第1章-涼州編・第3話~胡蝶乱舞~
「ふぅ〜」
一刀は茶店の店先に置いてある椅子に座ってため息を吐いた。
一刀が武威に来てからすでに3ヶ月。今、この街はこれまでに無い賑わいを見せていた。その理由は1ヶ月程前の城内にあった。
すっかり日も暮れて暗くなった中庭を歩く一刀。馬超との試合の後から剣術の稽古も仕事の1つとなったのだが、それ以外にもこうして自主トレを行っているのである。
中庭の外れにある東屋。そこに1つの人影を見つけた。
「あれは……、馬騰さん? でも……」
月明かりに浮かぶその影は、確かに馬騰だった。だが、一刀は違和感を覚える。
こうして自主トレ帰りに馬騰の姿を見掛けるのは、初めてではない。だが、今までは馬騰の方が先に気付いて声を掛けてきていた。今回の様に、一刀が先に気付いた事など無かったのだ。
不思議に思った一刀はそっと近付いて行く。さすがに5メートル程まで近付くと馬騰も一刀の気配を感じた様で、自分の背後に居る一刀に話し掛けた。
「今日も自主鍛練? 頑張るのね」
一刀はそのまま歩いて馬騰の隣に腰掛けると、横から表情を窺う。それに気が付いたのか、一刀の方を向き笑みを見せる馬騰。一瞬迷ったが、一刀はストレートにどうしたのか尋ねる事にした。
「……来月で40歳になるの。それを考えると、ね」
フゥッ、と1つ大きくため息をつく。
「あ、誕生日なんですか。おめでとうございます」
「めでたくなんかないわ、この歳になると」
一刀は何の悪気も無く言ったのだが、余計に馬騰を落ち込ませてしまったらしい。何とかしないと、そう思った一刀はとっさに口を開いた。
「じゃあ、誕生日パーティーでもしましょうか」
「誕生日ぱーてぃー?」
しまった、と一刀は思った。どういう訳か、英語は通じないのだ。少し考え、自分で翻訳してから喋り直す。
「……誕生日の祝宴、かな。親しい人達を呼んで皆でご馳走を食べたり、プレゼント……贈り物をしたりするんですけど……」
馬騰の表情が変わらないのを見て、次第に一刀の声は小さくなっていく。やっぱり駄目かな、そう思っていると、馬騰は急に何かを思い付いた様にぶつぶつと呟きだした。ほんの数秒そうしていたかと思うと、今まで落ち込んでいたのが嘘の様にパアッ、と明るい表情になる。
「面白そうね。誕生日ぱーてぃー、やってみましょうか」
非常に楽しげな顔で言うと、馬騰は杯を一気に空けた。
それから約1ヶ月、馬騰の誕生日を明日に控えた今日、一刀は誕生日プレゼントを買う為に街に出ていた。だいぶ文字の読み書きも出来る様になってこなせる仕事が増えた事に加え、現代日本の知識や技術、考え方を伝えた事により、一刀はまあまあの給金をもらっている。そのお金を持って街をブラブラしていたのだが、余りの人の多さに辟易していた。
どこから漏れたのか、誕生日パーティの話は領民の間にも広がり、武威の街はお祭り騒ぎになっている。おかげで露店も多く、プレゼント選びは逆に難航していた。
お茶を飲み干したところで、店内が少しざわついている事に気付く。何気なく中を覗き込むと、小さな女の子が店主に頭を下げていた。ちょうど茶碗を下げに来た女給に何事か尋ねる。
「ああ、無銭飲食ですよ。本人は、財布を落とした、って言ってますけどね」
そう言いながら女給は茶碗を片付けていく。一刀は視線を女給から少女の方に戻した。地味ではあるがしっかりとした身なりと、どことなく気品の感じられる顔立ち。食うに困っての無銭飲食、と言う訳では無さそうだ。
一刀は立ち上がると、少女の方へと歩み寄る。
「親父さん。その子の分も俺が払うから、見逃してやってくれないかな」
急に後ろから掛けられた声に、店主は少し驚いた顔で振り返った。
「そりゃまあ、こっちとしては払ってさえもらえれば文句はありませんが……」
