第4章-渭水編・第2話~メイド軍師・前~
徐州彭城。
かつての主である桃香を排除し、この地を支配していた袁術の姿も今は無かった。太陽が中天に差し掛かるまでは人々の絶叫や剣撃の音に包まれていたこの街も、夕暮れが近付くにつれて静けさを取り戻しつつあった。
孫策は彭城において袁術を打ち破り、悲願を果たしたのである。現在、孫策軍は敗残兵の掃討を行っていた。とはいえ、収まりつつある喧騒を聞く限り、それもほぼ終わっているらしい。
そんな中、大将である孫策は、主のいなくなった城の露台で沈み行く夕日をぼんやり眺めていた。その姿を、彼女を探しに来た周瑜が見付けた。
何か考え事をしているのか、滅多に見せない物憂げな表情。桜色の髪は風にサラサラと流れ、陽光を受けてまるで絹糸の様に煌めく。幼馴染みである周瑜でさえ、その姿に思わず見惚れてしまった。
「こんなところにいたのね、雪蓮」
「あら、冥琳。どうしたの?」
孫策は露台の欄干に体を預けたまま、周瑜の方には目線すら向けなかった。2人は物心ついた頃からの付き合いである。相手の声を聞き間違えるはずがない。ましてや、孫策の事を、雪蓮、と真名で呼び捨てにするのは、今では義姉妹の契りを交わした周瑜しかいなかった。
「なぜ、袁術と張勲を見逃したの?」
軍全体の方針では、最悪でも袁術だけは身柄を押さえるか、首級を挙げる事になっていた。袁術の暴政によって苦しめられた徐州、揚州に暮らす者の不満を低下させ、孫策への支持を高めるためだ。
しかし、孫策自身が袁術と張勲を見逃した。しかも、2人の喉元に剣を突き付けるところまでいって、だ。
その事を孫策の親衛隊から聞かされ、どういうつもりか尋ねる周瑜。だが、その口調は問い質す様な強いものではない。それが分かっているから、孫策も表情を緩めたままで答える。
「ん~? さすがに涙と鼻水だけじゃなく、失禁までしながら命乞いをするのを見せられちゃったらね。殺す気も失せちゃったわ」
そう言って笑う孫策につられる様にして、周瑜も声を上げて笑った。
「それに、あの2人はこれから先、ここで殺されていた方がマシだった、って思うくらい苦労するでしょ? だったら、そっちの方が気分いいじゃない」
「フフッ、趣味が悪いわね」
袁術は放っておいても問題無い、と周瑜は考えていた。全てを失った袁術を受け入れる可能性があるのは、従姉妹の袁紹ぐらいなものだ。だが、袁紹は曹操を相手に苦戦している状態で、とてもではないが袁術の再起を助ける余裕は無いだろう。
民衆の不満を取り除く材料に使えないのは痛いが、方法はそれだけではない。孫策がいいのなら、周瑜はこの件に関してこれ以上言う事は無かった。
「……やっぱり、青州まで出るのは無理よね?」
「ええ、やはり被害が大きすぎるわね。徐州で体勢を整えないと」
確認する様に尋ねた孫策に、周瑜は少しため息を吐きながら答えた。
予定では徐州を落とした後、余勢を駆って青州にまで侵出する事になっていた。曹操と袁紹が互いに目を向けている隙に、領土を奪い取るつもりだった。しかし、思いもよらぬ人物の参戦により、彼女達の計画は崩れる事になってしまった。
その人物とは、飛将軍と謳われた呂布――つまりは恋であった。
恋が鈴々との約束を果たすために徐州を訪れた時、すでにそこは袁術によって攻め落とされた後だった。
尽きかけていた路銀を稼ぐため。また、桃香達の情報を集めるため、恋は短期間、袁術の客将となっていた。その時に、孫策は恋とぶつかったのである。結果は、予想外の大きな損害を被る事となった。
袁術軍は弱兵揃い、という油断があった事は否めない。しかし、一番の問題は孫策の戦い方にあった。
大将自ら前線に立って武勇を示す。それにより、味方の士気は上昇し、敵の士気は削がれる。孫策ほどの武があれば、有効な戦い方ではある。
しかし、孫策が負けたり苦戦する姿を晒したりすれば、効果は逆転する。そして、この時の戦いがまさにそうであった。恋の武は孫策を軽く超えていた。
自分達の大将が負けるかもしれない。初めての事に孫策軍の動揺は大きく、浮き足立ってしまった。そこを突かれ、大打撃を受けた訳である。
