた。城壁の一番外側に立ち、東の方向を指差す。


 「あそこさ。奴等、あの位置に陣を張ったまま動こうとしなくてね」


 文聘が指し示した遥か先に、小さく何か固まりが見えた。言われなければ、それが構築された陣地だとは気付けない。


 「どうやら、雛里の予想した通りだった様だな」


 「どういう事だい?」


 独り言の様に呟いた関羽の言葉は文聘の耳にも届いた。


 「孫策には、本気で江陵を攻めるつもりはなかったはずです。おそらく、我々をここに引き付けるのが目的だったのではないかと。そうしてこちらの荊南制圧が遅れた隙に、自分達が先んじて押さえる作戦だったのではないでしょうか。江夏から出撃した部隊の一部は荊南に向かった、と思われます」


 「あぁ~、そういう事かい」


 しまった、と天を仰ぎ、額をぴしゃりと打つ。どうやら話が見えた様だ。


 「すまなかったね。万が一にもここを失う訳にはいかなくてねぇ。保険を掛けせてもらったのが仇になったかい」


 大きな体を小さく折り、申し訳なさそうな表情を見せる。先程までの豪快な振る舞いからは想像も出来ない様子だ。気の毒になり、一刀は思わずフォローの言葉を口にした。


 「ですが、我々がこちらに援軍を送らなければ、そのまま江陵に攻め寄せた可能性がありましたから」


 あくまで可能性があっただけ。その可能性が限りなく低い事は、軍議の席で雛里が断言していた。


 雛里が孫策軍の江陵侵攻を囮だと断言した理由は2つあった。


 1つは兵数。荊州最大の軍事拠点である江陵に対し、守備兵と同程度の兵力で攻めるのは無理がある。孫策の本拠地である揚州から兵を回す事もしないのは、雛里の目には不自然に映った。もちろん、余程の策が用意してあれば話は別だが、そういった感じは受けなかった。


 もう1つの理由は、現在の各勢力の国力にあった。単独で曹操軍に対抗するのが不可能なのは、劉備軍だけではない。孫策も、劉表も、国力に差がありすぎて正面からは戦えない。それは、ある程度の戦略眼を持っていれば明らかな事だった。


 孫家に仕える軍師、周瑜の名前は、雛里がまだ水鏡女学院にいた頃から幾度となく耳にしていた。そんな人物が、この事実に気が付かないはずがない。こちらと同様、孫策側も同盟は視野に入れているに違いない。雛里はそう踏んでいた。


 今、孫策軍が江陵を攻めれば、劉備軍は劉表軍の援護に回る事になる。これから先の関係を考えればその選択は出来ないはずなのだ。そして、そこまで分かった上で雛里は孫策の思惑に乗った。そうする事で自分達も同じ考えである事を行動で示したのである。






 江陵の遥か東に布陣した孫策軍。陣内のピリピリとした空気とは対照的に、孫策は自分の天幕内ですっかりだらけていた。


 「ねえ~、暇なんだけど~」


 椅子に座り、机に体を突っ伏して足をバタバタさせる。まるで小さな子供の様だ。とてもではないが、兵達に見せられる姿ではない。


 「馬鹿を言うな。今回は、私達が暇でなければ困るのだぞ」


 「だって~……」


 甘える様な声を出しながら頬を膨らませる。駄々っ子と何ら変わりはない。


 孫策軍の目的は、雛里が予想した通りだった。江陵を攻めると見せかけて劉備軍を引き付ける。その隙に荊州南部にある4郡のうち、東側の長沙と桂陽を手に入れる。孫策の妹である孫権と孫尚香はそれぞれ兵を率い、その2郡に対し制圧に向かっていた。


 「見事に冥琳の策通りになったけど、どっちなのかしらね。策に引っ掛かったのか、それとも、引っ掛かってくれたのか」


 「まあ、後者で間違いないだろう」


 周瑜は孫策の突っ伏している机に浅く腰を乗せた。わずかだが楽しそうに微笑む顔に興味を引かれ、孫策は姿勢を直した。


 「やけに自信がありそうね?」


 「劉備のところにいるのは臥龍と鳳雛だぞ? 水鏡女学院の中でも、特に俊才と噂されたあの2人だ。これくらいの事、見抜いてくれるさ。だからこそ、劉備軍は零陵へと兵を出したのだ」


