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第5章-漢中編・第2話~こころ~

 翠の前に立ちはだかった一刀の姿を見て、桃香は慌てふためいている。話をするつもりなのかも、という淡い期待は、白刃に陽光が煌めいた時点で呆気なく打ち砕かれていた。


 「鈴々ちゃん、星ちゃん、お願い! 一刀さんを止めて!」


 彼女に出来るのは、一刀を止めて欲しいと懇願する事だけだった。しかし、その願いも届く事はない。


 「いくら桃香お姉ちゃんの頼みでも、それは叶えてあげる訳にいかないのだ」


 「どうして!?」


 少し困った顔で断った鈴々に桃香が詰め寄る。その問いに答えたのは、星の方だった。


 「桃香様、一刀は自らの意思で馬超との一騎討ちを受けたのです。それを、奴を思っての事とはいえ、我等が割って入る様な真似をすれば、奴の矜持を傷付ける事になる。それに、この状況で一騎討ちを仕掛けてきた馬超に対しても、面目が立ちますまい」


 星が語った武人の理屈は、桃香には分からなかった。分かるのは、このままでは確実に一刀が死ぬ、という事だけだ。何とかしなければ、との思いばかりが先走り、焦りと不安がいたずらに膨らんでいった。


 一方、一刀達を挟んだ反対側、張魯陣営でも、蒲公英が焦りを露にしていた。


 「ね、ねえ、どうしよう。だから、たんぽぽ言ったんだよ。一番なって欲しくない状況になっちゃったよ」


 涙目でそんな事を呟いている。蒲公英の慌てふためく姿を横目で見ている鷹那は、それとは対照的に落ち着き払っている様に見えた。






 翠達が張魯から成都侵攻を命じられたのは、鷹那の傷が完治してすぐの事だった。


 張魯は五斗米道という宗教団体の教祖である。が、実際には漢中の太守に過ぎず、それほど大きな軍事力や国力を有している訳ではない。当然、曹操を向こうに回して真正面から戦う事は不可能なのだ。そのため、張魯は劉備を倒し、益州全体を支配下に置こうと言うのだ。


 「劉備を討ち、益州を手に入れたら、曹操と戦うのに協力してもらえるんだな?」


 翠の念押しに、張魯は大業に頷いた。その容姿は宗教家らしく、どこか俗世とはかけ離れて見え、不気味さが滲み出ている。


 「お、お姉様……」


 蒲公英は翠の決断を諫めようとする。しかし、翠にひと睨みされただけで、次の言葉を発する事は出来なくなった。


 成都に一刀達がいる以上、そこを攻める事に二の足を踏むのは当然だ。それだけではなく、張魯に対して蒲公英が不信感を抱いているのであろう事も、鷹那には分かった。この時が張魯との初対面であった彼女も、信用するのは難しい相手だと感じていた。


 そんな思いを他所に、翠は張魯軍の先鋒を引き受けてしまった。何の意見も言わせてもらえず、勝手に決められた格好の蒲公英は、張魯の前を辞した後、早速文句を口にする。


 「お姉様、何考えてるの。桃香さんを攻めるなんて」


 「母様の敵を討つためだ」


 前を行く翠は歩を緩めず、振り返る事もせずに、突き放す様に冷たく言い放った。それでも蒲公英は食い下がる。


 「だって、桃香さんのところには一刀さんだっているんだよ! それでも戦う、って言うの!?」


 わずかに肩が震え、正確なリズムを刻んでいた翠の足が止まる。沈黙がしばらくその場を支配していく。


 蒲公英がもう一度声を掛けようと口を開いた時だ。翠が2人に向かい、背中越しに言った。


 「……裏切り者を始末する、いい機会じゃないか」


 その言葉に愕然とし、しばし時間が止まる。呆然とする2人をおいて、翠は再び足を前に出した。


 「ちょ、ちょっと……!」


 その背中に声を掛けようとした蒲公英を鷹那が止めた。肩に置かれた手に自分の手を重ねて振り向いた蒲公英に、鷹那は黙って首を横に振る。その瞬間、少女の瞳にはみるみる涙が溜まり、あっという間に1粒こぼれ落ちた。


