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第4章-渭水編・第7話~裏切り~

 河北から一部の兵を引き上げてきた夏侯淵と合流した曹操は後退。黄河に流れ込む渭水という川の、さらに支流を渡って陣を張った。


 対する涼州連合軍は残された物資を自分達の物にしながら追撃。曹操軍と川を挟んで対陣する。


 ここで連合軍の快進撃は止まる。問題なのは両軍の間に流れる川だった。


 大体のところで膝辺りまで。深い場所でも成人男性の腰ぐらいの水深しかない。だが、この浅さが厄介なのである。もっと深ければ船で兵馬を対岸に渡す事も出来るが、この程度の水深では歩いて渡河するしかない。だが、歩兵にしろ騎兵にしろ、水の中を進めばどうしても足が鈍くなってしまう。曹操軍はそこを狙って射掛けてくるだろう。連合軍は慎重に対応せざるを得なかった。


 上流や下流に渡河を行える場所がないか探ってみるものの、そういった地点には曹操軍の見張りがついている。動きを察知されれば、別の場所で迎撃を受けるだけだった。


 「しばらくは全軍待機。馬鎧が必要数揃い次第、曹操軍に突撃を仕掛けます」


 軍議の席で鷹那が命令を出す。緒将が頷く光景を、詠は翠の後ろに控えたまま見ていた。


 全体での軍議の前に、詠は翠や韓遂等中心人物と少人数での軍議を行っていた。そこで出た結論が、今鷹那が言った馬鎧を使用する、というものである。


 状況が芳しくないのは翠も分かっていた様で、さすがに、突撃だ、とは言わなかった。韓遂はというと、軍を2つに分けて許昌への急襲を提案した。しかし、この案は翠と詠に反対され採用されなかった。


 同じ意見を示した2人だったが、その理由はかなり違っていた。曹操の首を挙げる以外に決着はない、と考えている翠。


 対して詠は人材不足を理由に反対した。今の連合軍に、ある程度以上の大軍を率いる事が出来る者は翠と韓遂しかいない。必然的にこの2人でそれぞれの部隊を指揮する事になる。だが、翠を諫める事が出来るのも、今の状況では韓遂だけ。この2人を離してしまうと、万が一の時に翠の暴走を止められなくなってしまう。


 アイツがいてくれたら。詠はそんな事を思った。


 しかし、馬鎧を用いるのにも問題がある。涼州の騎兵は軽騎兵が主で馬鎧を装備しない。そのため、十分な数を用意するには時間がかかる。詠の見立てでは、最短でも1ヶ月は必要だった。


 これは兵法の基本に反する事になってしまうが、拙速を心掛けて全滅する訳にはいかない。敵の様子や周囲の地形を把握する事に努める。同時に、隙あらば仕掛けられる様に準備を怠らない。そうしつつ、馬鎧の完成を待つ他無い。詠はそんな風に考えていた。


 こうして両軍がにらみ合いを始めてから数日後の軍議で、韓遂がおもむろに口を開いた。


 「私の使っている間者が曹操軍の補給経路を突き止めてな。輜重隊を襲撃し、物資を奪い取ってはどうだ? 戦いたくてウズウズしている連中も多い。不満を解消する意味でも、悪い作戦ではないはずだ」


 彼の言う通りだった。ここまで連勝で来ただけに、このまま一気に決めてしまえ、という雰囲気が兵達の間に広がっていた。そこでの停滞である。士気は下がり、なぜ攻撃しないのか、と上に対する不満も高まっている。このまま放っておけば、いさかいを起こしかねない。


 翠は、いいのか、と目で詠に尋ねてくる。琥珀の死の時といい、情報源が明らかにされない事が気にはなる。それでも、ただ留まっているよりはマシ、と、詠は首肯した。






 「申し訳ありません、華琳様。許昌からの輜重隊がまたしても襲撃され、物資を強奪されました」


 曹操軍の陣中、軍議の席で夏侯淵が報告する。顎に手を当てたまましばらく黙していた曹操は、


 「風、貴方はどう思うかしら?」


 夏侯淵と共に河北から戻った程立に問う。


 「これで3回連続、見事にやられていますからねー。間者か、もしくは内通者がいると見て間違いないと、風は思うのですよ」


 何だと、と叫び夏侯惇はいきり立つ。そんな姉を宥める夏侯淵を横目で見ながら、どうするべきか、曹操はさらに尋ねる。


 「……ぐー」


 「寝るな!」


 ほんのわずかな時間目を離している隙に、程立はイビキをかいていた。思わず夏侯惇がツッコミを入れる。振るわれた夏侯惇の手が程立の頭を掠め、綺麗な金色の髪に乗っていた人形が吹き飛ぶ。