 「荊南は東と西で半分ずつ、っていう訳ね」


 周瑜は机から離れ、腕組みをしたまま歩き出す。難しい顔をしたまま、天幕の中をぐるりと回る。


 「ここまでは予定通り。劉備の真意も今回の件で図れた。問題はこれからだ。劉表の存在が、やはりどうしても邪魔になるな」


 「そんなに心配しなくても、きっと何とかなるわよ」


 真剣な面持ちでぶつぶつ呟く周瑜に向けて、あっけらかんとした孫策の声が飛んだ。足を止め、孫策へと顔を向ける。その表情は楽天的な発言を諫めるものではない。


 「なぁに、雪蓮。また、貴方お得意の勘なの?」


 周瑜はとても柔らかい表情をしていた。口調も大分丸い。孫策軍軍師ではなく、孫策という無二の親友へ向ける顔だった。それに合わせる様に、孫策の表情もさらに緩む。


 「ひとを勘だけの考えなしみたいに言わないでよ」


 「あら、違った?」


 さっきよりも大きく孫策の頬が膨らんだ。クスクスと周瑜の口から笑い声がこぼれた。


 「……遠からず、曹操が南下を始めるわ。そうなれば、嫌でも状況は変わるでしょ」


 「……確かに、曹操が次に狙うとすれば荊州だろうな」


 孫策が真顔になったのを受け、周瑜もその表情を軍師のものへと戻す。


 長江が横たわる揚州や峻険な山々に囲まれた益州と違い、荊州は平地が多い。漢でも有数の大穀倉地帯となった要因なのだが、それだけに攻め込まれた場合、守備側に地の利が薄い。逆から考えれば、揚州や益州よりも攻めやすい事になる。そして、荊州を押さえられてしまえば、劉備軍と孫策軍が連携して曹操軍に当たる事が難しくなる。荊州の地は、誰にとってもこれからの戦略を左右する要衝であった。


 「とりあえず、曹操が動いてくれるまではこのままでしょ」


 孫策のこの言葉は見事に的中する事になる。


 孫権達が長沙と桂陽を落としたと聞くと、孫策は陣をたたんで江夏へと撤退した。当然、江陵への援軍は必要なくなり、一刀達も武陵へと引き揚げた。


 こうして内側に大きな火種を抱えつつも、荊州にはしばらくの間、平穏な時が流れる事となった。





 

 南蛮征伐を終えた桃香や、羌族との交渉を成功させた翠達も武陵へと集結する。どういう形になるにしろ、次の戦いがこの地で起こるのだと誰もが感じていた。


 夏も終わりに近付き、一帯に広がる水田の稲穂はわずかに黄金色へと移ろい始めている。内政に励み、軍備の増強に力を注ぐ彼女達の下に凶報が届いたのはちょうどその頃だった。これが事態を大きく動かす事になると、誰もが感じていた。


 「ですから、危険過ぎます。私達は賛成しかねます」


 「でも、劉表さんにはあれだけお世話になったんだから、私が弔問しないと申し訳が立たないでしょ」


 劉表の死去。その報を長子である劉奇から受け、対応を巡って議論が行われていた。自らが弔問に向かうべきだと主張する桃香に対し、朱里を始めとする軍師陣は猛反対をしていた。劉奇が跡を継いだとはいえ、蔡夫人一派が放逐された訳ではない。


 さらには、一刀が伝えた歴史の件もある。襄陽へと行けば、そのまま長坂破で曹操軍と戦闘をする事になってしまうかもしれない。難民を抱えての遁走にはならないだろうから、それほど危険ではない可能性も高い。だが、桃香の身を危険に晒す事は出来る限り避けたいのだ。


 「その気持ちは分かるけど、弔問に行く以上、護衛の兵は最小限しか付けてやれないのよ。もし本当に一刀の言う通りになったら、ただじゃ済まないわよ」


 「そんなの、鈴々がちょちょいのぷーでやっつけてやるのだ。桃香お姉ちゃんは鈴々が守ってやるから、安心していいのだ」


 桃香の意見を推すのは鈴々や翠、そして星だ。


 「鈴々の言う事はもっともだな。我等が同行し、桃香様をお守りすればよいだけの事であろう?」


 「馬鹿を言うな、星! 何かあってからでは遅いのだぞ」


 「何だ、愛紗。お主、桃香様をお守りする自信がないと言うのか?」


 部屋の中は喧々囂々となっている。それを1歩引いた目で見ながら、結局は桃香を襄陽へ行かせる事になるのだろう、と一刀は感じていた。


 柔和な外見や雰囲気とは裏腹に、桃香がかなりの頑固者である事はすでに分かっている。いくら説得を試みたところで、彼女の考えを覆す事は出来ないだろう。事実、議論は桃香側に押し切られる形となり、どの様に彼女を守るか、という方向に変わっていった。




 弔問へと訪れるのに大勢の兵を伴う訳にはいかない。桃香はわずかに数百騎の護衛を連れ、襄陽へと向かう。数の少なさは質で補うしかなく、武官では関羽に鈴々、星、翠、紫苑が従い、朱里と一刀も同行している。


