第4章-渭水編・第5話~風向き~
涼州連合軍と曹操軍との緒戦から数日。今度は連合軍側から戦端を開いた。数の差を活かした正面からの力押し。被害の大きさに目を瞑れば、単純な戦法だけに効果も大きかった。
だが、対する曹操も負けてはいない。連合軍の中核を成しているのが騎兵であると見抜いた曹操は、陣を移動。深い茂みやちょっとした木立が点在する位置へと移る。騎馬が広く展開するのを妨げるためだ。さらには、馬防柵を使って騎馬の侵攻を止め、その後方に配した弓兵や弩兵で損害を与えていく。
こうして守勢に回った曹操軍は、少なくない被害を出しながらも連合軍の突入だけは防いでいた。
戦線は一進一退を繰り返し、次第に膠着してくる。
「……おかしいわね」
戦況を観察しながら、曹操は1人呟いた。
前回の戦いで自分を出し抜いた相手が何の策も無く、ただ正面から突撃を繰り返すだけ。そんな事があり得るかしら。こちらの間者に偽情報をつかませる真似をする者が、こんな策と呼べない力押しを選択するはずは無いわね。
考えを巡らせる曹操の視界に両軍の激突している様が何気無く入った。お互いの戦力が、曹操軍の陣の正面に集中している。
その時、曹操の頭にある考えが浮かんだ。急いで地図を広げ、辺りの地形を確認する。
「フフ……。なるほど、そういう事ね」
彼女の口角がニヤリとつり上がった。
剣撃の音と怒号が飛び交うその場所から離れたところを、霞とその部下は疾駆していた。小高い丘の上。木立の間を抜けていく細い道。ここを抜ければ、曹操軍の脇腹をつける。
若干開けた場所に出て、さらに速度を上げようとする張遼隊の前に、ある一団が現れた。先頭に立つのは長い黒髪の女性。霞の覚えている姿とは違い、蝶をかたどった眼帯を着けているものの、紛れもなく以前一騎討ちで刃を交えた夏侯惇であった。その後ろには、曹操軍の軍裝に身を包んだ兵が隊列を成していた。
霞は慌てて部隊を停止させる。
「なっ、何で自分がここにおんねん!? ……はっ! まさか、ウチらの作戦が見抜かれたんか? 何て事や……」
「はっはっは! 当たり前だ。曹操様が、貴様らごときの考えた策を見抜けんとでも思ったか!」
大仰に驚き、落胆して見せる霞に対し、夏侯惇は得意気に高笑いをする。
「……こないなったら、お前を倒して先に進むまでや!」
顔を上げた霞は飛龍偃月刀を構え、鋭い眼差しでキッと夏侯惇を見据える。高笑いを止めた夏侯惇も真顔へと戻り、その背から七星餓狼を抜く。2人の間の空気がピンと張り詰めた。
「いいだろう。あの時うやむやになった勝負の決着、今ここで着けてくれる」
「ええんか? 負けそうになった時、助けてくれる妹がおらんけど?」
「馬鹿にするな。あの時のは馬の差だ。だが、今回は違うぞ。曹操様の愛馬、爪黄飛電をお貸しいただいたからな。もう負けはせん! 貴様など、その駄馬ごと叩っ斬ってくれる!」
駄馬、という言葉に霞のこめかみが震えた。馬に並々ならぬこだわりと愛情を持つ彼女にとって、聞き捨てならない言葉だった。
「……んなら、その名馬で駄馬に負けた時の言い訳、しっかりと考えとけやーっ!」
叫ぶと同時に馬の腹を蹴り、夏侯惇との距離を詰める。互いの武器が交錯し、辺りに轟音を轟かせる。その音は、さながら一騎討ちの開始を告げるゴングの様であった。
霞の率いる別動隊が夏侯惇の襲撃を受けた事は、直ぐ様本陣にいる翠達へ報せられた。だが、彼女達には動揺した様子は無い。なぜなら、こうなる事は予測済みだったからだ。こうなる様に仕向けた、と言っても過言ではないだろう。
「なら、作戦を第3段階に進めるわよ」
報告に来た兵が下がった後で、詠が口を開く。不特定な者がいる状況では、決して軍師としての口をきかない詠であった。
作戦の第1段階は正面からの力押し。単純にそれを繰り返す事で曹操軍の意識を正面に集中させる。