 「おおっ! 宝慧ー」


 飛んでいく人形の名を呼び、悲しそうにその手を伸ばす。宝慧と呼ばれた人形は天幕の布壁に当たってポトリと落ちた。それを一番近くにいた、同じく河北から戻った典韋が拾い、程立に手渡す。


 「まったく、酷い目にあったぜ」


 「やっぱり、風の相方は稟ちゃんしかいませんねー」


 程立は人形を頭に戻しながら、宝慧の分も声色を変えて言い分ける。


 「で、どうするべきかしら?」


 「特に何もする必要は無いかと。当面は河北からの物資だけで事足りますからー。むしろ泳がせておいて、不穏分子のあぶり出しに使った方がお得ではないでしょうか」


 曹操の問いに答えると、どこにしまっていたのか、程立は飴を取り出してペロペロと舐め始める。これ以上何も言う事は無い、と宣言している様に周囲には感じられた。


 こういった奇行は目立つものの、曹操は程立を軍師として高く評価していた。のほほんとしているが、荀或とは違い私情や状況に流されない。大局的な見方をするのは荀或や郭嘉よりも上だろう。


 今回、川岸に陣を張ったのも、程立の独断であった。曹操が夏侯淵と合流し、ここまで後退してきた時にはすでに陣は8割方完成していた。


 また、会うなり程立は逸る曹操を宥めてもいる。この戦は時間を稼げば労せずして勝てる。正面からの戦いに付き合ってやる必要は無い、と。


 涼州連合軍の約3割を占める関中の豪族は涼州の者達と違い、死んだ馬騰に恩義がある訳ではない。ただ尻馬に乗っただけ。戦況が膠着すればすぐに揺らぐ様な、そんな脆弱な結束でしかないのだ。相手の攻め気をいなし、気勢を挫いてから事を構えればよい。


 程立は己の主に向かいそう進言し、曹操もまたそんな軍師の言葉を聞き入れたのだった。






 輜重隊への襲撃は、しばらくの間は上手くいっていたものの、ある時を境に手痛い反撃を受ける様になる。今日も見事に迎撃され、これで3回続けて全滅に近い損害を出していた。


 「元々、奴等から物資を奪う必要性も無かったんだ。これ以上は意味無いだろう」


 翠は作戦の中止を指示する。こうまで厳しく警戒されては、成果を上げるのは期待出来ない。


 次いで、鷹那に馬鎧の準備の進捗状況を確認する。


 「申し訳ありません。当初の予定よりだいぶ遅れています。現在、予定の4割程度しか生産出来ていません」


 その報告に翠は歯噛みした。川を挟んだ対岸に母の仇がいるというのに、手を出す事が出来ない。時間を無駄に浪費し、代わりに不満が積み重なっていく。思わず怒鳴りたくなる感情を抑え、生産を急がせる様に命令し、軍議は終了となった。




 自分の天幕へと戻った韓遂は酒を用意させると、宵の口から飲み始めた。ブツブツと何事か不満気に呟きながら、早いペースで酒をあおる。そうして半ば酔いが回り始めた頃、暗がりから黒装束の男が姿を現した。


 これでもう何度目か。最初の時の様に驚く事は無い。が、それとは別の感情が韓遂の心を支配している。


 「どういう事だ! 前回も今回も、協力すると言っておきながらこの様だ! まったく、貴様の情報などアテにならん!」


 黒装束に怒りをぶつける。酔いのせいもあって、韓遂の声はかなり大きい。誰にも気取られない様に、と行った人払いを、自らフイにする勢いだ。


 酒をグイとあおり口を湿らすと、韓遂はさらに文句を並べる。それに対し、黒装束は反論はおろか、身じろぎ1つせずに直立している。その様子が逆に気に障り、韓遂が盃を机に置いて立ち上がった時だった。


 黒装束の頭がわずかに動いたかと思うと、そのまま首から上が胴から滑り落ちる。まるで空気の抜けたゴム毬の様に、地面で跳ねる事なく転がる。その上に首の無くなった胴体がゆっくりと倒れ、覆い被さった。