 鼻歌混じりでお気楽な雰囲気の鈴々や翠とは違い、朱里や一刀の表情は固い。大した保険も掛けられなかった今の状況では無理もなかった。


 そんな中、襄陽に向かう途中で一行は江陵へと立ち寄った。太守である文聘への挨拶のためだ。全員で行く必要もないので桃香達3姉妹と朱里が城内へと赴き、一刀達は城外で待機となった。


 馬の背から降り、大きく伸びをする。普段よりも腰や太ももの張りが強い。今までだいぶ楽をさせてもらっていたのだと感じつつ、張りを解消すべく体を軽く動かす。


 「やっぱり、馬が違うと感じも違うだろ?」


 背後から掛けられた声に体をほぐすのを止め、一刀は振り返る。そこには翠と星が並んで立っていた。


 「ああ、何だか上手く呼吸が合わない気がする。麒麟はこっちに合わせてくれてたんだな、って今更ながら感じるよ」


 翠に答えながら、腰に手を当てて上体を反らす。背骨から音が鳴った。


 一刀が江陵まで跨がってきたのは乗り馴れた麒麟ではない。劉備軍で支給される軍馬だ。武陵を発つ直前、翠と鷹那から麒麟が妊娠している事を教えられ、急遽、用立ててもらった馬だった。


 「麒麟はお前に預けたんだからな。ちゃんと様子を見てやれよ」


 「そう言われてもな……。四六時中、傍にいる訳じゃないし」


 そもそも、馬に触れる様になったのもこちらにきてからだ。妊娠したかどうかなど、分かるはずがない。


 とはいえ、気付いてもらえなければ大変な事になっていただろう。そう考えれば感謝の思いは浮かんでくる。


 「そうだな……」


 「すまんな、翠よ。あれの父親は、恐らく私の馬だろう」


 言葉にして伝えようとしたところで、星が口を開いた。突然の告白に、2人の視線は星へと注がれる。翠の瞳には驚きだけでなく責める様な色も見えたが、星はどこ吹く風とばかりに軽くいなし、話を続ける。


 「私の馬と一刀の馬がまぐわっているのを何度も見たからな。間違いあるまい」


 「まぐっ……! ○×△□☆……!」


 顔どころか、首まで一瞬のうちに赤く染まる。それを見た星がニヤリと笑った。


 「妊娠しているのだ。まぐわっていたとして、何らおかしな事はあるまい? それとも、まぐわいもせずに子が成せるとでも思っていたのか? 人も馬も変わりはなかろう。……何なら、私が教えてやってもよいぞ?」


 スッと手を伸ばす。翠の頬に白く細い指が触れた。


 「○×△□☆!?」


 声にならない悲鳴を上げ、翠は大きく後ろに飛びずさった。


 からかわれている翠を見ながら、一刀も段々と恥ずかしくなってくる。奇異な言動が多いものの、星も確かに美人だ。そんな女性がまぐわうだ何だと連呼していれば、変な気分になってくるのも仕方がない。翠のためだけでなく、自分自身のためにも早く黙らせたかった。


 「……交尾とか、他に言い方があるだろ、まったく」


 「言い方だけで、本質は同じであろう?」


 含み笑いをしながら流し目を向けてくる。その色っぽさに、思わずドキリとしてしまう。


 「フッ……。さて、私は兵達の様子でも見てくるとするか」


 かすかに声を漏らして笑うと、星は踵を返した。その笑いで心の内を見透かされたと気付かされ、いたたまれなくなった。


 後に残された2人の間には、気不味い空気が漂っている。何とかしようと、先に言葉を発したのは一刀の方だ。


 「で、でも、星の馬も相当いい馬なんだろ? それと麒麟の子だったら、将来はかなりの名馬になるんじゃないか?」


 「そ、そうだな。うん、きっとそうだ」


 翠の返事は固い。意識しているのがはっきりと分かる。そもそも、麒麟の妊娠からこんな空気になったのだ。それなのに、話題を変えずに話を続けても、空気が変わるはずはなかった。


 「……それにしても、桃香達、遅いな」


 大した時間が経っている訳ではないが、とりあえず口に出す。今の状況での沈黙はきつい。


 「あ、ああ。……そういえば、朱里の奴、さっき行くのを嫌がってた様な気がしたんだけど、何かあんのか?」


 思い出した様に言われた言葉に少し驚いた。桃香から一緒に行こうと誘われた際、確かに朱里は嫌そうな顔をした。だが、それはほんの一瞬の事だ。嫌がるだろうと予測出来た一刀とは違い、予備知識のなかった翠が気付いていた事は意外だった。