ちなみにこの時の戦は、最終的には孫策軍が勝利した。江東制圧を終えた孫権隊が援軍として合流し、体勢を建て直したためだ。また、恋に対しても、孫策と周泰だけでなく黄蓋と甘寧も加わり、孫策軍の誇る猛将4人がかりで何とか撤退させる事に成功した。
その後は、恋がすぐに袁術の下から去った事もあり、徐州を陥落させる事が出来たのだった。
「この停滞が、致命的にならなければいいけど」
それがあまりにも都合のいい事だとは、呟いた孫策も分かっていた。
涼州勢力の蜂起を聞いた曹操は、慌てて報告に来た荀或とは対称的に落ち着き払っていた。
「華琳様、ここは馬超に使者を送っては……」
跪きながら進言した荀或を、玉座に座った曹操は足を組んだままで見下ろしている。
「使者を送ってどうすると言うの? 馬騰が我が領内で死んだのは事実よ。何を言ったところで、それが変わる訳では無いわ」
曹操の言葉に荀或は、しかし、と返す。今の状況で涼州軍と戦うのは、何としても避けたかった。
涼州軍の兵力は現時点でおよそ十万。この先関中に入れば、その兵力がさらに増えるのは間違い無い。最終的には十五万に届くだろうと、荀或は予想していた。
一方の曹操軍は袁紹との戦のために河北に兵を回しており、今すぐ動員出来る兵力は三万にも満たない。最低でも、5倍もの兵力差で戦わなければならない事になる。軍師としては、戦を回避しようとするのは当然だった。
だが、曹操は理を説かれても、首を縦に振ろうとはしなかった。
「どんな理由があろうとも、この私に弓を引いた以上は許せないわ。我が覇道を妨げるものは、全て排除するのみよ」
立ち上がった曹操は、その脇に控える夏侯惇に対し、前に回る様に指で指示を出す。それに従い曹操の正面に移動すると、荀或の隣で同じ様に跪いた。
「春蘭、すぐに兵を出す準備をしなさい。私が率いるのだから、遅れは許されないわよ」
はい、と返事をし、夏侯惇は玉座の間を後にする。
「桂花、貴方は秋蘭に連絡をとりなさい。最低限の兵を残し、こちらに戻る様に伝えるのよ」
やはり曹操自身も、このままでは勝ち目が無い事は分かっていた。それでいて戦を起こすのなら、荀或にはそれを止めるつもりは無い。そもそも、自分の言葉で曹操の決意が覆らない事は分かっていた。
彼女も夏侯惇同様返事をし、曹操の前から去ろうとする。その背中に向け、曹操は声を掛けた。
「それから、事態の把握も分かっているわね?」
もう1度返事をし、荀或はその場を退室する。1人残った曹操は、改めて玉座に深く腰を下ろし、大きくため息を吐いた。
「ごめん、霞。あんな事言ったけど、これからも翠に力を貸してやってくれないか?」
上体を起こした一刀は、口元の血を手の甲で拭いながら霞に声を掛けた。あんな事、とは、出ていってもいい、と言った事だ。言われた霞は相当腹を立てたらしく、一刀の方に振り返った時には眉間に深くシワが入っていた。
「……まあ、あいつが気ぃ短いんは分かっとるし。それに、琥珀はんにはまだ返し切れてへん恩がぎょうさんあるしな」
それでもため息を吐くと、彼女の表情は少し柔らかくなった。その返事に、一刀はホッとする。
だが、周囲はそうではなかった。心配されているのは霞ではなく、むしろ一刀の方だ。
翠があれほど激昂するのは、10年以上付き合いのある蒲公英や鷹那ですら見た事が無い。2人には、寝て起きたら怒りが治まっている、とは到底思えなかった。明日の朝、翠が一刀に対してどんな態度をとるのか。悪い方向に、容易く想像がついた。
そこにさっきの一刀の言葉である。まるで、自分は出ていくが、と言っている様だった。
「アンタはどうすんのよ。……出ていくつもりなの?」
詠の言葉は、そこにいた者の気持ちを代弁した格好になった。答えの予想はたっている。だからこそ、誰も口にしなかったのだ。
しばらくの沈黙の後、一刀は心苦しそうに、ごめん、と絞り出した。
「どうして!?」
思わず口をついて出た言葉がひどく間抜けな事に、蒲公英は言ってから気が付いた。理由など、聞かなくても分かっている。
