表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/55

第4章-渭水編・第6話~漢中~

 涼州及び関中と益州とを隔てる様に横たわる秦嶺山脈。険しい山々が連なるこの地に、カンという乾いた高い音が幾度も響いていた。


 「よし、じゃあ今日はここまでにしよう。お疲れ様、月」


 「……は、はい。ありがとう……ございました、一刀さん」


 地面に突っ伏す様に倒れていた月は、へとへとになった体を無理矢理に起こし、一刀へ頭を下げた。2人の手には、長さが60センチ程の棒が握られていた。それを使い、一刀は月に剣の稽古をつけていたのである。


 この事を言い出したのは月の方だった。2人が翠の下を離れた日の夜、月は一刀に剣を教えてくれる様に頼んだ。一刀は、自分もまだまだ未熟者だから、と一度は断ったのだが、最終的には月の真剣な眼差しに心動かされた。それ以来、ほぼ毎日の様に一刀は稽古をつけている。


 フラフラとした足取りで歩いていく月の背中を見ながら、よく続くな、と考えていた。月は武に関して、ずぶの素人だった。一刀にとっては決して大変ではない鍛練も、経験の無い彼女にとってはかなり苦しいはずだ。実際、生傷も相当増えている。それでも弱音を吐かないのは、やはりあの時の事が原因だろう。


 一刀は月の背中が見えなくなると、野営をするために火起こしを始めた。




 一刀から離れ、月は近くを流れる小川へと歩を進めた。そのほとりにしゃがみ込むと、両手で掬った水を口に運ぶ。鍛練のお陰でからからに渇いた喉から胃へと向かい冷たい水が流れる。気持ちいい。そのまま数度、水を掬っては飲み掬っては飲みを繰り返し、ようやく人心地ついたところで、フゥと息を吐いた。


 すると、今度は上着を脱ぎ始める。ノースリーブになり、両の腕が露となる。白く綺麗な肌をしているが、そこにはいくつものアザやみみず腫が浮かんでいた。剣の鍛練で出来た傷だ。


 痛く苦しい鍛練ではあるが、あの時の事を思い出すと何でもなくなる。あの時――詠に辛辣な言葉を投げ付けられた時の事だ。






 邪魔。その言葉を聞いて天幕を飛び出した月を、後を追いかけてきた清夜が慰める。あれは本心ではない、貴方のためを思い言ったのだ、と。それは月も分かっていた。


 彼女がショックを受けたのは、詠に邪魔だと言われたからではない。詠に邪魔だと言わせた事に対してだった。自分が不甲斐ないばかりに、無二の親友に酷い事を言わせてしまった事がショックだった。


 常に自分は誰かに甘えて生きていた。月は今までの事を思い返してみる。両親が存命だった頃は2人に、2人が亡くなった後は琥珀に後見人として助力してもらった。傍らにはいつも詠と清夜がいて、智と武の両面から支えてもらっていた。自分1人では何も出来やしない。月は痛感させられた。


 だから、せめて自分の身くらいは守れる様になろう。そうでなければ再び詠の前に立つ資格は無いと、月は1人心に決めるのだった。




 小川の水に浸した手拭いを、赤く腫れた箇所にそっと当てる。熱を持っていたところに冷たい物が触れて気持ちいい。


 「でも、やっぱり冷たすぎて水浴びは無理かな」


 少し残念そうに呟いた。かなり汗をかいたし、土埃にまみれてもいる。水で洗い流してスッキリしたかったが、風邪でも引いたら大事だ。濡らした手拭いで体を拭くにとどめた。


 季節は秋も終わりに近付いている。涼州より南に下ったとはいえ、山地で標高が高い。その分、冬は早く訪れそうだった。


 手拭いを固く絞ると、月は持ってきた桶に水を汲んで来た道を戻った。


 彼女が一刀の下へ戻ると、焚き火は赤々と燃え、その周りには夕飯が並べられていた。夕飯、といっても、今日の移動中に採った木の実や果物、携帯用の保存食が並んでいる程度だが。


 2人で旅を始めてからは、野宿の時は大体こんな物だ。極まれに、野鳥や野うさぎも食べる事があったが、片手で簡単に数えられる程度の回数しかない。それも、彼等が自分達で狩りをしたのではなく、道中出会った猟師から譲ってもらっただけだった。