 「まあ……、今頃、目を回してるんじゃないかな」


 一刀は城壁を見詰め、その向こうで振り回されているであろう朱里の姿を想像した。




 「はわわ~」


 朱里の悲鳴が城の中庭に響く。


 一刀の想像通りだった。文聘は桃香との挨拶を済ませると、早速、朱里の体を持ち上げた。そして、雛里に対してやった様に上下に振り、ぐるぐると回転した。文聘というアトラクションから解放された時には、すっかり目を回していた。


 頼りない足元でふらふらと歩き、関羽に抱き止められる。入れ替わる様に、彼女の横を小さな影が飛び出していく。朱里の様子を羨ましそうな眼差しで見上げていた鈴々だった。


 「おばちゃん、鈴々にも朱里と同じやつをやって欲しいのだ!」


 文聘の上着の裾をぐいぐいと引き、おねだりをする様にせがむ。


 「こらっ、鈴々! 文聘殿にご迷惑だろう! 止めないか!」


 「いいよ、いいよ。気にしなくてもさ」


 叱り付ける関羽を笑顔で制し、文聘は鈴々の体を持ち上げた。上下に振り、ぐるぐると回る。文聘の動作は変わらないが、される側の反応は正反対だ。


 「にゃははーっ! めちゃくちゃ面白いのだーっ!」


 顔面蒼白で悲鳴を上げていた朱里と違い、鈴々は大喜びだ。満面の笑みではしゃいでいる。これに気をよくしたか、文聘のあやし方も激しさを増し、ついには鈴々の体を天高く放り上げた。


 「なっ!?」


 未だ回復しない朱里を抱き締めたまま、驚きの声を上げて空を見上げる。小さな義妹の体は、城壁よりも高く舞い上がっている。このまま落ちれば大怪我は免れない。死に至る可能性すら低くはないだろう。思わず落下点に向かい駆け出したい衝動に駆られた。


 しかし、当の本人にそんな杞憂は全く見られない。短い手足をばたつかせ、全身で楽しさを爆発させている。遠く小さくなった笑い声が、再び大きく聞こえ出す。勢いよく落下してきた鈴々の体は文聘によってしっかりと抱き抱えられた。


 「すっごく面白かったのだ! ありがとう、おばちゃん!」


 十分に満喫したのだろう。満ち足りた笑顔で礼を言う。こちらも満足そうに笑いながら、文聘は鈴々の赤髪をくしゃくしゃと力強く撫で付けた。


 親子の様な穏やかな2人の姿に、関羽はホッと胸を撫で下ろした。と、その横で桃香の足が1歩前に出る。


 「桃香様、自重してください」


 ビクッ、と桃香の肩が跳ねた。


 「や、やだな~、愛紗ちゃん。別に、楽しそうだな~、とか、羨ましいな~、とか思った訳じゃないよ? 本当だよ?」


 必死に誤魔化そうとする義姉の姿に、意識せずため息がこぼれた。桃香の乾いた笑い声が風に流されていった。


 「すまないね。つい、楽しくなっちゃってさ」


 姉妹でそんなやり取りをしている間に、文聘は2人の目の前まできていた。慌てて体ごと向き直る。


 「いえ、気にしないでください。鈴々ちゃんも朱里ちゃんも喜んでいますから」


 果たして朱里は喜んでいるのだろうか。ようやく支えなしで立てる様になった朱里を見て、そんな思いが関羽の頭をよぎった。


 「劉表様の弔問に行ってくれるのはありがたいんだが、気を付けなよ。劉奇様が跡を継いだとはいえ、蔡瑁は軍事の全権を握ったままだ。何か仕掛けてこないとも限らないからね」


 「はい、ありがとうございます。でも、大丈夫です。私には頼りになる仲間が一杯いますから」


 心配そうな顔を向ける文聘に対し、桃香は笑顔で答えた。その顔に不安は微塵も見えない。強く信頼されている事に誇りを感じると共に、何があっても絶対に守る、と新たに気合いを入れ直した。


 「じゃあ、おばちゃん。今度会う時には、もっと一杯遊んで欲しいのだ」


 「ああ、そうだね。お嬢ちゃんがもっと楽しめそうな事を考えておくからさ。諸葛亮ちゃんも、楽しみにしてなよ」


 「は、はひっ!」


 喜色満面の鈴々とは違い、朱里の表情は明らかに沈んでいる。今でさえ、朱里にとっては拷問に近い。これ以上の事をやられたら、本当に死んでしまう様な気がした。






 襄陽に到着した桃香達は、住民の様子に以前とは違うものを感じていた。州牧である劉表が亡くなったのだから、暗く落ち込んだ雰囲気なのは分かる。だが、新たに州牧の座に就いた長子、劉奇の元で頑張ろう、そんな気概は感じられない。この街に蔓延る空気を表すなら、不安や絶望といった言葉がしっくりくるだろう。


