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第4章-渭水編・第4話~落鳳坡の戦い~

 使者として荊州を訪れた魏延が大層名残惜しそうにしながらも帰った後、桃香達は早速益州へ向かう準備を始めた。そんな中、桃香は関羽と諸葛亮を伴い、劉表へ挨拶に伺った。


 「義妹とも再開出来た以上、いつまでも劉表様の御好意に甘えさせていただく訳には参りません」


 そう述べると、桃香は益州を攻めるつもりである事を伝えた。話を聞いた荊州牧、劉表はこれに反対する。彼は州牧の任を、自分の2人の息子達ではなく、桃香に継いでもらいたいと考えていたのだから当然である。


 しかし、荊州の軍事における最高責任者である蔡瑁が桃香を支持した。彼は自分の甥である劉表の次男、劉宗を跡継ぎにしようと画策しており、桃香の暗殺を企てた事もあるのだ。この状況で、桃香が荊州を離れるというのを反対する理由は無かった。


 ならば、と兵を貸す事を提案する劉表だったが、周囲への備えを理由にこちらも蔡瑁に反対されてしまう。北の曹操は確かに脅威ではあるが、彼等にとっては東の揚州を押さえる孫策の方が問題であった。


 孫策の母、孫堅は荊州を攻めた際に命を落としている。孫策にとっては、劉表は母の仇であり、荊州は因縁の地であるのだ。現在は北方に目を向けているが、そちらが落ち着けば荊州を狙ってくるのは明らかだった。


 もちろん、反対した理由はそれだけではない。桃香はこの場で、益州に自分を支持してくれる勢力が存在している事を話してはいない。劉表や蔡瑁は、桃香が新野城で集めた数千の兵力だけで益州攻めを行うと思っている。そのまま返り討ちにあい、果ててくれる事を蔡瑁は期待していた。


 最終的には、荊州の水軍を使って益州との州境まで送る、という事になった。桃香達は襄陽から船に乗り、漢水を長江まで下る。合流後は逆に長江を遡り、約束通り益州の手前で彼女達は下船した。そこから陸路で益州に入ると、益州側にある州境の城、永安へと入城。城主である黄忠や、彼女と共に桃香の入蜀を画策した厳顔らと対面を果たした。


 この時点で、益州のおよそ3割の地域が桃香側に付く事となった。特に、地方にその傾向が強い。益州牧である劉璋の怠惰な生活を諫めた者は、煙たがられて地方へ回されている。彼等の多くは劉璋に見切りをつけ、黄忠達の考えに賛同していたのだ。そして、益州の州都である成都へ向けて進軍を開始すると、それまで日和見を決めていた地域までもが次々と桃香の側に付く事を表明した。


 こうして戦闘を行う事も無く成都へ向かう劉備軍だったが、その手前、ラク城だけは桃香への帰順を示さずにいた。益州攻めにおいて初めての戦を前に、劉備軍は黄忠達も交えて軍議を開く。


 「ラク城は、そんなに堅固な城なんですか?」


 机の上に広げられた地図から視線を上げ、諸葛亮は黄忠と厳顔、どちらともなく尋ねた。


 「ええ、成都を守る最後の城だもの。堅牢なのはもちろん、周囲の地形を使って大軍を展開させにくい様に造られているのよ」


 黄忠の返答に、諸葛亮は再び地図に視線を落とす。ラク城の周囲は森に覆われ、確かに大軍をもって包囲する戦い方は難しそうだ。かといって、ラク城を迂回する事も出来ない。成都まで大軍で移動出来る道は1本しかなかった。


 「そう難しい顔をするな、朱里。実は、ラク城の脇に抜ける間道があってな。正面からの本体を囮に使い、少数の精鋭で相手の側面を突いてやれば、そう被害を出さずに落とす事も出来よう」


 自信たっぷりな厳顔の言葉だった。この辺りの地理に関しては、2人の方が自分よりも圧倒的に明るいと思い、諸葛亮は厳顔の策に従う事にした。チラリと隣を窺えば、鳳統もコクコクと頷いていた。


