第3章-長安編・第13話~再会~
武威の街の一角にある空き地から、いつもの様に子供達のはしゃぐ声が響く。楽しそうに遊ぶ子供達の姿を物陰から伺う男が1人。一刀だった。
だが、彼の瞳に映っているのは子供達ではない。彼等と一緒に遊んでいる翠の方だった。
屈託無い笑顔で子供達と遊ぶ翠。長い栗色の髪が、彼女の動きに合わせて踊る様に跳ねている。
一刀は翠に対し、好意を抱いていた。ハッキリ言えば、愛情である。もちろん、男女の間での、だ。ただ、それを相手に伝える勇気は出せずにいた。
彼女が自分を憎からず思ってくれている事は一刀にも分かる。だからといって、自分を好きでいてくれていると思い込める程、彼にはモテた経験が無く、そんな幸せな頭も持ってはいなかった。むしろ、頭に浮かんでくるのは悪い結果ばかりだ。
もし翠の側に自分以外にもう1人、同年代の男性がいたら。そしたら、態度の違いで分かるかもしれないのに。そんな事を思うくらい一刀には、翠の自分に対する態度は蒲公英達に対するそれと変わらない様に感じられていた。周りから家族同然に思われるのは嬉しかったが、翠にだけはそう思われたくなかった。
ちなみに、自分以外にもう1人、という考えはすぐに頭から消された。翠を誰かに取られるかもしれない。そう思うだけで、彼の心は平穏ではいられなかった。
不意に気配を感じ、一刀は視線を下げる。いつの間に近付いたのか、女の子に上着の裾をキュッとつかまれていた。さっきまで翠と一緒に遊んでいたはずだ。
「みつかいさまも、いっしょにあそぶ?」
その言葉を受けて顔を上げてみれば、翠が睨む様にしてこちらを見ている。誤魔化して逃げる訳にはいかなかった。
「そうだね、仲間に入れてくれる?」
頭に手をおいて微笑みかけると、少女はパァッと笑みの花を咲かせた。
しばらく子供達と遊んだ後、一刀は倒れる様にして地面に腰を下ろした。土の上だが汚れるのもお構い無しだ。
時々こうして子供達と遊んでいるが、そのバイタリティーには毎度驚かされる。日本にいた時より相当体力が上がったという自負があるが、それでも遊びでは子供達にはついていけない。未だ元気に駆け回る姿を見ながら疲れた体を休めていると、翠が近づいてきた。
「もう疲れたのか? 情け無い」
そう言った彼女の肩も上下している。うっすらと汗が浮かび、首筋には髪の毛が張り付いていて色っぽい。思わず見惚れてしまった一刀の目の前に翠の手が差し出された。一旦手に視線を落とした後、再び翠を見上げる。
「御遣い様が、そんな情けない格好を子供達に見せんなよ。ほら」
立たせてやるから、とでも言う様に、翠はさらに手を近付けた。
少しドキドキしながら、一刀は翠の手に自分の手を重ねようとする。が、触れる直前、翠はサッと手を引っ込めた。それでも、座っていたためにバランスを崩す様な事は無かった。
空を切り、所在のなくなった手から翠の方へ顔を上げる。どういうつもりか質す様な視線を投げた。
「別に、自分1人で立てるだろ」
翠はそっぽを向いてしまう。照れているのか顔が赤い。
今まで翠の手をつかんだ事は何度もあった。にもかかわらずこんな反応をされると、一刀も微妙に気まずくなる。翠から視線を外して立ち上がり、汚れているであろう尻をはたく。沈黙が2人の間を支配していた。
そこへ、遊んでいた子供達の1人が近付いてくる。一刀の服をつかんでいた子の姉だ。妹をそのまま一回り大きくした、と言っていいくらい目鼻立ちがよく似ている。
「馬超様と御遣い様は付き合ってるの?」
「なっ……!」
予想外の質問に、2人揃って言葉に詰まった。答えとしては、違う、としかないのだが、一刀の本心からするとそれは言いづらい。そう言う事で、翠に気が無いと誤解されたくなかった。しかし、そうだ、と言う訳にもいかない。
一刀はチラリと翠を窺う。翠もまた、横目で一刀の様子を窺った。2人の視線が交錯し、次の瞬間には離れていた。
「うちのお母さんが言ってたよ。馬超様と御遣い様はお似合いだ、って」
少女はそんな2人の態度を気にした風もなく続けた。さらには、他の子達も話に加わる。
「私のお母さんは、御遣い様が馬超様と結婚してくれたら、この街ももっとよくなるのに、って言ってたー」