 そんな街並みを抜け、城に入った一行は、早速弔問を済ませる。余計な事に巻き込まれたくないため、出来る限り早くこの場を辞するつもりでいた。しかし、ここでおかしな事が1つ。劉奇ではなく、弟の劉宗が桃香達への応対を行ったのだ。


 普通であれば、後継者である劉奇がするべきだ。当然、その疑問は桃香の口からこぼれた。


 「劉宗君、劉奇さんはどうしたの?」


 まだ幼い劉宗の目線に合わせる様に桃香は身を屈める。


 「……兄上は体調を崩しているんです。もしよろしければ、見舞っていただけませんか?」


 劉宗はチラリと母の方を見てから桃香の問いに答えた。特に不信感も抱く事もなく、二つ返事で了解した。


 「ならば、私も」


 関羽と星が名乗り出る。この場所は、半ば敵地の様なものだ。そんなところで桃香を1人にする訳にはいかない。


 「申し訳ないですが、見舞いですのであまり大人数では……。劉備殿以外には、あと1人くらいでお願いしたいのですが」


 劉宗の母、蔡夫人が待ったをかけた。年の感じは紫苑と同じくらいだろう。ただ、母性が溢れて柔らかい雰囲気をまとう紫苑と違い、目つきの鋭さもあってか、性格はきつそうに見える。一刀からすると、教育ママ、と呼ぶのが一番しっくりいった。


 「北郷殿は天の御遣い様でいらっしゃると聞いております。よろしければ、そのお力を以って我が子を見舞っていただけませんか?」


 くだらない事を考えていた一刀は、いきなり恭しい態度で頼まれ泡を食った。


 「ですが、病を治したりする様な力はありませんが」


 「それでも構いません。御遣い様に見舞っていただく事自体に意味があるのです。母親のわがままと思っていただいて結構です。どうか、どうか聞き届けていただけますよう、お願い致します」


 蔡夫人はさらに腰を折った。その姿を、真に息子の身を案じている、と素直に思う事は出来なかった。劉奇を疎んでいる事は聞き及んでいたし、桃香の身を狙ったらしい事も耳に入っていたからだ。何らかの思惑があると疑うのは当然だった。


 「分かりました。ご期待に沿える自信はありませんが、見舞わせていただきます」


 疑いつつも申し出を受ける。ここで固辞すれば、桃香を1人で行かせる事になりかねない。何かよからぬ事を企んでいる可能性があるのに、それはあまりにも危険だ。


 不安気な顔を見せる翠達を安心させようと、一刀はそっと笑って頷いた。何があっても桃香は守ってみせる。そう瞳で訴え掛けた。


 侍女に案内され、一刀と桃香はその場を離れる。階段を上がり、2つ上の階に移った。奥から2番目の部屋の前で侍女は足を止めた。


 「劉奇様、劉備様と北郷様をお連れしました」


 扉の向こう側へと掛けられた声に対し、部屋の中からの返事はない。それでも、侍女は何のためらいもなく扉を開けた。


 促されるままに、2人は部屋へと足を踏み入れる。その瞬間、猛烈な臭いが鼻にまとわりついた。山百合の様な強い臭気に顔が歪む。隣を見れば、桃香も同様に臭いを我慢しているらしい。珍しく眉間にシワを寄せ、鼻を袖口で押さえている。見舞いに花を飾ったのかもしれないが、むしろ病状が悪化するのでは、と心配になる程だった。


 桃香が1歩、足を前に出した。一刀もそれに続く。ひどい表情のままで見舞いは出来ない。臭いに耐え、平静さを保つ事に集中する。


 広い部屋の奥には目隠しの衝立が立っていた。劉奇の姿が見えない事から、衝立の向こう側にいるのだろうと当たりをつける。左側から衝立を回り込むと、寝台の端が目に入った。


 「劉奇さ……んっ!?」


 前を行く桃香が急に足を止めた。目を大きく見開き、手を口元に当てて言葉を詰まらせている。ただ事でないのは明らかだ。桃香の前に出ながら、寝台の全てを視界に納めた。


 「なっ……!?」


 一刀も思わず声を失った。


 寝台には青年が1人、横たわっていた。寝ているのであれば何の問題もない。だが、青年の顔は苦悶の表情を浮かべたままで固まっている。胸には剣が深々と突き刺さっており、布団には剣で裂かれた箇所を中心として赤黒いシミが広がっている。