 いきなりの事に、韓遂も言葉を失う。しかし、いつまでも呆然とはしていない。側に置いておいた剣を鞘から抜き放ち両手で構える。


 「警戒しなくても大丈夫ですよ」


 優しい口調ではあるが、そこに隙は感じられない。韓遂は辺りに忙しなく目を配る。だが、声を発した人物の姿は見えない。首を左右に振り、天幕の隅々にまで注意を向ける。


 韓遂は思わず体を硬直させた。倒れた男の向こう側。先程まで誰もいなかったその場所に人影が見えたからだ。


 「貴様、何者だ」


 「私はただの使者です。我が主は……、この男を殺めたのが私だとすれば、自ずと答えは出るでしょう?」


 声の質と体の線で女性らしいと分かる。


 気配の消し方から見て、間者か暗殺者か。少なくとも、自ら名乗った使者だとは思えない。どうする、と韓遂は剣の切っ先をその女性に向けたまま思考した。


 誰か兵を呼ぶべきか。人払いをしているとはいえ、大声で叫べば聞こえるはず。問題は、兵が駆け付けるまでの間、持たせられるかどうか、だ。


 彼も自分の武にある程度の自信はある。それでも、目の前にいる女性と争うのは避けたい。得体の知れない不気味さが彼女にはあった。


 そんな心の内を読んだかの様に、その女性は口を開く。


 「安心してください。貴方を始末せよ、とは命令されていませんので。もっとも、騒がれた場合はその限りではありませんが」


 抑揚の無い口調で淡々と語られる言葉に、韓遂はとりあえず従っておく。脅しの類いで無いのは間違いなかった。それに、彼女の正体は分からないが、使者だと名乗ったのだ。何らかの話があるに違いない。


 「……一体、どんな用件でここまで来たのだ?」


 相手に刃を向けたまま、警戒を解かずに尋ねる。それに答える事なく、女性は懐へと手を入れる。とっさに体を強張らせた韓遂に、彼女は嘲る様に薄く笑う。懐から出した手には書簡が握られていた。


 書簡を受け取ると、韓遂は数歩下がってからそれを広げた。すぐにはそちらに目を落とさず、しばらく牽制する様に相手を睨む。しかし、まったく気にする様子はない。それでも使者に対して意識を割きつつ、書簡の内容に視線を移した。


 途端に韓遂の眉間にシワが寄る。読み進めるにつれて、ありありと怒りの色が浮かぶ。


 「ふ、ふざけるな!」


 韓遂は叫ぶと同時に書簡を叩きつけた。だが、その書簡を届けた使者は動じた様子を見せない。無表情のまま、転がっている首を軽く蹴る。


 「彼はいい人でした。死ぬ前に、知っている事を全て、私に教えてくれたんですから」


 足下へ転がってきた男の顔を見て、韓遂は思わず声をあげそうになる。さっきは暗がりに立っていた事もあって気付かなかったが、男の両目がくり抜かれているからだ。さらには、歯も数本しか残っていない。恐らくは凄まじい拷問を受け、死を得る代わりに知っている事を吐いたのだろう。韓遂は背筋が寒くなった。


 「貴方がこちらに従っていただけないのであれば、仕方ありません。無理強いはするな、との命ですから。……ところで私、案外口が軽いんですよ? 今回知った事も、どこかで漏らしてしまうかもしれませんが……」


 初めて女性らしいしなを見せながら、使者は韓遂に背中を向けた。


 「ま、待て! あれは、私も聞かされていなかった事だ!」


 その背中に向かってすがる様に叫ぶ。


 「それは私ではなく、馬超殿に言われてはどうですか? それを信じるかどうかは、伯父である貴方自身が一番よく分かっているでしょうが」


 結果は言われなくても見えている。聞く耳を持ってくれるかどうか、という問題がまずある。仮に耳を傾けてくれたとしても、自分の事を許してくれはしまい。この事を知られる訳にはいかないのだ。


 言葉に詰まり俯く韓遂に、その女性は書簡を拾い上げて手渡す。


 「ここにも書いてありますが、従っていただけるのであればこれまでの事は不問に処し、天水郡の太守の任は保証します。上手くいけば、それ以上の役職に就ける事も考える、と我が主は申しております。逆らって自分の姪に殺されるか、従って更なる地位を手に入れるか。……明日まで待ちましょう。では、色好い返事が頂ける事を期待していますよ」