 「どうして……? どうして、お姉様と一刀さんが戦わなきゃならないの? おかしいよ、そんなの……。たんぽぽ、そんなの嫌だよ!」


 最初の1粒が落ちた後は、もう歯止めがきかない。止めどなく溢れる涙と共に、今まで抑えていた感情が爆発する。


 これまでの事で一番傷付いていたのは、たんぽぽだったのかもしれない。泣きじゃくる蒲公英を胸に抱きながら、鷹那はそう感じた。


 母親代わりに自分を育ててくれた最愛の叔母を失い、尊敬している従姉妹が、その想い人に憎しみを抱く姿を間近で見続けてきた。彼女がどれだけ心を痛めていたか。自分自身と照らし合わせて考えても、推し量る事は難しかった。


 自分の薄い胸に顔を埋めて号泣し続ける蒲公英の髪を撫でながら、鷹那は一刀がいるであろう南の空へと目を遣った。






 張魯に成都侵攻を命じられた時、鷹那は自分達の言葉が翠に届かないのだと悟った。


 だが、まだ可能性はある。月に生きる決意をさせた様に、一刀ならあるいは。鷹那は希望に似た、おぼろげな予感を抱いている。


 とはいえ、楽観視している訳ではない。もし、姫の心を開けなければ。その時は、主君に殉じる覚悟でいた。


 この場にいる様々な人の様々な想いは、全て中心にいる2人の男女に向けられていた。




 馬から降りた一刀にあわせる様に、翠も馬から降りる。とりあえずは、一刀の思惑通りだ。馬上で戦ったのでは、手も足も出ない。もっとも、降りたからといって勝ちの目が出る、という訳でもないのだが、馬に跨ったままよりはどうにか出来るはず、と考えていた。


 翠をじっと見つめる一刀の耳元に、麒麟が鼻面を当ててくる。


 「心配するな。お前のご主人様は、俺が必ず何とかして見せるから」


 優しい口調で言いながら、麒麟の顔を軽くたたいてやる。少しくすぐったそうな顔をした麒麟は、一度翠の方を向く。その後、まるで言葉を理解したかの様に大人しくその場から離れた。


 一刀の視線の先にいる翠も、黄鵬の首をポンポンとたたき、その場から離れさせている。


 互いに武器を構え合う2人。戦場にいる誰もが言葉を発さず、物音1つ立てない。彼等の耳に届くのは、大地を吹き抜ける風の音と己の心臓が放つ鼓動音だけ。


 不意に一陣の風が辺りを抜けた。砂埃を舞い上げ、幾人かは思わず目を逸らす。


 その瞬間だった。一刀は地面を蹴り、一気に翠との距離を詰めた。


 翠はわずかに動揺した。踏み込みの速度と思い切りのよさが、彼女の予測よりも高かったからだ。


 翠と別れた後も、もちろん一刀は鍛錬を続けていた。特に、成都に着いてからは関羽や鈴々、星など、翠と互角の力を持つであろう将に稽古をつけてもらってきた。当然、一朝一夕には強くならない。だが、様々な将と刃を交えた経験は、確実に彼の血肉となっていた。


 刀で槍と対する場合、一番の問題は間合いの違いだ。距離が開けば、突きの連撃で押し切られてしまう。危険を覚悟で懐に飛び込まなければ、一方的に攻め続けられる事になる。蒲公英の様に実力が伯仲していれば、そこから覆す事も可能だ。しかし、翠との実力差では一度後手に回ったが最後、反撃に転じる事は出来ないだろう。


