第4章-渭水編・第8話~代償~
霧に紛れて対岸へと渡河した馬超隊は前もって決めていた通り、小さな森へと兵を伏せた。そのまま息を潜め、作戦の決行を待つ。
予期せぬ事態が起こったのは、太陽が中天に差し掛かる直前。さあこれから、と意気込んだ時の事だ。
「か、火事だーっ!」
兵の1人が大声で絶叫する。兵達は一瞬でざわめきたつ。翠と鷹那も声のした方へと顔を向ける。
2人の位置から確認は出来ない。だが、次の瞬間、馬超隊の周囲に炎が走る。まるで大蛇が地を這うかの様に木々の間を抜け、縦横無尽に広がっていく。あっという間に炎に包まれてしまった。
「なっ、何だ!? どうなってんだ!?」
「これだけ早く火が回るところを見ると、油を撒かれている様です。どうやら、嵌められましたね」
あわてふためく翠に対し、鷹那はいつもの様に冷静だ。その落ち着いた態度に中てられてか、翠も冷静さを取り戻す。
「……とにかく、この状況から抜け出すのが第一、か」
周囲に目を遣る。炎の囲いはまだ完成していない。今なら突破出来る。恐らくは、その先で曹操軍が待ち伏せているだろうが、このまま炎に巻かれるのを待つよりはよっぽどマシだ。
「皆、聞けっ! 悔しいが、あたし達は曹操の罠にかかった。だが、まだ終わりじゃない。この場を脱出し、体勢を立て直せば十分勝機はある!」
翠が馬上から檄を飛ばすと、兵達も喊声を返す。
まだだ、まだやれる。
翠の瞳に諦めの色はない。馬首を返すと、自ら先頭に立って木々の間へと飛び込む。細い枝や蔓が身体中を打つが、速度を落とさず一気に森を駆け抜けた。
案の定、森の外には曹操軍が待ち伏せていた。降り注ぐ矢の雨にも臆する事なく、翠はさらに速度を上げ、曹操軍へと突っ込でいった。
一方、下流に兵を伏せていた霞達もまた、曹操軍に急襲されていた。やはり火計を受け、混乱したところを攻め込まれて部隊は瓦解。蒲公英と霞は決死の覚悟で囲いを破り、何とか追撃をかわして川を渡った。
「……どうしよう、霞姉様?」
ようやく落ち着いて会話が出来る状況になったところで、蒲公英が息を整えながら尋ねる。尋ねられた側の霞も呼吸が荒い。2人共、顔といい体といい、多くの傷を負っていた。
また、2人に従う兵もそうだ。七千人いた張遼隊の兵も、共に脱出出来たのは百人にも満たない。その全てが大なり小なり傷を受けている。無傷で済んだ者は1人もいない有り様だ。
「あの火の回り様……、恐らくやけど、油が撒かれとったんやろな。ちゅー事は、や。ウチらがあそこに兵を伏せんのを知っとった事んなる」
「たんぽぽ達の作戦が漏れたの?」
「ああ。せやけど、今回の作戦、詳細まで知っとるんはウチらを含めても両の指で数えられる程度や。普通、外に漏れるとは考えられへん」
そこで霞の言わんとしている事に気が付いたのだろう。蒲公英はハッとした様な表情になる。
「まさか、叔父様が……?」
「一刀の言うとった通り、いや、それ以上に悪い事んなっとるみたいやな。もっとも、ウチの考えが正しければ、やけど」
そう言ったものの、霞には確信めいたものがあるらしい。苦虫を噛み潰した様な顔をしている。その表情に、蒲公英の心には不安が首をもたげた。
「お姉様や本陣の詠ちゃん、大丈夫なのかな……」
「翠のとこには鷹那がおるし、こんくらいの事は感付くはずや。詠の方もお清がおるし、な。とにかく、こっちはこっちで逃げて、後で合流を果たすしかないやろ」
そこへ、斥候に出ていた兵が戻ってくる。比較的傷が少ない者に本陣の様子を探りにいかせていたのだ。兵からの報告を聞き、やっぱりか、と霞は呟いた。