単純な力押しで終わるはずがない。相手がそう思い始めるであろう時機を見計らい、作戦は第2段階へ。あえて見付かりやすい進路を選択し、別動隊を進軍させる。その迎撃のために将兵を動かし、曹操の守備が薄くなったところで、本命である第3段階へと移行する。ここまで温存していた切り札を投入する時だ。
精強で知られる涼州兵だが、とりわけ馬超軍の強さは格別であった。その中でも琥珀と翠の親衛隊は群を抜いている。最強の兵、合計二千で曹操の陣に突っ込み首を挙げる算段だった。
「では、私は先に行きます。花道は作っておきますので」
鷹那はそう言いつつ椅子から立ち上がる。翠はそんな彼女を見上げながら、
「ああ。この一戦でケリを着けるぞ。奴の首を持って西涼に帰るんだ」
と返した。彼女の頭には、曹操を討った後の事など何も無い。曹操の首を母の墓前に捧げる。ただその思いがあるだけだ。曹操が死んだ後に起こるであろう中原の混乱にも、献帝を保護して得られる後ろ楯にも興味は無かった。
天幕を出た鷹那は自らの部隊を率い、前線へと向かう。前曲中央は馬岱隊が支えている。後方から近付いた鳳徳隊が激しく銅鑼を打ち鳴らすと、蒲公英の指揮の下、馬岱隊は左右に分かれた。
まるで並木道の様に真っ直ぐ開けたスペースを鳳徳隊が駆け抜ける。左右についた馬岱隊からの援護射撃を受け、猛然と突撃する鳳徳隊。馬防柵を飛び越え敵陣へと躍り込む。一瞬にして、蜂の巣をつついた様な大混乱へと陥った。
右往左往する曹操軍の兵を、鳳徳隊は次々に屠っていく。まさに、蹂躙、という言葉がぴったりの光景である。
だが、まだ終わりではない。最後の一矢が残っている。
曹操軍が崩れ始めたのを見てとると、鷹那は旗を大きく左右に振らせる。それを合図に、後方に控えている馬超隊がついに駆け出した。
鳳徳隊は敵を押し込みながら、馬岱隊と同じ様に左右へと展開し道を作る。ぽっかりと開いた道の先には、宿敵曹操がいるであろうひときわ大きな天幕がある。翠はただ一点、その天幕だけを目掛けて黄鵬を駆けさせた。
霞と夏侯惇による2度目の一騎討ちは、夏侯惇がわずかに勝っていた。
『爪黄飛電言うたか、この馬。悔しいけど、こっちよりいいのは間違い無いな。確かに名馬や』
前回の一騎討ちは、馬の差が結果に大きく影響した事は分かっている。今回はそれが逆転した格好だ。
さらには、夏侯惇自身の腕も上がっている様に思う。隻眼になった事で死角が増え、距離感をつかみづらくなっているはずである。先程から夏侯惇の左側に回り込む様にして攻撃を繰り返しているものの、全て弾かれている。そればかりか、わずかでも隙を見せれば一気呵成に攻め込まれてしまう。
「どうしたどうした! 貴様の実力はそんなものか!?」
調子に乗り、かさにかかって攻撃を続ける夏侯惇。対して霞は駄馬と呼ばれた事への怒りも薄れ、冷静さを取り戻しつつあった。そうして自分の役目を思い出す。
目的は夏侯惇に勝つ事ではない。翠が本懐を成し遂げるまで、夏侯惇をここに足止めする事だ。ならば、と攻撃から守りに意識を切り替える。
回避、防御、受け流し。がっちり守りを固められては、いくら夏侯惇といえどもそう易々とは攻撃が届かない。
「なぜ本気でやらんのだ、張遼!?」
「アホぬかせ! ウチははなっから本気でやっとんねん!」
霞の偃月刀と夏侯惇の大剣とが鍔迫り合いの様になり、2人の動きが止まった。両者共に肩で息をしている。全力で三十合以上打ち合っているのだから無理もない。至近距離で睨み合う2人の耳に、かすかな喊声が彼方から届いた。
今までと違う。
何が、とははっきりと言えなかったが、夏侯惇は直感した。霞を押し出す様にして距離を開けると、喊声の聞こえた方向に顔を向けた。
彼女達がいる丘の下、開けた平地に曹操軍の陣がある。一騎討ちを始める前は、陣の端で両軍がはっきりと分かれていた。だが今は、陣の中程にまで涼州連合軍の兵が食い込んでいる。曹操軍を混乱させ、その先にある曹操の天幕に迫る勢いだ。
慌てて馬首を返し救援に向かおうとする夏侯惇だったが、その行く手を霞が塞ぐ。
「張遼! 貴様、謀ったな!」
