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第5章-漢中編・第1話~一刀の覚悟~

 韓遂が翠に討たれてから数日後。鷹那に負わされた傷も癒えない中、閻行は曹操に目通りを求めた。


 「韓遂は残念だったわね」


 ぐるぐるに包帯を巻かれた足で跪く閻行を前に、曹操は言った。別に、嫌味ではない。彼女自身も韓遂の死は予定外であった。


 本来、涼州への侵攻はもっと先の予定だった。河北を制圧した後は、東の地を治める孫策を叩くつもりでいたのである。というのも、孫策だけが天下への野望を抱いている、と感じていたためだ。


 荊州を治める劉表。益州を治めていた劉璋。そして、豪族達の顔役として実質的に涼州をまとめていた馬騰。この3人には天下を窺うだけの才覚、もしくは大望がない、と考えていた。


 だからこそ、涼州への侵攻は後回しにするつもりだったのだ。ましてや涼州は、北から匈奴族、西から羌族に脅かされている。馬騰が統治していたからこそ羌族との友好関係が築けていた訳で、彼女が亡くなった今、その関係もどうなるか分からない。


 そこで、曹操は韓遂に涼州の統治を任せる方向で考えていた。馬騰の義弟であった彼も、それなりに羌族に顔がきいたし、涼州豪族からの信用もあった。それだけに、ここで彼が殺されたのは曹操にとって痛手であった。


 「いえ、私の力が足りないばかりに、このような結果になってしまいました」


 「で、貴方はこれからどうするつもりなのかしら」


 「なにとぞ、馬超を討つ機会をお与えいただきたく……!」


 閻行は頭を下げる。


 「ならば、私に忠誠を誓う、と?」


 「はい。その証として、我が真名を曹操様にお預けいたします。我が真名は、考儒、と申します」


 本来は、曹操に真名を預けたくなどない。以前に1度、突っ撥ねているのだから。だが、今の状況では曹操の力を借りる以外、韓遂の仇討ちを叶える手立てはなかった。


 「そう、いいでしょう。なら、まずはその傷を治す事を考えなさい。再戦の場は、私が必ず用意してあげるわ」


 「はっ、感謝します、曹操様」


 曹操の言葉に礼を述べ、さらに深く頭を下げる閻行。そんな彼女に向かい、曹操は顔を上げる様に命令する。閻行がそれに従うと、曹操は柔らかい微笑みを湛えていた。


 「これから私の事は、華琳、と真名で呼びなさい。いいわね、考儒」


 こうして閻行は曹操の臣となり、打倒馬超に全てを懸けるのだった。






 霞と別れた翠達3人は漢中へと向かった。その地を治める張魯に助力を願い、曹操に抗するつもりだった。


 だが、漢中の街に入ってすぐ、鷹那の様子がおかしい事に蒲公英が気付いた。


 「だ、大丈夫なの、鷹那姉?」


 そう言って鷹那の顔を覗き込む。見つめる先の顔には苦悶の表情と共に大量の油汗が浮かんでいる。


 何の反応も示さない鷹那に、蒲公英はもう一度、大丈夫、と声を掛けた。


 「……え? ええ、大丈……」


 ようやく声に気が付いたらしい鷹那が返事をした時だった。その体から力が抜け、蒲公英にもたれ掛かる様にして倒れた。


 「ちょ、ちょっと、鷹那姉? 鷹那姉!?」


 蒲公英がいくら耳元で叫んでみても、返事は返ってこなかった。






 『ここは……?』


 重い瞼を何とか開けた鷹那の瞳には、見覚えのない天井が映っている。どういう事か状況を整理しようとするが、もやがかかった様に頭ははっきりとしない。


 とにかく現状だけでも把握するべく、上体を起こそうとした彼女の脇腹に激痛が走った。わずかに頭を浮かせたところで止まり、再び体を横たえる。だが、この痛みでもやが少し晴れ感じがした。


 ここはどこかの部屋で、自分は寝台に寝かされている。さっきの痛みは閻行に負わされた傷だろう。おそらく、この痛みが原因で気を失ったか。


 傷の状態を確認すべく、痛みを堪えながら布団をめくる。すると、彼女の目に飛び込んできたのは綺麗に巻かれた包帯だった。自分でサラシをきつく巻いて固定しただけだったものを、誰かが治療してくれたのだと分かった。


 ところで、布団をめくっただけで包帯を巻かれていると知れたのは、上半身が裸だったからだ。下半身はというと、感覚で下着だけは付けているのが分かった。これについて、別段、羞恥心は湧かない。治療をする際に服を脱ぐのは当然だ。それに、起伏の全くない自分の体など見たところで興奮する訳もない、と考えていた。