報告によれば、『馬』と『華』の旗は下ろされ、馬鎧を装備した鉄騎兵の死体が転がっているらしい。霞の推察した通りの事が起こっていると考えて、間違いはない状況である。
2人に出来るのは、ともかくこの場を離れ、仲間の無事を信じる事だけだった。
「よくやってくれたわ、韓遂」
韓遂は今、曹操の眼前で膝をつき、頭を下げていた。その脇に並ぶ様にして、閻行も同様に膝をついている。
詠と清夜を追撃した閻行だったが、捕らえる事も討つ事も叶わなかった。彼女が韓遂の下に戻るとすぐ、曹操から呼び出しがかかった。閻行は韓遂の副官として、実際には韓遂の護衛として、曹操の前に出ていた。
「まあ、連合軍の軍師を捕らえそこなった件については、こちらも馬超や張遼を討ち漏らしたのだし、咎めない事にしておきましょう。涼州、関中勢のほとんどを引き入れた功もあるし」
「はっ、寛大な処置、痛み入ります」
さらに深く頭を下げる韓遂を、曹操は玉座の上から見下ろしている。薄い笑みの浮かぶその顔には、戦勝の喜びも高揚した様子も見えない。ただ、かすかに笑っているだけ。その目は何かつまらなそうに韓遂を見ていた。
「で、いったい誰なの? 私をここまで追い詰めてくれたのは。涼州にそんな切れ者がいるなんて、聞いた事がないのだけれど」
以前は手に入れたいと欲していた霞にも最早興味はない。今はただ、自分を散々出し抜いてくれた相手の事を知りたいだけだ。
出来る事ならこの場で顔を拝みたかったのだが、いないのであれば仕方がない。せめて話だけでも。そんな思いだった。
「はい、その者の姓は賈、名は駆、字は文和といいます」
「賈文和……? どこかで聞いた名ね」
かすかに聞き覚えのある名前に、曹操と夏侯淵は揃って眉根を寄せる。同席している夏侯惇は何も引っ掛からなかったらしく、2人の様子を不思議そうに見ている。程立はすでに感付いたのか、普段通りのボーッとした雰囲気のままで表情を変えてはいない。
「聞いた覚えがあるのは当然です。董卓軍の元軍師ですから」
韓遂の言葉を聞いて、曹操は思い出した。反董卓連合軍で洛陽を攻めた時、董卓と共に首級を差し出された軍師がいた事を。
「……なるほど。身代わりを立て、2人は馬騰に匿われていた、という訳ね」
たった一言聞いてこの答えにまで辿り着けたのには理由がある。曹操も同じ様な事をやっていたからだ。
黄巾党の首領であった張角、張宝、張梁の張三姉妹。表向きには、彼女達は曹操に討ち取られた事になっている。だが、実際には曹操に生け捕りにされていた。曹操は3人に利用価値を見出していたのだ。
今現在、張三姉妹は曹操の領内で募兵や兵の士気の向上、慰問活動に勤しんでいた。
「まあ、賈駆と董卓が生きていたのには少し驚いたけれど、それはどうでもいいわ。貴方の見立てでは、この先馬超はどう動くかしら。涼州に戻り徹底抗戦を貫くのか、それとも……」
「確かに、西涼にはまだ兵が残っていますが、賈駆等がそれを認めるとも思えません。ですが、他に行く当てもないですから……。どこかに潜伏するか、可能性があるとすれば、羌族に保護を求めるか」
韓遂には、一刀が益州に向かった事は伝えられていなかった。
「そういえば、馬騰は羌族との混血だったわね。羌族の中に逃げ込まれると厄介だわ……」
顎に手を当て、考える様にしながら呟く。
羌族の支配地域は涼州よりさらに西になる。とてもではないが、遠征を行う余裕はない。かといって、羌族の助力を得て攻め込まれれば大変な被害を被る事になるだろう。羌族の中に逃げ込まれるより先に捕らえる。それが最善の手だった。