「何言うとんねん。ウチらがやっとんのは戦争やで。騙された方が悪い」
くっ、と言葉に詰まり、忌々しげな顔を見せる。それに対し、霞はニヤリと笑う。
「せやけど、こっちは別や。真っ向から打ち合おうやないか」
霞は偃月刀の切っ先を夏侯惇に向けて構える。だが、夏侯惇は構えを取る事もしない。ただ俯くだけだ。そんな夏侯惇を訝しんだ霞が声を掛けようとした時だった。
「……邪魔だーっ!」
顔を上げた夏侯惇は目をカッと見開きながら叫ぶ。その咆哮に大気は震え、霞もその馬も思わず竦んでしまった。そのため、一気に間合いを詰めてきた夏侯惇への対応がわずかに遅れる。斬撃は何とか防いだものの偃月刀は跳ね上げられ、大きく体勢を崩してしまう。
アカン殺られる。霞は死を覚悟した。だが、夏侯惇はそんな霞を無視し、その脇を一瞬で駆け抜けた。
「華琳様ーっ! すぐにお側に参ります!」
呆気に取られる霞には目もくれず、部下の間を突っ切って一目散に駆けていく。爪黄飛電の速度は凄まじく、あっという間に彼女の姿は木々の向こうに消えてしまった。
少し遅れて夏侯惇隊の兵達も彼女を追って撤退を始めた。呆けていた霞もその動きにハッとし、慌てて追撃指示を出す。
「……ア、アカン! 奴等を行かせんな! 追え、追えーっ!」
指示を出すと同時に、自身も馬を駆けさせる。そうしながら、霞は考えていた。あの一瞬、夏侯惇の視界に自分の姿は映っていなかった、と。助かった事への安堵感もある。だが、自分の存在が消えた事に対する悔しさの方が、彼女の心中において大部分を占めていた。
「申し訳ありません、敵軍に前線を突破されました。間を置かず、この本陣に到達されるものと思われます。ここは脱出を……」
曹操の天幕に1人の兵士が息を切らせて飛び込んできた。外の喧騒を聞いて事態を予想していた曹操に、別段驚いた様子は見えなかった。だが、内心では平静を保っていられなかった。
前回に引き続き、今回の戦闘でも裏を取られ、いい様に踊らされたのだ。自分の不甲斐なさに腹がたつのを通り越し、半ば呆れていた。曹操にしては珍しく、弱気になっていた。だからだろう。兵の言葉に素直に従って天幕から外に出る。
「っしゃおらーっ!」
出た途端、遠くから叫び声が聞こえた。まるで雷鳴の様に大気を引き裂かんばかりの声に、曹操は体をビクッと震わせた。恐る恐る声のした方に目を向ける。視線の先では彼女の兵が宙を舞っていた。
物凄い勢いで突っ込む翠に対し、ただの兵卒では相手にならない。気圧された多くの兵は翠の進路を塞ぐ事すら出来ず、自ら道を空ける有り様だった。恐怖に足が竦み動けなくなった者だけが、結果として翠の前に立ち塞がる。
だが、所詮は恐怖に支配された者達である。何の抵抗も出来ない。槍で突かれ、馬に撥ね飛ばされ、次々と人だったものへと姿を変えていく。
鎧袖一触。まさにそんな状況だった。
思わず、ヒッ、と小さな悲鳴が曹操の口から漏れた。その行為を情けないと考える余裕は無かった。
翠とはまだだいぶ距離がある。とても相手の表情まで認識出来る様な位置にはいない。にもかかわらず、曹操は目が合った気がした。
それは気のせいではなかったのかもしれない。現に、翠は一直線に曹操へと向かい始める。
蛇に睨まれた蛙の様に、曹操は身じろぎ1つ出来ない。ただ自分の意思とは関係無く、ガクガクと震えるだけだ。彼女は翠の放つ、殺気と言うのも生温い様な気配に当てられていた。それは、以前長安で琥珀が放ったものと同質だった。
「曹操様! 早くお逃げください! ここは私が食い止めます!」
彼女の傍らにいた兵は、そう言い残して翠へと駆けていく。その言葉で曹操の意識は現実へと引き戻された。震える足を無理矢理動かし、とにかく前に進む。その先には、愛馬絶影の姿がある。
そこまで辿り着ければ、絶影に跨がれれば、逃げ切れる。曹操は必死だった。
背後から聞こえる蹄の音はどんどん大きくなる。槍を携えた先程の兵士は、すれ違い様に首をはねられ、断末魔の叫びを上げる事も無くすでに絶命していた。