 「ああ、気付いたか。そろそろ、麻沸散の効果が切れる頃だからな」


 不意に男の声が聞こえ、鷹那は顔を左側へと向ける。首を捻るだけでもわずかに脇腹は痛んだ。


 扉のない入り口から1人の男性が入ってくる。鷹那の見た感じでは、一刀より2つ3つ年上の好青年である。ただ、燃える様な赤い髪が少し暑苦しさを感じさせる。


 青年は鷹那の横たわる寝台へと近付いてくる。その姿を見上げながら、彼が自分を治療してくれたのだ、という結論に辿り着くのに大した時間は掛からなかった。


 まずは名を名乗り、礼を言わなければ。


 鷹那は脇腹に走る激痛に耐えながら上体を起こそうとするが、青年に押し留められた。


 「無理をするな。かなりの重症だったんだからな」


 そう言うと、彼は枕元にある椅子に腰掛けた。鷹那の手を取り、脈を確かめながら言葉を続ける。


 「俺の名は華陀、医者だ。君は、鳳徳、でいいんだな?」


 「どうして私の名を?」


 「君の連れ、馬超と馬岱から聞いたんだが」


 やはり、頭はまだ完全に覚醒していないらしい。少し考えれば分かる質問だった。


 「今、2人はどこに?」


 「この地を治める張魯殿に会いに行っている。まあ、日が沈む前には戻ってくるだろう」


 華陀は手を離し、少し笑った。


 わずかだが、翠を慕ってついてきた兵もいる。自分はともかく、彼等を飢えさせるのは忍びない。そうならないためには、張魯に仕官して給金を貰うのが一番手っ取り早いのだ。


 華陀の顔が、問題ない、と語っている様で安心した。


 「しかし、私は一体どうしてここに?」


 口にした後で、先程から質問ばかりしている事に気付く。しかし、現状が何も分からないのだから仕方ない。


 「俺が薬草を採って戻ってきたら、城門を潜ってすぐのところで2人が騒いでいたんだ。何事かと思って覗いてみれば、尋常ではない程の汗を掻いて苦しそうな顔をしていたからな。家まで連れてきて処置を施した訳だ」


 言われてみれば、確かに城門を潜る前後辺りからの記憶がない。


 「しかし、無茶をし過ぎだ。肋骨が折れたまま放っておくなど、最悪は内臓を傷付けていたぞ」


 言われてやっと、事の重大さを自覚した。


 「申し訳ないです。今は手持ちが大してありませんが、必ず……」


 謝りながら言うと、華陀は首を横に振った。


 「気にしなくていい。君を助ける事は、俺の恩人からの頼みでもあったからな」


 華陀は爽やかに笑った。


 恩人、とはどういう事か。少なくとも、漢中近辺に私の知り合いはいないはずだ。


 ならば、答えは1つしかなかった。


 「その恩人というのは、北郷一刀、ですね?」


 華陀は大きく頷いた。


 「以前、虎に襲われているところを助けてもらったんだが、その時に頼まれたんだ。鳳徳という女性が漢中を訪れる事があったら診て欲しい。病気か怪我かは分からないが、きっと体調を崩しているはずだから、とな。もっとも、本当にそうなるか、半信半疑ではあったが」


 やはりか、と思う。未来を知っている彼が、手を回してくれていたのだ。もし頼んでいなければ、私はここで命を落としていたのだろうか。


 そう思いながら、ふと、別の考えが浮かんだ。


 「この事は、馬超達には……?」


 もし聞かれていたら、今度はどんな行動を取るのか。それは鷹那にも分からない。だから、彼女にしては珍しく、おずおずと尋ねた。


 「いや、まだ伝えてはいないが」


 鷹那はホッと胸を撫で下ろした。


 「ならばこの件、2人には黙っておいていただけますか?」


 華陀は少しの間、不思議そうに鷹那を見つめたものの、理由を聞く事なく頷いた。訳ありだと察してくれた様だった。


 となれば、気になる事はあと1つ。


 「それで、治るまでにどれくらいの時間が必要なのですか?」


 「まあ、春が来て、雪が溶けるまでには十分完治するさ」


 椅子から立ち上がった華陀は寝台をぐるりと回り込み、反対側へと移った。そして、窓を開け放つ。寝台に寝ている状態でも見える民家の屋根には、白い雪がうっすらと積もっていた。






