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第5章-漢中編・第3話~漢中侵攻~

 よかった。抱き締め合う一刀と翠の姿を見て、鷹那が感じた事はまずそれだった。肩の荷が下りた気がしてホッとする。隣を見れば、蒲公英も鷹那同様、安堵の表情を見せている。これまでの事を思い出してか、その瞳からは涙がこぼれそうだ。


 鷹那は視線を2人へと戻す。存在を確かめ合う様に互いを抱く姿に、鷹那の顔にも珍しく微笑みが浮かんだ。後に激しく後悔する事になるのだが、この時、彼女の緊張は完全に緩んでいた。


 鷹那の背後から、何かが耳元を掠めた。ヒュン、という風切り音を残して飛んでいくそれが何であるか、一瞬分からなかった。分かった時には、それを止める術はすでに失われていた。


 矢だ。矢が翠を目掛けて真っ直ぐに飛んでいる。


 その光景は、鷹那の目には非常にゆっくりと映った。今から追いかけても、簡単に素手でつかめそうなくらいゆっくりと。だが、実際には体は1つも動かない。声を発する事すら出来ない。ただ、自分の主君が傷付けられるのを待つだけだった。


 しかし、その通りにはならなかった。体を入れ替えた一刀の背に矢は刺さった。


 翠が無事である事にホッとする。だが、すぐに思い直した。当然だが、一刀は無事ではない。彼は翠に体を預けて倒れた。


 目の前には、時間がゆっくり流れる世界が相変わらず存在している。頭だけは普段の速度で動いていて、いくつもの考えが浮かんでくる。だが、正常ではないらしい。それらは次々と消えていき、何1つ考えがまとまらない。


 「……か、一刀ーっ!」


 翠の絶叫が聞こえた瞬間、鷹那の中で再び正確に時は流れ始めた。


 とにかく、まずしなければならないのは状況の把握だ。矢が飛んできたのは後方から。そして、彼女等の後ろには張魯軍。考えるまでもなかった。


 2人の姿を見て、馬超が裏切った、と考える者がいてもおかしくはない。むしろ、真っ当な判断だと言える。実際、翠が一刀と和解した以上、いつまでも張魯に手を貸す必要はないのだから。


 とはいえ、世話になったのは事実だし、どう筋を通したものか、という問題もあった。それも、翠が射られて一刀が傷付いた事で解決した。


 裏切りを勘繰った張魯軍から先に攻撃をされた。今ならそんな言い訳が成り立つ。苦しいのは間違いないが、離反の理由としては十分だ。


 後は、いかに時間稼ぎが出来るか、だけだった。


 鷹那の耳に剣撃の音と喚声が入ってくる。馬超隊と張魯軍の戦端はすでに開かれていた。


 漢中で冬を越している間に、曹操に敗れて離散していた兵達が少しずつ集まった。その数は、わずかに千人。たったそれだけの兵数で、張魯軍約二万五千を相手に勝てる訳はない。しかし、ここで退けば翠と一刀の身が危なくなる。玉砕覚悟で踏ん張るより道はない、と心を決める。


 「殿は私が務めます。たんぽぽ、貴方は姫と合流し、劉備殿に保護してもらいなさい。一刀さんが上手くやってくれているはずです」


 でも、と蒲公英は反論しようとする。が、それよりも早く、鷹那が蒲公英の跨がる馬の尻を叩いた。もちろん全力ではないものの、槍の柄で叩かれたのだ。痛みと驚きによって大きく嘶くと、蒲公英を振り落とさんばかりの勢いで駆け出した。


 そんな蹄の音を聞きながら、鷹那は馬首を返す。そして、馬の腹を蹴ると、乱戦状態にある両軍の真っ只中に飛び込んでいく。槍の1振りで数人の命が刈り取られる。いきなり現れたその存在に、張魯軍の兵達はわずかに怯んだ。


 「聞けっ! 勇敢なる西涼の戦士達よ! 御遣い殿はその身を挺し、我等が主公、馬超様をお守りくださった! ならば、我等はその意気に応えねばならん! 馬超様と御遣い殿が後退するまでの時、稼いでみせよ! 漢帝国最強である涼州騎兵の力、張魯の弱兵共に見せつけてやれ!」


 鷹那が檄を発すると、兵達は鬨の声をもって応えた。奇襲を受けた格好で浮き足立っていた彼等は、直ぐ様体勢を立て直して張魯軍に当たる。鷹那も自ら先陣を切り、次々と敵兵を屠っていく。