 女性の姿は闇の中に溶ける様に消えた。入れ代わるように様にやって来た兵士が天幕の外から声を掛ける。大声が聞こえたので不信に思ったらしい。


 韓遂は書簡を隠すと中に入る様に伝える。天幕内に足を1歩踏み入れたところで兵の足は止まった。


 「か、韓遂様。これは……?」


 黒装束に身を包んだ死体が転がっているのだ。兵士が驚くのも無理はない。


 「どこぞから忍び込んだ間者を始末しただけだ。恐らくは、曹操の放った者だろうがな。片付けておけ」


 韓遂は身を竦ませている兵に向かい命令する。若干毒気を抜かれた様な感じで返事をし、その兵は仲間を呼びに天幕から出ていく。それを確認してから、韓遂は書簡を隠した木箱の方をじっと見つめた。






 その数日前、新たな漢の都である許昌。その街に最近建てられたばかりの宮殿内は激しい喧騒に包まれていた。男も女も関係なく怒号が飛び交う。何か固い物で殴打する音とそれに続く悲鳴。曹操軍の兵士達は、次々と宮殿内にいる者を取り押さえていく。


 皇帝の暮らす宮殿、という事で刃物を使う事はない。だが、抵抗する者には容赦なく鉄鞭が振るわれている。肉が裂け、血を吹き出し、気を失いそうになる程の痛みに絶叫する。そんな光景に、女子供は血の気を失い大人しくなる。


 曹操軍は闇雲に宮中の人間を襲っている訳ではない。そのほとんどは献帝の血縁者、外戚である。


 「貴様ら、どういうつもりだ! 神聖なる宮中でこの暴挙、許される事ではないぞ!」


 後ろ手に縛られ、膝を床に着けさせられた状態で、外戚の1人が声高に兵達の無礼を叫ぶ。が、次の瞬間、背中を強かに鉄鞭で殴られ、彼は苦悶の声を上げた。


 「どういうつもり、ですって? あんた、随分ふざけた事を言ってくれるわね?」


 兵達の間から少女が姿を現した。周囲の兵よりも2回りは小さい身長に、猫耳の様な変わった形の頭巾。曹操軍軍師、荀或だった。彼女は汚物でも見る様な瞳で外戚を見下ろしている。


 「丞相であらせられる曹操様の殺害計画、私達に漏れていないとでも思ってんの? それに、別件でも容疑があるのよ。あんた達みたいなゴミ以下の連中が、本当になめた真似してくれたじゃない」


 吐き捨てる様に言うと、傍にいた女性兵士に向かって連行する様に伝える。


 こうして、かつて琥珀が危惧した通り、曹操暗殺計画は事を成す前に露見し、関係者は全て捕らえられたのであった。






 「くそっ……!」


 寝台の上で上体だけ起こし、翠は呟やく。


 「何で、今さらあいつの夢なんか……」


 ここ数日、彼女は似た様な夢を見ていた。出てくるのは決まって一刀で、彼が何事か叫んでいる。しかし、その声は翠の耳に届かない。


 今日もそうだった。必死に叫んでいるのは分かる。だが、やはり彼の声は掻き消されてしまう。それでも彼の悲痛な叫びに、翠は心を揺さぶられた。


 「くそっ……!」


 自分の頬が濡れている事に気付き、もう一度呟く。


 翠にとって何より腹立たしいのは、一刀が自分の夢に出てきた事ではない。夢の中の自分が一刀の姿を見ただけで喜んでいる事が。声も聞こえないのに、何かを伝えようとするその表情だけで自分を思ってくれていると感じ、嬉しくなる事が。彼女には腹立たしかった。


 あいつはあたしと母様を裏切った。そう割り切ったはずなのに。


 未だ心のどこかに一刀の存在が強く残っていると思い知らされ、自分自身が情けなくなってしまう。


 だが、いつまでも感傷に浸っている暇は無い。曹操軍と川を挟んで対陣し、すでに1ヶ月近くが経過している。着々と兵力を増強する曹操軍に対し、涼州連合軍の士気は目に見えて低下していた。敵を前にしながら戦わないその姿勢に、不満も少しずつ噴出し始めている。一部では、兵同士のいさかいすらも起こっている。兵力では大きく上回っているものの、追い込まれているのは涼州連合軍の方だった。


