第3章-長安編・第14話~曹操暗殺計画~
その日、武威の街に中央からの使者が訪れた。内容は、許昌において新しく完成した宮殿の落成式典への出席を伝えるものだった。
許昌というのはエン州の南、豫州の西部にある都市の名前だ。献帝を手中に納めた曹操は豫州へと侵攻し、この国の首都を許昌へと遷都したのである。
落成式典への出席を翠や蒲公英は大層喜んだ。羌族との混血であるというだけで、琥珀は今まで式典や祝賀行事に参加することが許されなかったからだ。そんな中、一刀は1人浮かぬ顔をしていた。
その夜、一刀は琥珀の部屋の扉を叩いた。彼の顔は昼と同じく浮かないまま。むしろ、何か思い詰めたかの様な渋い顔をしている。
それとは対称的な明るい声が扉越しに入室を許可した。覚悟を決める様に大きく息を吐き、一刀は扉を押し開いた。
「一刀君もお土産をねだりに来たの? 大丈夫よ、心配しなくてもちゃんと……」
机に向かい何やら書き物をしながら話し出した琥珀だったが、顔を上げて一刀を視界に納めると言葉を発するのをやめた。一刀の表情から、先程の蒲公英の様な軽い用件で訪ねてきたのではない事は察する事が出来た。
筆を置いて姿勢を正すと、一刀に傍に来る様に促す。それに従い、一刀は机を挟んで椅子に腰掛けている琥珀の正面に立った。その後は、琥珀の方から話を急かす様な事はしない。ただ黙って一刀の目を見つめた。
一刀はもう1度だけ深く息を吐いた。
「先程の使者は、本当に落成式への招待だけのために見えられたんですか?」
「そうよ。貴方にも書簡は見せたでしょう?」
確かに一刀が見せてもらった書簡にはそう記されていた。だが、それが尚更彼の疑念を助長させた。
曹操は許昌を占領した後、献帝から丞相に任じられていた。実際のところはどうなのか、一刀には測りかねたが、少なくとも表向きにはそうなっている。許昌への遷都は丞相となった曹操主導で行われた事だった。
だからこそ、一刀は献帝から届いたとされるこの書簡に違和感を覚えた。書簡の中に、曹操の存在や思惑といったものが感じられなかったからだ。彼の見た限りでは、鷹那や詠も同じ様に違和感を覚えた様子だった。それでもあの場で何も言わず、一刀の様に琥珀の部屋を訪れないのは、その先へと推論が続かないからだ。
しかし、一刀は違った。未来から来た一刀には、この先起こるはずの事が分かっている。その知識から、この違和感の正体を推測する事が出来るのである。
「……曹操を討つよう、命令が下されたんじゃありませんか?」
一刀が推測した答えは曹操暗殺計画だった。歴史では計画が露見し、馬騰は曹操に処刑される事になる。だが、琥珀に同じ未来を歩ませる訳にはいかない。一刀は真剣な眼差しで琥珀の返事を待った。
「……まったく、物騒な事を言うものじゃないわ。仮にもこの国の丞相よ。どこで誰が聞いているかも分からないのに……」
若干の間の後、大きくため息を吐きながら琥珀は答えた。
否定の言葉。だが、一刀の中で推測は確信へと変わった。
驚いた様子を見せなかったのはなぜか。それを考えた時に答えは出た。本当にゼロの状態から聞いたのであれば、いくら琥珀でもこんなに落ち着いていられるはずはない。知っていたからこその反応のはずだ。
だが、このまま問答を続けても琥珀は正直に話してはくれないだろう。彼がジョーカーを切らない限りは。
「……すいません、琥珀さん。俺は皆にずっと嘘を吐いていました」
今まで意識してはいなかったが、嘘を吐いていた、と改めて口に出してみると罪悪感にさいなまれる。自分を家族として接してくれた人を騙していた事に後ろめたさを感じる。だが、それでも一刀は琥珀から視線を逸らさなかった。
一方の琥珀はわずかに眉をしかめて怪訝そうな顔をしたものの、何も言わずに続きを促した。
「俺は、天の御遣いなんかじゃない。俺が暮らしていたのは、1800年後の未来の世界なんです」
話を聞いても、琥珀は特に表情を変える事は無かった。あまりにも突拍子もない話についてこられないのだろうか。相変わらず何も言わないまま、それでも両肘を机に突いて前のめりになった。
