表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/55

第5章-漢中編・第4話~定軍山の戦い~

 漢中を発った曹操軍は定軍山の中腹に布陣。対する劉備軍は、定軍山と向かい合う様にそびえる天蕩山に陣を敷いた。


 定軍山と天蕩山。2つの山の間には川が流れ、深い谷を作っている。この谷に架かる大きな橋は1つしかない。夏侯淵が、負ける事はない、と言った理由はこれだった。


 今回の戦、劉備軍にとっての勝利は漢中の制圧である。いくら曹操軍に損害を与えたとしても、漢中を制圧出来なければ意味がない。


 対する曹操軍にとっては、劉備軍の撃退が勝利ではある。しかし、漢中さえ守り切れれば敗北とはならない。


 蜀地方から漢中に至る道はいくつもある。だが、大軍を擁しても通行可能なのは、天蕩山から定軍山を抜けていくこの道しかない。


 戦場に先着した夏侯淵は、定軍山に陣を敷くと共に橋を制圧下に置いた。戦が始まり旗色が悪くなれば、橋を落として後退すればいい。後は、劉備軍が橋を架け直す動きをしない様、最低限の兵を残しておくだけだ。


 もっとも、橋を落とすのは最終手段である。将来、成都へ侵攻する事を考えた場合、曹操軍にとっても橋を落とす事の影響は大きい。余程追い込まれない限り、おいそれと実行に移す訳にはいかなかった。


 この地の重要性は朱里も分かっていた。だからこそ、使者に返答をした後、急いで軍を再編して急行したのである。しかし、曹操軍より先んじて押さえる事は叶わなかった。天蕩山に布陣した劉備軍は、周辺の地形の確認と作戦立案にしばらくの時を割く事となった。






 劉備軍が天蕩山に布陣してから10日が経った。その間、両軍の間では1度たりとも戦闘が行われる事はなかった。だが、そんな静寂さは間もなく貫かれようとしている。


 「……以上が今回の作戦です。星さんや翠さん達には危険な役回りを担ってもらう事になりますが、よろしくお願いします」


 大きな机の上に広げた地図を使って作戦を説明した朱里は、最後にそうまとめた。


 「任せとけって。桃香様の下での初陣だからな、しっかりと戦功を挙げてみせるさ」


 「我々より、紫苑の方が役割としては重要であろう?」


 並んで椅子に腰掛ける翠と星が続けて答えた。話を振られ、一同の視線が黄忠へと集まる。


 「あら、心配してくれるの? ふふっ、大丈夫よ。お姉さんに任せておきなさい」


 そう言って、黄忠は淑やかな笑みを見せる。翠や他の少女達では出せない女性らしさが自然と滲み出ていた。同じ女性である翠でさえ、思わず見惚れてしまいそうになった。


 「お姉さん、だって。そんな歳じゃ……」


 1人小声で呟き、含み笑いをする蒲公英。その瞬間、彼女の耳を矢が掠めた。風切り音を残し、背後の柱に深く突き刺さる。顔をひきつらせながら、蒲公英は黄忠の方へと首を回す。


 「何か言ったかしら、たんぽぽちゃん?」


 黄忠は手にした弓を隠そうともしていない。顔には先程と同じ笑みが浮かんでいるが、うっすらと開いた瞳の奥には明確な殺意が見える。


 蒲公英は戦慄を覚えた。震える唇から、何とか声を絞り出す。


 「……な、な、何も言ってないよ? が、頑張ってね、紫苑お姉様」


 蒲公英がぎこちなく笑うと、黄忠は何事もなかったかの様に弓を下ろした。


 「あらあら、お姉様、だなんて」


 半ば強制的に言わせた形だが、黄忠はまんざらでもなさそうだ。


 彼女に歳の事を触れてはいけない。その場にいる全員が一様に感じた。


 何とも言えない空気が辺りを包む。それを振り払う様に、朱里は1つ咳払いをしてから再度口を開く。


 「それから、一刀さんが寝台から降りる事が出来る様になった、と、月さんから連絡がありました」


 華陀により治療を施された一刀だったが、しばらく安静にする様に言い付けられた。そのため、現在は治療を受けたその場に止まっている。月は身の回りの世話をするために。そして、万が一に備えての護衛のため、清夜も一刀の側に残った。


