閑話~宴~
漢中を占領した桃香達はしばらくの間、民心の安定に尽力する事となった。生活自体は安定しているものの、張魯から曹操、そして桃香へと続けて為政者が代わった事で、民の間には少なくない不安感があった。
また、軍事面においても対処しなければならない事はあった。曹操の支配地と接している以上、防備はしっかりと固めなければならない。州境に秦嶺山脈があり、大部隊での侵攻が難しいとしても、やはり油断は出来なかった。
そんな政務と軍事の両面に一区切り付いた頃、ようやく一刀が漢中へと到着した。という訳で、早速その日の夜、定軍山への侵攻前に桃香の発言した宴が開かれた。
飲めや歌えの大騒ぎとなった城内の一室。桃香が徐州を治めていた頃からの旧臣も、ついこの間仕える事になった涼州勢も、一緒くたになって盛り上がっている。
そんな中、一刀はどうやってこの場を退席しようか、と考えていた。というのも、
「ほらほら、一刀さんが主役なんだからもっと飲んで、ね?」
と桃香から陽気に酒を注がれ、
「……あ、あの、どうじょ」
と雛里に顔を真っ赤にしながら酒を注がれ、
「なんや、チビチビとやっとんな~。もっと景気よういかんと」
と霞にとっくりを口に押し付けられ、
「快気祝いだからな、お主に私秘蔵のメンマを分けてやろう」
と星からメンマを皿一杯に盛られたりしているうちに、かなり酔いが回ってしまったからだ。病み上がりを理由に逃げよう。そう決心したところで、また別の人物が一刀の隣に座った。
「ほれ、飲まんか、一刀」
「もう無理ですって、桔梗さん。大体、俺はまだ……」
この宴席が始まる前、一刀は厳顔と黄忠から真名を預けられた。身を呈して翠を庇った姿を見て、評価を変えたらしい。特に厳顔は初めて会った時の発言を詫び、取り消してくれもした。そうして互いのわだかまりが消えるのは嬉しかった。
「何だ? わしの酒が飲めんのか?」
だが、こうして絡んでくるのは勘弁して欲しいと思う。
「北郷、桔梗様の酒を断るとはどういう了見だ!」
その上、酔っ払った魏延まで物凄い剣幕で詰め寄ってくる。仕方なく、一刀は杯に注がれた酒を一気に飲み干した。タンッ、と小気味いい音を響かせて杯を盆の上に置く。
「おお、いい飲みっぷりではないか。ほれ、もっと飲め」
もう断る事は出来なかった。注がれるままに飲み続けた一刀は30分もしないうちに酔い潰れてしまう。仰向けに倒れると、そのままイビキをかき始めた。
「もう限界か、情けない」
「桔梗さん、飲ませ過ぎです。一刀さんは病み上がりなんだから。……もっとお話ししたかったのに」
肩を竦めた桔梗に対し、桃香がたしなめる。そうしながら、少し恨みがましい視線を送った。
「さて、と……。わしは紫苑や鷹那と飲み直す事にしますかな」
桔梗は立ち上がり、桃香の視線から逃げる様にその場を離れた。
やって来た衛兵に抱えられて部屋を出て行く一刀を見送り、桃香も自分の席へと戻る。もう、とため息混じりに言いながら腰を下ろす。頬を膨らませ、独り言というには大きな声の文句がこぼれていた。
「しかし、桃香様も大分勧められたのではありませんか?」
隣に座る関羽にジト目で突っ込まれ、桃香はぐっと言葉を詰まらせる。えへへ、と笑って誤魔化すしかなかった。
もう1人の主役である翠はというと、初めのうちはかなりやきもきしていた。一刀の傍に入れ替わり立ち替わり他の女性がやってきているのだ。気にならない訳がない。
だが、一刀が酔い潰れた事でそんな気持ちも消え去った。西涼にいた頃から、一刀が酒に強くないのを知っている。潰された光景も幾度となく見ている。今更心配する事もなかった。
一刀に向いていた意識が目の前の盆に乗った料理へと移る。ほとんど箸を付けていなかったそれらを、掻き込む様に一気に平らげた。