 気合いを入れるべく、両手で勢いよく自分の頬を叩く。そのまま朝の冷たい空気を吸おうと天幕から出た翠は自分の目を疑った。辺り一面真っ白で、伸ばした手の指先すら霞む。夢の続きを見ているのか、と一瞬錯覚する。それほどまでに深い霧が辺りに立ち込めていた。


 「これだ!」


 何かを閃いた翠は、身支度も整えずに真っ白い闇の中を慎重に、早足で歩き出した。




 翠が訪れたのは鷹那の天幕だった。すでに起床していた鷹那は、髪をとかして普段通りの服に着替えている。対して翠は、


 「どうしたのですか、姫? その様な格好で」


 と、鷹那が軽く驚いてしまう様な、完全に寝て起きたままの格好だった。


 普段、ポニーテールに縛っていても腰まである栗色の髪は、まとめていない今の状態だと地面に着きそうになるくらい長い。寝巻きの裾もこれまた長く、こちらは完全に引きずってしまっている。寝相が悪いのか、胸元も大きくはだけたままである。


 自分の姿に気付いた翠は、慌てて胸元を整える。


 「と、とにかく、すぐに皆を起こしてあたしの天幕に集めさせろ!」


 いつもはがさつだが、こういうところは非常に女らしい。恥ずかしさを誤魔化すために叫ぶその姿に、鷹那は頬が緩みそうになるのを堪えながら、はい、と短く返事を返した。


 翠が辺りに人影が無いのを確認して天幕の外に出る。鷹那も続いて天幕から出ると、そこはやはり真っ白い世界。翠の姿はすでに霧の向こうに霞んでいる。


 そういう事、ですか。朧気に見える翠の背中を見ながら、彼女がどうしてこんな早朝から訪れてきたのか、合点がいった気がした。


 蒲公英や韓遂らに声をかけてから翠の天幕に向かう。着いた時には、翠はいつもの服に着替えており、髪もすっかりまとめられていた。


 朝からシャキッとしている鷹那や詠、清夜と比べ、蒲公英と霞はまだ少し眠そうにしている。そんな2人に、翠は咎める様な視線を向ける。日頃、自分が1番寝起きが悪いという事実は、彼女の頭の中には微塵も残っていない。その事に対し文句の1つも言いたい蒲公英であったが、何の用も無しに呼び出すはずはない、と黙って翠の話を待つ事にする。


 「この霧を利用して、奇襲をかけるぞ!」


 自信満々に翠は言い放つ。


 確かにこれだけ霧が深ければ、渡河をしても対岸から見える事はないだろう。もちろん音は消せないが、音だけで正確な位置を把握するのは不可能だ。少なくとも、矢の命中率をかなり落とす事は出来るだろう。他方向から渡河すれば、それだけ成功する確率も上がるはずだ。


 だが、この策には大きな問題がある。


 霧が出ているのは朝の短い間だけ。それも毎日ではない。朝起きて、霧の有無を確認してから出陣の準備に取り掛かったのでは遅すぎる。かといって、毎日やみくもに出陣準備をして夜明けを迎える訳にもいかない。


 韓遂がその事を指摘すると、翠は言葉を詰まらせた。


 「霧が出るかどうかなら、かなりの確率で分かるわよ」


 そう横から口を挟んだのは詠であった。


 「まぁ、何日も先の事は分からないけど、夜には次の日の朝に霧が出るかどうか、大体予想がつくわ」


 ここで発生しているのは川霧である。寒い冬の朝、陸の上にある冷たい空気と、川の上にある暖かい空気とが混じりあうと霧が出る。そんな原理はもちろん知らないが、書物と経験則から、詠はよく晴れた夜の翌朝には霧が出やすいと理解していた。


 なら、と翠は意気込む。が、今度はその詠が待ったをかけた。


 霧に紛れての奇襲。その考えは悪くない。ただ、相手からこちらが見えないという事は、こちらからも相手の動きが見えないという事だ。恐らくは奇襲の可能性を考え、何らかの対策をとってくるはず。