 すでに亡くなっている、と一目で分かった。この青年が劉奇であろう事も、状況と桃香の様子から感じられた。次に考えたのは、なぜ死んでいるのか、だった。


 死んでいる、というよりは、殺されている、といった方が妥当だろう。誰が、何のために。


 「きゃあぁーっ!」


 女性の悲鳴が静寂を引き裂いたのと、問いの答えを導き出せたのはほぼ同時だった。一刀の意識は思考の淵から現実へと引き戻される。


 悲鳴は桃香のものではなかった。ここまで2人を案内し、遅れて部屋へと入ってきた侍女から発せられたものだ。劉奇の無惨な死に様に恐怖を感じたのか、顔をひきつらせている。


 一刀が侍女の方へと視線を移すと、逃げ出す様に部屋の入り口へと駆け出した。止める間すらない。


 こうなった以上、もう猶予はないはずだ。


 「桃香、逃げるぞ!」


 半ば放心している桃香の手を握る。


 「……え? で、でも、劉奇さんが……」


 「罠だったんだ! 嵌められたんだよ!」


 桃香の腕を強く引き、目を覚まさせる様に叫ぶ。状況を整理し切れていないのは見て取れた。それに構わず入り口へ向かおうと、衝立の影から出たところで一刀の足は止まった。


 すでに入り口は数人の兵によって固められている。一刀は自分の体を桃香と兵の間に入れ、彼女を守る様に動く。そうしながら、改めてこの部屋を確認した。


 出入り口は兵士に押さえられている正面の1ヶ所のみ。部屋の奥に窓はあったが、ここは3階だ。窓からの脱出は非現実的である。となれば、強引でも押し通るしか道はない。


 「やれやれ、大変な事をしてくれたな、劉備よ」


 兵達の間から中年の男性が進み出てくる。先程、弔問の席で見た蔡瑁だ。薄ら笑いを浮かべ、言葉を続ける。


 「劉表様より受けた恩を忘れ、荊州を奪わんがために劉奇様を殺めるとは。貴様に目をかけた劉表様も浮かばれまい」


 「ち、違います! 私達がきた時には、劉奇さんはもう……」


 「でたらめを言うな! この侍女が貴様等の所業を全て見ていたのだ。見苦しい真似はよせ!」


 桃香と蔡瑁のやり取りも、一刀の耳にはほとんど届いていなかった。今回の件は完全に仕組まれた事だ。いくら釈明しようとしても、耳を貸す訳がない。初めから、桃香に劉奇殺しの罪を被せるつもりなのだから。


 しかし、1つ腑に落ちない事もあった。なぜ、自分も一緒に誘い込もうとしたのかが分からなかった。


 桃香を捕らえるのであれば、彼女1人の方が好都合なはずだ。もちろん、桃香だけで見舞いを、という話になっていれば、誰もが反対していただろう。だからこそ自分が同行させられたのだ、と思えば納得はいった。


 この世界では、総じて女性の方が男性よりも強い。天下無双、一騎当千と呼べる豪傑は、一刀の知る限り全て女性だ。男性という事だけで侮られても不思議はない。


 「劉奇様を殺めた大罪人だ、捕らえよ!」


 蔡瑁の命令で兵が動き出す。


 一刀は考えるのを止めた。今はこの場を切り抜ける事だけに集中しろ。そう自分に言い聞かせ、気合いを入れた。


 兵の数はそれほど多くはない。壁の向こうにいる人数までは分からないが、入り口を3人で固め、4人が部屋の中へと入り、半包囲の形をとってくる。


 その中の1人が棍の様な長い木の棒を突き出してきた。一刀は半身になって突きをかわすと、棒をつかんで強く引いた。バランスを崩し、足が大きく前に出る。そこを狙って足払いをかけると、綺麗に1回転して仰向けに倒れる。そのまま、体重を乗せた拳をみぞおちに落とす。


 淀みない動きであっという間に味方を昏倒させられ、一刀達を囲む兵に動揺が走った。前に出る事をためらっている。


 「何をしている! 抵抗するなら殺しても構わん! 首級さえあればどうとでもなる!」


 蔡瑁の叱咤に、兵達は怯んだ様子を見せながらも剣を抜いた。


 桃香を背中に隠す様にしながらじりじりと下がる一刀。3人の兵を視界に捉えながら、右手を懐に入れた。その動きがきっかけとなったのか、両端の2人が一刀の方へと踏み出した。2人共、剣を上段へと振り上げている。


 桃香の肩を軽く押し、間合いから外させる。同時に右前方へと大きく踏み込む。左側からの攻撃はかわせたものの、右側から迫る敵兵の正面に立つ形になった。


 一刀が踏み込んだ事によって距離が詰まる。窮屈な体勢ながらも、剣は一刀の頭めがけて振り下ろされた。


 甲高い金属音が弾ける。一刀の頭を切り裂かんとしていた刃は、標的の寸前で止まっていた。懐から抜かれた一刀の手には護身用の短剣が逆手で握られており、真っ正面から剣を受け止めていた。