 月はともかく、一刀には決して満足出来る量ではない。それでも食べる物が無ければ我慢するより他にない。もっとも、保存食には数日分の余裕があるのだが、それを消費する訳にはいかなかった。


 簡素な食事が終わる頃には、太陽は西の山影に沈んでいた。こうなると、後は寝るしかなくなる。2人は少し離れた場所で丸くなっている麒麟へと近付くと、その腹を枕にする様に横たわる。そして、毛布代わりの外套に寄り添う様にしてくるまった。


 最初から何の抵抗も無く、2人はこうして寝る様になった訳ではない。月は一刀への淡い思いを胸に秘めている事もあり、恥ずかしさと嬉しさが半々といった感じだった。むしろ、一刀の方が一緒に寝る事を頑なに拒んでいた。


 月に対して、一刀は妹の様な感覚で接してきた。しかし、あくまで妹の様な感覚であり、本当の妹ではない。だいぶ幼い雰囲気を残しているものの、かなりの美少女だと一刀も感じている。そんな月と一緒に寝て、絶対に間違いが起こらない、とは自信を持って言えなかった。


 もしそんな事になれば、詠や清夜からの信頼を裏切る事になる。何より、どの面下げて翠に会えと言うのか。そんな思いが彼の中にはあった。


 だが、結局はこうして一緒に寝る事になっている。あまりの寒さに2人と1頭、肌を寄せ合わなければまともに寝る事も叶わなかったからだ。


 最初のうちこそ、2人共緊張で中々寝付けずにいたが、3日もすると普通に眠れる様になった。というより、寝不足が過ぎたため、緊張に睡魔が勝つ様になった。そうして1度グッスリ眠ってしまうと慣れたのか、多少ドキドキはしても眠れないという事はなくなっていた。


 今日も月はわずか数分でスヤスヤと寝息を立て始めている。安らかな寝顔を見ながら、一刀も眠りに落ちていった。






 山の上からの眺望は確かに素晴らしいが、それにもすぐ慣れて、特別な感動も無くなってしまう。だが、この日は今までにない景色が、麒麟の背に跨がる2人の目に飛び込んできた。


 「ふぅ、あれが漢中の街か」


 一刀は大きく息を吐きながら、しみじみといった風で呟いた。山頂より少し下った場所からは、山あいに広がる盆地が見える。その盆地の真ん中にあるのが漢中の街。益州の入り口であり、一刀達の旅の中間地点だ。


 漢中に着いたら、とりあえず宿を取って旅の疲れを癒そう。防寒具を揃えて、食料の補充もしないと。


 そんな考えが一刀の頭の中を回る。路銀には結構余裕があった。


 翠の下を離れる時に、一刀は麒麟を、月は予備の軍馬を1頭拝借した。路銀が心許なかった事から馬を売却し、秦嶺山脈に入る前に旅装を整えた。その時の残りが、まだ半分以上も残っていた。


 あまり贅沢は出来ないしするつもりも無いが、それでも少しは休みたい。その思いは月も同じらしく、2人の表情は明らかに緩んでいる。そこに緊張感は欠片も見られない。


 そんな中、麒麟だけが異変を察知した。急に足を止め、耳を真っ直ぐ立てて忙しなく動かす。周囲を警戒しる仕草だ。


 一刀は麒麟の背からヒラリと降りる。その顔は先程までと違い、引き締まったものへと変わっている。一刀自身は異常を感じていないが、何も無しに麒麟がこんな動きをするとは思えない。辺りに目を配りながら、一刀はゆっくりと歩を進めた。


 そうして10メートルほど前に出たところで、前方にある茂みの奥から木の枝が折れる様な音がいくつか聞こえた。と、次の瞬間、何かが茂みから転がり出てくる。小さな悲鳴を背中に受けながら、一刀はとっさに太刀の柄へと手を伸ばす。一気に緊張が高まった。


 わずかな間の後、転がり出てきた塊はやおら起き上がった。上体を起こし、左右に首を振っている。


 出てきたのは人間だった。


 それが分かると、安堵した月はホッと息を吐く。しかし、一刀は警戒を緩めない。柄から手を離してはいるが、いつでも動き出せる体勢のままだ。


 相手は何者なのか。なぜ茂みから転がり出てきたのか。それらが判明し、自分達にとって害が無いと判断できるまで気は抜けない。


 それから、一刀が気になっているのは相手の服だ。何ヵ所か切り裂かれた様に破けており、流血しているのが今の距離でもはっきりと分かる。木の枝を折りながら転がったと思われるから、多少の傷は負うだろう。しかし、それにしては傷が大きい感じがする。