 そして、一刀から教えてもらった事の中に、今回の作戦に引っ掛かりそうなものが1つある。1晩で城壁を造るという、氷城の計の話だ。


 土を高く盛り、そこに水を撒いておく。すると、朝の冷気で水が凍り、ただ土を盛っただけの山が固い城壁に変わる、というのである。巨大弩砲でも使えば簡単に破壊出来るだろうが、騎兵の足を止めるには十分すぎる。


 そのため、詠は翠の考えに諸手を挙げて賛成は出来ずにいた。しかし、馬鎧を必要数揃えられる予定が全く立たない以上、代案は必要であり、この霧を利用する考えは悪くない。詠はしばしの間思案した後、自分の考えを口に出した。






 霧を利用しての奇襲を決めてから3日。その間、早朝に霧が立ち込める事はなく、両軍共に静かな時を過ごしていた。


 「明日は霧が出るわね」


 この日の夜、雲1つ無い星空を見上げながら詠は確信した。もちろん、彼女は放射冷却という言葉も原理も知らないが、よく晴れた夜の翌朝は冷え込みが強い事は知っている。そして、冷え込みが強いほど霧が出やすい事も、だ。


 詠の報告を聞いた翠は、作戦を実行に移す様に指示を出す。明朝出陣する部隊には夜半まで仮眠を取らせ、日の出までに準備を整えさせる。朝が近くなり、予想通りに霧が出始めた。太陽が姿を現した時には、すっかり対岸は見えなくなっていた。


 霧の中で銅鑼が激しく打ち鳴らされる。わずかに遅れて鬨の声が上がり、涼州連合軍の兵達は冷たい川へと突入した。


 銅鑼の音と鬨の声、そして水を跳ねる音が霧の中から聞こえ、曹操軍は慌てて迎撃に入る。何も見えない霧の向こうに音だけを頼りに次々と矢を放つ。だが、方向も距離も、正確な情報が何1つ無いこの状況は、ただ当てずっぽうに射っているのと変わらない。矢は敵兵に当たる事なく、全て川の中へと落ちていった。


 涼州連合軍が全く被害を受けていないのには理由がある。なぜなら、彼等は渡河を試みていないからだ。ただ単に銅鑼を鳴らして鬨の声を上げる。川岸で水を踏み、バシャバシャと水音を立てる。川を強引に渡ろうとしている、と思わせるための策であった。


 ならば、なぜこんな事をするのか。それは、本命が別にあるから。その存在を曹操軍に気取られない様にするためだ。


 上流と下流に兵を回し、霧の中を慎重に渡河させる。対岸に渡った後は適当な場所に兵を伏せ、待機。馬鎧を装備した鉄騎兵を突撃させ、曹操軍の意識を正面に集中させたところで、伏せておいた兵で左右から挟撃する。これが詠の作戦であった。




 霧が晴れる。曹操軍の陣に、警戒していた氷城の様な物は確認出来ない。なら突撃してしまえばよかった、と言われればそうではない。それは結果論に過ぎず、最悪の事態を想定するのは軍師として当然だからだ。それに、霧にしろ夜の闇にしろ、視界の悪い状況での戦闘は同士討ちの危険性が高まる。その危険を犯してまで乱戦に持ち込みたくはなかった。


 「どんな様子だ、詠?」


 詠が対岸に布陣する曹操軍の動向を観察していると、不意に背後から声を掛けられた。声の主は韓遂である。


 「今のところは順調です。翠や霞達も無事に対岸へ移った、と報告を受けていますし」


 詠の返事に、そうか、とだけ返し、韓遂も同様に曹操軍の陣へと向き直る。その顔を、詠は横目で窺う。


 不安があるとすれば、この韓遂だけだった。一刀が語っていた離間の計を、果たして本当に仕掛けてくるのかどうか。表立って動けないながらも、詠は韓遂の周囲を監視している。その限りでは、怪しい動きは見られていなかった。






 太陽が中天に到達する。作戦の開始時刻だ。用意できた馬鎧を装備したおよそ一万の鉄騎兵が、対岸の曹操軍を威圧する様に並ぶ。


 いくら馬鎧の矢に対する防御力が高いとはいえ、近距離から射られれば防ぐ事は不可能だ。それが可能であれば、わざわざ別動隊を対岸に渡す様な真似はしない。この部隊には敵陣に突入した後、曹操軍の意識を引き付けるために、しばらくは単独で暴れてもらう必要がある。そのため、どれ程の数が対岸に到達出来るか。それが作戦の成否を握る重要な鍵であった。