 「では、紫苑さんと桔梗さんには間道を進む部隊の道案内をお願いします。桃香様は本隊に。それから……」


 諸葛亮は将を割り振っていく。本隊には桃香の他に関羽、諸葛亮、魏延が配置され、別動隊には黄忠と厳顔、鈴々、趙雲、鳳統、さらには恋と音々音が回った。間道を行く別動隊が本命である以上、兵の少なさを将で補う形になった。


 「この辺りの民が、落鳳坡、などと呼んでいる険しい道だからな。気を付けんと、兵に無駄な損害が出かねんぞ」


 「えっ……? 落鳳坡、ですか?」


 厳顔が何気無く言った言葉に鳳統が反応した。人見知りが激しく恥ずかしがりやの彼女は普段、軍議の席であっても発言を促されなければ声を出す事があまり無い。そんな珍しさに、そこにいた全員の視線が鳳統に集まる。天幕内であったために帽子を被っていない彼女は、顔を隠す事も出来ず、あまりの恥ずかしさにただ俯くだけだった。


 「そっか。落鳳坡なんて、雛里ちゃんにとっては縁起悪い名前だよね。朱里ちゃんと交代する?」


 「い、いえ! 大丈夫です、桃香様」


 真っ赤な顔をフルフルと横に振る鳳統。彼女が落鳳坡という単語に反応したのは、桃香の言った様に、鳳が落ちる、その名前に不吉なものを感じたからではなかった。彼女の頭に浮かんでいたのは、以前長安で会った一刀の言った別れ際の言葉。


 落鳳坡には気を付けてね。


 あの時は全く意味が分からなかった。落鳳坡という言葉に一切聞き覚えが無かったからだ。だが、今になってみれば、この場所の事を言っていたのだと思う。


 落鳳坡の意味は分かった。しかし、そこで新たな疑問が浮かぶ。なぜ涼州にいる彼が、益州の奥にある間道の名前を知っていたのか。そして、気を付けてね、とは、一体何に対してなのか。


 鳳統は真剣な表情で地図へと視線を移した。






 「成都からの援軍はまだ来ないのか」


 「はい、何度も援軍の催促は行っているのですが……」


 ラク城の城内には、黄忠、厳顔と並ぶ巴蜀の三傑の1人、張任の姿があった。元々成都にいた彼は、劉章の命令を受けてラク城の守りに就く事になった。


 ラク城に配備されている兵は約五千。対する劉備軍はおよそ三万。いくら堅固なラク城とはいえ、この兵力差ではいつまでももたせる事は出来無い。張任はラク城へ赴いた直後から劉章に援軍を要請しているのだが、援軍はおろか、返事の1つも返ってきていなかった。


 「どういうおつもりなのだ、劉章様は。ここを突破されればもう後が無いというのに」


 そう呟いた張任の言葉は間違っていた。ラク城からの援軍要請は劉章の耳にまで届いていない。全て劉章の周囲にいる宦官の手によって握り潰されていた。


 というのも、宦官はすでに劉備軍に買収されていたためだ。それなりの金を渡し、成都占領後の地位を約束してやると、彼等は簡単になびいた。もちろん、この件を進めた諸葛亮には、約束を守るつもりなど無かったが。


 そんな事とは知らない張任は、副将に向かってもう1度援軍を要請する様に伝える。


 「はい。それで、作戦はどの様に……?」


 「厳顔と黄忠が敵に回ったのだ。劉備軍は、恐らく落鳳坡を抜けてくるだろう。お前は城に残って指揮を執れ。私は落鳳坡で伏兵を仕掛ける」


 そう言うと、彼はわずかな手勢を伴って城を出ていった。






 落鳳坡は、元々崖だったところに崖崩れを利用して造られた道である。それだけに道幅は狭く勾配も急。道の両側は切り立った崖になっており、その上には鬱蒼と木々が生い茂っている。まさに、兵を伏せるにはうってつけの場所だった。