 成都を遅れて訪れた詠達もまた、一刀と同じく桃香に召し抱えられる事となった。


 霞と清夜は騎馬隊の将に。詠と月は、知識を買われて参謀となった一刀の補佐官に、それぞれ落ち着いた。


 成都での暮らしにもだいぶ慣れてきたある日、詠と月の2人は私用で街へと出ていた。


 「まったく……、何でボクがこんな大荷物を持たなきゃなんないのよ」


 街に出るなら、と、出掛けに数人からお使いを頼まれた詠は、両手一杯に荷物を抱えながら愚痴を言う。しかし、それを聞く相手はおらず、あくまで独り言である。一緒に街に出たはずの月は、重い物を持たせる訳にはいかない、という詠の考えで、小物を中心にお使いをするべく別行動をとっている。つまり、今の状況になったのには詠本人の責任も多分にあるのだ。


 合流を打ち合わせておいた場所に着いた時、まだ月の姿はなかった。小物が多い代わりに、回る軒数も多いのだから当然ではあった。


 道端に移り荷物を下ろす。少し手が痺れている事に気付き、感覚を確かめる様に数回強く握ってみる。そうしながら、通りへと目を遣った。


 行き交う人々の顔はどれも明るく幸せそうだ。しかし、そんな平和に見えるこの街にも、やはりよからぬ事を考えている人間は存在している。


 詠の目の前を通った少年が、彼女が足元に置いていた荷物を持って走り出した。


 「ま、待ちなさいっ! この泥棒っ!」


 叫んでみたが、泥棒が足を止める訳はない。そのまま、通りを埋める人の波に飛び込んでいってしまう。一瞬躊躇したものの、残った荷物をつかみ、詠も人の流れの中へと突っ込んだ。


 少し距離はあるが、見失ってはいない。むしろ、泥棒の方が人混みに紛れた事で撒けたと思ったのか、足を止める事はしないまでも、後ろを振り返って警戒する素振りを見せずにいる。


 このまま取っ捕まえて突き出してやる。自分より少し小さいくらいの少年だったためか、詠はすっかりその気になっていた。これが成人男性であれば、こんな向こう見ずな事は考えなかっただろう。


 少年が脇道に入ると、その後を追って詠も脇道へ続く。さらに1本脇道に入り、それに続いて詠が角を曲がった直後。曲がり角の死角にいた人に気付かず、詠は正面からぶつかってしまった。角を曲がるために速度は緩めていたが、それでも衝撃で尻餅をついてしまう。


 「いてて……」


 そう声を上げたのは詠ではなく、ぶつかられた相手の方だ。野太い声で呟いている。


 いくら気の強い詠でも、さすがにこの状況で、邪魔よ、と怒鳴り付ける真似はしない。そこまでの傍若無人さを持ち合わせてはいないのだ。しかし、謝らなければ、と思い目を開ける詠の体は思わず強張る事となった。


 目の前には数人の男達。その中の1人、中央にいる男にぶつかったのだろう。腕を擦りながら痛そうにしている。だが、その男と回りにいる連中の顔には、ニヤニヤといやらしい笑みが浮かぶ。


 厄介な奴等に絡まれた。そう思った詠は逃げようと腰を浮かす。さっき盗まれたのは霞に頼まれた酒だ。後で文句を言われる程度で、大した問題はない。


 「どうしたんですか、アニキ?」


 詠の背後で不意に声が発せられた。体をビクッと震わせ、ゆっくりと振り返る。そこにはガラの悪い男が2人、並んで立っている。まるで逃げ道を塞ぐ様にしながら、やはりニヤついた顔を見せていた。


 「このお嬢ちゃんがいきなりぶつかってきてよ~、おかげで腕の骨が折れちまったぜ」


 さっきぶつかったらしい男がへらへら笑いながら言うと、周りの男達も心配する様子を見せる。もちろん、そんなはずがないのは誰もが分かっている。分かっていてやっているのだ。