 黄忠によって張り詰めた場の空気は一気に弛緩した。そんな中、桃香が勢いよく立ち上がる。


 「じゃあ、皆。一刀さんの快気祝いを兼ねた翠ちゃん達の歓迎会が出来る様、頑張って漢中を落とそう!」


 肩肘の張らない、実に桃香らしい鼓舞の仕方だった。


 緊張や過度の気負いは見られない。それでも、確かに覚悟や意気込みは感じられる。


 新たに仲間となった者達の顔を見ながら、翠は自分と桃香の器の違いを感じていた。武も用兵術も圧倒的に勝っていると自負している。だが、他人の上に立ち、他者を導く事に関しては、明らかに自分は劣っている。涼州連合軍を率いていた時、1度もこんな雰囲気を作る事は出来なかった。


 桃香様のために全力を尽くそう。そう思うと、翠の顔には自然と微笑みが浮かんだ。






 朝、太陽がようやく山影からその身の全てを現した頃、曹操軍の陣内に1本の矢が飛び込んだ。山なりに大きく弧を描いて飛んできた矢は陣を囲う柵を越え、赤茶けた大地に突き刺さった。矢には1通の書簡が縛り付けられており、それは直ぐ様夏侯淵の下に届けられる。彼女は朝食も終わり、ちょうど報告書に目を通し始めたところだった。


 書簡をほどいて文面に目を走らせる。その内容に、夏侯淵の顔にはわずかに驚きの色が浮かんだ。


 「一騎討ち、か。一体、何が狙いだ……?」


 書簡を綺麗に折り畳みながら1人呟く。内容は黄忠からの一騎討ちの申し込みだった。それも、谷を挟んで弓矢を使っての一騎討ちである。


 この状況で一騎討ちを持ち掛けてくる。何か裏がある、と勘繰るのは当然だった。


 私を誘い出し、その隙に本陣を急襲するつもりなのか。まず最初に思い付いたのはそんな事だった。


 上流や下流に移動すれば、川を渡る事の可能な地点は何ヵ所かある。だが、近場はすでに曹操軍の監視下にあり、発見出来ずに渡河を許すとは考えにくい。何より、大軍を1度に渡す事が出来る場所はここしかない。


 それに、定軍山の中腹に敷かれた本陣の正面は開けており、そう易々と奇襲を受ける事はない。裏手も崖に守られている。夏侯淵の中でこの線は消えた。


 「ならば、私を討ち、その時の混乱に乗じて攻めるつもりか」


 総大将である彼女が討ち取られれば、全軍が動揺し混乱するのは目に見えている。各部隊の指揮官が統率し、混乱を最小限に食い止める様に努めるだろう。それでも限界はある。わずかな間、指揮が乱れるのは仕方のない事だ。


 負けない事を最優先で考えた場合、一騎討ちは断るべきだ。わざわざ敵に付け入る隙を与えてやる必要はない。


 だが、彼女もやはり武人である。己の武には並々ならぬ自信を持っていた。当代一の弓使いとして、遠く中原まで英名を轟かせている黄忠と戦ってみたい。そんな気持ちは心の中にあった。同じ弓使いとしてどちらが上なのか、夏侯淵は確かめてみたかった。


 硯と筆を用意させると、紙に返事をしたためていく。それを矢に括り付け、弓を手に天幕の外へと出る。谷を挟んだ向こうの山肌に劉備軍の陣地が見えた。


 「確か、矢は陣内に落下していた、と言ったな」


 脇に控える副官に確かめる様に言うと、足を肩幅に開いて弓を構えた。矢をつがえ弓を引き絞る。遥か先の劉備軍陣地に狙いを定めて呼吸を整える。


 「……フッ!」


 短く息を吐くと同時に左手を放した。放たれた矢は劉備軍陣地を目掛けて真っ直ぐに飛び、そのまま木製の柵に深く突き刺さった。






 劉備軍と曹操軍、両軍の陣地から1人ずつ女性が進み出る。互いに長弓を持ち、腰には大量の矢が納められた矢筒が吊るされている。両軍を隔てる川が作り出した深い谷の縁で両者は歩を止めた。