 放っておいた斥候からの報告では、落鳳坡を進む劉備軍は五千。対して張任隊は二百。伏兵を使っての奇襲を行ったところで全滅させるのは不可能な差だ。


 そこら辺は張任も分かっている。彼には初めから全滅させるつもりなど無い。狙いは一点だ。


 どんなに獰猛な虎でも、どんなに大きな蛇でも、頭を潰されれば動く事は出来ない。彼の狙いは軍の頭である。


 とはいえ、桃香は本道を進んでいる。代わりに張任が狙いをつけたのは、軍師である鳳統だった。軍師を討てば進軍を遅らせる事が出来る。上手くいけば、一時的にでも撤退させられるだろう。援軍が到着するまでの時間を稼げれば勝機はある。成都の実情を知らない張任は、あくまでラク城に籠る考えだった。


 張任が落鳳坡に兵を伏してからほどなくして劉備軍が姿を現した。細い間道を通過するため、兵は長く伸び、陣形を成していない。その先頭に立つ旗には『黄』と『厳』の文字が刻まれている。


 眼下を通過する旗を崖の上から見下ろす張任。かつての戦友に、今は敵として相対する事となった彼の胸に去来する思いはいかほどか。それは誰にも分からない。彼はただ、眉1つ動かさずに2人の旗を見送った。


 次いで『鳳』の文字が彼等の視界に飛び込んでくる。一気に緊張が高まる中、張任が旗の下を確認する。


 視線の先では、小さな体躯に鍔の広い三角帽子を被った少女が馬に揺られていた。これが本当に鳳雛と謳われた天才軍師か、とも思ったが、間者からの報告にあった特徴と一致している。


 間違い無いな。


 目標を定めた張任は部下へと目配せをする。彼等は気配を殺しながら配置についた。


 鳳統は兵に周囲を守られる様に、部隊の中軍を進んでいる。しかし、狭い落鳳坡の中でも、張任がいる崖の下は特に道が細くなっていた。予想通り兵が渋滞を起こし始め、細長かった隊列がさらに細くなる。当然、鳳統の回りにいる兵の数は減った。まさしく好機であった。


 「よし、今だ! 総員、斉射!」


 張任は号令と共に矢を放つ。それとほぼ同時に、彼の部下も一斉に矢を射掛ける。無数の矢が宙に舞い、鳳統とその周囲に向かって降り注ぐ。


 前後には味方の兵馬。左右には切り立った崖がそびえている。逃げ道は無い。張任は、殺った、と確信した。彼は、帽子の鍔に隠された少女の顔が、ニッと笑った事に気が付かなかった。


 まるで雨の様な大量の矢が迫る中、少女は自分の跨がる馬の背に着けた長い棒を手に取った。それは、正確には棒ではない。その片側には、蛇の様に波打つ刃が付いているからだ。


 長さが1丈8尺ほどもある蛇矛を両手で持つと、少女はそれを風車の様に激しく回転させた。次々と降り注ぐ矢を、グルグルと回る蛇矛が全て払い落としていく。矢の雨が止んだ時、少女の周囲にいた数人の兵は全員射殺されていた。だが、張任の目標としていた少女だけは、人馬共に無傷だった。


 落鳳坡を強い風が吹き抜ける。少女の帽子が宙に舞った。帽子の下には薄紫色の長いツインテールではなく、赤毛のショートカット。そこにいたのは鳳統ではない。彼女の格好をした鈴々だった。


 「さすがは雛里、言われた通りに伏兵がいたのだ」


 嬉しそうに呟く鈴々。彼女が口にした通り、鳳統は今回の伏兵を見抜いていた。そして、自分が狙われる可能性が最も高いと考え、一計を案じたのである。


 しまった。張任がそう感じた時にはすでに遅かった。喚声が上がり、彼等の潜む森へと劉備軍の兵が雪崩れ込もうとしている。


 このままでは、自分達の方が全滅しかねない。撤退指示を出そうとした瞬間、ヒュン、という空気を切り裂く音と共に、彼の右肩に衝撃と激痛が走った。あまりの衝撃に2、3歩よろめく。ぐっ、と低くうめきながら右肩を確認すると、そこには深々と矢が突き刺さり、血が指先へと垂れていた。


 木が乱立する森の中に矢を射掛けるなど、普通の腕で出来る事ではない。だが、彼には1人だけ心当たりがあった。わずかに開いた木々の隙間から、予想通り、弓を構えた黄忠の姿が見えた。