絶影まで後わずか。手を伸ばせば届きそうな距離だ。だが、体が重い。恐怖で思う様に体が動かない。翠は曹操の背後にまで迫っている。
しかし、恐怖が逆に曹操を助ける事になるとは、その時まで誰も考えなかった。
「曹操、覚悟ーっ!」
絶叫と同時に十文字槍、銀閃が繰り出された。その瞬間、あまりの恐怖に力が入らなくなっていた曹操の足がもつれた。バランスを崩し、前につんのめる。銀閃は曹操のどくろを模した髪飾りと髪を数本刎ね、その向こう側にある木の幹に深々と突き刺さった。
「くっ……、このっ!」
翠は何とか引き抜こうとするが、戈の部分まで幹に食い込んでしまっているため、容易には出来そうにない。これを好機と見た曹操は慌てて体を起こし、顔に付いた泥を払う事も無く絶影へと跨がる。
「逃がすかっ!」
ここまで来て討ち漏らす訳にはいかない。翠は槍から手を離し、腰にはいている剣を抜いた。曹操は気付いていない。この距離なら投擲しても十分当てられる。翠は振りかぶった。
「やめろーっ!」
まだ幼さの残る少女の声と共に、巨大な何かが翠の横っ面へと襲い掛かる。振りかぶった剣でとっさに防御するが、あまりにも重い一撃に黄鵬もよろけてしまう。何とか弾き返した後、剣には大きなひびが入っていた。
「季衣!」
曹操は思わず自分を助けた少女の名を叫んだ。
「華琳様、ここはボクが引き受けます! だから、早く逃げてください!」
許緒は小さな体に不釣り合いな大きさの鉄球を頭上でグルグルと回すと、そのまま距離を測る様に翠へとにじり寄っていく。
「任せるわ、季衣」
「あっ、待て!」
2人が睨み合う隙を突き、曹操は絶影を走らせた。反射的にそちらへと視線を向けてしまった翠に対し、季衣の岩打無反魔が襲い掛かかる。
ひびの入った剣では、これだけの重量がある物体を防げない。無用の長物と化した剣を投げ捨て、馬上で身を伏せる。ポニーテールにまとめた髪を掠めて、鉄球は翠の上を抜けていった。
許緒は急いで鉄球を引き戻そうとする。が、それよりも早く、鉄球と柄を繋いでいる鉄鎖を翠がむんずとつかんだ。まるで綱引きの綱の様に鉄鎖はピンと張った。しかし、それはほんの一瞬だけだった。
「うりゃあーっ!」
大声を発しながら翠は鎖を引く。
安定しない馬上にいる翠と、両の足を大地に着けた許緒。普通に考えれば許緒の方が圧倒的に有利なはずだが、ズズッと小さな少女の体が引っ張られる。
「わっ、わわっ!」
一度動き出してしまうともう止まれない。釣竿で放られる餌の様に許緒の体は空を飛ぶ。そのまま翠を挟んだ反対側の地面に叩き付けられ、目を回した。
フン、と鼻を鳴らして鎖を手放すと、翠は馬から降りる。木にめり込んだ槍を両手で握り、足を幹に掛けて一気に引き抜く。バキバキと木っ端を撒き散らしながら、ようやく穂先はその姿を現した。
急いで黄鵬に再度跨がり、だいぶ小さくなった曹操の姿を追う。
曹操の跨がる絶影は確かに名馬だが、翠の所有する3頭、麒麟、黄鵬、紫燕も負けず劣らずの力を有している。特に黄鵬は荒い気性をしているものの、速力も持久力も他の2頭より頭1つ抜けている。徐々に2人の距離が詰まっていく。周囲には、すでに曹操の身を守る者はいない。
翠は銀閃を馬の鞍に固定すると、馬上弓を左手に取った。右手も手綱から放し、矢を鞍に着けた矢筒から抜いて弓を引き絞る。手放しになり、背筋を伸ばした事で安定しない体勢を落ち着かせるため、内腿に力を入れて鞍を挟む。息を吸いながら限界まで弓を引き、息を止めて曹操に狙いを付ける。
一意専心。彼女の耳には、蹄が大地を蹴る音も、耳元で鳴っている風切り音も聞こえていない。その瞳には、前を駆ける曹操の背中だけが映っている。
フッ、と短く息を吐く。と同時に、指先から矢が離れた。
空を裂き、曹操に背後から迫る。が、わずかに距離があったか、矢は曹操の左腕を掠めるにとどまった。それでも痛みで体勢を崩す事は出来た。
全速で駆けている馬の背に乗る者がバランスを崩せば、当然馬もバランスを崩してしまう。斜行しながら絶影は馬足を大きく緩めた。
