第4章-渭水編・第3話~メイド軍師・後~
関中に入った涼州連合軍は、長安から潼関まで破竹の勢いで進軍した。関中の豪族も加わった事により、連合軍の兵力は荀或の予想した十五万に届きつつあった。
関中の豪族達は、琥珀に対して恩義を感じている訳では無い。涼州連合軍の勢いが盛んである事から、戦後の保身と、あわよくばおこぼれを貰おうという浅ましい考えで参加したに過ぎない。戦力としてはあてにできないが、彼らの参加を拒んで曹操側に付かれるのも問題だった。
一方、許昌を発った曹操は二万五千の兵を率いて西進。洛陽の西を守る函谷関の先に陣を張った。
兵力が劣っている以上、関に拠って戦うのが常道である。ましてや、時間を稼げば援軍の来着は間違い無い状況だ。にもかかわらず、函谷関より前に出たのには当然理由があった。
関中から曹操の本拠地である許昌へ向かうには、2通りのルートがある。1つは潼関から東へ進み、函谷関と洛陽を越えるルート。もう1つは、反董卓連合の時に翠が通ったルートで、潼関を越えて南に下り武関を越える。その後、荊州の北端を東進して許昌に迫るルートである。
函谷関と武関、その両方に兵を回すのは、現在の曹操軍では不可能だった。いくら関に籠ったとしても、兵力が少なければ長く保たせる事は出来ない。
かといって、どちらか一方のみに兵を集中させる訳にもいかなかった。当たり前だが、兵の配置されていない方を選択するだろう。この場合最悪なのは、部隊を2つに分けられ、一方の部隊に足止めを食らっている間にもう一方に許昌を急襲される事だ。そのため函谷関より先に進み、武関へ向かう分岐点を押さえる様に陣を張ったのである。
そんな曹操の下に、連合軍に潜り込ませている間者から報告が入った。内容は、北郷一刀が連合軍から姿を消した、というものだった。1件だけでなく複数報告が上がってきている事から、信憑性は高いと曹操は感じた。
曹操はほくそ笑む。厄介な存在がいなくなった、と。
今現在は袁紹と争っているが、それが片付けば他方面へも侵出する考えでいた曹操。彼女が涼州勢で警戒していた人物は、琥珀と一刀のみだった。
高い指導力を持ち、涼州の民や豪族達からの人望も厚い琥珀。用兵家としての実績も十分にあり、武人としても極めて高い位置にいる。何より長安で見せたあの威圧感は曹操に、西涼の狼の二つ名は伊達ではない、と思わせた。
一刀にしてもそうだ。天の御遣いとしてその名は広く知られている。軍師と名乗っていた事から、長安攻めの際に使用された攻城兵器の開発に携わっているだろう。倍以上の兵力差があった李確軍をあっさりと打ち破ったのも、その知略があってこそのはず。曹操は一刀を高く評価していた。
その2人がいないのである。連合軍の侵攻を防いだ後は、一気に涼州まで版図を広げる好機か。曹操はそんな事まで考えていた。
さらに重要な情報が彼女の下に届いた。対陣している涼州連合軍の物資集積所が判明したというのだ。すぐに作戦が浮かび、従軍している将に召集をかけた。
「全員揃ったようね。たった今間者から報告があり、彼等が軍需物資をまとめている場所が分かったわ。春蘭は夜陰に紛れ、敵陣を迂回して集積所を襲い、火をつけなさい。本隊はその火を合図に、浮き足立った連合軍に仕掛けるわ」
連合軍の物資集積所は、その陣の奥にある小高い丘の上だった。大軍になればなるほど軍需物資の量は多くなり、保管も難しくなる。しかし、幾重にも陣を展開している油断か、集積所自体の守りは厚くなかった。
勝利を確信する曹操。だが、彼女は何者かの手の上で踊らされている事に気付いていなかった。
涼州連合軍の陣内にある大天幕。そこでは先程まで軍議が行われていた。大天幕から出てきた奇妙な格好をした少女が軍師であるなどと、連合軍に潜入している間者の誰一人として思わなかった。そもそも、少女の着ている奇妙な服は馬超軍の侍女の制服だ。小間使としか思われていなかった。