私も、うちも、と声が飛ぶ。時代や場所が変わっても、こうした男女の話に積極的に参加しているのは、やはり女の子の方だった。
そんな中、急に男の子の声がする。といっても、声変わり前の少年の声だ。口を開いたところを見ていなければ、分からなかったかもしれない。
「馬超様は、将来俺と結婚するんだ!」
少年は高らかに宣言すると、翠の腰に抱きついた。絶対無理、ないよね~、そんな声が少女達から上がる。少年も反論し、翠の周りでは口論が始まってしまった。
恥ずかしがり屋の翠も、さすがにこのくらいの歳ならば問題無いらしい。少年に抱きつかれたまま喧嘩の仲裁をしている。微笑ましい光景だ。だが、一刀にとってはそうではなかった。
馬鹿みたいだな、あんな子供に嫉妬なんて。情けなくて、一刀は思わず自嘲した。
無事に新野城へと戻る事が出来た桃香だが、その日から厳しい外出制限がなされた。不必要な外出を出来る限り禁止し、外出時には鈴々か趙雲が護衛に付く。いつどこで命を狙われるか分からないからだ。
元々、彼女には外出時に護衛を伴う事を義務付けていた。しかし、こっそりと1人で街へ抜け出す事も少なくなかった。諸葛亮はそこを徹底させるつもりでいたし、桃香もそれを素直に受け入れた。
という訳で、今桃香は鈴々を護衛に街に出ていた。建前は政務に関係する視察となっている。だが、実際には息抜きのため、鈴々の警邏に付き合っているだけだった。あまり籠りっぱなしなのも可哀想だと、諸葛亮も一応は許可している。桃香は久々に羽を伸ばした気分だった。
新野城は吹けば飛ぶ様な小城にもかかわらず、街中はかなりの賑わいを見せている。劉表、さらには桃香と、善政を敷く為政者の努力の賜物だ。
活気ある声が飛び交う大通りを歩いていると、張飛将軍、と鈴々を呼び止める声が聞こえた。キョロキョロと声の主を探す桃香と違い、鈴々は誰に呼ばれたか分かったらしい。一直線に道端の屋台に向かっていく。
「ありがとうなのだ、おっちゃん」
桃香が追い付いた時には、鈴々は礼を言いながら満面の笑顔で肉まんを受け取っていた。早速、蒸しあがったばかりで湯気のたつ肉まんを頬張る。
美味しそう、という考えを振り払う様に頭を振る桃香。彼女は末妹の行動をたしなめる。
「駄目だよ、鈴々ちゃん。お仕事中に買い食いなんかしたら」
「これは買ったんじゃなくて、おっちゃんから貰ったのだ。だから、これは買い食いじゃないのだ」
鈴々にそれを気にする様子はない。こんな屁理屈をこねる始末だ。もし関羽がいれば、怒り心頭になるであろう。そして、関羽がいない今、自分がしっかりしなければ、と桃香は考えた。もっと厳しく注意しようと口を開きかける。
「これは、劉備様。気付きませんで、申し訳ありませんでした。もしよろしければ、お1ついかがですか?」
だが、屋台の主人の方が先に言葉を発した。機先を制された格好になり、桃香は思わず勢いを削がれてしまった。
「私は……」
私はいいです。そう言いたかったのだが、それより先に彼女の腹が鳴ってしまった。顔を真っ赤にして俯く桃香に、主人は笑いながら肉まんを差し出す。
「……い、いただきます」
桃香は恥ずかしそうに両手を差し出して肉まんを受け取る。熱いが持てない程ではない。ゆっくりと口に近付けると、食欲をそそる香りが鼻を抜けていく。ゴクリと唾液を飲み込み、肉まんを1口かじる。その瞬間、口の中に旨味たっぷりの肉汁が広がった。
「美味しい~」
自然と笑みがこぼれ、感想が口をつく。
「おっちゃんの肉まんは荊州一なんだから、旨いのは当たり前なのだ」
鈴々がまるで自分の事の様に自慢げに胸を反らす。店の主人は謙遜しながらも、内心では満更でもなさそうだった。
2人は礼を言うと、警邏に戻ろうとする。食べ掛けの肉まんは片手に持たれたままだ。
「鈴々! 貴様には平原にいた頃から、警邏中に買い食いをするな、と口を酸っぱくして注意してきたはずだぞ? どうやら、まだまだ説教が足りていない様だな」
突然背後から襲った声に、2人は体をビクッとさせた。足を止め、互いに顔を見合わせる。
凛として迫力のある声。意思の強さを感じさせる通りのいい声。そして、何より桃香と鈴々がずっと聞きたいと願っていた声だった。