 普段とは違い槍を操っているにもかかわらず、兵卒では相手にならない。まさに、一騎当千と呼ぶに相応しい大立ち回りだ。


 しかし、いくら鷹那が強かろうと、いくら涼州兵が精強であろうと、圧倒的な兵力差には抗えない。鷹那の部下は次々と倒れていく。


 そんな彼等に対して、わずかに意識を向けた時だった。鷹那の跨がる馬がつんのめる様に前に倒れ、彼女の体は宙へと放り出された。何とか受け身を取り、片膝をついて起き上がる。目の前には、両の前足を失って苦しそうにもがく愛馬の姿がある。


 「……今まで助かりました」


 口の中で呟くと、愛馬の脳天に槍を突き立て一撃で絶命させた。ここまで数年、共に戦場を駆け抜けた戦友へ、感謝と惜別の念を込めた介錯だった。


 槍を引き抜き、改めて辺りを見回す。敵、敵、敵。まさに蟻の這い出る隙間もないほど、周囲は敵兵に埋め尽くされている。


 『姫達は後退出来たのでしょうか。まあ、一刀さんさえ無事でいてくれれば、何とかしてくれるでしょう』


 人垣に阻まれて確認出来ない2人の安否を案じた後、今は亡き主君へと思いを馳せる。


 「琥珀様、どうやら私もそちらに行けそうです。最後まで、姫の行く末を見届けられないのは残念ですが……」


 わずかに申し訳なさそうな顔をした。だが、すぐに普段通りの冷静な表情へと戻り、彼女を取り囲む敵兵を睨む。圧倒的に有利な状況であるにも関わらず、彼等は鋭い眼光に気圧された。


 「……後は、どれだけの敵を道連れに出来るか」


 鷹那が槍を構えてみせると、敵兵は1歩下がった。


 結果は見えている。鷹那がいくら強くても、張魯軍という組織としての勝ちは決定的である。だが、その勝利を得るためには何人かは犠牲にならざるを得ない。そして、誰もがその犠牲にはなりたくないのだ。仲間同士で様子を窺い合い、牽制し合う妙な空気が辺りを支配する。


 そんな中、別の場所で喚声と悲鳴が上がった。直後、敵兵が数人宙を舞い、彼等の味方の上に落ちた。突然の事に呆然とする張魯軍。すると、今度は鷹那の近くで悲鳴が起こる。


 「まあ、何とか間におうたみたいやな、鷹那」


 戦場には似つかわしくない陽気な声に目を向ければ、そこには偃月刀を携える霞の姿があった。目があった瞬間、ニカッと笑う。


 さらには、恋と清夜も少し離れた位置でその武勇を奮っている。また数人、人が空へと舞い上がった。


 「霞、相手が崩れている今のうちに後退するぞ」


 そう声を掛けたのは、劉備軍の騎馬隊を任されている星だった。白馬に跨がったその体からは、ただ者ではない雰囲気が出ている。姫と互角、確実に自分よりも腕が立つ。一瞥しただけで、鷹那はそう見抜いた。


 「何ボケッとしとるんや。はよ乗り」


 眼前に差し出された手をつかみ、霞の後ろに飛び乗る。


 「助かりました。ですが……、もう少し早く来てもらいたかったですね」


 「あ~、すまんな~。せやけど、これでもめっちゃ急いだんやで?」


 もちろん、鷹那も本気で言った訳ではない。だが、大地に横たわる馬の亡骸を目にして、霞は少しおどけた風で謝った。馬を大切に思う気持ちは同じなのだ。鷹那の無念さを霞も感じ取ったのだろう。


 そんな2人の後方で、激しく銅鑼が打ち鳴らされる。前線で大暴れしていた恋と清夜も気付いたらしい。劉備軍は馬超隊の生き残りと共に、怯んだ張魯軍の隙を突いて反転し、後退を始めた。




 興奮している馬の手綱を強く引く。馬は前足を大きく上げ、1つ嘶いてから止まった。ちょうど一刀達のすぐ側だった。


 「お姉様、一刀さんは!?」


 飛び降り様、叫ぶ様に尋ねる。だが、翠の返事はない。一刀の様子を自分の目で確認した蒲公英は、思わず言葉を失った。


 うつ伏せに倒れている一刀の背中には、深々と矢が突き刺さっている。それにしては出血量が少なく見える。おそらく、刺さった矢自体が蓋の役割をしているのだろうと、今までの経験から想像出来た。