 「初めまして、夏侯淵将軍。この度は一騎討ちの申し出を受けてくださり感謝しますわ」


 「天下一の弓取りと称される黄忠殿からの折角の申し出。弓を極めんとする者として、これほど光栄な事はないでしょう」


 戦装束に身を包んでもなお、黄忠は女性らしいたおやかさを失わない。対する夏侯淵は短く切り揃えられた髪のせいもあってか、男性の様な凛とした空気をその身にまとっている。


 2人の距離は約30メートル。春の柔らかな日差しは雲に遮られる事もなく、2人に等しく降り注いでいる。時折、そよ風が頬を撫でていく。弓を扱うには申し分ない条件だった。


 「ならば、参ります」


 「かの李広に比肩するという腕前、見せてもらおう」


 黄忠は右手で、夏侯淵は左手でそれぞれ矢をつがえる。互いに弓を引き絞りながらも、そのままの姿勢でしばらく動かない。隙を探り合っているのか、2人はまるで示し合わせたかの様だ。


 先に矢を放ったのは黄忠の方だった。わずかに遅れて夏侯淵の手からも矢が放たれる。2本の矢は宙で弾け、深い谷底へと消えていく。夏侯淵は黄忠の矢を見事に撃ち落としたのだ。


 それを見た黄忠の口元がかすかに緩む。一方の夏侯淵は一切表情を変えずに次の矢をつがえる。


 再び弓を引き絞る両者。今度は夏侯淵が先に矢を放つ。ほんの一瞬遅れて放たれた黄忠の矢は、先程と同じ様に宙で弾けて谷底へと吸い込まれた。


 夏侯淵も薄く笑う。互いが互いの実力を探り合い、そして、認め合った。


 夏侯淵の顔から笑みが消える。と同時に矢筒から矢を抜き、3本を立て続けに放つ。今までのは挨拶の様なもの。ここからが本番だ。


 微妙に軌道の異なる3本の矢を左に跳んでかわすと、黄忠も2本の矢を連続で撃ち返した。


 そこからは、互いに1歩も足を止める事なく矢を撃ち合う。2人の弓の腕を持ってすれば、人間くらいの大きさがある目標なら目を閉じていても当てられる距離である。足を止めれば一撃で射抜かれかねない。相手に隙を見せず、相手の隙を探る。我慢比べの様な状況はしばらく続いた。


 先に好機が訪れたのは夏侯淵の方だった。黄忠の矢が尽きた。しかし、夏侯淵の方も矢は1本しか残っていない。動きを止めた黄忠に対し、夏侯淵はじっくりと狙いを定める。体の中心、心臓の下辺りを狙い矢を放つ。


 だが、黄忠は回避しようとはしない。空いている右手で外套の裾をつかむと、大きく振り上げる。ひるがえった外套が夏侯淵の放った矢を包み込み、その力の全てを奪った。矢は音を立てて地面に落ちる。両者共に全ての矢を撃ち尽くし、1回戦は終了した。


 「ふむ、思ったよりもやりおるな」


 矢の補給のため、布幔の裏へと移った黄忠に厳顔が声を掛けた。


 「さすがに、曹操軍随一の弓の使い手ね。狙いが正確で気が抜けないわ」


 黄忠は手拭いで汗を拭きながら答えた。拭き終わると、今度は竹筒に入った水を飲む。汗を掻いた体に染み渡っていく感覚が気持ちいい。空になった竹筒を厳顔に渡し、代わりにぎっしりと矢の詰まった矢筒を受け取る。


 「正直、手加減が難しいわよ。下手をしたら、こちらがやられかねないもの」


 腰に新しい矢筒を付けながら言うと、再び布幔の表へと戻っていった。


 黄忠が今言った事は強がりではない。彼女は全力で戦ってはいなかった。その目的は時間稼ぎであり、夏侯淵を本陣から引き離しておく事にあった。夏侯淵がいぶかしんだ通り、劉備軍は曹操本陣への急襲を画策していたのである。