「この国で今起こっている争乱は、1800年後にまで読み物として残されているんです。その中で琥……、馬騰さんは曹操の暗殺計画に参加するものの、事が露見して……」
そこから先は思わず言葉を濁してしまった。琥珀の反応が何も無い事に、自分の言葉は届いているのか、と不安になる。信じがたい事を言っているのは重々承知だ。だが、それでも話を聞いてもらうしかない。
「信じられないのは分かっています。こんな荒唐無稽な事、とは自分でも思います。でも、本当の事なんです! 本当に……」
それまで出来る限り感情を抑えていたが、思わず声を荒げてしまう。そんな一刀を琥珀は手で制した。
「貴方が嘘や冗談でこんな事を言う人でないのは分かっているわ。それに……、この件を言い当てた事から考えても、本当に貴方が未来から来て、知っていたのだとは思うの。ただ……」
数日前、彼女の下には献帝から密使が使わされていた。内容は先程一刀が言った通り、曹操を討つための算段だった。昼間に訪れた使者は、ただ形だけのものだ。
しかし、それでも中々納得出来ないのか、琥珀は額に手を当てて考え込む様な仕草を見せた。
「……そういえば、どうして私の名前を呼び直したの?」
ふと、さっきの一刀の言葉を思い出して尋ねた。
一刀が知っている三国志の人物は真名を持っていない。その事を伝えられると、琥珀はしばらく考え込んだ。
「……真名が無い、ね。他にも、何か違う事はあるの?」
一刀の知っている歴史との相違点を上げればキリがない。元々、有名な将のほとんどが女性、というところからして違うのだ。黄巾の乱や反董卓連合など、有名な物事が起こっているのは間違いない。だが、起こる時期が違うし、事態の進みが早い。
さすがにそれらを全部伝える事は出来ないので、かいつまんで説明する。一通り話が終わるまで耳を傾けた後、琥珀はおもむろに口を開いた。
「大丈夫よ。心配しなくても」
なっ、と一刀の口から思わずこぼれる。慌てる一刀を宥める様に、琥珀は言葉を続けた。
「貴方の話だと、私が曹操を殺害する計画に加担して、それが明るみに出て処刑される、という事でしょ? だから、大丈夫だと言ったの。根本から違うのだから」
「どういう事ですか?」
自分の話が通じていないのか、と思っていたところに理解しづらい事を言われ、一刀はついぶっきらぼうになってしまった。
「確かに協力するよう話を持ちかけられたわ。けど、私が許昌まで行くのは曹操を殺害するためじゃない。この企てを中止させるためよ」
だから安心しなさい、とでも言うかの様に琥珀は笑う。
だが、一刀の不安は拭えない。でも、と食い下がる。
反董卓連合では、月は助かったものの董卓という人物は死んだ事になった。桃香は、曹操ではなく袁術と争ったにもかかわらず、徐州を奪われ荊州へと落ち延びた。献帝も紆余曲折あったものの、曹操の手の内に落ち着いた。
プロセスは違っても、結果は変わっていないのだ。だから、理由はどうあれ琥珀が許昌に赴く事が、最悪の結果を招く事に繋がる様な気がしてならなかった。
それを伝えようとする一刀の言葉を琥珀は遮る。
「貴方の言った通り、ずさんな計画だからどこから漏れるとも限らないし、仮に漏れずにいけたとしても、曹操を討てるかどうかは微妙でしょう。もし失敗すれば、献帝は今よりもさらに立場を悪くする事になるわ。この漢の国を守るためには、外戚の暴挙を止めなければならないのよ」
そう言って安心させる様に微笑みかけるが、一刀の胸中には、どうして、という思いが浮かぶ。
羌族との混血である事で、琥珀は迫害や差別を受けてきた。普通ならもっと高い官職に就ける程の功績を残しているのに地方の郡太守に留まっているのもそのためだ。それなのに、どうしてこの国に忠義を尽くそうとするのか。一刀にはそれが理解出来なかった。
「何で……、何でですか!? だって、琥珀さんは……!」