2人はゆっくりと振り返る。
「大体、桃香様まで一緒になって……。本来なら、桃香様がこやつの行いを止めねばならないのですよ?少しは長姉としての自覚を……」
「愛紗ちゃんっ!」
「愛紗ーっ!」
長く艶やかな黒髪。ピンと伸びた背筋。携えた青龍偃月刀。そこに立っていたのは、紛れもなく関羽だった。
小言等お構い無しで、桃香と鈴々はようやく再会出来た関羽に抱き付いた。まるで体当たりでもするかの様な勢いで抱き付かれ、彼女はバランスを崩してしまう。2、3歩たたらを踏み、結局は3人仲良く往来に転がった。
だが、それでも2人は関羽を離そうとはしない。もう2度と離れるのは嫌だ、と言わんばかりにしがみつく。
「愛紗ちゃん、よかったよ~」
桃香は涙声だ。関羽に覆い被さる格好で顔を上げると、その瞳には今にも決壊しそうな程の涙がたまっている。
「……申し訳ありません、桃香様。ご心配をお掛けしました」
謝りながらも関羽は微笑みを浮かべる。桃香もまた、笑顔で首を横に振る。その拍子に涙の粒が宙に舞った。
「鈴々もすまなかったな。心配させた」
「……鈴々は、愛紗の事なんか、全然、心配してないのだ!」
そう言う鈴々の言葉は涙でつっかえつっかえで、誰の耳にも強がりであると分かった。優しく微笑み掛ける関羽の顔を見ると、思わず耐え切れなくなる。涙と鼻水でパックされた顔を関羽の胸に押し付け、大声を上げて泣いた。
そんな妹の頭を撫でながら、
「桃香様、戻ったのは私だけではありませんよ」
と言って、関羽は目線で促した。桃香が顔を上げてそちらに目を遣ると、そこには関羽と共に行方知れずになっていた鳳統が立っていた。やはり、彼女もポロポロと涙を流している。どうやら関羽に注意が向いていたため、気付かなかったらしい。
そちらに駆け寄ろうと立ち上がったところで、鳳統の隣に立つ女性の姿が桃香の目に入った。まさかと思い、固まる。徐州で生き別れ、もう2度と会う事は叶わないと覚悟をしていた母の姿。
「……お母さんっ!」
「……桃香っ!」
互いに互いを呼び合うと、弾かれる様に2人は駆け出す。そして、互いの無事を確認する様にしっかと抱き締め合った。
「お母さ~ん……」
関羽の時は長姉として我慢をしていた。しかし、母の前では最早限界だった。止めどなく溢れる涙を拭く事もせず、桃香はうわ言の様に母を呼び続けた。
いつの間にか辺りには人垣が出来ていた。彼等もこの光景に涙し、再会を自分の事の様に喜んだ。
その後、騒ぎも大分収まったところで、関羽は恋と音々音を紹介した。鈴々はどうやら恋との約束を忘れていたらしく、その事を指摘されると笑って誤魔化していた。
城へと戻った桃香達は、諸葛亮と鳳統の感動の再会が終わるのを待って、現状の報告と今後の方針を決めるための会議に入った。蔡夫人一派の暗躍を聞いた関羽は怒りを露にしたが、証拠が無い以上、根本的な対策をとる事は出来ない。今まで通り、桃香に護衛を付けておくしかなかった。
また、そのために劉表の勧めに従って荊州を治めるべき、との意見も出たが、桃香は頑として首を縦に振らなかった。劉表の統治の下で人々が幸せに暮らしているこの状況で跡目を奪う様な真似をするのは、彼女の信念に反する。
しかし、いつまでも新野城にとどまっている訳にもいかなかった。曹操と袁紹の戦いは曹操側が優勢に進んでいる。まだ時間は掛かるだろうが、曹操が河北を制圧した後、他の地域へも侵攻を開始するのは火を見るより明らかだった。
可能性があるのは徐州、涼州、荊州のいずれかだが、制圧後の統治の難しさを考えれば涼州は外れるだろう。桃香が、曹操の力で他者を従わせるやり方をよしとしていないため、両者の衝突は避けられない。である以上、曹操が河北一帯を制圧する前に戦力を整えなければならない。
いくら平和で幸せに暮らせる世界、という理想を掲げていても、それを実現するためには軍事力が必要になってくる。矛盾している事は桃香も理解しているが、それが現実だ。そして、曹操に対抗する力を得るには、新野城という小城だけでは到底足りるはずもなかった。
そんな彼女達に思いもよらない方向から光明が射し込むのは、まだ少し先の事だった。