 今回の作戦はかなりの綱渡りだった。黄忠と夏侯淵の一騎討ち。敵本陣への急襲。そして、要衝である橋の奪取。この3つを成功させなければならないからだ。特に、仕上げである橋の奪取に失敗すれば、敵本陣を衝いた部隊が敵中に取り残される事になる。


 しかし、そんな危険を冒してでも漢中は手に入れておかなければならない土地なのだ。ここを曹操に押さえられているのは、桃香達にとっては喉元に刃を突き付けられているに等しい。安定した地盤を得るためには、どうしても漢中を奪う必要があった。




 互いの放った矢が地面に突き刺さる。2回戦も互いに矢を撃ち尽くした。黄忠の矢筒が空になっているのを確認し、夏侯淵は1つ大きく息を吐く。


 また分けか。そう思い、緊張の糸が切れた。だが、まだ終わってはいなかった。


 「桔梗!」


 黄忠の叫び声に夏侯淵はハッとした。布幔の裏から姿を現した厳顔が黄忠に向かって矢筒を投げる。


 まずい。夏侯淵は後方にある布幔へと脱兎のごとく駆け出した。


 矢筒を受け取った黄忠はそこから矢を1本抜き取り、素早く弓を引く。常人では狙いを付けるどころか矢をつがえる間もない程の短時間で、彼女は矢を放った。


 夏侯淵には後ろを振り返る余裕さえなかった。ただ全力で駆け、布幔の裏に飛び込む。その刹那、矢が彼女の髪を数本飛ばした。何とか安全地帯へと転がり込み、夏侯淵は冷やした肝をどうにか落ち着ける。


 「だ、大丈夫ですか、夏侯淵様」


 慌てふためいた様子で副官が声を掛けてきた。


 「あ、ああ、すまない。それより、水を頼む」


 未だに荒い呼吸を抑え込みながら、夏侯淵は竹筒を受け取った。半分程まで一気に飲むと、残りは頭から被る。心配そうな顔を見せる副官に竹筒を返しながら、夏侯淵は首を激しく左右に振った。水滴が辺りに飛び散り、乾いた地面に吸い込まれた。


 「ふっ、さすがは黄忠、やってくれる。……しかし、普段は姉者を諌めている私がここまで熱くされるとはな」


 呟く様に言いながら立ち上がる。一騎討ちにこれ程入れ込んだのはいつ以来か。考えてみたが思い出せない。少なくとも、それくらい久しぶりの感覚だった。


 副官から弓を受け取り、足を1歩踏み出したところで気付く。体はかなり重くなっていた。


 『四半刻以上も動き続けていれば当然だな。向こうもそうだと思いたいが……』


 少し弱気な考えを振り払う様に、夏侯淵は大きく息を吐いて気組みを直した。


 実力的にはほぼ互角。後は気持ちの問題だ。気持ちで負けていては勝機はない。そう自分自身に言い聞かせ、彼女は布幔の裏から出た。すでに黄忠は準備万端、待ち構えていた。


 夏侯淵の疲労を見抜いたかの様に、黄忠は立ち上がりから苛烈な攻撃を仕掛ける。正確無比な無数の矢に襲われ、夏侯淵は防戦一方となってしまう。だが、何の狙いもなく、ただ守勢に回った訳ではなかった。


 1度に持てる矢の本数には限界がある。当然、矢を射れば射るほど本数は減っていく。黄忠の腰に下がる矢筒からは、あっという間に矢が消えていった。そして、最後の1本に手を掛ける。その矢をつがえながら、黄忠は再び厳顔の真名を叫んだ。


 「応!」


 返事を返すと同時に、厳顔の手から矢の詰まった矢筒が放られる。


 「今だ!」


 夏侯淵の狙っていた状況が訪れた。黄忠が射た矢をかわして崩れた体勢のまま、夏侯淵は矢を返した。糸を引いて飛ぶその矢は黄忠の手に納まる直前だっだ矢筒をかすめ、跳ね上げた。半分以上の矢を周囲にばら撒き、矢筒は黄忠の足元に転がる。