 キョロキョロと辺りを窺っていたその人物と一刀の目が合う。年の頃は一刀と同じか少し上くらい。赤い髪に意思の強そうな顔立ちの、まさに好青年と呼ぶのに相応しい雰囲気をまとっている。


 「駄目だ! 逃げろ、お前達!」


 目が合うなり、青年は大声で叫んだ。向こうに行け、と言わんばかりに大きく手を振っている。しかし、見ず知らずの相手からいきなり逃げろと言われても、素直に従う事は出来ない。面識があり、信用のおける人物であれば話は別だが、何の説明も無しでは判断も出来なかった。


 すると、青年が出てきた位置よりさらに向こうの茂みがガサガサと揺れた。


 「くそっ……、追い付かれた!」


 音のした方を振り返った青年は、忌々しそうに呟くと懐から刃渡り30センチくらいの小刀を取り出した。その様子を一瞥し、一刀も茂みへと視線を移す。


 そこから1つの物体が姿を現す。先程の青年の様に飛び出してくるのではなく、あくまでゆっくりと。雄々しく、堂々と自らの姿を日の光に晒す。太い四肢で大地をつかみ、足音も立てずに歩く。全体的に黄色い毛皮で覆われているが、筋の様に走る黒い毛が見事な縞模様を作り出している。威嚇か警戒か、それともただ単に機嫌が悪いだけか、グルルルと低い唸り声が辺りに響く。


 一刀は思わず肝を潰した。視線の先にいるのは、ライオンと並ぶ猛獣である虎だった。小さい頃、両親に連れていってもらった動物園で見たものと同じ姿形。だが、迫力は全然違う。金網が無いせいか、それとも野生のなせる業か。ともかく、一刀は虎という存在に飲まれかかっていた。


 「何をしている。早く逃げろ!」


 赤毛の青年が前に出ながら、振り返らずに声を掛けた。その言葉で一刀は我に返る。


 「逃げろって、あんたはどうするんだ?」


 「俺がこいつを仕留め損なったせいで、君達を巻き込む事になった。なら、君達が逃げるまでの時間稼ぎくらいはしてみせる」


 彼を囮に残して逃げ出せば、助かる確率は確かに高いだろう。ただ、漢中への道は虎が塞いでしまっている。逃げるとすれば、今来た道を引き返す事になる。今日中に漢中に着くはずのものが、3日は余計にかかってしまう。無駄に時間を消費したくはない。


 それに、いくら親しくないとはいえ、人が虎に襲われるのを見過ごしたら寝覚めが悪い。月と目の前の青年を守り、今日中に漢中に到着する。両の思いを叶えるべく、一刀は覚悟を決めた。


 コツン、と小石が虎の顔に当たる。虎と赤毛の青年、両方の視線が小石の飛んできた方へと注がれる。もう一度、小石が虎の額に当たった。


 「何をしている!? 早く逃げろと言ったぞ!」


 一刀が虎に向かって石を投げている光景を見て、青年は怒号した。


 「悪いけど、それは聞けない。こっちは蜀への旅の途中なんだ。あまり時間が無いんだよ」


 そう言いながら、一刀は虎へと数歩近付く。彼の心は虎を見た直後とは違い、自分でも驚くほどに落ち着いていた。


 以前、蒲公英から虎殺しをやった、と自慢話を聞いていたのも原因だろう。その時の虎が、一刀の眼前にいる虎と比べてどうか、という事はもちろん分からない。それでも、ほぼ互角の腕である彼女が虎を狩った事実は、彼を十分に勇気付けた。


 それに、もう1つ。いざ冷静になってみると、虎に対しての恐怖心はそれほどでもなかった。虎と戦った経験が無い事に対する不安感はある。だが、虎から受ける殺気の様なものは、それほど強くは感じていない。むしろ、翠や恋と訓練で相対した時の方がよほど恐怖心を感じる。足の震えを抑えるのでさえ一苦労だ。