そんな蒲公英に、一刀は寂しげな笑みを見せた。
少女の心がきしむ。
蒲公英は翠の様に色恋沙汰に疎くはない。むしろ敏感な方だ。翠の気持ちも、一刀の気持ちも分かっている。
たんぽぽの大好きな2人が、互いを想い合っている2人が、どうして離れなきゃならないの。
蒲公英が気付いた時には、その瞳からポロポロと涙がこぼれていた。慌てて止めようとした彼女の頭に、ポンと手が置かれる。顔を上げてみれば、目の前には一刀の姿。申し訳無さそうなその顔に溢れる涙をこらえ、蒲公英は、大丈夫だよ、と言う様に笑顔を作った。
こんな状況でも、詠は冷静な風に努めていた。内心は動揺しているのだが、それを面に出さないのはさすがに一流の軍師だった。
「……で、ここを離れてどこに行くつもり? 西涼に戻るの?」
「いや、益州へ行こうと思う」
一刀がそう答えると、詠は怪訝そうな顔をした。
「益州? 何であんなところに……。まさかさっき言ってた、アンタが知っている歴史と関係があるんじゃないの?」
一刀は1つ頷き、ゆっくりと口を開いた。
「この戦いは、負け戦だ。何とか落ち延びた後、最終的には益州を治める劉備のところに身を寄せる事になる。だから、そのために渡りをつけに行こうと思う」
荊州にいた桃香が長江を遡っていると聞き、一刀には益州攻略が始まったのだと分かった。恐らくは、無事に益州を手に入れるはずだ。
歴史通りであったなら、桃香に渡りをつける必要など無いだろう。だが、徐州において袁術と争い、赤壁の戦いはおろか曹操が荊州へ侵攻もしていない。桃香と曹操は敵対してはいない状況なのだ。
そんなところへ曹操に破れた者が訪れて、受け入れてもらえるのか。そんな不安があった。もっとも、反董卓連合の時に会った桃香と長安で会った曹操では、理想が違いすぎて最終的には敵対せざるを得ないだろうが。それに、桃香が困っている者を助けない訳は無いとも思う。
それでも諸葛亮達はどう反応するか分からない。あり得ないとは思うが、身柄を拘束され、曹操との取引材料にされる可能性もゼロではない。だからこそ、一刀はあらかじめ接触しておきたかったのだ。
「我々が負けるだと!? 馬鹿を言うな。こちらは十万、奴等は三万に届くかどうか、という詠の見立てだろう? 3倍以上の差があって、それでも負けると言うのか!」
清夜が吠える。
無理も無いだろう。兵力の差が戦の勝敗に直結しないとはいえ、結果を左右する大きな要因の1つである事は間違い無いのだ。これだけの差があって負けるとは、普通は思わない。
だが、詠は今の涼州連合軍が抱える問題点に気付いていた。連合軍である以上仕方の無い事だが、練度や戦意、指揮系統の違う軍がひとまとめになっている状況は、やはり危険である。それに、琥珀の弔い合戦という事もあって翠が盟主を務めているが、彼女に連合軍をまとめあげる事が出来るのか、そんな不安もあった。決して楽に勝てる戦ではない。詠はそう踏んでいた。
そして、彼女に師事していた一刀もまた、同じ事に対して不安を感じていた。それを口に出して伝えると、一刀は深く頭を下げた。いきなりの行動に、そこにいた全員が面食らう。
「皆の力を翠に貸して欲しい。……負け戦だって言っておきながら、勝手な事を言っているのは承知してる。でも……、あいつを守って欲しいんだ!」
本当は、自分自身で翠を守りたい。翠の傍らにいて、彼女の力になりたい。その思いが叶わない以上、他の誰かにその役目を託すしかなかった。
歴史通りにいけば、ここで翠が死ぬ事は無いはずである。だが、そんな確証はどこにも無いし、それを確かめるつもりも無かった。
「顔を上げてください、一刀さん。その様な事、言われるまでもありません」
それまでずっと黙っていた鷹那が口を開いた。顔を上げ、窺う様に鷹那を見る。
先程の翠と同じ事を感じているのではないか。彼の胸の中にはそんな不安があった。不安が面に出ていたか、鷹那にしては珍しく、返す声が柔らかい。
「貴方は琥珀様を止めようとしたのでしょう? あの方も、姫に負けず劣らず頑固でしたから。例え私が止めていたところで、聞き入れてはくださらなかったでしょう」