千載一遇の好機だ。翠は馬上弓を投げ捨てて銀閃を再度手に取る。
「母様の仇!」
ほぼ静止した曹操の脇を駆け抜けつつ、翠は槍を払いにいく。
間一髪、曹操は馬上から身を投げる事で助かった。衝撃で不覚にも悲鳴が漏れてしまう。だが、それを恥じている暇は無い。すでに翠は馬首を返しつつある。
押っ取り刀で逃げ出したため、手元には愛用の大鎌、絶は無い。あるのは絶影の鞍に着けてある剣が1本だけだ。それでもここで死ぬ訳にはいかない。曹操はその唯一の武器を手にした。
しかし、使い慣れない武器では翠の相手になどならない。掬い上げる様に振るわれた銀閃の一撃で、曹操の手の内にあった剣は天へと飛ぶ。止めとばかりに振り下ろされる槍を、曹操は地面を転がりながらかわした。
白磁の様な肌は土で汚れ、黄金色に輝く髪にも泥土がベットリ付着している。そこには凛とした覇王の姿は無い。そこにいるのは生にしがみつく少女だけだ。
幼少時より、文武において高い才を発揮していた曹操。だが、今の彼女があるのは才能だけではない。たゆまぬ努力があってこそ、だ。同年代の子供達が遊びに耽るなか、勉学に励み、武を磨いた結果なのだ。
それでも、いくら力を付けてみても、どうにもならない物があった。家柄、つまりは生まれの差である。
何の才も無く、努力もしない。なのに、4代に渡って三公を輩出した名門というだけで、常に袁紹が上にいる。それが曹操には許せなかった。
だから彼女は誓ったのだ。生まれの貴賤に左右されない実力主義の国を造る、と。努力した者が報われる世界にする、と。
そんな自分の考えが間違っていないと証明するために、曹操は自らに大きな枷を付けた。覇道を貫き、力でこの国を手に入れる。力を以て国を統べ、民に安寧をもたらす。そうして己が名を歴史に刻む事こそが自分の存在意義であると、曹操は誓っていた。
である以上、こんなところで死ぬ訳にはいかなかった。他者に頭を垂れるくらいなら進んで死を選ぶが、そうでなければ、例え泥土にまみれようと生き延びる。強い決意が曹操の瞳には宿っていた。
その場に第三者がいれば、彼女の姿は滑稽に見えたかもしれない。死期をわずかに遅らせるだけの無駄な足掻きに思えたかもしれない。だが、生への執着が風向きを変える。
「華琳様ーっ!」
遠くから絶叫の様な声が響く。
「春蘭!?」
その声に、曹操の意識はわずかに移った。そのため、繰り出された突きに対して反応が一瞬遅れる。穂先が曹操のふくらはぎを浅く裂いた。
しまった。そう思ったのは曹操だけではなかった。翠もまた、夏侯惇の声に気を取られ、手先を狂わせていた。
再度曹操に攻撃を仕掛ける時間は無かった。夏侯惇の乗る爪黄飛電が驚異的な速度で駆け、2人の間に割り込んだためだ。
「御無事ですか、華琳様!? しばらく御辛抱ください。すぐに馬超を討って見せます!」
そう言って大剣を構える。その肩は激しく上下している。
無理もない。霞と一騎討ちをした後、全力で馬を走らせていたのだ。彼女の体力は限界に近かった。
実際、わずか数合刃を交えただけで夏侯惇は押され始める。だが、すでに風向きは曹操にとって追い風となっていた。
体勢を崩した夏侯惇に翠が追撃しようとした、まさにその時だった。1本の矢が翠に向かって放たれた。槍の柄を使って何とか防ぐが、夏侯惇を討つ好機は逸してしまう。矢の飛んできた方に目を遣れば、弓を構えた1人の女性の姿があった。
「姉者、華琳様をお連れして下がれ!」
その女性、夏侯淵が言葉を発した時には、姉である夏侯惇は倒れている曹操を馬上から抱え上げ、妹の方へと馬を走らせていた。
追わなければ、という考えが頭をよぎったが、夏侯淵の後方に次々と現われる兵の姿を見て、翠は断念せざるを得なかった。というより、急いで後退しなければ、逆に自分の方が討ち取られかねない。母の仇を討った後ならともかく、それを成さないうちに死ぬ訳にはいかない。翠は断腸の思いで馬首を返すのだった。