 剣を押し込もうとしてくる相手の手首を、空いている左手でつかむ。動きを止めておき、自由になった短刀を相手の胸板に突き刺す。一撃で絶命させた。


 命と共に剣を奪い、側にいたもう1人に切りつける。腕を浅く裂いた程度で致命傷にはならないだろうが、戦闘能力を奪うには十分だ。


 胸板に刺さったままの短剣を順手に持ち変え、1度相手を押してから引き抜く。傷口から激しく血が噴き出して一刀を赤く染める。それを意に介さず、手にした短刀を残った兵に投げ付けた。深々と眉間に突き刺さり、またもや一撃で命を奪った。


 「桃香!」


 短刀を投げ、空になった右手を差し出す。血濡れた手は桃香に相応しくないと思う。それでも今は、例え血にまみれさせても守らなければならない。


 「はいっ!」


 桃香にしっかりと握られた。その手と表情からは、不安は微塵も感じられなかった。信頼されている事に嬉しさと責任を感じ、一刀も強く握り返す。


 何があっても離しはしない。そう心に誓い、部屋の入り口へと顔を向けた。




 一方の関羽達も、いきなりなだれ込んできた兵によって周囲を取り囲まれていた。朱里を守る様に、5人が背中合わせで円を作っている。


 「どうするのだ、愛紗」


 「どうするもこうするも、桃香様達がどうなっているか分からない状況で下手に暴れる訳には……」


 「んな事言って、あたし達が捕まったら誰が2人を助けるんだよ!?」


 いくら武器を預けてしまって丸腰だとはいえ、ただの雑兵が相手であれば、多少数が違ったところで彼女達が遅れをとる様な事はない。大した抵抗をしていないのは、桃香と一刀の様子が分からないからだ。


 下手にこの場を離れれば、2人が逃げている場合に合流が難しくなる。逆に捕らえられてしまっているのなら、救出の機会を窺うためにもこの場を離れるべきだ。どちらを選択するのか、その判断がつかずにいた。


 周囲を囲む兵達はじりじりと間合いを詰めてくる。と、部屋の外が何やら騒がしくなった。喧騒が段々と近付いてきたかと思うと、扉が勢いよく開け放たれた。


 「皆、大丈夫!?」


 「と、桃香様!」


 入り口に立っていたのは桃香だった。多少、返り血を浴びてはいるものの、外傷はない。続けて一刀も姿を現す。こちらはいつの間に着替えたのか、と聞きたくなる程に全身を真っ赤にしていた。


 そこにいる者の意識が2人に向く中、いち早く動いたのは星と紫苑だった。側にいた兵から武器を奪い、囲みに穴を開ける。関羽や翠も続き、一気に敵兵を蹴散らして桃香の方へと駆け寄った。