「秋蘭、風、河北に続いてで悪いのだけれど、馬超の追撃と涼州の制圧を任せるわ」
はっ、と短く返事をする夏侯淵。一方の程立は、
「相変わらず、人使いが荒れえな」
「こらこら、宝慧。華琳様にそんな事を言っては駄目なのですよー」
などと言っているが、拒否するつもりはない様子だった。
「韓遂、早速だけれど貴方にも私のために働いてもらうわ。2人に従い、馬超追撃の任に就きなさい」
自分に降った者に、いきなり部隊を任せる真似をするほど曹操は愚かではないし、他人を信用してもいない。とりあえずは、夏侯淵の参謀的な立場として同行させるつもりでいた。それに、血縁者を討たせる事で自分への忠義を見定めるつもりでもあった。
韓遂とてすぐに自分が信用されるとは思っていない。いくら涼州と関中に存在する豪族のほとんどを連れて帰順していたとしても、だ。自分の場所を確立するためには、結果を出さなければならないのだ。
裏切ると決めた時から、姪である翠を討つ事に躊躇いはない。先程の夏侯淵の様に歯切れよく返事をし、スッと立ち上がる。そのまま踵を返し、天幕を退席しようとした彼の背中に曹操がこんな言葉をかけた。
「そうだわ、韓遂。私に貴方の真名を預けなさい」
思わず自分の耳を疑ってしまう。いくら降将とはいえ、ここまで一方的に真名を強要される事は普通あり得ない。曹操に背を向けたままの韓遂の顔は屈辱に歪む。
しかし、振り返った時にはそんな感情は面から消えていた。
「私の真名は驥疾といいます」
ここで感情に任せて行動を起こしたとして、翠を裏切り、すぐさま曹操に刃を向ける自分に一体どれほどの諸侯が付いてくるか。それ以前に、夏侯姉妹だけでなく、許緒と典韋という猛将までいるこの状況を切り抜けられるのか。
そう考え、この場は事を荒立てない方が得策であるとの答えに至った。
そんな打算を見抜いたかの様に、曹操は冷ややかな笑みを浮かべている。その表情のまま、視線をわずかに横に滑らす。
「確か、閻行だったわね。貴方の真名も、一応聞いておきましょうか」
ひどく尊大な物言いである。
曹操はこの場で自分の優位性を見せつけてやるつもりでいた。反抗心は生まれるかもしれないが、真名を一方的に知る事で精神的にも支配するつもりでいたのだ。
当然、韓遂が真名を預ければ、臣下である閻行もそれに倣うものだと考えていた。曹操だけでなく韓遂でさえも。だが、閻行は、
「申し訳ありませんが、お断り致します」
と言い放ってみせた。
貴様、と吠えて目を三角にした夏侯惇が飛び掛からんばかりの勢いになる。それを止める夏侯淵の顔にも怒りが浮かぶ。
そんな2人の態度にも、張本人である閻行には全く動じる様子がない。そして、曹操もまた、先程と表情を変える事なく笑みを浮かべたままでいる。まるで、次の言葉を促している様だ。それに応えるべく、閻行が続けて口を開く。
「私が忠誠を誓ったのは韓遂様だけ。韓遂様が曹操殿に従う事を決められたので、私はここにいるに過ぎません。そもそも真名を強要する様な行いは、丞相と呼ばれるお方がなさるべき行為ではないと考えますが?」
曹操に向かい、お前は丞相に相応しくない。そう言っているのと同じだった。夏侯惇ばかりか、許緒や典韋までもが腰を浮かし、天幕内を剣呑な雰囲気が満たす。その空気を破ったのは、他でもない曹操の大笑だった。
「この私に、正面切ってここまでの大言を吐くとはね。いいでしょう、言いたくないのなら構わないわ。それから、韓遂。貴方の真名も聞かなかった事にしてあげましょう」