 『ていうか、虎より怖い女の子って……』


 そんな事を考え、口許を緩めるくらいの余裕が生まれていた。


 小石をぶつけられた虎は、そのターゲットを赤毛の青年から一刀へと切り替えた。一刀を視界の中心に捉え、円を描く様に距離を詰め始める。


 虎がどんな動きで襲い掛かるのか、一刀にはその知識は無かった。しかし、ネコ科の動物である以上、猫やライオンと同じ様な動きをするだろう。ある程度まで距離を縮めたら飛び掛かり、前足で獲物を押さえ付けるはず。一刀はそう予測を立てた。


 虎の体重は分からないが、自分より重いのは確かだろう。その体重で、しかも鋭い爪を使って押さえ込まれたら、脱出は困難だ。下手に防御に力を入れるより、一撃で決めるべきか。


 足を肩幅よりも大きく開き、右足を前に出す。虎に対して半身の体勢になり、ぐっと腰を落とす。左手で鞘を返して刃を空に向ける。そのまま鯉口を切り、右手を鞘に添えた。


 抜刀術。剣の師匠である祖父から直接教えてもらった事は無い。しかし、彼はよく精神統一に真剣を使い、居合い抜きを行っていた。それを小さい頃から、一番間近で見てきた。そのイメージを元にこの世界で修練を重ねてきた。


 大丈夫だ、絶対出来る。一刀は自分に言い聞かせる様に心の中で繰り返した。


 構えをとる一刀の背中側へと弧を描く様にしながら徐々に間合いを詰める虎。一刀はそんな虎に右足のつま先を向ける様に回転しながら、摺り足でじわじわと前に出る。緊張が辺りを支配し、風が木々を揺らす音だけがかすかに聞こえていた。


 虎のまとう雰囲気が変わった。


 来る。そう感じた瞬間、大気を震わす咆哮を上げながら、虎は後ろ足で跳躍。両前足を高々と掲げ一刀へと襲い掛かる。


 普通の人間であれば咆哮に竦み上がり、あっけなく命を落としているだろう。だが、一刀は違う。虎が動くと同時に左足で大地を蹴り、右足を大きく前に踏み出す。右手を斜め前に振り上げる様にしながら、刀身を鞘の中で滑らせる。と同時に、一瞬でも早く太刀を解き放てる様、左手で鞘を後方に引く。


 狙いは振り下ろされる虎の左前足。ただその一点をめがけ、刃を振るう。


 白刃と虎爪が交差した。


 その刹那、虎の足首から先が宙に舞う。ワンテンポ遅れて足首があった箇所から大量の血が吹き出す。まるで、思い切り蛇口を捻った水道の様な勢いだった。


 踏み込んだ右足に左足を引き付けつつ、体の向きを90度回転させる。一刀の目の前には無防備な虎の脇腹が。振り抜いた太刀を上段で両手に持ち直し、


 「てやあぁっ!」


 気合いと共に、真っ直ぐに振り下ろす。虎の脇腹は見事一直線に裂け、そこからも激しく出血する。2、3歩よろめき、一刀の方へ眼球を向けたところで、虎はドタンと音を立てて倒れた。


 一刀は大きく息を吐き出す。虎の胸は小さく上下しているが、もう起き上がる事は出来ないだろう。緊張を緩め、構えを解いた。


 「すまないが、少し待っていてくれるか?」


 一刀の返事も待たず、赤毛の青年は倒れている虎へと近付く。その傍らに立つと、先程から手にしたままの小刀を逆手に持ち変え、体重を乗せて虎の首筋に突き立てた。苦しげに繰り返していた浅い呼吸が止まった。


 一刀は月に返り血を拭いてもらいながら、青年の動きを背中越しに見ている。と、引き抜いた小刀で、今度は腹を一気に引き裂いた。腹の中に手を突っ込んで内臓を引き摺り出す。腰から下げた革製の袋に、それらを選別しながら収めていく。最後に、多少肉を切り取って別の袋に入れると、青年は一刀の方へと引き返してくる。血まみれの姿に、月はかなり引いていた。