 詠はため息を吐くと、毅然とした表情で立ち上がった。そして、男達を見回す。


 「何なのよ、あんた達。ボクに因縁つけて、金でも巻き上げるつもりなの?」


 「おいおい、嬢ちゃん。アニキは腕が折れた、っつってんだぜ。まずは謝るのが筋じゃねえのかよ」


 「何が筋よ。大体、あんなもんで骨が折れたんだったら、それはそっちが悪いわ。ボクのせいじゃないでしょ」


 詠が、ハンッ、と鼻で笑いながら言い放つと、男達から先程までのニヤついた顔が消えた。


 「ガキが、調子に乗ってんじゃねえぞ」


 凄味をきかせた低い声を口にしながら、さっきの男が詠へと手を伸ばす。そのまま、怯えた表情を見せて後ずさる詠のおさげ髪をギュッとつかんで引っ張った。


 「キャッ!」


 詠がそう悲鳴を上げたのと、


 「エイッ!」


 という短い掛け声が響いたのはほぼ同時だった。わずかに遅れて、何か硬い物がぶつかった様な鈍い音がして、男の悲鳴がそれに続いた。


 「平気、詠ちゃん?」


 「ゆ、月!?」


 目の前にいる人物に、詠は驚いて大声を上げてしまった。そこには木刀を構えた月の姿があった。


 「な、何やってんのよ! 何でそんな事……、月には無理だってば!」


 「大丈夫だよ。詠ちゃんと別れた後、一刀さんに剣を教わったの。今度は私が詠ちゃんを守れるように、って」


 月は木刀を正眼に構え、背中越しに返した。


 だが、それを聞いて詠が安心出来る訳もなかった。長安の近辺で2人が別れてからたった2、3ヶ月。その間にどれだけの鍛錬を積もうと、大して腕が上がるはずはない。長い年月をかけて少しずつ積み上げていくのは、勉強も武も変わらないのだ。


 実際、詠の危惧した通りだった。大きく踏み込み振り下ろした木刀は呆気なくかわされてしまう。その手を男につかまれ、捻り上げられる。


 「随分とふざけた真似してくれるじゃねえか」


 さっき月に一撃入れられた男が近付き、その頬を張った。小さな少女の体は吹き飛び、地面へと倒れる。詠は慌てて月へと駆け寄り無事を確認すると、男達を睨み付ける様に見上げた。


 「おいおい、大事な商売道具だぜ。傷付けて値段が下がったらどうするんだよ」


 アニキ、と呼ばれていた男が2人の前に出てくる。もう、痛がる様な演技もしていない。彼はしゃがみ込むと、2人の顔を舐める様に眺めていく。


 「こっちの嬢ちゃんは、まさかの掘り出しもんだな。これなら相当高く売れそうだ」


 月の顎をつかみ、無理矢理自分の方に顔を向かせると、男は下卑た笑いを浮かべて言った。


 彼等は人攫いなのだ。年端もいかぬ子供達を攫い、人買いに売り飛ばすつもりだ。


 「あんた、ボク達にこんな事をしてタダで済むと思ってんの? ボク達は……」


 「お前等みたいなガキの1人や2人、消えたところでどうって事はねえよ。第一こんなところ、誰が見てるってんだ?」


 その時だった。辺りに高笑いが響く。男達は慌てて周囲を見回すが、その一角には彼等以外はいない。


 「だ、誰だ! 出てきやがれ!」


 1人の男が叫んだ。


 「無垢な少女を攫う不埒な行い、例え天が見過ごしたとしても、この華蝶仮面はそうはいかん!」


 「う、上だ、アニキ!」


 彼は民家の屋根の上を指差していた。男達、そして、月と詠もまた、つられる様に男の指先へと視線を移す。そこには太陽を背に立つ人物があった。全員の視線が集まったところで、その人物は屋根から宙へと跳び、綺麗に着地を決めてみせた。長い直槍をくるくると回し、男達に向かってビシッと突き付ける。


 「華蝶仮面、見参!」


 彼女は力強く名乗りを上げた。




 月と詠が大変な目に遭っている頃、一刀も諸葛亮と鳳統と共に街へと出ていた。治安の改善や区画の整理など、手をつけなければならない事は多い。まずは、それらの問題点を洗い出すため自らの目で確認しよう、という事になった。


 「では、次は西の区画の方に行きましょう」


 街の見取り図を片手に持った諸葛亮は、空いている方の手で行く方向を指差した。そうして歩き出す諸葛亮に続く一刀の手の中には、何かを感じた時にメモを取れる様、竹簡と筆一式がある。それらを右手にまとめて持つと、空いた左手を鳳統の前に差し出した。


 「じゃあ、行こうか、雛里」


 「……は、はい」


 鳳統の小さい手が差し出された手をそっと握る。手を繋いで歩くその姿は、まるで仲のよい兄妹の様だ。


 一刀が鳳統と諸葛亮から真名を預けられたのは半月程前の事だ。元々、命の恩人の様な関係にあった事もあり、鳳統は一刀に好意的だった。


 一方の諸葛亮は、最初のうちは警戒を隠そうともしなかった。それでも、一刀と接し続けて人となりが分かってくると、徐々に警戒心は薄れていった。逆に、自分にはない知識や考え方を持つ彼に対し、憧れに似た好意を抱く様になったのである。