一堂が呆気にとられて曹操を見つめるなか、閻行だけが普段通りの顔でクルリと振り返る。
「参りましょう、驥疾様」
そう言って、閻行は韓遂を先導する様に歩き出す。その背中を、曹操は淫靡な笑みを浮かべながら見送った。
韓遂の裏切りもあって散々に打ちのめされた翠や霞達は、それでも何とか合流を果たした。雨の降る夜、暗い森の中で残存している兵力をまとめると共に、これからの動きを検討する。
「しっかし、ものの見事にやられたわ。それでも、翠やウチらが無事だったんは何よりやけど」
確かに霞の言う通りだった。西涼を発った時には三万いた兵は、今は千人にも満たない。そんな惨敗を喫した戦場を6人揃って切り抜けられたのは、僥倖と言っても過言ではなかった。
しかし、これだけ兵力を損なってしまっては将が健在でも戦闘は続行できない。追撃部隊が接近しているという斥候からの情報もある。である以上、ここにいつまでもとどまる訳にはいかない。
西涼に戻り、残しておいた兵力を使って再起を図る。そんな翠の考えは猛反対を受け、あっという間に却下された。
西涼に残してきた兵力は、あくまで匈奴族への備えである。それを曹操との戦に回せば、隙を突かれて侵略を受ける可能性は高い。それに、韓遂に従って曹操に寝返った涼州の人間も少なくない。何とか西涼に帰還出来たとしても、周りが全て敵だらけ、という事もあり得るのだ。
「なら、どうしろって言うんだよ! 後は、玉砕覚悟で突撃するくらいしかないだろ」
「琥珀様の敵討ちを諦めるのなら、それでもいいかもしれないわね。けど、まだ手は残っているのよ」
半ば自暴自棄になりながら叫ぶ翠を宥めるためか、詠がゆっくりとした口調で話す。本当か、と尋ねながら、翠は珍しくすがる様な眼差しを詠に向ける。
「ええ。もちろん、絶対に曹操を討てるとは限らない。討てたとしても、それがいつになるかは分からない。それでも、このまま西涼に戻ったり、やけになって何の策もなしに突っ込むよりは分のいい話だわ」
「で、どうするんだ?」
「決まってるでしょ、益州へ向かうのよ」
肩幅に開いた足に体の正面で組まれた腕。堂々とした態度のメイドがそこにはいた。だが、内心はその姿と裏腹だった。
彼女の心の内にあるのは、激しい後悔と一刀への申し訳なさ。大事な情報をもらっていながらそれを活かせず、大敗を招いてしまった。せめて一刀の描いた通り、翠を益州にまで連れていかなければ。
しかし、事の全てを正直に話す訳にはいかない。もし、一刀が先に益州へと赴き自分達の受け入れを交渉していると知れば、翠は意固地になって行くのを拒否するだろう。
一刀に関する事は伏せつつ益州行きを納得させる。詠が敢えて自信満々に言ってみせたのは、そのためでもあった。
「益州、っていうと……。劉焉、いや、劉璋が治めている地か」
「違うわよ! 今は劉備が治めてるの。あんたにも間者からの報告は上げてるでしょ? 少しは覚えておきなさい、まったく」
「そうそう、お姉様。頭の中まで筋肉にしちゃうから、大事な事が覚えられないんだよ」
詠は、呆れた、と言わんばかりにため息を吐く。その尻馬に乗る形で、蒲公英が翠をからかう。彼女も覚えているのかどうか、微妙なところではあるのだが。
案の定、翠の拳骨が蒲公英に落ちる。こんな状況で何をやっているんだか。2人のやり取りを見て、詠からは先程よりも盛大なため息が出た。
「話を戻すわよ。こうまで惨敗した以上、ボク達だけで曹操と戦うのは不可能。であれば、どこかの勢力に助力してもらうしかない。幸い、と言っていいのか分からないけど、向こうは覇道を掲げて天下を狙っているんだから、どこにいたって戦う事になるわ」