その小間使と思われている少女、詠の指示により、連合軍は曹操軍と対陣したまま動きを止めていた。総大将である翠は全軍での突撃を考えていたが、詠の作戦を聞き、鷹那や韓遂の諫めもあって思い直した。
詠の立てた作戦。それは曹操軍の間者を使った作戦だった。
様々な勢力の混在する連合軍では、潜入された間者を見つけ出すのは不可能である。ならば、逆に利用してやればいい。わざと相手が食い付きそうな情報を流し、相手の行動をこちらの望む様に制限する。
一刀が翠と仲違いをして軍を去った事は、詠の指示であえて秘匿されずにいた。これにより、特に馬超軍の兵の間には動揺が走り士気の低下が起こったが、そこには目をつむる。それよりも、曹操軍が油断する事の方が有利に働くからだ。
また、軍需物資の集積所に関する情報も、詠が意識的に流したものだった。そこの守りを敢えて薄くする。
曹操はそれを見逃す事無く動いてくるだろう。夜陰に紛れて一気に急所を突いてくるはずだ。
戦いの趨勢は、詠の思い描いた通りになりつつあった。
夏侯惇は部下千人を率いて夜の闇の中を進んだ。連合軍に見付からない様、森や藪を抜けて物資集積所に迫った。
目的の場所に目と鼻の距離にまで近付くと、彼女は兵を森の中に伏せて休ませる。それと共に、数人の兵を斥候として様子を探りに行かせた。
斥候の持ち帰った情報は間者からの報告と同じで、集積所の警備が緩いと改めて分かった。すでに月は中天を過ぎている。夏侯惇とその部下は姿を隠していた森から躍り出ると、集積所の見張りへと襲い掛かった。
7、8人いた見張りは一瞬で倒される。彼等の断末魔の叫び声を聞いて他の兵も集まってきたが、返り討ちにあい、生き残った者も全て逃げ出してしまう。
「ふん、他愛の無い」
夏侯惇は蜘蛛の子を散らす様に逃げる敵兵を見ながら、吐き捨てる様にそう言った。自らの部下ではないとはいえ、情けなくなる。本来なら、1人残らず討ち取ってしまいたいところだが、重要な任務を帯びている最中だ。さすがにそれは思い止まった。
「よし、この一帯にある物全てに火をつけろ。兵糧も武器も、全部燃やしてしまえ」
その命令を言い切らないうちに、集積所にある物資や天幕から火の手が上がった。勢いよく吹き上がる炎に、さすがの夏侯惇も焦る。なぜなら、彼女達はまだ火をつけていないのだから。
「フッ、見事に引っ掛かってくれたな」
不意に聞こえた声と共に、1人の女性が夏侯惇の前に姿を現した。
短い銀髪に巨大な戦斧。馬に跨がる清夜の姿は堂々としている。昼の様に辺りを明るくする炎に照らされ、いっそ神秘的ですらあった。
そんな清夜が右手に持った戦斧を掲げる。すると激しく銅鑼が打ち鳴らされ、辺りに潜んでいた連合軍の兵が夏侯惇隊を取り囲んだ。
チッ、と苦々しい顔で舌打ちをする夏侯惇を、清夜は冷たい目で馬上から見下ろしていた。
清夜の部隊が敢えて自軍の物資集積所に火を放った訳で、当然そこには本物の物資はほとんど無かった。荷物の多くは空の木箱や水の入った瓶などだ。
この物資集積所が罠である事を知らない曹操は、火の手が上がったのを見て、別動隊の襲撃は成功したものと勘違い。本隊を進軍させてしまった。
今まさに風前の灯となった曹操の命。だがここで、彼女にとっては幸運な事が、詠にとっては最も危惧していた事が起こってしまう。伏せていた一部の部隊が作戦を無視し、曹操軍へと仕掛けてしまったのである。
詠の作戦では、この部隊は曹操をやり過ごす事になっていた。そうして曹操軍を連合軍の懐に引き込んだ後、その部隊で退路を断つはずだった。この一戦で曹操の首を取る詠の作戦は、その目前でふいにされてしまった。
奇襲を受けて浮き足立つ曹操軍だったが、さすがによく訓練されている。すぐに体勢を立て直す兵を見ながら、曹操はこの奇襲に違和感を感じていた。
なぜこの時機に、しかも後詰めも無く仕掛けて来たのか。そんな疑問が頭を巡る中、ふと彼方の炎が目に入った。先程と炎の大きさが変わっていない様に見える。物資の全てを燃やす様に言っておいたのだが。
そういう事か、と曹操の中で答えが出た。