 そうして3人が次の目的地へと歩いていると、前方に黒山の人だかりが現れた。しかも、まだまだ人は増えている。実際、一刀達を追い抜いていく人が多い。


 「おい、また華蝶仮面が出たらしいぜ」


 脇を駆けていった男の声が一刀達の耳に届く。瞬間、雛里の表情が華やいだ。


 「朱里ちゃん、華蝶仮面だって! 行こう!」


 雛里にしては珍しく興奮している。だが、それとは対照的に、朱里は少し引きつった笑みを浮かべる。その様子にも気付かず、雛里は一刀と朱里、2人の手を引いて駆け出した。


 十重二十重に重なっている人垣を掻き分けて中に入っていく。ようやく中央に辿り着いた一刀だが、その瞳に飛び込んできた光景に狼狽する。華蝶仮面、つまりは趙雲がこの場にいるのは当然だが、彼女に守られる様にして月と詠の姿も見えたからだ。


 と、周囲がドッと沸いた。華蝶仮面がゴロツキ風の男を昏倒させたためだ。見れば、他に何人もの仲間とおぼしき男が倒れている。


 当然と言えば当然だった。数人がかりとはいえ、趙雲がゴロツキ相手に遅れをとる訳がない。それでも、当の本人は拍手喝采の状況にまんざらでもなさそうではある。


 「やっぱり強いね……、華蝶仮面さん」


 「う、うん……」


 月達が無事らしい事にホッとした一刀と違い、雛里は華蝶仮面の強さに感嘆している様だった。若干歯切れ悪く返事をする朱里に構わず、雛里はなおも続ける。


 「華蝶仮面さんみたいな強い人が仲間になってくれたら、心強いのにね」


 華蝶仮面に視線を固定したままで雛里が言う。そうだね、とだけ返すと、朱里は小さく嘆息した。


 そのやり取りを聞いていた一刀は、まさか、と思いながらも一応確認してみる。


 「なあ、朱里。まさかとは思うけど、雛里って、華蝶仮面の正体に気付いてない、って事はないよ、な?」


 「そのまさか、なんです。それも、雛里ちゃんだけではなくて、なぜか皆さん気付かないんですよ」


 一刀を見上げた朱里の顔は、不思議、というよりは呆れた感じだ。一刀は華蝶仮面へと視線を戻す。


 蝶を模した仮面をつけて素顔こそ隠してはいるが、服装や手に持った槍などは普段のまま。どう考えても正体はバレバレだ。第一、一刀は初対面で見破っているのだ。それでも堂々と華蝶仮面を名乗っているのを見ると、むしろ、雛里は気付かないふりをしているのでは、と勘繰りたくなってしまう。