 「すまない、皆。桃香に劉奇殺しの罪を被せられた」


 「ごめんなさい、私が迂闊だったばっかりに……」


 「迂闊だと言うのなら、それは軍師である私の責任です。とにかく、今は逃げる事だけを考えましょう」


 萎れる桃香に朱里が声をかける。確かに朱里の言う通りだった。このまま留まっていても事態は悪化するだけ。好転などするはずがない。


 彼女達は一団となって部屋を飛び出した。


 「しかし、どうするつもりだ。恐らく、正面は固められていると見て間違いあるまい」


 「ええ……。何とか、脱出出来る場所を見付けないと……」


 運動の苦手な朱里は、早くも息が上がってきている。


 「朱里、こっちよ!」


 そんな少女の真名を呼ぶ人物が現れた。少し先の部屋の扉を開け、大きく手招きをしている。


 「り、柳霜りゅーしゅさん? み、皆さん、あの人のところへ、入ってください!」


 息も絶え絶えになりながら、朱里は声を振り絞る。誰なのかも分からないが、朱里の言葉を信用するしかない。全員が扉の開かれた部屋へと飛び込んだ。


 「無事みたいで安心したわ」


 「は、はい……。助かりましゅた……。でも、どうして柳霜さんが?」


 呼吸を整えながら朱里が尋ねる。柳霜と呼ばれた女性はその問いには答えず、そっと微笑んだ。その後で桃香へと向き直り、礼の姿勢をとった。


 「ご無事そうで何よりです、劉備様。私の事、覚えておいでですか?」


 目の前にいる女性の顔をまじまじと見詰める桃香だったが、思い出せないらしい。むしろ、初対面である一刀の方が、女性の容貌から想像がついた。


 関羽に負けず劣らずの艶やかな黒髪。だが、眉だけは雪が積もったかの様に白い。


 「劉備様が新野城にいらした頃、劉表様が催された宴席でご挨拶させていただきました。馬良、字を季常と申します」


 「……う、うん。馬良さんだよね? うん、覚えてるよ」


 焦りながら返事をし、えへへ、と笑う。誤魔化しているのは明らかだったが、誰もそこには言及しないでおく。


 「馬良さんは水鏡女学院の先輩なんです」


 「とはいっても、私の才は朱里や雛里の足元にも及びませんが」


 朱里の頭を優しく撫でる馬良の顔には笑みが浮かんでいる。それは、自嘲の様な寂しいものではない。久しぶりに会えた妹を慈しむ様な、そんな優しさが溢れていた。


 「脱出路を確保してあります。ご案内しますから、私の後についてきてください」


 桃香達が入ってきたのとは違う扉を指差した。そのまま先導するべく歩き出す。


 その背中に関羽が待ったをかけた。


 「貴方と朱里が深い関係なのは分かった。しかし、一体どういうつもりで我々に手を貸そうというのか、そこのところを聞かせてもらいたい」


 関羽も馬良が疑わしいとは思っていない。それでも、謀略によって窮地に立たされた後では、素直に他人を信用出来なかった。


 反論しようとした朱里を手で制し、馬良は口を開く。


 「劉表様に仕えていた者の全てが、蔡夫人や蔡瑁についている訳ではありません。数は少ないですが、水鏡女学院出身者を中心に対抗しています。今回の事も、水鏡先生のご指示なのです」


 馬良は関羽の瞳を真っ直ぐに見詰めた。そこにやましさはない。


 「愛紗よ、ここでこうしていたとしても何も始まらんだろう。今は馬良殿を信用するしかあるまい」


 星に言われるまでもなく分かっていた事だ。結局、愛紗はそれ以上文句を言わず、馬良の先導によって城からの脱出を開始した。




 脱出路が確保してあると言われた通り、一同は発見される事なく、無事に水鏡女学院まで辿り着いた。劉奇が殺害されていた事を伝えられると、さすがに想像の範疇を外れていたのか、水鏡も馬良も動揺を隠せなかった。


 「ごめんなさい、劉備さん」


 水鏡が桃香に頭を下げた。突然の事に、桃香は泡を食ってしまう。


 「ま、待ってください、水鏡先生。私達がお礼を言わなきゃならないのに、謝られるいわれは……」


 「荊州の後継者争いに貴方を巻き込んでしまったわ。この地の政に少なからず携わる者として、謝罪させてください」


 そう言って、もう1度深々と頭を下げた。水鏡に対して感謝の念しかない桃香にしてみれば、非常に居心地が悪い。


 と、奥の部屋から関羽達が戻ってきた。その手には各々の武器が握られている。弔問の際に預けた武器を取り戻してくれていたのだ。


 「先生、劉奇様が殺されたとなると……」


 馬良が深刻な表情で水鏡に声を掛けた。しばらく瞑目した後、水鏡は再び桃香へと眼差しを向けた。


 「劉備さん、申し訳ないのですが、この学院で学んでいる者達を連れて逃げていただけませんか?」


 水鏡女学院出身者の多く、そして水鏡自身も、蔡夫人一派が大きな権力を有する事に危機感を抱き、反対してきた。それが蔡夫人や蔡瑁からしてみれば面白くなかった。言ってみれば、蔡夫人一派と水鏡女学院出身者とで派閥争いをしている様な感じだ。


 劉表も劉奇も水鏡女学院寄りだった事もあり、直接的な行動に出られた事はない。だが、その2人が亡くなった今となっては、いつ学院に対して武力を行使してくるか、分かったものではないのだ。


 もちろん、桃香にこの申し出を断るつもりはなかった。他の者も同様だ。


 「なら、夜になるのを待って脱出を?」


 「いえ、曹操軍が迫っているとの情報があります。恐らく、蔡瑁はこの地を曹操に売るつもりでしょう。一刻も早く脱出するべきです」


 学院で学ぶ少女、約40人と水鏡、馬良等と共に急いで襄陽から逃げ出す桃香達。門番にも息がかかっていたらしく、見咎められる事もなく、無事に襄陽から抜け出す事には成功した。




 今までの危機はあくまでも序章に過ぎない。これから最大の危機に見舞われると分かっているだけに、一刀の中で不安は大きくなっていく。気が付けば、手綱を握る手が震えていた。抑えようとしても、どうしても止まらない。


 「緊張してんのか?」


 一団の先頭を駆けていたはずの翠が、いつの間にか並走していた。


 「え、いや……」


 「安心しろよ。お前も桃香様もあたしが守ってやるからさ」


 翠の言葉で不意に昔の事を思い出した。


 初陣の前、緊張で押し潰されそうだった時にも同じ事を言われた。あれから2年、今も守ってやると言われる事に情けなさを感じつつも、やはり安心する。いつの間にか、一刀の体の震えは収まっていた。

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