 そこへ、劉備軍側から無数の蹄の音が近付いてくる。とっさに身構えたものの、騎馬の群れは蒲公英達の脇を駆け抜けていく。その中の1騎が馬を止めた。


 「鷹那はウチ等に任しとき! その代わりに、一刀と馬鹿姫の事は頼むで!」


 霞が轟音に負けない大声で叫んだ。彼女は蒲公英の返事を待たず、再び馬を駆けさせた。


 先頭には恋さんやお清さんがいたし、星姉様もいた。だから、きっと鷹那姉は大丈夫。そう自分自身に言い聞かせ、遠ざかる轟音を耳にしながら蒲公英は視線を戻す。倒れている一刀の横には、膝をついている翠の姿があった。


 「お姉様。とにかく、一刀さんを連れて桃香さんの方に逃げないと」


 声を掛けたものの、翠に反応はない。呆然とした様子で、一刀の名前をただ何度も繰り返している。


 「お姉様! しっかりしてよ!」


 翠の肩をつかんで、体を揺すりながら呼び掛ける。すると、翠は虚ろな瞳を蒲公英へと向けた。


 「……あたしのせいだ。あたしのせいで、一刀まで……」


 従姉妹のこんな姿を見るのは初めてだった。母が殺された事を聞いた時でさえ、翠は怒りで暴れたものの、弱々しい態度など見せてはいない。


 目の前で、自分を庇って、と状況の違いはある。それでも、翠の中で一刀がどれだけ大きな存在かを思い知らされ、蒲公英は掛ける言葉を見付けられずにいる。


 そこへ、またもや蹄の音が聞こえてきた。ただし、今度は1つだけ。蒲公英が顔を上げると、長く艶やかな黒髪をなびかせる関羽が見えた。


 「北郷ど……!」


 馬を止めた関羽は一刀の状態を見ると、先程の蒲公英と同様に言葉を失した。だが、それも一瞬だけだった。


 「……と、とにかく、北郷殿は我々の陣へ連れていく。よいな?」


 冷静である事に努めているのが蒲公英にも分かった。初対面の時からどんな経緯があったのかは知らない。しかし、関羽も一刀の身を本気で案じてくれているのだと感じた。


 はい、と返事をして蒲公英は頷く。一方の翠は、全く反応を示さない。そんな彼女を鋭い目付きで見下ろし、関羽は翠の前に仁王立ちになる。その瞬間、関羽の右手が翠の頬を叩き、乾いた音を辺りに響かせた。


 「貴様はいつまでそうしているつもりだ! それで北郷殿が助かると言うのか!? もしそうなら、一生やっていろ!」


 翠を叱咤すると、関羽は気を失っている一刀の体を抱え上げる。そのまま自分の馬の背に乗せると、自分も鞍に跨がる。そうして、一刀と相向かいになる様にして、手綱を持つ両手の間で体を固定させた。


 「馬岱、だったな。お前もこい」


 蒲公英を一瞥し、関羽は先に馬を走らせた。一刀の事を考えたその速度はかなり遅い。


 「お姉様、たんぽぽ達も行こう?」


 関羽から翠に向き直る。平手打ちの衝撃で倒れた翠の顔に、麒麟と黄鵬が心配そうに鼻面を押し付けていた。


 「……大丈夫だよ。そんなに心配すんな」


 言いながら、翠は2頭の鼻筋を撫でていく。すると、まるで言葉を理解したかの様に、どちらも顔を翠から離した。彼女はわずかに微笑んで立ち上がる。


 「たんぽぽ、あたし達も行くぞ」


 「……うん!」


 黄鵬に跨がる翠に、蒲公英は笑顔で返事をした。


 2人揃って関羽を追った後、鷹那を救出した霞達も後退。これを追撃してきた張魯軍に対し、鈴々と魏延の率いる歩兵隊が迎撃にあたった。黄忠、厳顔の指揮する弓兵隊の的確な支援もあり、劉備軍は大した損害も出さずに張魯軍を撃退する事に成功したのだった。






 「そんな……」


 朱里からの報告に、一同愕然とした。


 劉備軍陣内の大天幕。ここには劉備軍の将だけでなく、翠達の姿もある。欠けているのは唯1人、一刀だけだ。その彼は、別の天幕にしつらえた寝台に横たえられている。


 一刀の容態を診た朱里と雛里の答えは、陣中での治療は不可能、というものだった。水鏡女学院において軍略や政治だけでなく、医学や薬学まで学んだ2人だ。その言葉に反論出来るほど医学に明るい者は、彼女達の中にはいなかった。