気にしなくていい。そう慰められて、不意に鼻の奥がツンとする。泣きそうになるのを鎮めるため、一刀は再度頭を下げた。
このまま翠の下にとどまる事に、一同異存は無かった。詠だけが条件を付けてきたものの、それが満たされなければ出ていく、という様な脅迫めいたものではなかった。
条件の1つは、この戦について知る限りを教える事だった。もちろん、一刀には細かい部隊の動きなどは分からないが、直接の敗因なら知っている。離間の計により、馬超と韓遂の仲を裂かれたためだ。そして、離間の計を曹操に献策したのが賈駆――つまりは詠である。
この事を伝えるべきか、一瞬悩む。1から説明しなければならないし、余計な混乱を生みかねない。
だが、一刀は正直に話す事に決めた。ひょっとしたら、何かの役に立つ情報かもしれない。それに、自分を偽っていた後ろめたさもあっての事だった。
「……じゃあ、詠ちゃんがいないから、一刀さんの話通りにはならないって事かな?」
「もしボクが曹操の下にいたら、間違い無く仕掛けるわよ。そして、ボクが思い付く以上、曹操軍に何人かいる軍師が気付いても不思議じゃない」
蒲公英の楽観的な予想を、詠はバッサリと切り捨てた。
大小様々な勢力が集まる連合軍には、離間の計の様な切り崩し策は非常に有効である。例え成功しなくても、互いに疑心暗鬼な状態に持ち込めれば、十分な効果が見込めるからだ。
一刀の話を聞いても、詠は驚いた様子を微塵も見せない。そのまま2つ目の条件を口に出す。一同はその内容に驚愕させられた。
「月も益州に連れていきなさい」
「え、詠ちゃん!? どうして!?」
中でも1番驚いているのは、名前を出された月本人だ。
「コイツの話は聞いていたでしょ。今回の戦は相当厳しいものになるの。月はコイツと一緒に離れた方がいいわ」
「何で? 私だって、琥珀様の御無念を晴らしたいの。だから、私も……」
食い下がる月を見る詠の目が急に冷たくなり、ハァ~と非常に大きなため息を吐く。
「……分からないならハッキリ言うわ。月じゃ足手まといにしかならないの」
「……っ!」
親友であるはずの詠から浴びせられた一言が、月の心を深くえぐる。ショックで言葉を失い、目を激しく泳がせる月。さらに辛辣な言葉が追い討ちをかける。
「ボクの様に知略に富む訳でも無ければ、霞や清夜の様に部隊の指揮や個人の武に才がある訳でも無い。いてもらっても、迷惑なだけなの。邪魔なのよ」
月の頭の中では、何で、という単語がぐるぐると回っていた。
『何で、詠ちゃんはこんな事を言うの? 何で、優しかった詠ちゃんがこんな事を……?』
渦を巻く感情は、やがて涙となって溢れ出す。と同時に、月は天幕から飛び出した。月様、と叫びながら清夜がその後を追う。
残された者達は入り口から詠へと視線を移し、ハッとした。やれやれ、といった感じの苦笑いを浮かべる霞が詠に近付く。
「まったく、心にも無い事言うからや」
「うっさい……」
霞は詠の眼鏡を外すと、滝の様な涙を流すその顔を、自分の大きな胸に優しく抱き締めた。
慰めるつもりで言った霞の言葉は、若干的外れであった。もちろん、詠が月に対して足手まといだとか、邪魔などと思っていた訳では無い。ただ、軍師である詠にとって、月は弱点であった。月を思う気持ちが強すぎて、彼女が絡むと判断が鈍るのである。
董卓軍の軍師であるうちはそれでもよかった。月の事を第一に考えるのは大抵の場合、董卓軍の利に繋がるからだ。
だが、今の月は馬超軍の文官、もしくは侍女である。例えば、月の命と軍の勝利、二者択一を迫られた場合、どちらを選ぶべきかは考えるまでもない事だ。そんな当然の事でさえ、実際にそうなった時に即決する自信は詠には無かった。
「詠~、何しとるん? 軍議やで~」
記憶の淵に沈んでいた詠の意識は、聞き慣れた訛りの強い声で引き戻された。分かってるわよ、と返し、机の上に置いていた眼鏡をかけて立ち上がる。
「アイツに変な事されたら、ぶっ飛ばしちゃっていいんだからね、月」
そう独り言を残して、詠は天幕を後にした。