「総員、後退する! 季衣、殿を務めなさい。急げ! すぐに敵が来るぞ!」
曹操の命令は一瞬のうちに全体に伝わり、統制のとれた動きで撤退を開始する。殿を命じられた許緒は、鎖の先に巨大な鉄球を付けた武器、岩打武反魔を振り回し、群がる連合軍を蹴散らしていく。彼女の奮闘により、曹操軍はさしたる損害も無く陣へと撤退した。
「一体どういうつもりだ! 後少しで曹操の首を取れたんだぞ!」
大天幕の中、軍議の席上で翠が吠える。彼女の視線の先には、先程勇み足をした豪族が縮み上がっている。
「も、申し訳ありません」
彼は顔面蒼白で、ただ頭を下げるしかなかった。曹操の首に手を掛けておきながら逃がす事となった翠の怒りは大きい。だが、この場にいる者で最も憤っているのは詠だった。表向きには侍女であるため発言は控えているが、内心は穏やかでない。
短期決戦を考えていた詠は、この一戦で決めるつもりでいたのだ。長引けば長引くほど、自分達にとって不利になると考えたからだ。
大軍であるがゆえに、必要な兵糧も膨大な量になり、長期戦には向かない。時間が経てば曹操軍に援軍が到着するのは間違い無い。何より詠が気になっているのは一刀の言葉だ。時間を与えれば与えた分だけ、曹操に離間の計の様な切り崩し策を行う時間を与える事になってしまう。
寄せ集めの連合軍であるだけに、作戦通りに動かない可能性がある事は詠も理解していた。だから、翠を通して何度も作戦通りに行動しろと命じていたのだが、結局、制御する事は叶わなかった。
「孟起よ、少しは落ち着け。そう怒鳴ってばかりでは、全体の士気にも関わってくる」
怒りを露にする翠だったが、韓遂の諫めで徐々に冷静さを取り戻していく。浮かせていた腰を椅子へと戻し、目を閉じてわずかに俯いた。
「やれやれ。……彼の処罰だが、今後の戦功を以て減じる、という事でどうだろうか?」
伺いをたてる様に言った後、韓遂は翠の耳元に口を寄せた。
「ここで厳罰を下せば、他の豪族が離れかねん。寛大な処置をした方がいい」
「ああ。叔父上がそう言うのなら……」
若干興味無さげに聞こえたその言葉に、詠は思わず、なっ、と声を上げてしまった。慌てて口を塞ぐが、軍議に参加している者達からジロリと睨まれる。彼女が元董卓軍軍師、賈文和である事を知らない者も多いのだ。詠は深々と頭を下げながら、馬鹿じゃない何考えてんの、と心の中で悪態をついた。
確かに韓遂の言った事も真実である。命令違反を犯した彼を処刑したとすれば、その下についている将兵や他の豪族は、翠に従おうとはしなくなるだろう。彼等には、手を貸してやっている、という意識があるからだ。
だからといって、何も罰を与えなければ組織として機能しなくなる。ましてやこの言い方では、戦功をあげれば命令違反をしてもいい、とそんな風にも受け取れる。そんな事になれば、それこそ軍は崩壊してしまう。
詠と同じ危機感を感じた鷹那が、今度は翠の右耳にそっと耳打ちをした。それを受けて再び翠が口を開く。
「ただし、今回だけだ! 2度目は無いから、そのつもりでいろ!」
その言葉にどれ程の重みがあるか。詠には正直、期待出来なかった。
自陣へと戻った曹操の下に、翌日の夜になってようやく夏侯惇が帰ってきた。しかし、千人いた彼女の部隊はほぼ全滅に近く、生き残ったのはわずかに数10人。その誰もが少なからず傷を負っていた。夏侯惇本人も、決して無傷ではない。
「申し訳ありません、華琳様」
「顔を上げなさい。今回の敗戦は貴方のせいではないわ」
跪き、頭を垂れる夏侯惇に向かい、曹操は玉座に腰掛けながら言った。彼女からすれば、夏侯惇が生還しただけでも御の字だった。
「天の御遣いが去ったと聞いた時に、これで相手に知恵者がいなくなった、と油断した私の責だわ」
確かに失った物は大きい。しかし、得た物もある。それは、まだ連合軍にも戦を云々出来るだけの人物がいる、という情報である。
もう油断はしない。曹操は気を引き締め直し、次戦に備えるのだった。