 「はあっ!」


 気合と共に右手に握られた太刀を薙ぐ。後方へわずかに跳んでかわした翠に、一刀は右足を踏み込みつつ、振り抜いた太刀を右へと返す。2撃目は槍の柄で受け止められた。


 甲高い金属音が炸裂した後、力比べの様になった両者の動きは一瞬止まる。だが、あっさりと翠に力で押し返された。2、3歩たたらを踏んだもののすぐに体勢を立て直し、一刀は再度距離を詰める。横薙ぎ、袈裟懸け、突き。さらには蹴りも交ぜていく。


 対する翠は防御に専念し、一切の反撃を行わない。巧みに槍を手繰って斬撃を防ぎ、受け流している。


 全身を使って攻撃し続ける一刀。最小限の動きでかわし続ける翠。両者の動きの違いは、すぐに現れた。


 一刀の呼吸が乱れ始め、振るわれる刃から徐々に切れとスピードが失われていく。しかし、わずかに汗を掻いてはいるものの、翠には疲労の色は見られない。


 袈裟懸けに振り下ろした太刀を止められ、両者は鍔迫り合いの様な形になった。右手1本でつかんでいた太刀に左手を添え、両手で押し込む。そうしながらも、彼は荒くなった呼吸を整えよう試みる。ずっと張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩んだ。


 「がはっ……!」


 その瞬間、一刀の口から短く空気が漏れると共に、彼の体は後ろへと飛ばされた。翠の前蹴りが一刀の腹部を捉え、吹き飛ばしたのだ。少しの間、宙に浮いた後、数歩下がりながら何とか着地する。再び開いてしまった互いの距離。だが、酸素不足に陥った彼の体はその意思とは違い、前へ進む事が出来なくなっていた。


 少しでも多くの酸素を体に取り入れようと、一刀は必死に呼吸を落ち着かせる。それでも、彼の目は翠を捉え続ける。


 「どうやら、本気みたいだな」


 翠が呟く様に言った。俯いているため、一刀から表情を窺う事は出来ない。だが、足を開いて腰を落とす、いつもの構えを取った翠の体からは、殺気が湯気の様に立ち上っている。


 やばい、逃げろ。一刀の本能が早鐘を鳴らす。未だに重い足を無理矢理動かし、倒れる様に左側へと身を投げ出した。


 直後、翠の構えていた槍が消えた。実際には、目で追えないほどの速さの突きが放たれていた。


 一刀は3回ほど地面の上を転がって距離を置いてから、片膝をついて起き上がる。翠から目線を切らない様にしながら、左手の甲で右頬を拭う。その手は赤く染まった。彼の頬は5センチ程度の長さで浅く裂けており、傷口には血が滲んでいた。もし、かわすのが一瞬でも遅れていたら。彼の頭は果物の様に真っ二つにされていた事だろう。


 しかし、一刀にはそんな想像に背筋を寒くする暇もない。翠が追撃を仕掛けてきたためだ。


 立ち上がり、無数に浴びせられる突きを下がりながら防いでいく。突きだけではない。薙ぎ払いや振り下ろし、踏み込んできての石突きによる殴打など、様々な攻撃を見舞われる。一刀はそれらを何とかかわし、捌き続けていった。




 周囲が2人の戦いを心配しながら見守る中、恋だけは、1人違う事を考えていた。


 「……変」


 呟いた言葉は、隣にいる霞と音々音にしか届かなかった。


 「変、って何がや?」


 霞が顔を2人に向けたまま、目だけで恋を見ながら尋ねた。音々音も恋を見上げ、次の言葉を待っている。


 「……普段の翠、もっと強い。迷ってる……?」


 恋は小首を傾げた。


 霞は視線を2人へと戻す。そこには、一刀に対して容赦のない連撃を繰り返す翠の姿がある。到底、迷いがある様には見えなかったのだが、しかし、恋の見立ては正しかった。


 最初の一撃を放つ時には何の迷いもなかった。一刀は敵、そう決心したはずだった。しかし、一刀につけた傷から流れる血を見た瞬間、彼女の心の中で誰かが叫んだ。止めろ、駄目だ、と。