だが、質より量である翠には到底足りない。鈴々や恋はすでに何度もおかわりをしているらしく、空いた盆を何段も積み重ねている。あたしも、と思ったところで、隣に座る星の分の料理が目に入った。全く手を付けた様子がない。彼女は自前のメンマだけを肴に酒を飲んでいるからだ。
「なあ、星。それ、もらってもいいか」
箸で料理を指し示す。行儀の悪さに対してか、星は一瞬、眉をしかめた。
「……まあ、少しなら分けてやろう。味わって食せよ」
星は箸でメンマを1本だけ取り、空いている皿に置いた。
「違う! メンマなんかいらね……」
「メンマなんか、だと?」
途端に星のまとう雰囲気が変わった。涼しげだった瞳には、明らかな敵意が浮かんでいる。その目でジロリと睨み付けられ、翠は慌てて取り繕う。
「い、いや、メンマも確かにいいけど、あたしはそっちの皿に乗った料理の方が……」
「何だ、そうならそうとはっきり言え。好きなだけ取ってくれて構わんぞ」
星は目を閉じて杯を傾ける。その雰囲気がいつも通りの物に戻ったのを確認し、翠は盆ごとそっくり交換した。それでも星は文句を言う事なく、変わらず酒を飲み続けている。
早速、料理に箸をつけると、次々に口の中に放り込んでいく。その様子を横目でチラリと確認し、星は杯を口から離した。
「その代わりと言っては何だが、1つ聞いてもよいか?」
「ん、なんふぁよ?」
視線は盆に向け、口一杯に料理を詰め込んだままで返事をした。
「何、大した事ではない。ただ、お主は一刀のどこを好きになったのか、気になってな」
「んぐっ……!」
いきなりの問い掛けに驚き、翠は思わず喉を詰まらせた。胸をドンドンとたたくが一向に落ちていかない。星とは反対側に座る蒲公英が大慌てで茶を差し出す。ひったくる様にして湯飲みを受け取り、それを一気にあおった。
ようやく喉のつかえが取れ、大きく息を吸って吐き出す。翠の肩が上下に揺れるのを横目に、星は少し口元を緩めて再び杯に口を付けた。
「……な、何言ってんだよ。あ、あたしは別に、一刀の事なんか……」
「今更、隠す事もあるまい。こんな、誰もが分かる様な事を」
「だ、だから、あたしは……!」
飄々とした態度の星に対して反論する翠。自分の顔が真っ赤になっているのを自覚し、益々むきになっていく。と、別の場所から声が上がった。
「お主、一刀の事を好いてはおらんのか。ならば、わしが奴を手篭めにしても構わんのだな?」
声の主は桔梗だった。その顔には普段と違う、妖艶な笑みが浮かんでいる。突然話に割って入られ泡を食っている翠をよそに、彼女はゆっくりと腰を浮かせた。
が、片膝を立てたところでその動きは止まった。一同が不思議そうに彼女の姿を見る。
「何のつもりだ、鷹那」
桔梗の喉元には箸が突き付けられていた。それを握っているのは、彼女の隣で酒を酌み交わしていた鷹那であった。右手で杯を傾けつつ、左手に逆手で箸を握っている。
「申し訳ない、手が滑りました」
正面を向いたまま、鷹那は眉1つ動かさずに答えた。手が滑った、と言いながらも引っ込める様子はない。桔梗が腰を下ろしたところでようやく箸を引いた。
「冗談に決まっとろう。まったく、少しは冗談を解する様にせい」
桔梗は喉をさすりながら文句をこぼした。
桔梗達のやり取りに注意が集まる中、星と霞、蒲公英の3人は視線で語り合う。ニヤリと笑い、3人は同時に頷いた。
「翠も少しは飲んだらどうや? 食うばかりやなくて」
翠の隣に腰を下ろした霞が空いた湯飲みに酒をなみなみ注いだ。
「ならば、定軍山で持ち越した決着を酒でつけようではないか」
「いや、あたしは……」
両側を酒飲みに挟まれ翠は困惑した。彼女もあまり酒に強くはないし、飲むより食べる方を優先したい。
「駄目だよ、お姉様はお子様だもん。星お姉様や霞さんに敵う訳がないんだから」
それでも、勝てないと頭から決め付けられれば面白くはない。
「そうか、錦馬超の名は飾りか。仕方がない。霞よ、2人でやる事にしよう」