 「……っ! 月!?」


 月は顔面蒼白となり、ペタンとその場に座り込んでしまう。それに寄り添う様にしゃがみ込む詠を横目で見ながら、翠が口を開いた。


 「頼む、一刀を助けてくれ! あたしに出来る事だったら何でもする! だから、だから……」


 深々と頭を下げて懇願する。気持ちだけが先走り、言葉が続かない。そんな翠の肩に、桃香の手が優しく置かれる。


 「もちろんだよ、翠ちゃん。私達も、一刀さんを助けたい気持ちは一緒なんだから」


 翠を安心させる様に微笑むと、彼女は朱里へと視線を向ける。それを受けて、朱里は対応を話し始めた。


 「陣中では無理ですが、成都にいる腕の立つ医者ならば、何とか出来るかもしれません」


 「しかし、ここから成都まで戻るとなると、かなりの時間が必要になろう。ましてや、奴の容態を気遣いながらでは……」


 厳顔がそう口にした。この辺りの地理に関しては、軍師である2人よりもはるかに詳しい。


 「ええ。ですから早馬を出し、お医者様にもこちらに向かってもらいましょう。少しは必要な時間が減らせるはずです」


 「なら、あたしが!」


 「アホ! お前は成都までの道も分からんやろ! 成都に馬を飛ばすんはウチがやる。神速の張遼の二つ名が伊達やない事、見したるわ!」


 成都への遣いに名乗りを上げた翠だったが、霞に一蹴された。彼女の言った通り成都までの道も知らないし、仮に無事着いたとしても、医者が面識のない翠の話を正面から聞いてくれるとも限らない。霞の判断は当然だった。


 「……ですが、それでも数日は必要です。それまで一刀さんの体力が持つかどうか……」


 霞が勢いよく言い放った事でわずかに明るくなりかけた雰囲気が、朱里の悲観的な言葉で再び暗くなる。軍師としては、最悪な状況を考えるのは当然ではあったが、冷や水を浴びせる様な発言ではあった。


 「考えていてもしょうがないよ。とにかく、行動しなくちゃ!」


 そう元気に言ったのは桃香だった。不安な気持ちを押し殺し、笑顔で一同に発破を掛ける。不思議とその笑顔は皆に勇気を与え、大丈夫だ、と思わせるものがあった。


 そこへ、1人の兵が天幕の外から声を掛けてきた。


 「失礼します。今、陣の入り口に、北郷様に面会したい、という方が見えているのですが」


 一同は顔を見合わせた。一体誰が、という疑問は全員に共通していた。


 「華陀、と名乗っておりますが、いかが……」


 「華陀!?」


 「華陀さん!?」


 兵からの報告の途中で、数人がいきなり大声を上げた。そうでない者は、理由が分からずに少し怪訝そうな顔を見せている。


 「その方は腕の立つ医者です! 彼ならば、一刀さんの治療も行えるかもしれません!」


 珍しく、戦場以外で鷹那が声を張り上げた。その語勢に圧されながら、桃香は報告にきた兵に対して、華陀を通すように命令した。


 陣内へと通された華陀は、早速、一刀の寝かされている天幕へと案内された。何か話がある様だったが、それよりも一刀を治療する方が先、と事情を聞いた彼も理解してくれた。


 華陀が天幕から出てくる。すると、外で待っていた翠達が彼を取り囲み、心配そうな瞳で見つめる。助かるのではないか、という希望と、駄目なのかもしれない、という不安が入り混じっている。


 「大丈夫だ、俺に任せておけ。あれくらいなら問題ない」


 意気込んだ様子も見せず、淡々とした口調で言う。それが妙に頼もしく、辺りには安堵の空気が広がった。


 「ただ、助手として誰かに手伝ってもらいたいのだが……」


 「わ、私がやります。やらせてください!」


 華陀が言い切らないうちに、月が名乗りを上げる。普段、あまり自己主張を見せない月の行動に、驚いた表情を見せる者が何人かいた。そして、もう1人。


 「あ、あの……、私も手伝いましゅ。水鏡女学院にいた時に、少しですけど医学も習っていますかりゃ……」


 やはり、こちらもあまり前に出る事のない雛里が、語尾を噛みながらも手を上げた。2人共、一刀に命を救われた、との思いがある。その恩を返すためにも、ここで華陀の手伝いをしたい、と強く願っていた。