 迷いを吹き飛ばさんと烈火の如く攻撃を仕掛けたものの、精彩を欠いているのは彼女自身が一番感じていた。槍を振るおうとしても無意識に力を抑制してしまう。そうこうしているうちに、心の声はどんどん大きくなっていく。


 翠はその声に押し切られる形で狙いを変えた。


 一撃の重さを落とし、代わりに速度を上げる。ただただ攻め続ける翠と防戦一方の一刀。両者の立場は先程と逆転した。


 まるで流水の様に、淀みなく翠の攻撃は繋がっていく。それを受ける一刀は、前後左右に体を激しく振りながら防御を行っている。疲れた体にさらに追い撃ちをかけられた格好だ。すでに、彼の足元は怪しくなっていた。


 正面からの突きの連打に、一刀がたまらず体勢を崩した。


 「……はぁっ!」


 好機と見た翠はそれまでと違い、1拍間を空ける代わりに全力で槍を薙いだ。受けるタイミングがずれた上に、今までと段違いの威力を誇る一撃を受け、防御した太刀は大きく跳ね上がる。翠はクルリと槍を回し、一刀の体から離れた太刀目がけて石突きを突き出す。


 キィン、と高い音が辺りに響き渡った。衝撃で2、3歩よろめく一刀に対し、翠は追撃をかけない。それどころか、大きく息を吐いた後で構えを解いた。その直後、一刀の後方に上空を舞っていた物が突き刺さった。それは、翠によってたたき折られた太刀の刀身だった。




 どうにかして2人の戦いを止めなければ、という桃香の思いはますます強くなっていく。鈴々も星も当てにならない以上、頼れる者は関羽しかいなかった。


 「愛紗ちゃん、お願い! 2人を止めてあげて!」


 愛紗ちゃんならきっと分かってくれる。愛紗ちゃんも、私と同じで一刀さんの事を。


 鈴々達とは違う期待を抱いていた。しかし、関羽から返ってきた答えは先の2人と同様だった。


 「申し訳ありません、桃香様。いくら桃香様の願いであっても、2人が望んであの場にいる以上、私が割って入る訳にはいかないのです」


 一刀達から桃香の方へと視線を移した関羽は、申し訳なさそうに目を背けた。


 また武人の矜持か。そんな物より、命の方がよっぽど大切なはずなのに。


 どうして、という言葉を発しかけて、桃香はそれを飲み込んだ。


 硬く握られた関羽の左手。そこから滴り落ちる赤い液体が、彼女の足元に染みを作っている。強くこぶしを握り締め、手の平に爪が食い込んでいるのだ。


 桃香は顔を上げ、再び関羽の表情を確かめる。すでに視線を一刀達へと戻している彼女の顔からは、不安と無事に終わる様にとの祈りが滲み出ている。


 そこで桃香は失念していた事に気付いた。義妹は自分とは違うのだ、と。何の武も持たない自分は、不安にオロオロし、誰かに助けを求める事しか出来ない。だが、関羽はその気になれば、2人の間に割って入って止める事も出来るのだ。にもかかわらず、そうせずにただ黙って見続ける。それがどれだけ苦しい事か、その立場にはない桃香には正確には分からない。それでも、今の自分よりはずっと苦しく切ないのだと理解出来た。


 桃香は関羽の左手を優しく包み込んだ。


 「……桃香様?」


 どうやら、自分が血を流していた事に気づいていないらしい。不思議そうな顔で桃香を見つめる義妹に対し、義姉はそっと微笑んだ。


 「……大丈夫だよ。きっと、一刀さんなら大丈夫だよね」


 情けない、と自分の行動を恥じた。そして、不安な気持ちを押し殺し、自分自身と義妹に言い聞かせる様に、桃香はその言葉を繰り返した。




 「いい加減、諦めたらどうだ。今からでも、誰でもいいから代わってもらえよ」


 刀身を真っ二つに折られ、半分以下の長さになった太刀をそれでも構える一刀に向かい、翠が言った。その言葉には、言う通りにしてくれ、という願いが込められていたのだが、その思いは届かない。一刀には、ここで諦めるつもりなど端からないのだ。