 鉄騎兵の指揮を執る清夜が部下の前に進み出る。士気を上げるべく、号令をかけようとしたまさにその時。伝令兵が1人、息を切らして駆け込んできた。


 「ほ、報告します! 上流に伏せていた馬超様の部隊が、敵兵に急襲されました!」


 「なっ……!?」


 詠は思わず声を失う。翠の傍には鷹那が副官としてついている。見つかる様な下手な真似をするとは思えない。ならば、情報が漏れたのか。


 その答えを出すより早く、別の伝令兵が飛び込んでくる。


 「報告します! 張遼将軍が曹操軍の急襲を受け、部隊は離散! 張遼、馬岱両将軍のお姿も見付けられません!」


 2つの別動隊が同時に見付かるなどあり得ない。ましてや、こちらが仕掛ける直前に、最悪と言っていい時機に攻撃を受けるのは、偶然とは考えにくい。


 「大変な事になったな」


 詠の横に立つ韓遂が、抑揚の無い平坦な声で言う。とてもではないが、狼狽している様子は微塵も感じられない。


 「まさか、韓遂様……」


 そう口に出しかけた時、周囲から悲鳴と剣撃の音が上がった。


 馬鎧を装備した兵が、そうでない兵達によって次々討たれていく。突入部隊である鉄騎兵は全て馬超軍の兵である。精強を誇る彼等が、突然味方から斬りかかられなすすべもなく倒れていく。


 詠は韓遂へと視線を戻した。


 「あんた、ボク達を裏切ったわね!?」


 刺す様な視線と共にぶつけられた問いに韓遂は答えない。代わりに、詠の左腕を強くつかむ。痛みで詠の顔が歪むが、韓遂はお構いなしにその腕を引いた。


 力で男性に勝てる訳がない。引かれるまま、体が数歩前に出てしまう。振りほどこうと試みるが、韓遂の握力が強まるだけだ。


 『こいつ、ボクの事をどうするつもりなの? 普通、すぐに殺されてもおかしくないのに……。翠への人質?』


 詠はそこまでで考えるのをやめた。韓遂の真意を探るより、この状況を何とかする方が先だ。


 自由になる右手でエプロンドレスのポケットから護身用の小刀を取り出し、躊躇なく切りつける。とっさに韓遂が手を引いたため、腕を掠めて浅く切るだけにとどまったが、とにかく離れる事は出来た。韓遂を正面に見据えたまま、じりじりと後退る。


 詠も月と同じで、武の心得は皆無だ。両手で小刀を包む様に構えているその姿は、思い切り腰が引けている。とてもではないが、満足に小刀を振るえる様には見えない。


 韓遂は切られた傷口を一瞥する。大した事がないと分かると、詠へと再び視線を向けた。


 「……曹操は、自分をここまで出し抜いた相手に興味があるらしい。詠、私と一緒に来てもらうぞ」


 「ふざけんな! 誰が、はいそうですか、って付いていくと思ってんのよ!」


 怒鳴りながら小刀を振り回す。しかし、闇雲に振り回しているだけで、韓遂には掠りもしない。


 「仕方がない。なら、少し痛い目を見てもらう事にしよう」


 韓遂は腰に佩いている剣を抜き、切っ先を詠へと向けた。それだけで彼女の体は竦む。先程まで激しく振り回されていた小刀も、今は小刻みに震えているだけだ。


 軍師である詠にとって戦場は慣れたものだ。命のやり取りをしている場面はいくらでも目にしてきている。だが、普段は後方から全体に目を配る彼女には、こうして剣を向けられる経験が今まで無かった。


 恐怖で足が自然と後ろへ動いてしまう詠。対して韓遂は悠然と距離を詰める。口角を歪めると、韓遂は剣を大きく振りかぶった。


 逃げないと。そう思っても体が動かない。まるで根っ子が生えてしまったかの様に、その足は固まってしまっている。


 韓遂の剣が振り下ろされる。その直前、詠の体が宙に浮き、後方へと飛んだ。


 「……っ! し、清夜!?」


 背後には清夜が立っていた。彼女が詠の襟首をつかみ、強引に後ろへと引いたのだ。軽く首が絞まったが、切られるよりは余程ましだ。


 清夜は詠の無事を確認すると、自分の背中に隠す様に体を入れる。清夜の大きな背中に詠の緊張は一気に緩み、不覚にもその場にへたりこんでしまう。カタカタと小刻みに震える体を抑えられない。