 「分かった。なら、この2人を借りるが、いいな?」


 もちろん、桃香達に断るつもりはない。一刀が助かるのなら、何だってするつもりでいるのだから。


 「はい、よろしくお願いします。……頑張ってね、雛里ちゃん、月ちゃん」


 2人は頷くと、華陀に続いて天幕へと入っていく。


 こうなってしまうと、とりあえず一刀の事で出来る事はなくなる。そうして、現状の把握すらまだ行われていない事に、桃香達は今更ながら気付いた。


 「じゃあ、翠ちゃん。大天幕に戻って、お話を聞かせてもらってもいいかな?」


 一刀のいる天幕を、ただジッと見つめていた翠は、急に声を掛けられて慌てた様子で振り返る。ああ、と焦った感じで返事をした。


 「……一刀さんの事が心配なら、ここに残ってくれていてもいいよ?」


 申し訳なさそうな表情で、翠の顔を覗き込む様にしながら桃香は尋ねてくる。


 「いや、行くさ。平気だから、そんな顔すんなって」


 ここにいたい。もっと言えば、華陀の手伝いをして一刀を助けたい。そんな思いは当然あった。


 だが、がさつな自分にはそれが無理な事は分かっている。そして、手伝いが出来ない以上、ここにいても何の役にも立たない事も理解している。あたしが今しなければならないのは、ただここにいて無為に時を過ごす事ではないのだ、と強く自戒する。そうでなければ、自分の命を危険に晒してまで守ってくれた一刀に申し訳が立たない。


 後ろ髪を引かれる思いではあったものの、翠はその場を後にした。




 話と言っても、琥珀が殺されたと聞いて打倒曹操の兵を挙げたところから、曹操に負けて落ち延びたところまでは、詠達の口からすでに語られていた。翠が伝えなければならないのはその先、漢中で別れた後の事だ。口下手な彼女は、ところどころ鷹那や蒲公英に補足されながらも、これまでの経緯を説明した。


 「……つまりは、曹操さんと戦うために張魯さんに協力をお願いした。それを叶える代わりに、私達を倒して益州を手に入れるように命令されたんだね? じゃあ、一刀さんが射られたのは……」


 「おそらくは、姫と一刀さんが抱き合っているのを見て、寝返ったと判断されたためだと思います」


 鷹那が自分の考えを述べる。


 「大筋はそうであろうが、何か釈然としないものが残るな。妙に行動が早かった、というか、まるで予定していたかの様に感じられたのだが」


 張魯軍の判断は、結果を見れば誤りではない。だが、星は微妙な違和感を感じていた。しかし、考えても答えは出ず、一通りの話が終わった大天幕内は静寂に包まれた。


 そんな中、翠が桃香に向かって真剣な顔で切り出した。


 「……桃香。勝手な願いだって事は理解している。張魯に助力を求めておいて、今度は刃を向けた桃香に頼むなんて、恥知らずな奴だと思われても仕方ないと思ってる。だけど、それでもあたしはやらなきゃならないんだ。母様の敵を、曹操を討つために、あたしに力を貸してくれ! あたし達をここに置いてくれ! 頼む!」


 深々と頭を下げた。自分で言ったように、ものすごく不誠実であるとは分かっている。それでも、今の翠を突き動かしているのは母への思いだ。これだけは、誰に何と思われようとも諦める訳にはいかない。