 「形勢逆転、だな」


 夏侯淵は呆然とした様子の黄忠に弓を向けて言った。この状況、勝負は決まったも同然だ。黄忠の手元に矢はない。対して、夏侯淵には何10本もの矢が残っている。一騎討ちの開始直後ならともかく、肩で息をし、疲労の色が見える黄忠を仕留め損なう訳がなかった。


 止めを刺すべく、弓を構えたままで呼吸を落ち着かせる。黄忠のみに集中していた視界も自然と広がる。ふと、視界の隅で何かが動き、夏侯淵はほんの少し視線を上げた。劉備軍の陣地で大きな白い旗が左右に振られていた。


 黄忠の口角がかすかにつり上がった。その瞬間、夏侯淵の背後から喊声が上がる。慌てて振り返ると、本陣に土煙が上がっているのが見えた。


 なぜだ。考えようとしたが、その間はなかった。凍てつく様な殺気に背後から襲われたためだ。


 一瞬、ほんの一瞬ではあったが、夏侯淵の頭の中から黄忠の存在は消えた。その一瞬さえあれば、黄忠には十分だった。矢筒をつま先で蹴り上げ、その勢いで宙に飛び出た矢をつかむ。


 夏侯淵が再び黄忠へと視線を戻した時には、すでに矢は放たれていた。彼女の左肩に激痛が走り、衝撃で2、3歩よろめいてから片膝をついた。






 その日の朝、まだ黄忠が曹操軍の陣に向けて矢文を放つ前、劉備軍の陣地を発つ一団があった。総勢で100騎ほどの騎兵の群れ。翠や星、霞など、劉備軍にあって特に馬術に覚えのある将兵ばかりである。


 陣を出た彼女達は上流へと向かう。それにつれて谷の深さは浅くなり、幅も段々と狭まっていく。すっかり谷と呼べる存在ではなくなった辺りで川を渡った。


 夏侯淵は渡河が可能な場所には見張りを置いていたが、この場所には曹操軍の兵士はいなかった。というのも、ここから曹操軍陣地の正面に向かう場合、別の谷が存在するためにそこまで辿り着けないからだ。


 ならば、なぜこの場所で渡河したのか。それは、ここから続く道がある場所に繋がっているからだった。


 山肌に張り付く様にして伸びる間道は、1歩足を踏み外せば崖下へと真っ逆さまに転落してしまうだろう。人が擦れ違うのも難しい様な細い道を、翠達は馬に跨りながら進む。早朝に陣を発ったものの、目的の場所に到着した時には、すでに太陽は一番高い場所まできていた。


 彼女達がいる切り立った崖の上からは、劉備軍の陣地がよく見える。そこから視線を手前に移せば、黄忠と夏侯淵が激しい一騎討ちを繰り広げていた。そこは曹操軍陣地の裏手にある崖の上だった。


 「……お姉様、本当にここを駆け下りるの?」


 蒲公英が崖下を覗き込みながら言う。高さはおよそ15メートル。落ちたら命はないだろうし、よしんば助かったとしても無傷でいられるはずはない。蒲公英が尻込みするのも当然ではあった。


 「まったく、このくらいで怖気付くなよな、情けない」


 翠はため息混じりに返した。見れば、星や霞も当然といった顔をしている。


 「それよりも、どうだ、翠? 1つ勝負をせぬか?」


 星が声を掛けた。


 「勝負?」


 「ああ。どちらが先に敵陣への突入を果たすか。負けた方が漢中で酒を奢るのだ」


 「へへっ、いいぜ。後で吠え面かくなよ」


 「何や、おもろそうな話してるやん。ウチも1枚噛ませてもらうわ」


 酒、と聞いて霞が黙っている訳はなかった。2人の方に馬を寄せ、話に割り込んでくる。


 「ならば、一番槍を果たした者に奢る、それでよいな?」


 星の言葉に翠と霞は笑顔で頷いた。3人が3人共、自分が真っ先に敵陣への突入を果たせると疑っていなかった。


 「3人共、集中してください。そろそろでしょう」


 それまで黙って一騎討ちの様子を観察していた鷹那が諌める様に言った。翠達は話を切り上げて意識を切り替える。先程までの緩んだ雰囲気は一切なく、表情も引き締まる。それに中てられ、兵士達も気持ちを入れ直した。