 行きなり自分の髪を触られる感覚を覚え、詠は顔を上げた。清夜が後ろ手に頭を撫でてくれている。一瞬で顔が熱くなり、照れ隠しにバシッと手を払う。立ち上がって文句を言おうとする姿に清夜はかすかに笑みを見せる。


 その後、清夜は韓遂へと向き直り、戦斧、金剛爆斧を突き付ける。


 「どういうつもりだ、韓遂殿。詠に対する所業、説明してもらえるか?」


 清夜に睨み付けられ、韓遂は口ごもった。真実を伝えればどうなるか、想像に難くない。間違いなく、戦斧を振り下ろされるだろう。彼も武にはある程度の自信を持っているが、清夜に敵わないのは分かり切っている。


 「言えないか。この状況、どうやら貴様が絡んでいる様だな。……ならば、ここで貴様を討ってくれる!」


 清夜は両手で戦斧を振りかぶる。今しがたと状況は逆転。今度は韓遂がその顔に恐怖の色を浮かべる事となった。


 そんな韓遂めがけ、清夜の腕から剛撃が繰り出される。しかし、その一撃も目標を捉える事はなかった。清夜と韓遂、2人の間に割り込んだ女性に、身の丈程もある大剣で戦斧を受け止められたためだ。


 「しゃ、孝儒しゃおるー!」


 「驥疾じぃじ様、お下がりください!」


 孝儒と呼ばれた女性に言われるまま、韓遂は数歩下がる。この様子に、清夜は舌打ちを1つ。そして、閻行め、と口の中で呟く。


 今韓遂を守った女性は姓を閻、名を行、字を彦明という。韓遂にとっては懐刀、切り札といっても過言ではない将である。というのも、まだ一刀が現れる前の事だが、一騎討ちで翠を打ち負かした程の腕を持っているからだ。


 肩の辺りで切り揃えられた灰がかった黒髪。少し波打つその髪を、首の後ろで1つに束ねている。そんな柔らかい雰囲気とは裏腹に、彼女の瞳は細く鋭い。まるで獲物を狙う猛獣の様に鋭い眼光で清夜を睨んでいる。


 「……詠、この場は退くぞ」


 清夜は詠にのみ聞こえる程度の小声で囁く。閻行と何度か手合わせをした経験のある清夜には、閻行の強さは十分に分かっている。


 勝てない相手ではない。ただし、お互いに五分の状態であれば、だ。今の清夜は詠を守る必要がある。さらに、周囲にいる兵が敵なのか、それとも味方なのかもハッキリとしていない。こんな状況では、逆立ちしても勝ち目はなかった。


 「……それしか、手はないわね」


 詠も反対するつもりはない。このまま無理にとどまったところで、曹操軍が川を渡ってくるだけだ。そうなれば全滅は免れない。ここは兵力を少しでも温存するためにも、撤退する以外の道はなかった。


 詠の返事を聞くと、清夜は戦斧を頭上で回し始める。


 「はあぁっ!」


 気合い一閃、ゴルフクラブの様に戦斧を振るい大地を抉る。砂利混じりの土が閻行に向かって無数に飛ぶ。狙い通りに閻行が怯んだ隙に馬へと跨がり、さらに詠を引っ張り上げた。


 「者共! 韓遂は我等を裏切った! 遺憾ではあるがここは撤退し、再起を図る! 我に続けーっ!」


 馬上で清夜が叫ぶと、鬨の声が上がる。恐慌状態に陥っていた馬超軍の兵達は何とか落ち着きを取り戻し、駆け出した清夜の後に続く。一点突破で囲いを破り、彼女達は遁走を始めた。


 「追え、孝儒! 華雄は殺しても構わん。だが、詠は何としても捕らえろ!」


 韓遂の命令に従い、閻行は追撃をかける。


 馬鎧を装備している分、馬超軍の足は遅い。最後尾から次々討ち取られていく。しかし、清夜と詠を乗せた馬は混乱の中を駆け抜け、2人は命辛々逃げ切る事が叶った。

※今話から出てきた閻行は、不識庵・裏さまからアイデアを頂きました。

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