 「……やっぱり、敵討ちを止める事は出来ないの?」


 桃香の悲しそうな声が頭の上から聞こえた。翠が顔を上げると、桃香は心苦しそうな表情を見せている。


 「ああ、無理だ」


 翠はきっぱりと即答した。桃香の目が伏せられる。その表情に多少の罪悪感を覚えたものの、自分の覚悟を覆すまでには至らない。


 「……もし、敵討ちを諦めなければあたし達を受け入れてくれない、と言うなら、あたしはそれでも構わない。ただ、たんぽぽと鷹那だけは面倒を見てやってくれないか?」


 「ちょっと、お姉様!?」


 「姫!」


 突然の言葉に、蒲公英と鷹那は驚きの声を上げる。翠は自分の後ろに控える2人を一瞥し、桃香へと視線を戻す。


 「ううん、そんな事を言うつもりはないの。一刀さんと約束もしたし、翠ちゃん達にはお世話になったんだし」


 そう言って伏せていた目を上げた桃香の顔からは、先程の感傷的な色は消えていた。


 「私はね、争いのない、皆が笑って暮らせる国にするのが目標なの」


 「そんなのは……」


 「うん、分かってる。理想どころか、夢想に過ぎないのかもしれない、って」


 桃香は寂しそうに笑ってうつむく。しかし、次の瞬間、強い決意の宿った瞳を翠に向けた。


 「でもね、無理だ、って諦めちゃったらそこまででしょ。私はこの理想を捨てるつもりはない。皆も、私のこの想いに共感して力を貸してくれているの」


 語気が荒い訳ではないが、翠は確かに気圧されているのを感じた。真っ直ぐに自分を見つめる眼差しが心を打つ。


 「もし、翠ちゃんが曹操さんを討ったら、今度は誰かが曹操さんの敵討ちを考える事になる。それじゃあ、いつまで経っても憎しみ合いは終わらなくて、どこまでも争いが続く事になっちゃう」


 「……やっぱり、諦めろ、って言ってるんじゃないか」


 「強制はしないよ。私だってお母さんが殺されたら、その相手を恨まないでいられるかどうか分からないから。でもね、恨みを捨てて相手を許さなければ、いつまで経っても争いは無くならないでしょ? それが私の考えなの。……納得出来なければそれでもいい。でも、私がこう考えている、って事だけは覚えておいてね?」


 こう言いながらも、今回の張魯軍の侵攻に対して武力を行使した。自衛のためとはいえ、両軍共に死傷者が出ている。家族や友人を失った者が、それを奪った相手に対して恨みを抱かないのは無理だろう。


 桃香の話には矛盾がある。だが、その矛盾を抱えても前に進もうとする強さがあった。少なくとも、翠はそう感じた。


 「……正直、あたしには桃香みたいに考える事は出来ないと思う。でも、桃香がそう考えている事だけは忘れないよ。約束する」


 翠も桃香の瞳を見つめ返した。ピンと張り詰めた空気。それを崩したのは、やはり桃香自身だった。


 「よかった~。それじゃあ、改めてよろしくね、翠ちゃん」


 さっきまでの真剣な表情はどこへやら、桃香はだらしなく破顔した。それにつられて場の空気も緩む。ようやく霧散した緊張感だったが、関羽の咳払いで再び雰囲気が変わる。


 「つまりは、お前も桃香様に仕える。そういう事だな? ならば、その仕える相手を呼び捨てにするのが西涼の習わしなのか?」


 明らかに関羽は不機嫌と分かる表情をしていた。翠達は気付かなかったが、星や黄忠は少し離れた位置から、肩を竦めて苦笑いをしながら眺めている。


 翠と桃香、以前と2人の関係は違う。客将となるのか、それとも正式に仕官するのか。どちらにしても、主君と臣下の関係になる事には違いない。関羽が周囲に示しをつけるためにも、ここをはっきりとさせたがっているのだと、翠にも分かった。


 「い、いいよ、今のままで。一刀さんだって、私の事は呼び捨てで呼んでくれているんだし」


 そうか、こう言ってしまう性格だからこそ、関羽はあえて厳しい言い方をしているんだ。苦労してんだな。


 ここまで、周囲にかなり苦労をかけてきた翠であったが、まるで他人事のように考えていた。しかし、関羽の言う事はもっともだ。翠は2、3歩下がると片膝をつき、手を体の前で組んだ。蒲公英と鷹那もそれに倣う。


 「馬騰が娘、馬超。その従姉妹、馬岱。母の代よりの臣、鳳徳。これより先、我等3人は桃香様の御ため、身命を賭す事を誓います。……ま、よろしく頼むよ、桃香様」


 そう言って翠が笑ってみせると、寂しそうにしていた桃香の顔もほころんだ。



 昼過ぎに始まった一刀への治療は、山の稜線にすっかり太陽がかかった頃になってようやく終わった。あまり様子の変わらない華陀に続き、疲労困憊といった感じの月と雛里が戻ってくる。しかし、疲れてはいても、その表情はどこか明るい。


 「華陀、一刀は……」


 2人の表情から、おそらくはいい結果なのだろうと予測は出来る。だが、やはり華陀の口から直接聞くには勇気がいった。


 そんな翠の気持ちを知ってか知らずか、華陀は事も無げに答える。


 「ああ、大丈夫だ。内臓も傷付いていない。もっとも、傷が深いからな。しばらくは絶対安静だぞ」


 その言葉を聞いて、緊張していた心と体が弛緩していくのが分かる。気を抜いたら涙がこぼれそうだ。


 「お姉様~」


 すでに涙声になった蒲公英が胸に飛び込んできた。それをしっかりと抱き止め、喜びに涙を流す蒲公英の癖っ毛を優しく撫でる。その顔には険の取れた柔らかな笑みが浮かぶ。琥珀が死んで以来、久しぶりの表情だった。