 「助かったよ、ありがとう。すまないな、礼も言わずに」


 虎の血が付着して真っ赤になってしまった顔で爽やかに笑う。月だけでなく、一刀もドン引きだ。


 「俺の名は華佗。漢中で医者をしているんだ」


 華佗といえばこの時代において一番の名医である。その華佗が、どうして虎に襲われていたのか。一刀は興味が湧いて尋ねてみた。


 「ああ、虎の内臓は漢方薬の原料になるんだ。普段は腕のたつ武芸者に頼むんだが、急に入り用になってな。1人で山に入ったら、たまたま大きいのと出会してしまった、という訳だ」


 医者自ら虎狩りなんて、と、つい呆れてため息が出てしまった。しかし、華佗には気にした様子が無い。そのまま話を続けてくる。


 「そういえば、蜀に行くと言っていたな。なら、今日は漢中で宿を取るんだろ? だったら家で泊まっていけばいい。……もちろん金は必要無い。お前は命の恩人だからな。さあ、行くぞ!」


 華佗はまたもや一刀の返事を聞かずに歩き出す。このタイプには何を言っても無駄だ、と一刀は諦める。悪い人ではなさそうだし、厚意に甘えさせてもらう事にした。






 漢中にある華佗の家の前では、数人が彼の帰りを待っていた。診察の邪魔をしては悪いと、一刀と月は荷物だけ置かせてもらい買い物へと街に出た。食料や衣類など、これからの旅に必要な物を買って回る。買い物を終えて華佗の家に戻った頃には、すでに空は暗くなり始めていた。


 「すまなかったな。俺が招いたのに何のもてなしもせず」


 もうだいぶ前に患者は帰ったのか、ちょうど華佗が料理の乗った皿を運んでいるところだった。促されるまま席に着いて料理を待つ。


 みてくれはよくなかったが、味は思いの外よかった。もっとも、何日もまともな食事をしていなかった、というプラス要素はあったが。


 食事も終わって腹がふくれると、強烈な睡魔が2人を襲う。無理もない。野宿続きでしっかりとした睡眠は取れていないのだ。その上、慣れない剣術の稽古で月の疲労はピークに達しつつある。一刀にしても、虎との命のやり取りによってかなり精神をすり減らしていた。


 2人揃ってあくびを必死に噛み殺している様子に、華佗は口許が緩むのを堪え切れなかった。


 「ふふっ、今日はゆっくり休んでくれ。寝床も用意してある」


 立ち上がった華佗に続き、一刀もテーブルに両手をついて立ち上がる。眠気と満腹感で体が重い。隣では月が船を漕いでいる。軽く肩を叩いて目を覚まさせると、足取りのおぼつかない月の手を引き、華佗の後に続いて部屋を出た。


 通されたのは小ぢんまりとした部屋だった。客間だろうか。ベッドと机が1つずつあるだけの、生活感が全く感じられない部屋だ。


 「この部屋を自由に使ってくれ」


 それだけ言って立ち去ろうとする華佗を、一刀が後ろから呼び止める。


 「わざわざ部屋を用意してもらってアレなんだけど、寝台が1つしかないんだけど、さ?」


 部屋を用意してくれたのは一刀が頼んだ訳ではなく、華佗の厚意によるものだ。こんな事を言うのは正直気が引けた。だが、野宿ならともかく、さすがに一緒の布団で寝る訳にはいかない。それを聞いた華佗は、何を言っているんだ、という風な真顔で返してくる。


 「一緒に寝ればいいじゃないか。2人は夫婦なんだろう?」


 「違う!」


 かなり食い気味に、全力で否定する。背後から、月の恥ずかしそうな、へぅ、という声が聞こえた。


 「何だ、違うのか? 月は育ちが良さそうに見えたので、駆け落ちでもしているのかと思ったのだが」


 真顔でしれっと言うところを見ると、どうやら他意は無いらしい。そもそも、華佗にこんな勘違いをさせた原因は一刀達の方にあった。


 名前は名乗ったものの、詳しい素性を明かさない。姓と名を隠して真名だけを伝える少女。育ちの良さそうなその少女と、ある程度腕のたつ武芸者風の青年。許されない恋の果ての逃避行。そんな想像をさせるのには十分だった。