叫ぶ様に大声を上げたものの、そこで黙ってしまう。琥珀が迫害や差別を受けてきた事は本人から聞かされた事ではない。主に詠から聞いた事だ。言わなかったのは言いたくなかったからだと考え、一刀は口をつぐんだ。
だが、それを口にしようとした事に後悔を覚える。自分の意見が聞いてもらえないからと、まるで駄々っ子だ。情けない。
一刀のそんな心の内を見透かしたのか、琥珀は少し呆れた様に笑った。そして、駄々っ子を諭すかの様に優しく語りかける。
「小さい頃、私は羌族の村で暮らしていたから、漢軍に多くの友人や知り合いを殺されたわ。嫁いだ後しばらくは、漢人だけでなく羌族の同胞からも白い目で見られていた。漢という国によって辛い経験を強いられたのは間違い無い」
しかし、そう言った彼女の表情には悲しみや恨みの色は無く、何か昔を懐かしんでいる様に見えた。
「でもね、辛い事ばかりだった訳では無いわ。この国が無ければあの人と巡り会う事は無かった。あの人との間に翠を授かる事も無かった。私を慕ってくれる領民や、私の大切な家族と暮らす事も出来はしなかった。もちろん、貴方に会う事も、ね」
一刀の目を見て微笑むと、琥珀は表情を引き締める。
「この国にあるあの人との思い出のため、私はこの国を守らなければならないの。あの人が生まれ、育ち、愛したこの地で、これからも生きていくために」
琥珀の瞳には決意がみなぎっている。それを見て、いくら言葉を紡いだところでこの決意が覆らない事を一刀は悟った。それに、これ以上琥珀を引き止めようとするのは、彼女の思いを侮辱する行為の様な気がしていた。
「亡くなったご主人の事、今でも愛しているんですね」
「……ええ。あの人よりいい男は、国中探したっていはしないわね」
かすかに目を剥いた後、頬をわずかに赤く染め、堂々とノロケた。
もう10年も前に亡くなった夫の事をハッキリと好きだと言える。一刀には羨ましく感じられた。自分もそんな関係を築けたら、と思う。
「でも、貴方ならあの人と肩を並べるくらいには、男振りを上げられるかもしれないわね」
そう言われれば、一刀も満更ではない。本当ですか、と嬉しそうに尋ねる。
「しっかりと男を磨きなさい。そうすれば、きっと、ね」
返した琥珀も嬉しそうに笑っている。だが、その理由――自分の娘を惚れさせたのだから、とは、さすがに本人に申し訳無くて言わなかった。
それから3日後、翠達は揃って琥珀の出立を見送っていた。しつこく土産をねだる蒲公英をあしらい、皆に声をかけていく。
「……じゃあ、留守の間は頼むわね」
鷹那が、はい、と短く返事をすると、今度は翠へ向きを変える。
「そういえば、私が帰ってくる頃には、ちょうど貴方の誕生日ね。帰ってきたら、誕生日ぱーてぃーでもしましょうか?」
「えっ? い、いいよ、あたしは。柄じゃないし」
「私の時みたいに大々的にするつもりじゃないわ。身内だけでご馳走でも食べて」
ご馳走、という言葉に引き気味だった翠の顔が緩む。琥珀はその隙を突く様に、スッと顔を近付けた。
「一刀君を一撃で落とせる様な可愛い服を買ってきてあげるから、楽しみにしてなさい」
「んなっ!?」
耳元で囁かれた言葉に、翠は思わず変な声を出してしまう。顔を真っ赤にする娘の姿に笑みをこぼし、最後に一刀へ向き直った。
「私の娘達の事、よろしく頼むわね」
「はい。……気を付けてください」
一刀が未来から来た事は2人の間での秘密となった。重要な事だけに、戻ってからどうするかを決めようと、とりあえず保留した格好だ。
心配なのは変わらない。だが、無事に戻る事を祈りつつ、一刀は努めて笑顔を作り琥珀を見送った。
涼州の南方、漢帝国の中で南西に位置する地、益州。険しい山々に四方を囲まれた天然の要害である。その益州東部にある江州の城内に1人の女性がいた。
菫色の長い髪を持つその女性は、乙女と呼ぶには少々とうがたっている。だが、ただ微笑みながら椅子に腰かけているだけの今の状況でも、女性としての色香がムンムンと溢れていた。