 「まだ、勝負はついてないだろ」


 肩で息をしながらの言葉に、翠は歯噛みする。


 「……何で、何でそんなにあたしの邪魔をするんだ!」


 「邪魔なんかしていない。ただ、放っておけないだけだ」


 「それが邪魔だって言ってるんだよ! あたしは母様の敵を討つ。これは家族の問題だ! 関係ない奴が口を出すなよ!」


 強い語気で放たれた言葉に、一刀はわずかに目を伏せた。翠はさらに言葉をぶつける。


 「そうだよ、これは家族の問題なんだ。他人であるお前に、母様を殺されたあたしの悲しみや苦しみは、何にも分からないんだよ! だから、もう邪魔をしないでくれ! あたしを惑わせないでくれ! あたしの前から……消えろ!」


 感情のままに紡がれる言葉を受け、一刀の肩がびくりと揺れた。


 「……あの時、俺は言われたんだ。私の娘達を頼む、って。それが、琥珀さんと交わした最後の言葉だ。あの時の約束を、俺は破る訳にはいかない!」


 「お前が……、母様を見殺しにしたお前が、母様の真名を口にするなーっ!」


 怒りを露にした翠は大地を蹴り、絶叫と共に一刀に突進する。今の彼女の瞳には、先程までの迷いは見えない。


 一直線に向かってくる翠に向け、一刀は折れた太刀を投げつける。くるくると回転しながら飛ぶ太刀は、呆気なく打ち落とされた。突進を止める事すら出来ない。だが、これは予想通りだ。初めから、これだけでどうこう出来るとは思ってもいない。


 空になった右手で脇差を抜くと、そのまま翠に向って投げる。さっきとは違い、抜刀する動きのまま投げた脇差は縦に回転して飛んでいく。しかし、それも翠にとっては予想の範囲内だった。右に振った槍を左へと返し、脇差をたたき落とす。


 もうこれで、一刀に武器はないはずだった。だが、次の矢が彼の手から放たれる。それは、太刀の柄に仕込んであった小柄だった。小柄が螺旋を描く様に回転しながら、まっすぐ翠に向かって飛ぶ。


 武器がないと思い込んでいた翠は、その小ささも相まって反応が遅れた。強引に体を捻り、何とか小柄を弾く。だが、突進は止まり、大きく体勢を崩す事となった。


 そこへ襲い掛かる第四の矢。それは一刀自身であった。小柄を投げると同時に、一刀も地面を蹴っていた。


 体勢を崩している翠に勢いよく飛び掛ると、2人はもつれ合いながら地面の上を転がる。このまま、翠を組み敷くつもりだった。翠の手からは衝撃で銀閃がこぼれた。


 だが、武における技術はもちろん、単純な膂力においても一刀のそれは翠に及ばない。上下が激しく入れ替わりながら転がるうち、最後には翠が一刀へ馬乗りになって止まった。


 翠が腰から抜いた剣を、一刀は抵抗する間もなく喉元に押し当てられる。が、彼女の剣はそこで止まった。互いに身じろぎ1つせず、何も言葉を発さず、少しばかりの時間が過ぎる。


 2人の視線が絡まった。その瞬間、翠はわずかに目を剥き、剣を持つ手が緩んだ。その理由を一刀が知るのは、口を開いた後だった。


 「……何だよ」


 鼻にかかる声が震えていた。声を出して初めて、自分が泣いていると分かった。それでも、一旦溢れ出した感情を抑える要因にはならない。


 「何だよ、それ……。家族じゃないとか、他人だとか、今さら何言ってんだよ。翠だって、琥珀さんだって、俺の事を家族だと言ってくれたじゃないか」


 口にして、なぜ自分が涙しているのか、その理由が自覚出来た。裏切られた、と感じている自分がいた。


 「寝て起きたら、いきなり訳の分からないところにいて、知り合いもいない、常識も違う中で暮らさなきゃならなくなった。毎日、凄く不安で仕方なかった。……でも、あの時家族だと言ってもらえて、やっと居場所が出来た気がしたんだ。ここにいていいって、認められたと思ったんだ。あの時の嬉しさが、安心感が、翠には分かるのか?」