ビックリしている少女を尻目に、一刀は2人分の料金を払った。金額を確認すると、店主は奥に引っ込んでしまう。見えなくなった店主にしばらく頭を下げた後、少女は一刀の方へ近付いた。
「本当に申し訳ありません」
そう言って、心底すまなそうな顔で頭を下げる。
「いいよ、そんな大した額でもないし」
実際、現代の貨幣価値に直せば2、300円と言ったところだ。大卒の初任給並の給金を貰った一刀には問題無い。
しかし、それでも助けてもらった事には変わりが無い、と、相も変わらず申し訳無さそうな顔をしている少女。薄い紫色の緩くウェーブした髪を肩で切り揃えたその少女からは、やはりどこか高貴な感じを受けた。
謝られながら茶店を出た一刀は、そんな少女を見てある事を思い付いた。
「じゃあ、1つ頼みを聞いてもらってもいいかな?」
「いやー、ありがとう。助かったよ」
一刀と少女はさっきとは別の茶店で、向かい合って座っていた。2人の間のテーブルには、小さな包みが乗っている。
「いえ、こんな事でよければいくらでも」
そう言って、少女は控えめに笑う。馬超達とは違う儚げな笑みに、一刀の心臓はドキドキしていた。
「そんな事無いって。女性に贈り物なんかした事無いから、本当に助かったんだから」
一刀も笑顔を返す。
テーブルの上に乗っているのは、馬騰への誕生日プレゼントだ。女性、それも自分の母親ぐらいの年齢の女性へプレゼントを贈った経験など無い一刀には、何を選べばよいのか分かる訳もなく、少女のアドバイスは非常に役に立った。
「で、これ。お礼の代わりに」
一刀は少し照れながらポケットから何かを取出し、それを少女の手を取って渡した。いきなりの事に、少女の顔も赤くなる。恥ずかしさに俯いた少女は、そのまま自分の手の平を見た。
そこには菫の花をかたどったヘアピンがあった。驚いた顔をして一刀を見上げる。
「そんな、先程も助けて頂いたのに、お礼まで頂く訳には……」
「気にしないで。君に似合うと思って買ったんだから」
もちろん、一刀には口説くつもりなどなく、純粋にそう思っただけなのだが、少女の顔は真っ赤になった。それを見て、一刀も恥ずかしくなる。
「……そういえば、まだ名乗ってなかったね。俺は……」
その時だった。ガシャーン、と何かが壊れる音と悲鳴が店の外から聞こえて来た。店内全ての客や店員の視線が、一斉に外の音のした方に注がれる。
一刀は少女にここに残る様に言うと、自分は店から出た。人垣を掻き分けて中に入る。そこには壊れたテーブルや椅子の破片と倒れている老婆。そして、破片を挟んで老婆の反対側に数人の男達がニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて立っていた。
その状況から一刀は全てを悟った。それと同時に、男達を確認する。人数は7人。全員が腰に剣を帯びている。
いくら一刀が馬超達を相手に訓練しているとはいえ、丸腰の状態で武器を持った複数の敵と戦う自信はない。一刀が迷っていると、人垣から1人飛び出し、老婆に駆け寄った。それはさっきまで一刀といた少女だった。
老婆の脇にしゃがみ込み話し掛ける。取り敢えず老婆に怪我が無い事が分かると、ホッとした様に微笑んだ。だが、すぐに険しい表情になったかと思うと、未だに下卑た笑いを浮かべるゴロツキ達を睨み付ける。
「あなた達は恥ずかしくないんですか!? 大勢でお年寄りを襲うなんて!」
先程までの少女からは想像の出来ない様な、怒気を含んだ声で叫ぶ。その迫力にゴロツキ達だけでなく、一刀までも一瞬ひるんだ。
ピン、と張り詰めた空気。たが、その空気は粗野なダミ声で破られた。ゴロツキ達のボスが、気圧されている手下達を押し退け少女に近付く。
「テメェ、このババァの孫か? なら、ババァの不始末はテメェに償ってもらうとするか」