彼女の名は黄忠、字は漢升。益州牧である劉璋に仕える将だ。黄忠は益州と荊州の州境にある永安を治めているのだが、この日は人に会うために江州を訪れていた。
しかし、その相手は出掛けていてまだ戻ってきていない。膝の上でスヤスヤと寝息をたてる愛娘、璃々の頭を撫でながら、黄忠は相手の戻りを待った。
不意に部屋の外から足音が聞こえた。壁越しでも不機嫌である事がハッキリと分かる足音に、黄忠は苦笑いを浮かべた。バンッ、と勢いよく扉が開け放たれる。
「すまんな、紫苑。待たせた」
そう言いながら部屋に入ってきた女性も、黄忠に負けず劣らずの艶っぽさだった。薄く紫がかった銀髪の彼女が黄忠の待ち人であり、この江州を治めている厳顔である。
黄忠は苦笑したまま首を横に振ると、厳顔が向かいに座るのを待ってから口を開いた。
「その様子だと、やはり劉璋様は聞き入れてくださらなかったのね?」
「相変わらずだ。わしの諫言には耳も貸さず、宦官共の甘言ばかりを聞いておる」
ハァ、と深いため息を吐きながら厳顔は答えた。その顔には諦めや憤りだけではない、もっと深い思いが出ていた。
この厳顔と黄忠、そして同じく劉璋に仕える張任の3人の名は、巴蜀の三傑として益州の外にまで響き渡っている。3人は文武両面で、劉璋の父である先代の益州牧、劉焉を助け、益州の発展に尽力した。忠臣と呼ぶに相応しい働きをしてきた彼女達であったが、2年前、劉焉が亡くなってからおかしくなり始めた。
劉焉の跡を継いだ息子の劉璋は政の一切を宦官に任せ、自分は酒色に耽った。黄忠や厳顔を始め、その事を諫めた者は地方へと左遷され、州都である成都には劉璋に取り入ろうとする愚臣と宦官しか残っていない状況となっていた。
今回もまた、厳顔は主の素行を諫めに行ったのだが、煙たがられるだけでまともに取り合われなかった。
「いい加減決断しないと間に合わなくなるわよ、桔梗」
黄忠の言葉に厳顔は、ああ、とだけ答えて瞳を閉じた。
今回で最後のつもりだった。だが、いざその状況になってみると、やはり迷いはある。
今は袁紹に兵力を集中している曹操だが、河北一帯の制圧が終われば他方面へ侵出するのは明らかだった。献帝を押さえている以上、曹操は官軍だ。他国を攻める口実ならどうとでもやりようがある。そして、益州も侵略対象に入っているのだ。今の状態で曹操と戦争になれば、万に1つの勝ち目も無い。
だからこそ、厳顔は最後の諫言に赴いたのである。聞き入れてもらえれば、国力を建て直して軍備を再編する事が出来る。この地を守る天然の要害を上手く利用すれば、遠征してくる曹操軍を退ける事は難しくない。だが、それを説いても、厳顔の言葉は劉璋には届かなかった。
「……桔梗」
決断を催促するように、再び黄忠は厳顔の真名を呼んだ。
彼女はすでに劉璋に見切りをつけている。これ以上遅らせる事は、この国に住む民のためにならない。そう考えていた。そして、それは厳顔も同じだった。
「焔耶」
心は決まった。厳顔は目を見開き、自分と共に部屋に入った女性の名を呼んだ。ハッ、と歯切れよく返事をすると、厳顔の方へと歩み寄る。
彼女は魏延、字を文長といい、厳顔配下の将ではあるが、2人の関係は師匠と弟子に近い。短く切られた髪と女性にしては長身なその外見は、一見しただけでは男性と見間違えそうである。
黄忠の懐から取り出された書簡を一読すると、厳顔はそれを魏延に手渡す。
「分かっておるな? この書簡を荊州の劉備殿に、確かに届けるのだぞ」
厳顔達は、悪い言い方をすれば、益州を劉備に売るつもりだった。劉璋に代えて、仁君として名高い劉備に益州の牧へ就いてもらう。それが益州の民のためだと、劉焉の代から仕える将の多くも賛同してくれていた。例え売国奴のそしりを受けたとしても、彼女達にはそれを成すしかなかった。
使者として訪れた魏延によりもたらされた書簡の内容に、桃香達からは様々な意見が出た。
巴蜀の三傑の名は彼女達の耳にも届いている。そんな人物が、果たして裏切る様な真似をするだろうか。むしろ、蔡夫人一派の仕掛けた罠ではないか。特に関羽は懐疑的であった。