 黄忠の矢筒が弾かれる。その直後、自陣内で白い旗が大きく振られた。


 「総員、臆する事なく突き進め! 我等の一撃を漢中奪取のための足掛かりとするのだ!」


 星が号令を飛ばす。同時に、彼女達は一斉に崖を駆け下り始めた。


 曹操軍の兵は完全に油断していた。正面は視界が開けて相手の動きがよく見え、後ろは崖に守られている。攻め込まれるはずはない、と思い込んでいた。多くの兵が自分達の総大将の一騎討ちに釘付けとなり、周囲の索敵も散漫になっていた。中には鎧を脱いで観戦している者までいる始末。当然、この奇襲に対応出来る訳はなかった。


 頭上から降ってくる騎兵に対し、ある者は槍を取り、ある者は早くも逃げ出している。だが、大半の者は突然の事に思考が停止し、何の手立ても取れないでいる。


 「よっしゃーっ! あたしが一番槍だ!」


 手にした槍で曹操軍の兵を蹴散らしながら翠は叫んだ。星も霞も自分の後ろにいたのを確認している。間違いなく一番槍を果たした。彼女はそう確信していた。だが、


 「残念だが、勝者はお主ではないぞ、ほれ」


 と、遅れて敵陣に飛び込んだ星が顎をしゃくる。


 「な、何やってんだ、遊んでないでしっかり働けよ!」


 その先には、白馬に跨り剣を振るう少女が1人。他でもない、白馬長史の異名を持つ公孫賛だった。


 「ぱ、白蓮!? くそっ、気が付かなかった……」


 がっくりと落胆する翠の肩を星が慰める様に優しくたたく。


 「白蓮殿だ、気付かなくとも仕方あるまい」


 「……お前等、いい加減にしろーっ!」


 公孫賛の叫び声は、戦場の喧騒の中にむなしく消えていった。




 敵陣への奇襲を確認した後、橋の側に潜んでいた部隊もその身をさらし、突撃を開始した。


 「遅れるな! 仲間のためにも、何としても橋を奪取するぞ!」


 先頭で関羽が檄を飛ばす。橋への強襲部隊には関羽を筆頭に、鈴々や恋、魏延等が属していた。さらには、後方にある斜面の上、わずかに平らになった場所に援護の部隊を展開している。こちらの指揮は雛里だ。


 「今です、巨大弩砲、発射してくだひゃい!」


 目深に被った帽子の奥で雛里の双眸は冷静に戦況を捉え、分析していた。長期的な戦略や政治手腕では朱里に1歩劣る。だが、戦術や前線での部隊指揮に関しては、雛里の力は朱里を上回っている。少女はその小さな体を目一杯動かし、左手を前方に振りながら号令を発した。直後、3台の巨大弩砲から大きな袋が発射された。


 この巨大弩砲は、もともとは一刀によってもたらされた技術である。そこに朱里と雛里の知識が足され、改良を加えられた。飛距離の上昇と、新たな弾の使用が可能になっていた。


 今撃ち出した弾もその内の1つだった。袋の口は紐で軽く縛られ、その紐は巨大弩砲に結わえられている。ある程度の距離を飛べば、自然と袋の口が開く様になっているのだ。その袋の中には大量の石が詰まっており、口が開くと同時に石は宙にばら蒔かれた。石の群れは上空から橋の守備兵に襲い掛かる。


 拠点破壊兵器だった巨大弩砲は、こうして対人兵器としての役割も与えられる事となった。


 無数の石つぶてに襲い掛かられ、曹操軍の守備兵は大いに怯んだ。突入部隊への援護としてはこれ以上ない。


 「鈴々、恋、お前達は一気に橋を突っ切れ!」


 「任せるのだーっ!」


 「……ん」


 関羽の命令にそれぞれ返事をし、速度を上げて駆けていく。鈴々は丈八蛇矛を、恋は方天画戟を激しく振り回し、谷のこちら側にいた敵兵を吹き飛ばす。その勢いは1つも衰える事なく、2人は敵の密集した橋の上を対岸まで駆け抜けた。