現在、曹操以外で残っている勢力は話に上がった劉備に、徐州と揚州を治める孫策、荊州を押さえる劉表と、漢中を中心に信者を広げる五斗米道の教祖、張魯である。その中で最大の勢力を誇るのは孫策であるが、関中からは距離がありすぎる。それに、曹操の本拠地であるエン州や豫州を通らなければならず、危険度も高い。逆に、最も近い位置に存在する勢力である張魯では、軍備が足りず曹操に対抗出来ない。
「消去法で劉備か劉表しか残らないけど、劉備は月の洛陽脱出に協力してくれたんでしょ? 接点がある方が、ボク達を受け入れてくれる可能性は高いわよ」
こうしてきっちり説明されてしまえば、翠に異論を挟む隙間などあるはずもない。しばらく考える様子を見せた後、翠はこの案を受け入れた。
何とか一刀との約束が果たせると、ホッと胸を撫で下ろす詠。だが、翠の中では、この戦はまだ終わっていなかった。
翌朝、というには早すぎる時刻。東の空も白んではおらず、夜が明ける気配は微塵もない。降っていた雨は上がり、木の葉の間から見える夜空には、昨夜は姿を見せなかった月が燦然と輝いている。
その月明かりを頼りに、1人の少女がぬかるんだ土の上を歩いている。少女は1本の大木に繋がれた馬の下まで歩を進めると、馬の頭を軽く叩く。馬は嬉しそうに少女へと顔を擦り寄せた。
「悪いな、黄鵬。もう一働きしてもらうぞ」
自らの愛馬に語りかけた少女――翠は鞍に手をかけ、その身を馬の背に上げようとした。
「どちらへ行かれるおつもりですか、姫」
「鷹那……」
いきなり暗がりから声を掛けられ、鼓動をわずかに速めながら振り返る。そこには外套を身にまとった鷹那の姿があった。
声を掛けられるまで、その存在に気付かなかった。地面がこれ程ぬかるんだ状態では、いくら身の軽い鷹那でも足音を立てずに歩く事は不可能だ。という事は、翠がここに来るのを予測して待っていた事になる。ならば、尋ねた問いに対する答えが分かっているのも道理だ。
「韓遂殿のところ、ですね?」
「……ああ、そうだ。曹操の奴は取り敢えず諦めるとしても、叔父上は許しちゃおけない。母様とあたしを裏切ったんだ。けじめをつけないと、あたしは母様にも父様にも顔向け出来ないからな」
近寄ってくる鷹那に向かい、止めても無駄だぞ、と付け加える。鷹那は無言で翠の側まで歩み寄ると、黄鵬の隣に繋がれている自分の愛馬にひらりと跨がった。翠はポカンと口を開けて見上げていた。
「誰も止めはしません。ただ、私も同行します。もし姫の身に何かあれば、それこそ私は琥珀様に会わせる顔がありませんから」
開いていた口はその言葉を聞いて閉じられ、緩やかな弧を描く。誇らしげな微笑み。だが、一抹の寂しさを孕んだ微笑みでもあった。
韓遂の部隊は夏侯淵が率いる本隊の前方に陣を張っている。その入り口に立つ番兵が大きなあくびをする。東の空はわずかに明るくなり始めていた。
太陽が完全に姿を現せば見張りは交代。布団にくるまって眠れるまで後少し。見張りの緊張感が一番緩くなる時間帯だった。
あくびをして大きく開かれた番兵の口に何かが飛び込む。そのまま、悲鳴すら上げる事なく倒れてしまう。突然の事にもう1人の番兵が覗き込む様に口中を見てみれば、そこには矢が突き刺さっている。
敵襲。そう叫ぼうとして顔を上げた彼もまた、後ろから頭部を射抜かれて一瞬で絶命する。ゆっくりと倒れる番兵の脇を、2騎の騎兵が駆け抜ける。翠と鷹那、2人の騎射によって呆気なく入り口は突破された。