「厳顔様が信用出来ないのか?」
「巴蜀の三傑といえば、益州の地で並ぶ者の無い傑物だと聞いている。そんな方が主を裏切るなど、私には到底信じられん。もし真実だというのなら、それ程の人物だとする評価の方が間違っているのではないか?」
「貴様っ! 桔梗様を愚弄するか! お2人や賛同してくれた方達は益州に暮らす民のためを思い、あえて汚名を被る覚悟で事を起こしたんだぞ!」
関羽の言葉に魏延はいきり立つ。そんな両者の間に割って入る桃香。彼女は関羽をたしなめた後、玉座を降りて魏延へと近付く。突然の行動に面食らい、わずかに上体を引く魏延に構わず、桃香は彼女の手を取った。そして、胸の前で抱く様に両手で包み込み、ニッコリと笑いかけた。
「私は、魏延さんも厳顔さん達の事も信じてるよ。私達と同じ志を持った人達だと思うから」
「り、劉備様……」
その時、魏延の頬にわずかに朱が差したのだが、それには目の前にいた桃香も気付かなかった。
2人の様子を見ながら、相変わらずだな、と公孫賛は思った。私塾で机を並べていた頃から、すぐに他人を信用するお人好しなところは変わっていない。危なっかしく思えるのも昔と同じだが、その純粋さがあるからこそ、桃香は周りの人を惹き付けるのだろう。桃香を支えられる様、私もしっかりしないとな。公孫賛は、そう気合いを入れ直した。
「なぁ、朱里。さっき愛紗が言ったみたいに、罠とか計略とかって可能性は無いのか?」
「そこら辺はほとんど考えなくていいと思います。暗殺という短絡的な手段の後にしては手が込んでいますし、実際、劉璋さんの代になってから、旧臣との間に軋轢が生まれているのも事実な様ですから」
そうか、と口にした公孫賛は、朱里が言うなら大丈夫だろうと胸を撫で下ろした。
その日も普段と変わらない1日になるはずだった。
警邏を終えた一刀。そろそろ琥珀さんも戻ってくる頃だな。そんな事を考えながら城門を潜ると、月が息を切らせて駆け寄ってきた。その顔には焦りがありありと出ている。
「……か、一刀さん。……大変なんです! 早く、早く来てください!」
大分涼しくなってきたにもかかわらず、月は大粒の汗を掻いている。それを拭う事もせずに一刀の手をつかみ、グイと引っ張った。
普段、見る事の無い月の慌てた様子に、一刀の胸に不安がよぎる。彼は手にしていた細長い木箱を懐に仕舞うと、月に続いて駆け出した。
月に引かれて着いたのは、玉座の間だった。部屋の中からは数人の叫ぶ声が漏れてくる。さらに不安が募るが、ためらう間も無く月が扉を押し開いた。
「お姉様、落ち着いてよ!」
「いい加減にしとけや、翠!」
「とにかく少し落ち着いてください、姫!」
蒲公英が、霞が、鷹那が叫ぶ。彼女達の真ん中には暴れる翠の姿。その顔は真っ赤で、錯乱している様にも見えた。清夜も含めて4人で押さえられているにもかかわらず、彼女は止まらない。
「うっせーっ! 放せ、お前ら!」
叫ぶと同時に右手1本で蒲公英を投げ飛ばす。一刀の方へと飛ばされてきた蒲公英は、強かに壁へ打ち付けられた。痛む肩を押さえながら、少女は一刀を見上げた。
「一刀さん、お姉様を止めて!」
叫ぶ様に懇願する蒲公英の顔には涙の跡が見えた。壁にぶつかった痛みで泣いた訳では無い。それに、翠のあの取り乱し様。一刀にはその理由が分かってしまった。
沈痛な面持ちでまぶたを閉じる。だが、それは一瞬だけだった。一刀は暴れる翠の方へとゆっくり近寄っていく。
「何があったんだよ、翠。少し落ち着いて、話を……」
声をかけられた翠は暴れるのを止め、ギンッ、と一刀を睨み付けた。その眼力だけで、彼は1歩下がってしまった。
「……何があった、だと? ふざけんな!」
壁すら振動させる程のわめき声。怒りで肩がワナワナと震えている。その双眸からは今も涙が溢れる。
「……母様が、母様が曹操に……、殺されたんだ!」
やっぱりそうか。一刀は沈痛な面持ちで天を仰いだ。