 問いかけても反応はない。涙で滲む視界の中に、俯いている翠の姿がぼんやりと見えている。


 「あの人は、俺にとっても大切な人だったんだ。母さんだったんだ! その琥珀さんが殺されて、悲しくない訳ないだろ! 悔しくない訳ないじゃないか! なのに、自分だけが悲しいみたいな面すんなよ!」


 一刀の怒声に、彼に馬乗りになったままの翠は体をビクリと震わせた。そして、辺りは再度沈黙に支配された。


 一刀は右手で涙を拭う。濡れた泥で彼の顔は汚れる。


 思いをさらけ出し終えた一刀は、徐々に冷静さを取り戻していく。琥珀が自分に対し、どの様に接してくれていたかを思い出す。優しくもあり、厳しくもあり、母であり、父でもある人だった。おそらく、本当の息子の様に見てくれていた、と、自分の事ながら思う。


 なら、自分はどうか。確かに、母同然に思っていた。だが、思っているだけで、自分は一体何を出来たのか。


 「……翠の言う通りだな。俺が、琥珀さんを殺したんだ」


 「……う」


 「最初に会った時に、未来からきた事を正直に話していれば、こんな事態は防げたのかもしれない。皆は俺を信用して真名を預けてくれたのに、俺は保身のために本当の事を黙っていたんだ」


 「……がう」


 そうか、裏切られたのは俺じゃない。俺が皆を裏切り続けていたんだ。


 言いながら気付いた一刀の双眸からは、拭ったはずの涙が再び溢れ出した。以前、厳顔に言われた言葉を思い出し、気付く事の出来なかった己の愚かさに呆れる。その愚かさが琥珀を殺し、翠を苦しめたのだ。


 後悔の渦に飲み込まれる一刀の耳には、何事か呟いた翠の言葉も届いていなかった。


 「……そうだ、俺のせいだ。俺が皆を騙して、裏切ったせいで……、そのせいで琥珀さんは死んだんだ。……ごめん。俺が、俺が悪い……」


 「違う!」


 うわ言の様に呟かれる一刀の言葉を翠の絶叫がせき止める。


 「違う! 違う違う! 一刀は悪くない。一刀のせいなんかじゃない!」


 叫び続ける翠の瞳から涙がこぼれ、一刀の上に落ちた。視界の滲む一刀にも、彼女の肩が震えているのは見えた。


 「……最初から分かってたんだ。一刀のせいじゃない、って。母様が死んだのは、一刀のせいなんかじゃない。……悪いのはあたしなんだ。あたしの心が弱いからだ。母様の死を正面から受け入れられなくて、その責任をお前に転嫁した。そうして、母様の死を直視する事から逃げていたんだ。あたしのせいでお前を傷付けて……」


 いつの間にか、翠の手は剣を放していた。空いた両の手で俯いたままの顔を覆う。その手を伝う涙が一刀に落ちた。


 「そうじゃない。俺がもっと早く全てを話していたら、歴史は変えられたかもしれない。そうすれば、琥珀さんは死なずにすんだかもしれない」


 「言うな! 母様の死が、まるで決まっていたみたいじゃないか! 母様は、自分が正しいと思ったからやったんだ。母様は、最後まで自分の信念を貫いたんだ。だから……、もういいんだ。もう……。ごめん……、一刀……」