韓遂隊の反応は鈍い。それは、時間帯だけの問題ではなかった。壊滅的な打撃を負った馬超軍に対する掃討戦である。よもや相手の方から攻めてくるなど、多くの者は考えてもみない事だった。
このまま一気に韓遂のところまで。そう考えた2人の前方に1人の人物が立ち塞がる。だいぶ距離はあるが、肩に担ぐ剣の大きさから閻行であると判別出来た。
閻行は肩幅よりも広く足を開き、ぬかるんだ地面で滑らない様に強く踏ん張る。そのまま大きく腰を落とすと肩から剣を外す。それを右脇に押し付け、切っ先を背に向けて体を右に目一杯捻る。
「でやあっ!」
気合いと共に、捻れたゴムが元に戻る様に体が左へと回転。遅れて大剣が空を斬る。
いくら閻行の武器の間合いが長いとはいえ、到底届く距離ではない。だが、大剣によって巻き起こされた殺気を孕んだ旋風が、翠達の駆る馬の足を竦ませた。
「やっぱり来たのか。相も変わらず猪突猛進だね、あんた。驥疾様のところへ行くつもりだろうが、そうはさせないよ」
閻行は振り抜いた、柄の長い斬馬刀の様な大剣を体の正面で構え直す。
こんなところで足止めを食らっている場合ではない。それは分かっているが、閻行が黙って先に進ませてくれるはずもない。
ここは力ずくでも。翠が槍を握る手に力を込めた時だ。馬の背から跳んだ鷹那が愛用の偃月双刀、龍爪牙で斬りかかった。閻行は斬撃を刀身で防ぐと、宙に浮いた鷹那の体ごと弾き返す。空中で体を捻り、翠と閻行の間に着地する鷹那。そのまま偃月双刀を正面に構える。
「姫、ここは私が。姫は韓遂殿の首を」
「だけど……」
「ここまで来た目的は何です! 今を逃せばこの様な好機、巡ってくるとは限らないのですよ!」
渋る翠を叱咤する。確かに韓遂隊全体に油断のある今でなければ、目指す韓遂の首にまで届かないだろう。翠は一瞬目を瞑り、覚悟を決める。
「死ぬなよ、鷹那」
「ええ。御武運を」
翠は黄鵬の腹を蹴り、再び駆け出させる。そちらに攻撃を仕掛けようとする閻行に対し、鷹那がもう一度斬りかかった。先程と同じ様に防がれ弾かれる。だが、その間に翠は間合いの外に出ている。時間稼ぎは十分だった。
小さくなっていく翠の姿を睨んだ後、鷹那へと向き直る。その表情には、意外と焦りが見られない様に鷹那は感じた。
「本当に私とやり合うつもりかい? あんたで私に勝てるとでも?」
鷹那は琥珀に仕えて10年。対して閻行も約10年韓遂に仕えている。鍛練や模擬戦で刃を交える機会は幾度となくあった。最初はほぼ互角の力量を有していた2人だが、ここ4年、閻行は鷹那に一騎討ちで敗れてはいない。その自信が言わせた言葉だった。
翠は黄鵬を全力で駆けさせていた。
閻行の武は自分に匹敵する程で、真っ向からの戦いでは鷹那に分が悪い。彼女の事は心配ではあるが、今はこれ以上考えても仕方がない。出来る事は一刻も早く韓遂を討ち、鷹那のところへ戻る事だけだ。後ろを振り返りたい思いを殺し、ただ前へ前へと駆けていく。
陣の中央よりやや奥、少し小高くなっている位置に韓遂の天幕はあった。そこには韓遂の側近達が数人、てぐすね引いて待ち構えている。しかし、翠にはわずかな迷いもない。敵の中に騎乗したまま突っ込むと、一気に全員を斬り伏せてしまう。
黄鵬の背から降り、乱れた呼吸を整えるべく、1度深く息を吐く。そして、槍を右手に携えたまま、左手で天幕に掛かる目隠しの布を勢いよく捲り上げた。が、そこには誰の姿もない。
逃げたのか、それとも初めからここにいなかったのか。いなかったのだとすれば、この近辺に潜んでいる事はないはず。