そう言うと、ボスは少女の腕を掴み無理矢理立たせ、少女の顔を痛みで歪ませた。だが、次の瞬間、少女の腕を掴んでいるボスの腕が掴まれる。いつの間にか近付いていた一刀だった。
「何だ、テメェは……、がぁっ!」
一刀が握り潰す位の勢いで腕を掴むと、ボスは痛みで少女の腕を離す。と同時に、空いている右手で顔面を殴り飛ばした。
一刀に勝算など無い。1対7、丸腰対真剣、まともに勝負しようとすれば、一方的に惨殺されるだけだろう。それでも彼には見過ごす事など出来なかった。
勝てないなら勝てないで方法はある。時間を稼げば警備の兵がやって来るはずだ。普段より人出が多い分、警備の人数も増やしてあるのだから。
もんどりうって倒れるボス。そのボスを囲む様に一刀の前に立つ手下達。それらに対し、ファイティングポーズをとる一刀。辺りを緊張が包んだその時だった。
「はーっはっはっはっ! はーっはっはっはっ!」
どこからともなく高笑いが響く。一刀もゴロツキ達もキョロキョロと辺りを見回すが、どこにもそれらしい人影は見当たらない。
上だ、と一刀達を囲む野次馬の中の1人が叫んだ。そこに居る全員の視線が一ヶ所に集まる。さっきまで一刀と少女がお茶を飲んでいた店の屋根の上。そこには1つの人影があった。
「大の男が大勢で寄って集って1人の老婆を襲うなど、畜生にも劣る振る舞い、許すまじ!」
西に傾き掛けた太陽を背にしている為、顔は見えない。たが、よく通る澄んだ声とそのシルエットから、女性だという事は分かった。
まさかな、と一刀は思う。登場の仕方や口調は、どう考えても正義の味方そのものだ。
「だ、誰だ、お前は!」
ゴロツキの1人が悪役のお決まりの台詞を吐く。
どんな名乗りを聞かせてくれるのか、ちょっとワクワクしてくる一刀。
「悪に名乗る名前は無い!」
そう叫ぶと、正義の味方は屋根の上から飛んだ。そのまま空中で2回前方宙返りをして、音も立てずに地面に降りる。
期待を裏切られ、少しガッカリする一刀。その気持ちを感じ取ったのか、正義の味方は手に持っている槍をクルクルと回し、ゴロツキ達に向けてビシッ、と突き付けた。
「我は美と正義の使者、華蝶仮面! 悪党ども、覚悟しろ!」
名乗ってるじゃん、というツッコミは心の中にとどめ、一刀は華蝶仮面の姿を観察する。
白を基調とした、丈の短い着物の様な服。振り袖の様に長い袖には蝶の羽を模した様な刺繍。足元のポックリに頭上のナースキャップと大変奇抜な格好だが、中でも目を引くのは、その顔に着けている蝶の仮面だろう。貴族や金持ちが仮面舞踏会で着ける様なバタフライマスクであった。
何でこんな格好を、と思うが、取り敢えず黙っておく。
「何やってんだ、テメェ等! びびってんじゃねえ!」
またもや悪人の常套句。ボスの発破に応え、気合いの声と共に手下達は華蝶仮面に襲い掛かる。
フッ、と軽く笑うと、襲い来るゴロツキ達に自ら突っ込んで行った。すれ違いざま振るわれた槍が、一瞬で全ての相手を打ち倒す。
まるで舞う様な華麗な槍捌きは、馬超のそれとは違うが間違いなく強い。
「さて、後は貴様だけだ。どうする?」
ボスに向けて槍を突き付ける華蝶仮面。それに対し、
「くそっ、覚えてやがれ!」
と、三度お決まりの台詞を吐くと、華蝶仮面に背を向けて逃げ出した。だが、その先には巻き込まれない様に離れていた一刀の姿があった。
走って来るボスに合わせて距離を詰めると、その手を取って投げ飛ばす。仰向けに倒れたボスのみぞおちに、一刀は拳を落として気絶させた。
「ほぅ、お主なかなかやるな。」
呼吸を整える一刀の背中から華蝶仮面が声を掛けた。振り返った一刀は、少し警戒しながら尋ねる。
「あなたは一体、誰なんですか?」
「我は美と正義の使者、華蝶仮面!」
再び名乗りを上げる華蝶仮面。もちろん、一刀が聞きたいのはその中身の事なのだが、どうやら答える気は無いらしい。ここで一刀は考える。