 一体どこで道を踏み外したのか。ついさっきまでは、圧倒的に優位だったはずだ。渦を巻く剣撃の音と断末魔の絶叫を遠くに聞きながら、夏侯淵はそんな事を考えていた。


 慢心。この言葉が頭に浮かぶ。


 橋という要衝を押さえた事で、敗北はないと高を括った。罠の可能性に気付きながら一騎討ちに応じたのも、慢心があったためだ。仮に状況が五分であったなら、恐らく一騎討ちの申し出は受けなかっただろう。


 「今更、だな」


 そう呟き自嘲する。だが、まだ戦は終わっていない。やらなければならない事が存在していた。


 視線は正面、谷を越えた先にいる黄忠を捉えたまま、意識は後方にある布幔の裏側へと向ける。そこにいるはずの副官の気配は感じられない。


 そうだ、それでいい。夏侯淵は心の中で副官を褒めた。漢中へ撤退するため、残っている部隊をまとめに行ったのだ。自ら見出だし、副官に抜擢したのは間違いなかった。後は、自分の事だけだ。


 「黄忠殿、悪いが大人しく虜囚となるつもりはない。そうなるくらいなら、この場で自決する覚悟はある」


 距離があったために夏侯淵は気付けなかったが、黄忠の眉根にシワが寄った。劉備軍としては、夏侯淵を捕らえて今後の交渉材料としたいところだったが、夏侯淵には利用されてまで生き延びるつもりはなかった。


 矢を構える黄忠の腕に、これまでより力が込められる。


 「……残念だわ」


 声と同時に矢が放たれた。


 『華琳様、貴方の目指す覇道に力添え出来ず、申し訳ないです。姉者、私の分まで華琳様に忠義を尽くしてくれ。あまり華琳様に御迷惑をお掛けしないでもらいたいな……』


 夏侯淵の頭の中を別れの言葉がめぐる。今更足掻いたところでどうなるものでもない。すでに覚悟は決まっている。


 彼女の瞳は自らに迫る矢を捉え続けていた。まるで魅入られたかの様に、己の命を撃ち抜かんとする矢を見つめる。凄い、と素直に感嘆した。


 この距離で当てるのはそう難しい事ではない。だが、黄忠の放った矢は、確実に眉間を貫く軌道を描いている。噂に違わぬ腕前を持っていた相手と戦い最後を迎える。武人としては本望だ。


 このまま命を散らすはずだった。だが、彼女の意識はその肉体にとどまったままあった。眉間を貫くはずの矢は彼女の眼前で止まっていた。


 「ご無事ですか、秋蘭様?」


 顔とやじりの間は拳1つ分あるかないか。その距離で止まった矢をつかんでいる人物がいる。


 「……凪か、助かった」


 そこにいたのは楽進だった。彼女は矢を投げ捨てると、片膝をついた状態でいる夏侯淵の脇にしゃがみ込んだ。


 「……風の指示か?」


 はい、と返事をし、楽進は頷く。夏侯淵の予想通り、涼州へと赴いた程立は楽進に対し、自分に代わって漢中へ行き夏侯淵を補佐する様に命じたのだった。


 さすがに抜け目がない。夏侯淵は程立の対応に感謝しつつ立ち上がる。死ぬ覚悟は出来ていたが、こうなった以上はここで死んでやる義理もない。


 「黄忠殿、今回は私の負けだ。だが、いつか再びまみえるその時は貴方を超えてみせよう」


 黄忠はすでに弓を下ろしていた。この距離では、楽進を弓で仕留める事は出来ないと感じたのだろう。夏侯淵の言葉に返事はせず、2人に背を向けて立ち去っていった。


 この後、夏侯淵は残存戦力をまとめて漢中への後退を開始。そこで籠城戦を行うつもりだった。しかし、劉備軍の追撃は予想以上に激しく、大損害を被ってしまう。兵の士気が著しく低下した事もあり、夏侯淵は漢中を放棄して長安へと撤退せざるを得なかった。


 こうして、桃香は高祖劉邦が天下統一の礎を築いた漢中の地を手に入れる事となったのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