 「違うって。俺達は、そう……、兄妹みたいなもんだ!」


 その言葉に月は寂しそうな表情を浮かべるが、同意を求めるべく一刀が振り返った時には、はい、と笑顔で頷いた。


 結局、別々の部屋をあてがってもらう。久々にぐっすりと寝られるな。そんな一刀の期待は叶わなかった。


 暗い部屋でまぶたを閉じる。すぐに意識が眠りの底に落ちていく。その先には、ぼうっと浮かぶ翠の姿。はっとして目が覚めた。


 今までは毎日を過ごすのに必死で、翠達の事を思い出す余裕など無かった。腹が満ち、暖かい布団で眠れる。精神的に落ち着いた事がきっかけだろう。


 「翠……」


 上半身を起こし、暗闇に彼女の名を呼ぶ。一刀にとって最も大事な女性の真名。


 「翠……!」


 もう一度、声に力を込めて。だが、当然返事は無い。


 本当にこれでよかったのか。どんな事をしてでも彼女の傍に残るべきだったんじゃないのか。この戦が負け戦になるのなら、歴史を知っている自分がいれば、どこかでひっくり返せるかもしれないのに。


 そもそも、俺が全てを話していれば歴史は変わったのかもしれない。あの時、皆が俺を信用して真名を預けてくれた時に全部話していれば。そうすれば、琥珀さんを引き止めた時の言葉の重みも変わっていたかもしれない。


 もしもの話が一刀の頭をぐるぐると回る。いくら考えても答えは出ないし、何が変わる訳でもない。それが分かっていてもなお思い巡らすのは、やはり後悔の念が彼を苛むからだった。


 いつの間にか流れていた涙を両の手のひらでぐしぐしと拭う。夜風に当たってぐちゃぐちゃになった頭を冷やそうと、ベッドを下りる。廊下に出たところで、さっき夕飯をご馳走になった部屋から明かりが漏れている事に気付いた。何となく気になって中を覗くと、華佗が1人で酒を飲んでいた。


 「……ん? どうした、一刀。眠れないのか? もしよければ、漢方を処方してやるぞ」


 断ろうかと一瞬思ったが、一刀はお願いする事にした。華佗は盃をテーブルの上に置き、背後にある薬箪笥へと向かう。さっきまで華佗が座っていた椅子の正面に腰を下ろし、一刀は薬を待つ事にした。


 「ところで、一刀は蜀の方へ行くんだったな。理由を聞かせてもらってもいいか?」


 さっきの様に妙な勘繰りをされても困る。全部は話せないが、出来る範囲では伝えておこう。そう思った。


 涼州で仕官していた事。そして、その関係の用向きで成都まで行かなくてはならないと伝える。ついでに、月は自分の同僚であるとも。


 「しかし、成都は劉備に制圧されたと聞いたが。それでも行くのか?」


 「ああ、用があるのは劉備だから」


 そうか、と言いながら、華佗は処方した漢方と瓶から汲んだ水をテーブルの上に置く。粉末の薬を口に入れ水で一気に流し込む。一刀が思っていたほど苦くはなかった。ありがとう、と言って立ち上がる。


 「気にするな。お前から受けた恩は、この程度で返せるものではないしな」


 律儀な奴だな。そう考えながら部屋を出ようとして、入り口で足を止める。その場で振り返り、華佗の顔を真っ直ぐに見詰めた。


 「恩に感じてくれているなら、1つ頼まれてくれないか?」






 翌日、一刀と月は漢中を発った。その懐には、華佗お手製の成都までの地図があった。もちろん、現代日本で売っている様な地図ではない。分かれ道の目印や危険な場所、途中立ち寄れる村等が書き込まれているだけの、簡素な物だ。それでも、地元の人間に道を尋ねるだけだった漢中までの道程とは違い、そこから先の旅は非常にスムーズだった。






 「どういう事だ! そんな事、私は一言も聞かされていないぞ!」


 「あまり大声を出されると、気付かれますよ。今の状況で他人が来たら困るのは、貴方の方では?」


 そう言った男は嘲る様に目だけで笑った。というのも、彼は黒装束に全身を包み、目の部分しか表に出していないからだ。口にも布が巻かれているため、その声はくぐもってわずかに不明瞭だった。


 「……どうすればいい」


 黒装束の正面、少し離れた位置に座る人物は、感情を押し殺した低い声で尋ねる。


 「何も変わりありません、今まで通りですよ。こちらからも、これまで以上の協力を約束します」


 それだけ言うと、黒装束は闇に溶ける様に消える。その場に1人残った人物は、頭を抱えて机に突っ伏した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