 それ以上は言葉にならなかった。翠はただただ泣きじゃくる。


 「翠……」


 上体を起こした一刀は目の前で泣く少女の名を呼ぶ。彼が知っている、男勝りで豪快な普段の姿はどこにもない。そこにいるのはとても脆い心をさらけ出した、ただの少女だった。


 一刀の両手が翠の肩をつかむ。そのまま、そっと自分の方へと引き寄せ、手を背中へと回す。


 「……ごめん、翠。1人にして。苦しい時に傍にいてあげられなくて、本当にごめん」


 まるで生まれたての子猫を抱く様に優しく、しかし、しっかりと抱き締める。そのまま、翠の耳元で囁いた。心からの、素直な謝罪の言葉だった。


 「一刀ぉ……」


 甘える様な涙声で名前を呼ぶと、翠も一刀の背中へ両手を伸ばす。未だに頬を濡らし続ける涙の意味は、先程とは大きく変わっていた。




 2人の様子を心配しながら見守っていた者達は皆、安堵の表情を浮かべている。特に、桃香や月などは目にうっすらと涙を浮かべていた。


 そんな中、関羽は1人俯いていた。自分の心の内を誰にも悟られない様に。


 一刀と翠が関係を修復出来た事は喜ばしいと思う。しかし、互いに抱き締め合う今の光景は、胸が締め付けられる様に苦しく、とても見ていられない。それが翠に対する嫉妬であると気付ける程、彼女に恋愛経験はなかった。


 訳の分からない苦しさと不快感。その原因が翠にある事だけは分かる。それでも、いつまでも目を逸らしている訳にはいかない。これからは、共に戦う仲間となるのだ。理由のはっきりしない事をいつまでも気にしても仕方がない。


 そう考えてみても、なかなか顔を上げる勇気が出ない。情けないと思うが、どうしても踏ん切りがつかなかった。


 『ええい、情けない! 何をやっているのだ、私は!』


 関羽が心の中で自身を叱咤していると、不意に周囲の雰囲気が変化したのを感じた。直前までの穏やかな空気とは違い、少しざわついている。それまでの躊躇いが嘘の様に、関羽はすんなり顔を上げた。


 「……なっ!?」


 思わず声が漏れてしまった。彼女の見つめる先には、翠を押し倒している一刀の姿があった。




 一刀に抱き締められていた翠はいきなり引き倒された。体を入れ換えられ、覆い被さられている。突然の事に涙も止まり、彼女の頭の中は激しく混乱する。


 「○×△□☆……!」


 声にならない声を上げる翠の体は驚きのためか、ブルブルと震えている。彼女の顔の横には一刀の顔があり、ハアハアと荒い息遣いが耳元で聞こえていた。


 上手く動かないながらも一刀の背中をまさぐる翠の手が、何か硬い物に触れた。その瞬間、彼女の頭はスッと落ち着きを取り戻した。


 硬い、棒状の物をつかむ。ぐっ、と一刀が呻いた。その何かを放した手を、ふと一刀の体越しに見る。


 ドクン、と大きく心臓が跳ねた。


 彼女の手は赤黒く染まっている。


 何だ、これは。一瞬、頭の中が真っ白になった。


 慌てて一刀の下から体を抜くと、彼の背中を確かめる様に瞳を動かす。泥で汚れた白い服の1部分に赤い染み。その中心からは1本の棒が突き出ている。


 一刀の背中に矢が突き刺さっているのだと理解するまでに、わずかばかりの時間を要した。


 「か、一刀……?」


 名前を呼ばれた一刀はうっすらと目を開く。額にはびっしりと脂汗が浮かび、苦しそうに浅く速い呼吸を繰り返している。


 「……す、翠。無事か……?」


 今にも消え入りそうな小さな声だった。


 「あ、ああ……」


 翠が首を縦に振ると、一刀は微かに微笑んだ。そして、目を閉じる。彼の体からはガックリと力が抜けた。


 「……か、一刀ーっ!」


 翠の悲鳴にも近い絶叫が吹き抜ける風に乗って荒野へ響いた。

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