「待てよ、あたしも勝負してやる」
だから、星の明らかな挑発にも簡単に引っ掛かった。
霞に注がれていた酒を一息で飲み干す。そして、湯飲みに酒を注ぎ直して霞に突き付ける。霞は笑みを浮かべて受け取り、こちらも一気に湯飲みを空にした。
「なら、次は私の番だな」
今度は星が湯飲みに酒を注ぎ、それを翠に手渡す。さっきと同じ様に湯飲みを空にした後、酒を注いで星へと返す。星もそれを飲み干した。その後、再度霞が翠に酒を注いだ。
これは翠対星・霞という1対2の勝負だった。2人と蒲公英が一瞬で打ち合わせて仕組んだのだ。
酒豪2人の倍のペースで飲まされ、あっという間に翠はへべれけにされた。顔は真っ赤になり、若干目も座ってきている。
「う~……、どうしたんだよ。早く注げよな~」
空になった湯飲みをゆらゆらと揺らして催促をする。
「すまんな、私はもう限界だ」
「アカン、ウチもや」
星と霞が揃って白旗を上げた。もちろん、これは嘘である。2人にとってこの程度の量は飲んだうちに入らない。このまま飲ませ続けて潰さないように、敢えて負けを演じただけだ。
「へへ~、大した事ねーな……、ヒック」
満足そうに笑った後、しゃっくりを1つ。分かりやすい酔っ払いが出来上がっていた。
すっかり気分がよくなっている今の状況を狙い、星がもう一度同じ問いをぶつける。一刀のどこに惚れたのか、と。
それを聞いても、今回の翠は取り乱していない。ただ、ジッと星の目を見つめている。しばらくの間そうしていたかと思うと、いきなり口を開く。
「もしかして、星も一刀の事が好きなのか?」
星は完全に虚を突かれた。そう受け取られるのか、と思い、苦笑いが浮かんだ。
「……まあ、いい男ではあるがな。それでも、同じ主に仕える同僚、戦友と言ったところか」
その言葉を受けて、翠は星から視線を外した。少し悩む様に手元を見る。
「お主ほどの武人が奴のどこに惹かれたのか、それに興味があっただけだ。無論、奴には黙っておくと約束しよう」
星の声が室内に響く。いつの間にか場の喧騒は治まり、ほとんどの者が翠の言葉に耳をそばだてていた。
「……初めて、だったんだ」
ようやく、翠は口を開いた。だが、要領を得ない言葉に蒲公英が尋ねる。
「初めて好きになった男の人が、一刀さんだって事?」
真っ直ぐに聞かれたせいか、翠はビクッと肩を揺らした。
「そ、それはそうなんだけど、そうじゃなくて……。あたしの……、女として……初めてが一刀だったんだ」
翠は手の中にある湯飲みを一気にあおった。その顔が赤いのは酔いのせいだけでなく、恥ずかしさも多分にあった。
「は、初めてって……、えーっ!?」
一瞬の静寂の後、蒲公英の絶叫を皮切りに部屋の至るところから驚きの声が上がる。小さく、途切れ途切れではあったものの、翠の言葉の大部分は全員に聞こえた様だ。笑っている者もいれば、呆然としている者もいる。中でも関羽は飲んでいた酒を思わず吹き出し、激しくむせてしまった。
「愛紗~、何するのだ~」
吹き出した酒を頭から浴びた鈴々が関羽を恨めしそうに見上げた。すまん、と謝りながら、関羽は手近にあった手拭いで鈴々の髪をゴシゴシと拭いてやる。しかし、意識は翠の発言に向いたままだ。無意識のうちに力が入っていく。
「い、痛い、痛いのだ、愛紗ーっ!」
ジタバタと暴れる鈴々の声も、今の関羽には届かないでいた。
「ねえ、どんな感じだったの?」
目をランランと輝かせ、前のめりになりながら尋ねる蒲公英。翠の答えは彼女にとっても完全に予想外だった。
これから先、2人の仲をからかうためにも色々と聞いておきたい事がある。翠から少し鬱陶しそうな眼差しを向けられたが、こんな事で引いていられない。蒲公英はズイとさらに顔を近付けた。
「どんな、って何がだよ?」
「ほ、ほら、やっぱり痛かったりとかしたの?」