 「ところで、一刀さんに話とは一体何でしょうか?」


 和やかな雰囲気の中、1人冷静に鷹那が問い掛けた。その声に全員が喜びを表すのを止め、華陀に注目する。


 「ああ、そうだったな。すっかり忘れていた。実は、漢中が曹操に制圧された」


 衝撃的な内容をサラリと言う華陀。一同が驚きに包まれる中、一刀から話を聞いていた軍師陣は、この事を可能性として頭の隅に置いていた。しかし、焦りがない訳ではない。漢中を押さえられているのは、桃香達からしてみれば喉元に剣を突き付けられているのと一緒である。朱里達は、張魯が侵攻してきたのを口実にして漢中へ進出するつもりでいたのだ。


 「俺が薬草を採りに3日程山に入って戻ると、城壁に『曹』の旗がはためいている状況だった。警備がものものしくて街には戻らなかったんだが、聞いた話では、一戦も交える事なく降伏したらしい」


 「なっ……! じゃあ、張魯は初めからあたし達を裏切るつもりだったのか!?」


 驚きで口をついて出た言葉は、蒲公英と鷹那には耳が痛かった。張魯に身を寄せたのは一時的で、一刀と合流する事を目論んでいたのだから。


 「そうですね。もしかすると、馬超さん達が漢中を離れる前から曹操さんと通じていたのかもしれません。少なくとも、馬超さんを殺そうとしたのは初めから決まっていた事でしょうね。馬超さんの首級を挙げて、確かな地位を手に入れようとしたんだと思います」


 朱里は自分の予想を述べる。次はどんな手を打ってくるのか。そんな事に思いを巡らすかの様に、彼女は顎に手を当てて難しい顔をした。






 もやがかかった様に頭がすっきりとしない。まるで鉛の様に体が重い。まぶたを開くのも、指1本動かす事さえも億劫だ。そもそも、どこまでが自分の体なのか。その感覚すら曖昧になっている。何を考えるのも面倒で、再び意識を放り出そうかと思う。


 ふと、遠くから声が聞こえた。何を言っているのか分からない。懐かしく、それでいて、最近聞いた声だとおぼろ気に感じる。段々と大きくなり、自分の名を呼んでいるのだと聞き取れる様になった。


 目を開けないと。そんな思いが彼の中に生まれる。


 まるで接着剤で貼り付けられたかの様に、まぶたは離れるのを拒む。それでも、目を開けなければ、という妙な使命感が彼を突き動かす。


 一刀はまぶたをゆっくりとこじ開けた。


 目を開けてみても同じだった。やはり頭はすっきりとせず、体も重く満足に動かせない。これが麻沸散の影響であると知るのは、まだ数日先の事だ。


 「一刀!」


 大声で名前を呼ばれた。ぼやける視界の中に誰かの姿がある。


 「……」


 眼前にいる少女の名を呼ぼうとしたが声が出ない。ただ、口だけが動いた。


 少女は顔をずいと近付ける。心配そうに一刀の瞳を覗き込む。その目は真っ赤に充血し、まぶたは腫れ上がっていた。


 一刀は寝台の上にうつ伏せに寝かされていた。その事が分かるくらいには、彼の頭は動いていた。


 彼が目を覚ましたのは、華陀による手術が終わった翌日の夕暮れ近く。丸1日以上眠っていた事になる。


 「……大丈夫か?」


 ためらった様子を見せた後、翠が尋ねた。この状況でそう尋ねるのがどれだけ間の抜けた事か、彼女にも分かっていた。それでも、適当な言葉が見付からない。


 一刀はしばらくの間の後、首をわずかに縦に振った。体がまともに動かず、言葉も発せない状態だ。頭の中もすっきりしない。それでも痛みは感じていないし、何より翠にいらぬ心配をかけたくなかった。