 「どいてくれ、お前達!」


 そんな事を考えていると、聞き覚えのある凛とした声が響いた。人混みを強引に押し退けやってきたのは、関羽と数人の兵達。ようやく警備隊が到着したらしい。


 辺りを一瞥して状況を確認した関羽は、周囲に転がっている連中を捕らえる様に指示を出す。そうして自身は華蝶仮面の前へと進み出る。


 「また貴様か、何とか仮面」


 関羽の言葉には怒りが滲み出ている。


 「何とか仮面ではない。華蝶仮面だ。いい加減、覚えていただきたいものだな、美髪公殿」


 「それはすまなかったな。ところで、貴様はここで何をしていたのだ」


 「何、とは異な事を聞かれる。この状況を見ても分からぬ、と? 我は正義の名の下、悪人共に裁きを下してやったまでだ」


 怒りを隠そうとしない関羽に対し、華蝶仮面は飄々と答える。逆に、わざとあおっているかの様に口許には薄い笑みが浮かぶ。


 関羽は改めて辺りを見回した。死人こそ出ていないが、3人は一目で骨が折れていると分かる。他の者も大なり小なり傷を負っている状況だ。


 「やり過ぎではないのか。そもそも、悪人を取り締まるのは我等の仕事だ。邪魔をするのは止めてもらおうか」


 「邪魔、だと? これだけ遅れておいてよく言う。私がいなければこの2人がどうなっていたか、分からん訳ではなかろう」


 もっともな華蝶仮面の言葉に、関羽は返答を詰まらせた。


 そんな剣呑な雰囲気の2人を見て、一刀は関羽が華蝶仮面の正体に気付いていない事を覚った。


 もしこのまま両者がぶつかる様な事になれば、止めに入らないとな。2人の間に飛び込むのは正直怖いが、放っておく訳にはいかないだろう。


 こんな一刀の心配を余所に、華蝶仮面は関羽に対してさらに挑発的になっていく。


 「フッ、邪魔なのは私ではなく、お主の胸ではないのか? 無駄に大きな胸をしているから、ここまでくるのに時間が掛かるのだろう?」


 ある程度離れた位置にいる一刀にも、関羽のこめかみがひくついたのが分かった。


 「……これ以上、戯れ言に付き合うつもりはない! 今日こそ貴様をしょっぴいてくれる!」


 吠えた関羽は手にした青龍偃月刀の切っ先を華蝶仮面に突き付ける。だが、華蝶仮面は涼やかな笑みを浮かべ、


 「残念だが、関将軍に付き合うつもりはないのでな」


 と言い残し、ヒラリと屋根に舞い上がった。そのまま屋根の上を走って逃走を図る。


 「逃がすなっ! 追えーっ!」


 手空きの兵に命令しながら、関羽自身が先頭を切って駆け出した。


 華蝶仮面と関羽、この2人が去った事で集まっていた群衆も散る。先程までの喧騒が嘘の様に静まり返り、辺りは普段通りの静寂さを取り戻していった。







 城の中庭を1人歩く一刀は、大きくため息を吐いた。


 「……どうしたもんかな」


 昼間、華蝶仮面の騒動を眺めた後、街の巡察は何となく打ち切られた。そのまま月と詠と5人で城まで戻ったのだが、その途中、朱里から何とかしてくれる様に頼まれた。もちろん、華蝶仮面の事だとは言われなくても分かった。


 確かに一刀も放置出来ない問題だと思う。気付いていないとはいえ、味方同士で刃を交える様な真似は馬鹿げている。それに、正義の味方として活動をしているらしい華蝶仮面を捕らえようとするのは、庶民からの受けもよくないはずだ。


 だが、どうすれば、という答えは思いつかない。一番手っ取り早いのは、華蝶仮面の正体が趙雲だと教えてやる事なのだが、堂々と偽名を名乗る彼女がそうやすやすと認めるとは思いづらい。本人が認めなければ、仮面をつけただけで趙雲だと気付けなくなる関羽が納得するとも考えられない。なにより、正義の味方の正体をばらすのは酷く無粋な気がしている。


 とりあえず、流れに任せるしかないな。一刀は半ば諦めに似た覚悟を決め、2人の待つ東屋へと向かい足を速めた。


 東屋には、すでに関羽と趙雲の姿があった。趙雲は酒を飲んでいたのだろう。彼女の前にはとっくりと杯が1つ置かれている。しかし趙雲は、杯を傾けているにしては機嫌が悪い。酒好きの彼女は、飲んでいれば大抵上機嫌なのだ。


 対する関羽は素面のまま。しかし、こちらも柳眉を吊り上げ、2人は睨み合っていた。一刀も思わず声をかけるのをためらってしまう。結果、先に関羽達が気付き、声を掛けられた。


 「遅いです、北郷殿」


 「まったくだぞ、北郷。自分から呼び出しておいて、どういうつもりだ」


 機嫌の悪い2人から、八つ当たり気味に文句を言われてしまう。ごめん、と謝りながら椅子に座ると、なぜ2人揃って不機嫌なのか、その理由を尋ねる。


 「そんなもの、決まっているでしょう。星の奴が、あの変態仮面の肩を持つのです」


 「変態仮面ではない、華蝶仮面だと何度言ったら分かるのだ。第一、あの御仁のどこが変態だというのだ」


 「どこからどう見ても変態ではないか! あんなおかしな仮面で己の顔を隠すなど、普通の人間のする事ではない!」


 「な、何だと!? いくら愛紗とはいえ、これ以上華蝶仮面を侮辱するのであれば許さんぞ!」


 まさに一触即発、といった雰囲気に包まれる。慌てて一刀は間に割って入る。


 「ちょ、ちょっと、落ち着いて。な?」


 フン、と鼻息荒く、両者はそっぽを向いてしまった。やっぱり2人一緒に話をしようとしたのが間違いだったか、と、一刀は内心でため息を吐く。


 「そうだ。北郷はどう思っているのだ、華蝶仮面の事を」


 不意に趙雲が尋ねてきた。


 「わざわざ聞く必要もあるまい。きっと、私と同じ考えだ」


 「お主には聞いておらん。……さあ、正直に答えてみろ」


 関羽と趙雲に両側から顔を見つめられ、一刀は汗が噴き出すのを覚えた。当然、美女2人に見つめられた事に照れた訳ではない。鋭い視線で睨む様に見られているためだ。どちらと答えても、否定された方は不満に感じるだろう。