慌てふためいてしどろもどろの返答があるとばかり思っていたため、蒲公英の方が若干、面食らった。自分で言って頬が赤くなるのを感じた。
「そんなの、痛いに決まってるだろ。血だって出たんだから」
翠は憮然とした表情をしていた。何を当然の事を、とでも言いたげだった。
「そ、それだけ? 他には何かないの? 一刀さんと、その……、そういう事になって、嬉しかったとか……」
蒲公英が言うと、翠は再び視線を落とした。ただし、口にする事をためらっている風ではない。その時の事を思い出しているのか、その顔はとても幸せそうだ。
「……そりゃあ、嬉しかったよ。すごく優しくしてくれて、あたしの事を思ってくれてるんだって事が伝わってきたから。……あいつの手、すごく温かかったし」
西涼の錦と呼ばれた武人、馬孟起の姿はそこにはない。そこにいるのはただの恋する少女だ。
蒲公英は嬉しかった。今までずっと、2人の関係にやきもきしてきたのだ。それがいつの間にか関係を進めていたとは。もちろん驚きはしたが、素直によかったと思った。
「でも、たんぽぽも知らなかったよ。いつの間に、お姉様と一刀さんはそんな関係になってたの?」
「いつの間に、ってそれがあったのは、あたし達が一刀に真名を預けたすぐ後だぞ?」
「えっ? そんな前なの!? だったら、たんぽぽにも話してくれてもよかったのに~」
翠の話だと、一刀と出会ってから3ヶ月ほどで、という事になる。確かに、出会った当初から何となく翠が一刀を意識しているのは感じていた。だが、まさかそんな前からとは思いも寄らなかった。気付けなかった事に情けなくなると共に、従姉妹である自分に話してくれなかった事に不満を覚えた。
そんな蒲公英に翠は思い掛けない返事を返す。
「何言ってんだ、その場にお前もいただろ」
部屋の中のざわつきがピタリと治まった。一同、翠の発言を理解しようと頭を回転させるが答えが出せない。シンと静まり返った中、しばらく固まっていた蒲公英がやっと口を開く。
「……えと、お姉様は何の事を言ってるの? 一刀さんと枕を交わした、って事じゃ……?」
「な、な、何言ってんだ! んな訳あるかっ! どうしてそんな話になってんだよ!?」
蒲公英の言葉に狼狽し、翠は耳まで真っ赤にして否定する。
「だって、初めてで痛かったって……」
「そ、その2つの話をくっつけんな! 大体、あたしが一刀のどこをす……、好きか、って話だったろ」
言われて、確かにそうだったと思う。好きな理由を聞かれて、初めての相手だったから、というのでは答えとしておかしい。
「じゃあ、どういう事なの?」
「だ、だから、あいつはあたしの事を女として扱ってくれたから……。男であたしを女として見てくれたのって、父様以外では一刀が初めてだったし……」
男勝りな性格な上に、幼い頃から武技に優れていたせいもあるのだろう。同年代の男子からは、物心付いた頃には距離を置かれている事が多かった。
「じゃ、じゃあ、痛かったとか血が出たっていうのは?」
「調練中にちょっと膝を擦り剥いた事があったんだ。いつもの事だし、あたしはつばをつけときゃ治るって言ったんだけど、あいつは、女の子なんだから傷が残ったら困るだろ、って。いいって言ったのに、その場で応急処置とかしてくれて……」
だから、こんな風に男性から気遣われた事はなかった。太守の娘としてなら何度もある。だが、男性から1人の女性として扱われたのは父を除けばこの時が初めてだったし、今も一刀しかいなかった。
先程までと違い、落胆と安堵の入り混じった空気が部屋の中を支配する。
「よかったね、愛紗ちゃん」
「な、何がですか、桃香様」
桃香に微笑みかけられた関羽は、内心の動揺を悟られまいと平静を装った。
「にゃ~……。いい加減にして欲しいのだ」
彼女の手は、相変わらず鈴々の髪の毛を拭いていた。その髪はすっかり乾いていた。