この華蝶仮面、変な人ではあるが悪人ではないだろう。ならば、このまま無理に聞き出そうとするよりは、気分良く帰って貰った方が良いのではないか。少なくとも、彼女に助けられたのは事実なのだから。
そこで、一刀は華蝶仮面のノリに付き合う事にした。スッ、と右手を差し出す。
「ありがとう、華蝶仮面。あなたのお陰で街の平和は守られた。この街を代表して礼を言わせてもらうよ」
「私は当然の事をしたまで。気にする必要は無い」
そう言いながら、少し笑って一刀の手を握り返した。
「では、さらばだ!」
一刀の手を放した華蝶仮面は大きくジャンプし、彼女が現れた屋根に飛び乗った。一刀に一瞥をくれると、走り去ってしまう華蝶仮面。
「ありがとう、華蝶仮面。ありがとーう!」
その彼女が見えなくなるまで、一刀は手を振り続けた。
華蝶仮面が大立ち回りを演じた通りに面した場所にある酒家。殆どの客が野次馬に店の外に出てしまった中、2人の少女が普通に食事をしていた。
「何やら外が騒がしいですね〜」
金髪の少女が、目の前に座る黒髪で眼鏡の少女に話し掛ける。
「大方、星が何かやったのよ。気にしても仕方無いわ」
特に何も無かったかの様に、2人は普通に食事を続けた。
事態が一段落して、一刀は少女と老婆の方に近付いた。大丈夫、としゃがみ込んで2人に尋ねる。
「あ、はい。ありがとうございました」
控え目に笑ってお礼を言う少女。老婆も少し擦り傷がある程度で、問題は無かった。
「まあ、助けてくれたのは華蝶仮面で、俺は何も……!」
釣られて笑った一刀の顔が、一気に強張る。その眼前には、光り輝く刃。
「貴様、月様に何をしている」
一刀の耳に届く女性の冷たい声。一刀は目の前の刃から、視線をゆっくりと上に上げていく。そこには鎧を纏った銀髪の女性が立っていた。
目が合った一刀は、冷や汗をかきながら引きつった笑みを浮かべる。だが、女性の表情は険しさを増した。
「月様から離れろっ!」
そう叫び、右手1本で巨大な戦斧を振り上げる。咄嗟に後ろに転がる様にして離れる一刀。その直後、戦斧が轟音をあげて地面を抉った。
「華、華雄さん! 待ってく……」
「何やってるの、月! いいから離れて!」
戦斧を振り回す女性を止めようとした少女は、その後ろから来た眼鏡に三つ編みの少女に抱かれて離される。
「え、詠ちゃん!? 違うの、あの人は……」
少女は必死に抵抗するが、その声は届かない。
「ええい、ちょこまかと!」
物凄い勢いで振る戦斧をかわされ続け、忌々しげに叫ぶ女性。距離を取った一刀に駆け寄りながら、再び大きく戦斧を振り上げる。
そのタイミングを一刀は狙っていた。さっき地面を転がった時に拾っていた木片を投げ付ける。
虚を突いたとは言え、当たりはせずに左手で軽く払われてしまう。しかし、それによって生じる一瞬の間を利用して、一刀は人垣の中に飛び込んだ。
「待て、貴様っ!」
そう叫ぶものの、一刀を追おうとはしなかった。さすがに人混みの中で戦斧を振り回す気は無い様だ。女性は1つ舌打ちすると、2人の少女の方に近付いて行った。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ……」
人垣を抜けた一刀は路地に入り、荒くなった呼吸を整えながら後ろを確認した。どうやら一刀の読み通り、追っては来ないようだ。ホッと胸を撫で下ろし、城へ向かって歩き出す。その道すがら、一刀はさっきの事を思い出した。
『あの子、斧の人の事を華雄、って呼んでたな。て事は、まさかあの子が……』
そう考えて、一刀はその想像を振り払うかの様に激しく首を横に振った。一刀には、どうしても少女と自分が考えた三国志の武将が結び付かなかった。正確には、結び付けたくなかったのだった。