 安心した様な表情に変わり、翠は顔を離す。寝台の脇にある椅子に腰を下ろすと、改めて一刀の顔をじっと見つめた。神妙な面持ちのまま、翠は口を開く。


 「ごめん、一刀。あたしのせいで、こんな事に……。あたしが考えなしで、誰の言う事も聞かないで暴れたせいで、お前が……」


 言いながら、涙がぽろぽろとこぼれ出した。


 泣くなよ。そう言いたいが声が出ない。


 俺が見たいのは泣き顔じゃない。俺が好きなのは、真夏に咲く大輪のひまわりの様な笑顔なんだ。そう伝えたくても言葉に出来ない。


 一刀は右腕に意識を集中した。確かに重い。だが、動かない訳ではない。少しずつ動き出した右腕は、彼の体にかけられていた布団の外に出る。そのままゆっくりと、ほんのわずかずつだが、翠の頬へと伸びていく。


 うつむきながら涙を流していた翠は、頬に触れられるまでその事に気付かなかった。ハッとした表情で顔を上げる。


 一刀の手はいとおしそうに翠の頬を撫でる。しばらくそうした後、親指で涙を拭い、そして微笑む。


 「一刀……」


 言葉に出来なくとも思いは伝わるものだ。翠も一刀に笑みを返す。


 2人の間を静かな時が流れる。が、それもほんの一瞬の事だった。


 「お姉様、大変! すぐに来て!」


 そんな声と共に、天幕の中に蒲公英が飛び込んできた。翠は座っていた椅子を倒しながら、大慌てで一刀から離れる。何事もなかったかの様に振舞おうとするが、こんな状況を蒲公英が見逃すはずもない。


 「一刀さん、気が付いたんだね。……それにしても、2人っきりで何やってたの?」


 ニヒヒッ、と笑いながら、蒲公英は翠に問い掛けた。久しぶりに、蒲公英の中にある悪戯っ子の部分が首をもたげた。


 「な、何でもない! 何もしてないからな!」


 顔を真っ赤にし、むきになって否定する。これもまた、久しぶりだった。


 「そ、それより、大変って何がだよ?」


 話題を変えるべく、翠はさっきの蒲公英の言葉について尋ねた。問われた蒲公英は、思い出した様に真面目な顔へと戻る。


 「そうだ、大変なの! 曹操からの使者が来たんだよ!」


 驚きか、はたまた怒りか。蒲公英の答えを聞き、翠は思わず目を剥いた。






 「まあ、予想通りでしたね~」


 漢中の城のとある一室。使者に対する桃香の返答を聞き、程立が間延びした口調で言った。


 「ああ。こちらの要求を受け入れる事はないだろうと思っていた。とはいえ、これで大義名分は立ったがな」


 程立と共にこの場にいるのは夏侯淵である。


 曹操軍は現在、曹操自ら軍を率い、夏侯惇や郭嘉等を連れて孫策が治める徐州へと侵攻していた。曹操の信任厚い夏侯淵は、涼州及び益州方面の指揮権を委ねられている。涼州を楽進、李典、于禁の3人に任せ、彼女自身は参謀の程立と共に漢中へと進出したのである。


 ところで、夏侯淵が桃香に送った使者の要求とは何だったのか。それは、翠とその縁者の引き渡しであった。その見返りとして、桃香が正式に益州牧の任に就ける様、曹操自ら皇帝に上申する事を提示した。だが、桃香はそれを断ったのである。


 これにより、劉備軍は逆賊馬超を匿い漢王朝に反逆を企てている、という構図が出来上がる。ここまで明確な対立関係がなかった両者だが、曹操は益州攻めの口実を手に入れる事が出来たのだった。


 しかし、ただ攻め込まれるのを待っているはずはない、と程立は考えていた。こちらの兵力が整わないうちに漢中に進撃してくるだろう、と。


 予想される侵攻に対し迎撃をしなければならないのだが、ここで1つ問題が生じた。涼州に派遣している楽進から、程立を寄越して欲しいとの報告があったのである。曹操に従わない一部の豪族が異民族と結託しようとしているらしく、程立の知恵を借りたいと言うのだ。これを受けて、夏侯淵は程立を涼州に回す事を即決した。


 「まあ、秋蘭様であれば言う必要もないと思うのですが……」


 「分かっている。定軍山を押さえるのだろう? あそこさえ押さえてしまえば、例え勝てなくとも、負ける事だけはありえないからな」


 程立の思った通り、夏侯淵は今回の戦における要点を見抜いていた。


 これなら大丈夫。そう思いながらも、程立の心の奥には拭い去れない不安があった。要衝である漢中を巡る戦いが、そうすんなりいくとはどうしても思えなかったのである。

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