 「……俺は、カッコいいと思うよ。正体不明、謎の正義の味方、っていうのは」


 一刀は趙雲の側につく事にした。自分自身をけなされていい気はしないだろう。それに、趙雲の方がおだてに弱いか、という読みもある。


 「見ろ、愛紗。やはり、分かる者には分かるのだ」


 たったこれだけの事で勝ち誇る趙雲。一方の関羽は愕然とした表情を見せている。


 別に、本気で華蝶仮面の格好をカッコいいと思った訳ではないので、趙雲の喜び様に少し罪悪感は感じる。だが、ひとまず状況が落ち着いた今、本題に入るべきだと一刀は考えた。


 「そもそも、何で関羽はそんなに華蝶仮面の事を目の敵にするんだ? 今日だって、彼女のおかげで月と詠は助かったんだぞ。やっているのは、褒められる事じゃないか」


 一刀の視界の端で、趙雲がうんうんと頷いている。


 「褒められる? あれがですか!? 我々の先回りをして、邪魔をしているだけです! この街を守るのは我等の任務。それを、あの様などこの馬の骨とも知れぬ者に横槍を入れられるなど……」


 関羽は忌々しそうに言うと、机を思い切りたたいた。とっくりが跳ね、杯になみなみ注がれていた酒がこぼれる。


 「ちょっと待った。確かに、街の平和や人々の安全を守るのは俺達の責務だ。でも、俺達だけでやらなきゃならない訳じゃないだろ? 大事なのは、誰が守るか、じゃないはずだ」


 うっ、と言葉に詰まる関羽に、一刀はさらに続ける。


 「華蝶仮面のやり方は乱暴かもしれない。実際、邪魔になる事もあると思う。でも、この街の平和と安全を守ろうとしてるのは間違いないんじゃないか? 趙雲は、そう思わないか?」


 一刀の言葉を真面目な顔で聞いていた趙雲は、いきなり話を振られてハッとした。普段の飄々とした態度を取り戻す様に、半分くらいしか酒の残っていない杯に口をつける。


 「……まあ、聞いた話では、そんな感じのする御仁である事は間違いなかろう」


 直接的には肯定しない。素直じゃないな、と趙雲を横目で見ながら一刀は感じた。


 「しかし……」


 関羽は未だ納得出来ない様子だ。そんな彼女に、一刀は改めて向き直る。


 「それに、さ。華蝶仮面は正義の味方として街の人に認知されつつある。なのに、無理矢理彼女を捕らえようとすれば、桃香に対して不満を抱かせる事につながると思うんだ」


 「……ならば、北郷殿は、あ奴を見逃せ、と言うのですか? 正義のためとはいえ、街中で力を振るうのを黙認しろ、と?」


 うつむいていた関羽は顔を上げ、一刀を真っ直ぐに見つめる。その瞳には悔しさが滲んでいる。


 「黙認、というより、いっその事、国として認めてしまえばどうだろう。そうすれば、彼女の手柄は桃香の名を高める事になるんじゃないか? 今日の1件でも分かったと思うけど、この広い街を警備隊だけで何とかするのは、少なくとも今のところは無理なんだ。なら、お互いに協力して平和を守ればいいじゃないか。それに、仮にも正義の味方が、その見返りに金品を要求する様な真似はしないだろうし。……なあ、趙雲?」


 趙雲が華蝶仮面として活動しているのは、少なからず自己満足があるのだろう。だが、もちろんそこには街の平和を守る、という思いがあるはずだ。ならば、趙雲も分かってくれるはずだ、と一刀は考えている。


 そうだな、と、やや間が空いた後で趙雲から返事が返った。関羽と違い、その表情から心の内を量るのは難しいが、分かってくれたと思いたかった。


 「まあ、すぐに気持ちを切り替えるのは難しいだろうけど、考えてみてよ」


 「……分かりました。桔梗や焔耶とも計ってみます。では……」


 不満顔を見せてはいるが、関羽は頭を下げてその場を離れる。これで全てを納得出来るほど、華蝶仮面に対する苛立ちは小さくないのだろう。それでもこれで変わってくれれば。そう思いながら、一刀は小さくなっていく関羽の背中を見送った。


 「さて、では私も失礼するかな」


 そう言って趙雲も椅子から立ち上がり、東屋を後にしようとする。その際、屋根の下から出るか出ないかのところで足を止め、たおやかな仕草で振り返った。月明かりに照らされた彼女の笑みは、妖しさを湛えていた。