 「ここまでであろう、張任? 大人しく投降せい」


 「……厳顔、か」


 首筋に冷たい物を押し当てられた張任は、振り返る事なく背後からの声に答える。


 「いたずらに兵を損なうのは、お主の望むところではなかろう」


 相手が厳顔であれば、五体満足でも勝てるかどうかは微妙なところだ。右腕が使えない今の状況で、勝ち目などあるはずはない。それに、厳顔の言う通り、部下まで負けが確定した戦に付き合わせるつもりは無かった。張任が弓を手放すと彼の部下達もそれに続き、彼等は捕虜として捕らえられる事となった。






 張任を捕虜とした別動隊は、前日軍議を開いた陣にまで後退した。本道を進んでいたはずの本隊もここまで戻ってきている。桃香は張任を説得し、黄忠や厳顔の様に力を貸してもらうつもりでいたのである。


 誠心誠意、己の主義主張を語り、これから先の展望を口にする。簡単な血止めの治療を受けただけの張任は、桃香の言葉に対して真摯に耳を傾け続けた。抵抗する素振りを見せなかった彼は、傷を負っている事もあって、その身を拘束されてはいなかった。


 思いを語り尽くし、桃香が不安げな表情で張任の返事を待つ。きっと分かってくれるはず。そんな期待を抱いて。


 「……なるほど。確かに劉備殿の理想は素晴らしい。厳顔や黄忠達が貴殿にこの国を任せようとした判断は、間違いでは無いでしょう」


 桃香の顔が華やぐ。だが張任は、それでも、と続ける。


 「私は劉備殿に降る事は出来ん」


 「どうしてですか!?」


 「我が主は先代劉焉様と劉章様のみ。いくら大義を掲げようと、私から見れば侵略者に過ぎん。侵略者に頭を垂れるほど、我が忠義、軽くはない!」


 激しく落胆する桃香。一方、彼を以前から知る黄忠達はこの答えを予測していたのか、表情を変える事は無かった。


 でも、と説得する言葉を探す桃香の肩に、そっと関羽の手が置かれた。


 「桃香様。これ以上の説得は、張任殿の忠義に礼を欠きます。ここは忠義に殉じさせてやるべきです」


 わずかに目を剥いた後、数瞬の間を伴ってから桃香は頷いた。その口は、真一文字に固く結ばれていた。


 天幕から表に出る最中、関羽に厳顔が声を掛ける。


 「愛紗よ、すまんが張任の首を刎ねる役、わしに譲ってくれんか?」


 関羽は思わず厳顔の顔をまじまじと見返してしまった。長い間苦楽を共にした戦友が処刑されるところなど、自分であれば見たくはない。ましてや、自らの手で首を刎ねようとは、一体どういう了見なのか。関羽には想像もつかなかった。


 「愛紗ちゃん、私からもお願いするわ」


 黄忠にまで頼まれれば、関羽に断る道理は無い。何とも言えない気持ちを押し殺し、厳顔へとその役目を譲った。


 張任は後ろ手に縛られ、両膝をつく形でしゃがんでいる。厳顔は剣を片手に彼の横に立った。


 「迷惑をかけるな」


 「ふん、何を今さら。あの時、袂を分かった時に、こうなる事は覚悟した」


 少し不満そうな厳顔とは対称的に、張任は声を上げずかすかに笑った。だが、それも一瞬の事だ。すぐに笑みは消え、元の真剣な表情へと戻る。


 「後は任せるぞ、厳顔。劉章様の事、そして、この益州の事を、な」


 「……他に何か言い残す事は無いのか?」


 2人の会話は小声であるため、誰の耳にも届いていない。しばらく沈黙した後、張任は口を開く。


 「……出来れば俺のために、もう1度笛を吹いてはくれないか、桔梗」


 「ああ、約束しよう、じう。……向こうで旨い酒でも見付けておけ。わしが逝った時に、2人で酌み交わそう」


 お互いに笑みを見せる。


 「頼む、厳顔」


 「おう!」


 返事をするや否や、厳顔の右手に握られた白刃が振り下ろされた。わずかに遅れて張任の首がゴロリと落ちる。その顔は、誰の目にも安らかに映った。


 その夜、劉備軍の陣中にはいつまでも笛の音が響いていた。

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