迷う翠は天幕の中をもう一度見回してみる。
あたしの襲撃に気付いて逃げただけだ。
迷いは晴れた。机の上に残された盃と乱れた寝具が物語っていた。
天幕から出て辺りを見渡す。ちょうど馬に跨がろうとしている韓遂の姿が翠の瞳に飛び込んだ。振り返った韓遂の顔は恐怖に怯えていた。
翠は黄鵬の鞍に付けておいた短弓を手に取り、弓を引き絞る。最初は韓遂の頭を狙ったものの、馬の尻へと目標を変えた。
かなり距離がある。人の頭の様な小さい目標を狙って外すよりは、まずは韓遂の足を奪おう。そう考えての事だった。
この考えは効を奏した。韓遂が跨がった直後の馬に矢が刺さる。突然の事に驚いた馬は前足を跳ね上げ、韓遂を振り落とす。強かに腰を打ち付け、短い悲鳴がその口から漏れた。衝撃に思わず目を瞑る。
「ぐっ……! うっ、す、翠……!」
韓遂が目を開けると、目の前には馬に跨がった翠の姿が。怒りに眦を決して見下ろしている。その怒気にあてられ、韓遂は腰を地面に付けたままで四肢を使って後退る。
「ま、待て、翠。これには理由が……。そ、そうだ、義姉上の……」
「黙れ! 叔父上も武人なら、命乞いや言い訳なんかするな。武人らしく剣を取れ!」
一切聞く耳を持たない翠の態度に、韓遂も腹を括るしかなかった。
ゆっくりと立ち上がり剣を抜く。万が一にも勝てる相手ではない。なかば自暴自棄になり、奇声を上げながら剣を上段に振りかぶる。だが、その剣が振り下ろされる事はなかった。
翠の電光石火の一撃が韓遂の胸を貫いた。
目を見開き、何事かを呟く。しかし、声にはならず、まるで酸欠の金魚の様に口をパクパクとさせるだけ。翠に槍を引き抜かれると、その体は前のめりに倒れた。
瞳に宿るのは後悔か、絶望か。翠にとっては興味のない事だった。
「一刀も、叔父上も、何でだよ……」
先程までの怒気もすっかり消え、力なく呟いた翠。その頬を一筋の涙が伝った。
鷹那と閻行。仕官している年数が同じなら、歳も鷹那が上の1つ違い。身長も同じくらい高く、175センチある一刀とそうは変わらない。
そんな2人の大きな違いは体型だ。
線が細い鷹那は、よく言えばスレンダーでモデルの様な体型。悪く言えばメリハリがない幼児体型である。
一方の閻行は、出るべきところはしっかりと出ている。が、翠の様に女性らしい体つき、という訳でもない。骨太で、全体的に筋肉質のガッチリした体型であるためだ。
この体型の違いが2人の戦い方にも表れている。技と速さで相手を翻弄する鷹那に対し、閻行はその巨大な大剣で防御を固め、強力な一撃によるカウンターを得意としていた。
2人の戦いは、閻行が若干有利に進めていた。待ちの戦い方をする彼女には、自分から攻めなければならない今の状況は不利である。だが、それ以上にぬかるんだ地面は鷹那にとって不利だった。激しく動き回る戦い方をするため、足下が安定しないのは致命的なのだ。
もちろん、足下に不安があるのは閻行も一緒だ。それでも、最悪は上半身だけで強烈な一撃を繰り出せ、しかも間合いの広い閻行の方が有利だった。
「……くっ」
何とか凌ぎ続ける鷹那であったが、着地の瞬間に足が滑りバランスを崩してしまう。好機と判断した閻行は、大股で踏み込みながら大剣を脇に構える。翠達の前に立ち塞がった時と同様の構え。だが、距離は近い。全力での横薙ぎだ。
かわせないと判断し、鷹那は偃月双刀で防御する。それをまるで薄い木の板であるかの様に容易く粉砕し、閻行の振るった大剣は鷹那の脇腹を抉った。
鷹那の体は数メートル吹き飛んで地面に転がった。当たる瞬間、自ら力のかかる方向に身を投げ出したのだが、威力を吸収しきる事は出来なかった。