 「そうだ。私の事は真名で、星と呼んでくれて構わんぞ。その代わり、私もお主の事は、一刀と呼ばせてもらおう」


 それだけ言い残し、趙雲はとっくりと杯を持って立ち去ってしまった。


 まさか、華蝶仮面を褒めたのが気に入られたのか。理由ははっきりしなかったが、真名を預けられて悪い気はしなかった。






 それから多少の月日を重ね、益州を囲む山々から雪が姿を消し始めた頃、成都に危急の報せが届いた。張魯軍が侵攻を開始し葭萌関を越えた、というのである。これを聞いた一同は、すぐに迎撃の準備にとりかかった。彼女達に焦りはない。なぜなら、一刀からもたらされた情報により張魯の侵攻は予測され、十分な下準備がすでになされていたからだ。


 急ぎ出陣した劉備軍四万は、梓潼の北方で張魯軍二万と対峙する事となった。倍の兵力を有する劉備軍であったが、一気に殲滅、とはいけなかった。というのも、張魯軍の中に翠に蒲公英、鷹那の姿があったからだ。


 「あの馬鹿っ! ホンマに何考えとんねん!」


 この事を知った霞は吐き捨てる様に言った。


 桃香が一刀に対して翠の受け入れを約束した以上、このまま戦端を開く訳にはいかないのではないか。いや、敵に回った以上、あの約束は反故になって然るべきではないのか。軍議の席で様々な意見が飛び交う。そんな中、一刀は沈黙を貫く。彼は全てを朱里達に伝えた訳ではない。自分の胸の内に強い決意を抱き、彼は時が来るのを待った。


 「敵陣より、単身進み出てくる人影があります!」


 軍議の行われている天幕に、物見の兵が報告に入ってきた。軍議が煮詰まっている事もあり、全員が外に出て様子を見る。


 一刀はハッとした。大きく心臓が跳ねたのが自分でも分かる。あまりの衝撃に、呼吸をする事すら忘れてしまいそうだ。


 馬に跨った凛々しい姿。風にたなびく栗色の長い髪。髪の毛と同色の、意志の強そうな太い眉。手にした十文字槍。


 そこにいたのは紛れもない、愛馬黄鵬に跨った翠だった。彼女は槍を1度高く掲げた後、穂先を劉備軍の陣へと突きつけた。


 「あたしの名は馬超! 恩ある張魯殿の先鋒として、劉備軍に一騎討ちを申し込む! 誰か、このあたしと打ち合う勇気ある者はいないか!」


 地を揺らす様な大声1つで、すでに何割かの兵が呑まれている。それ程の威圧感が今の彼女にはあった。


 「よーし、鈴々がばーんとぶっ飛ばしてやるのだ!」


 これに早速反応したのが鈴々である。蛇矛を左手に持ち、右手をぐるぐる回しながら進み出る。すると、星が鈴々の首根っ子をつかんで止めた。


 「待て、鈴々。抜け駆けはよくないだろう。錦馬超が相手とあれば、我が武を振るうのに申し分ない。ここは私が……」


 「にゃ~、鈴々が先だぞ! 邪魔をするのはよくないのだ!」


 そのまま2人はどちらが一騎討ちに出るか、口論を始めてしまう。


 「いい加減にしろ、お前達!」


 そんな2人に対し、拳骨と共に関羽の雷が落ちたのは当然だった。鈴々は痺れる様に痛む頭を押さえ、涙目になりながら関羽を見上げる。唇を尖らせて、不満たらたらといった表情を見せている。


 「北郷殿や霞達の気持ちも考えたらどうなんだ、お前は」


 まったく、とため息を吐きながら、関羽は説教を始めた。鈴々は関羽から視線を外して説教を聞き流す。そのまま気だるそうな顔で周囲に目を遣り、ある事に気付く。


 「あ、あれ? お兄ちゃんがいないのだ」


 鈴々の言葉に眉をピクリと跳ねさせた関羽も辺りを見回すが、確かに一刀の姿はない。次の瞬間、蹄の音が聞こえたかと思うと、1頭の馬が劉備軍の陣から駆け出していく。


 「なっ……!?」


 馬の背に跨る人物の姿を見た者は、皆一様に驚いた。それは桃香達だけでなく、張魯軍側にいる蒲公英達も同じだ。そして、この場にいる誰よりも驚愕していたのは、一騎討ちを仕掛けた張本人である翠だった。


 「……本気、なのか?」


 目の前で馬を止めた相手に向かい、翠は小さいが、確かに怒りのこもった声で尋ねた。何の返事も返さずに馬から降り、自分に背を向けたまま馬の頭を撫でる相手に、今度は大声でもう一度同じ事を尋ねる。


 「本気なのか、一刀!」


 名前を呼ばれ、一刀は振り返った。彼は馬上の翠をまっすぐに見つめる。


 「ああ、本気だよ。その横っ面ひっぱたいてでも、俺が目を覚まさせてやる」


 そう言うと、一刀は腰から太刀を抜き放った。

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