「ぐっ……!」
体を突き抜ける激痛に低く呻きながら鷹那は体を起こす。裂傷はないが、どうやら肋骨が数本折れたらしい。右手で左脇腹を押さえながら、足下が少しおぼつかない状態で立ち上がる。
閻行の大剣は、斬るというよりは重量を利用して叩き潰す事に主眼を置いている。これにより、刃こぼれや血糊の付着による切れ味の低下は関係なくなる。もっとも、鷹那が正面から受け止めようと踏ん張っていれば、その身は真っ二つにされていただろうが。
「流石だよ、鳳徳。当たる瞬間、自分から跳ぶなんてさ。けど、今の一撃は手応えがあった。あんたのあばらを数本いった手応えが、ね」
ニヤリと口角を吊り上げる。
あばらを折ってやった以上、今までの様な動きは動きは出来ないはず。ましてや、あの苦悶の顔だ。間違いない。
閻行は勝利を確信した。
その時、遠くから馬の蹄の音が響いてきた。はっとして音の聞こえてくる方へと顔を向ける閻行。その視線の先には、全身血濡れて赤く染まった翠の姿が。
閻行の心臓が大きく跳ねる。なぜ、という問いが浮かぶ。
「……馬超、貴様ーっ!」
問いの答えはすぐに出た。考える以前に、最初から答えは持っていた。馬超がここに戻ってきた理由は1つしかない。認めたくはなかったし、考える事すら怖い。だが、それしかないのだ。
驥疾様が馬超に殺された。
瞬間、閻行は雄叫びのように絶叫し、翠へと向かい駆け出していた。
護衛に付いていた連中は何をやっていたのだ。なぜ、驥疾様はお逃げくださらなかったのだ。いや、自分のせいだ。自分が鳳徳相手に手間取ったせいで驥疾様は死んだのだ。そもそも、これが鳳徳の狙いだったに違いないのに。
今さらだとは閻行も分かっている。翠を討ったところで韓遂が生き返る訳ではない。それでも臣下として、女として、けじめだけはつけなければならなかった。
鬼気迫る表情で翠に駆け寄る閻行の姿に、鷹那は思わず声を出した。
「姫っ!」
叫んだ鷹那の脇腹を激痛が襲う。だが、それに構っている場合ではない。片方の刀身を失った偃月双刀の柄を両手で持つと、それぞれの手を逆に捻る。カチリと音が鳴ったかと思うと、柄は真ん中で2つに分かれ、2振りの偃月刀になった。
刀身の残っている方の偃月刀、龍牙を振りかぶると、閻行めがけて投げつける。勢いよく回転しながら飛ぶ龍牙はブーメランの様に大きく弧を描く。閻行の死角から襲い掛かり、彼女の左足ふくらはぎを裂いて大地に落ちた。
急に襲ってきた痛みで足を前に出せず、閻行はつんのめる様にしてその場に倒れた。顔だけを上げて、翠を呪わしい瞳で睨み付けている。その瞳の色に、さしもの翠も背筋に悪寒が走る。
生かしておけば後の禍根になるのは間違いない。そう考え、止めを刺そうとした翠の視界に這いつくばる鷹那の姿が入った。様子がおかしいのは遠目にも分かった。翠は閻行を無視し、鷹那へと馬を寄せる。
「大丈夫か、鷹那」
「ええ。それよりも、韓遂の方は……?」
「……ああ、ケリはつけた。行けるか?」
翠に声を掛けられた鷹那は苦しげな顔をしていた。脂汗も額に滲み出ている。だが、出来る限り平静に振る舞おうとしているのが分かり、翠も深くは追求しなかった。
ええ、ともう一度返事をして立ち上がる。いつの間にか心配そうに寄り添ってきた愛馬に痛みを堪えて跨がる。
翠と鷹那は倒れている閻行を最後に一瞥し、その場を離れていった。
こうして、馬超を筆頭として蜂起した涼州勢力は目的を果たす事が出来ず、結果、曹操の版図は涼州にまで広がる事となったのである。